命あるうちに - 袴田さんの無罪が確定 8 -
■検察は控訴を断念するも・・・ - Chapter 8
※年10月18日/Daiichi-TV news
【袴田さん無罪確定】静岡県警本部長が殺人事件被害者の遺族に直接謝罪
先週の木曜から金曜にかけて、被害者のご遺族(お孫さん)が静岡県警を訪れ、津田隆好本部長が真犯人を逮捕できず、事件の真相解明ができなかったことを謝罪したと報じられた。
主にyoutubeやXを媒体として、被害に遭われた橋本(元)専務一家のご長女(故人)を真犯人とする説が流布されており、心痛を訴えたご遺族に対して、「(訴えがあった場合は)厳正に対処・対応する」と回答したとのこと。
あらためて触れるまでもないが、「被害者一家の長女真犯人説」には何1つ証拠がない。あくまで類推に過ぎないのに、あたかも真犯人だと断定するようなサムネとタイトルを用意して、再生回数稼ぎに走る連中の多さに辟易とするが、中にはネットメディアまで同様の行為に及んでいて呆れるばかり。
こういう表現は極力避けたいところではあるが、「再生回数乞食」とは良く言ったものだ。「インプレ(ッション)ゾンビ」とか「インプレ(稼ぎ)乞食」なんて言葉もあったけれど、ボクシング関係の動画配信にも酷いものが少なくないし、ユーチューバーとして著名になった元日本王者が配信する動画の中にも、杜撰でいい加減な情報に基くものや、事実と異なるものがあったりする。
「表現の自由」≠「何でも好き勝手に言ったり書いたりできる」
他山の石として、十二分に気を付けたいと心する次第。
それにしても、この県警本部長には本当に感心しない。表情と言葉に真実味が感じられないのは、検察と警察幹部の会見や談話に付き物のセオリーではあるものの、血の通わないこと夥しい。しかも、自からご遺族のお宅に伺うのではなく、検察庁舎に来庁して貰っている。
県警が所有する幹部用の高級車と、警護のパトカーをゾロゾロ引き連れずとも、本部長が数名のお付きを乗せて、自家用車でご遺族を訪問することぐらいできるだろうに。
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◎「袴田事件」とボクシング界の主な動き - 波紋を呼んだドキュメンタリー

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<4>静岡県警捜査一課 元巡査部長(取材当時66歳)

高杉が追った4人目の捜査関係者は、県警捜査一課の元巡査部長。「5点の衣類」に次ぐ捏造の主役とも言うべき、警察が実施した「裏木戸の通り抜け実験」で袴田さん役を演じた。
警察が捏造した証拠の数々は、拷問紛いの取調べで袴田さんに強要した自白に合わせて偽装する必要があり、勢い辻褄が合わくなって行く。穴だらけで突っ込みどころが満載なのだが、県警捜査一課の袴田さん起訴・立件への執念は空恐ろしいほどで、証拠の改ざんは自ずとエスカレートの度合いを増す。
「こんな杜撰な証拠で裁判が行われたということ事態が信じられないし、これで死刑判決を出すなんて・・・。法律に携わる者の1人として、心の底から怒りを覚えます。証拠資料を見直す度に、もう腹が立ってしょうがない。」
極めて長期に及んだ第1次再審請求審の最中(おそらく90年代半ば頃?)だったと記憶するが、現弁護団事務局長の小川秀世主任弁護人が、何かの会見かインタビューだったか、憤りを露にしていたことを思い出す。
「今すぐ無罪にして、袴田さんを自由にしなきゃいけないんですよ!。」
憤ると言っても、口調はどこまでも穏やかなのが小川弁護士らしかったけれど、「この事件から絶対に離れることができない。自分自身を駆り立てる強い動機になった」と真情を明かにしていたが、どうにもやり切れない悔しさ、国家権力によって個人の尊厳と自由に徹底的に踏みにじられたことへの憤懣が滲み出ていた。
凶行に及んだ袴田さんの逃走経路とされた「橋本家の裏木戸」も、テレビ番組でこの事件に関する捏造疑惑が採り上げられる都度、「5点の衣類」とともに何がしかの言及が行われることが多い。
では「橋本家の裏木戸」とは、そもそもどういったものなのか。判決に基く犯行の状況とともにまとめてみる。
◎裏木戸
(1)左右2枚の木製の扉(観音開き)
(2)戸の上下に留め金が掛かっている(鍵ではなく指で開けられる)
(3)戸の中央にかんぬき有り(犯行時:放火により焼けて折れていた)
(4)下の留め金のみ外されていた
(5)上の留め金は掛かっていた
(6)袴田さん:留め金が外された戸の下部をめくるように開けてその隙間を通り抜けて出入り
<1>裏木戸(全体図)

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画像左:裏木戸(全体図)
画像右:1998年当時の画像
※1998年当時の写真:TVドキュメンタリー「映像’90「死刑囚の手紙」(1998年11月15日放送/製作:MBS)」より
<2>留め金

※図(出典):「袴田事件 冤罪の構造-死刑囚に再審無罪へのゴングが鳴った」(高杉晋吾著/合同出版/2014年7月10日)
専務宅の裏木戸は、専務宅内の土間から正面出入り口に面する表通りに直結しており、袴田さんを含む工場の敷地内にある社宅(寮)住まいの従業員だけでなく、通いの人たちも含めて日常的に通り抜けしていた。
工場の従業員なら、誰もが留め金を指で外して裏木戸を開けられる。袴田さんがわざわざ下だけ外して、敢えて通行を困難にする理由がない。この点については、後段(※)でさらに説明を加えておく。
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■警察による通り抜け実験:証拠として提出された写真×3枚

◎写真の拡大サイズを見る
写真1(左):実験用に警察が復元した裏木戸
写真2(中):通り抜ける元巡査部長-1
写真3(右):通り抜ける元巡査部長-2
◎捏造された警察実験
これも様々な報道や特集番組で繰り返し触れられてきたことだが、2枚目と3枚目の証拠写真には、肝心要とも言うべき上の留め金が写っていない。実験そのものが、袴田さんの有罪を立証する為に行われた警察による捏だと、弁護団と「救う会」を含む支援者は延々訴え続けてきた。
警察が提出した実験の証拠写真で確認できるように、2枚の裏木戸の間にできる隙間は非常に狭い。警察の証拠写真では、小太りの大人の男性1人が、ぎりぎり(無理やり)通り抜けている。
千歩も万歩も譲って、仮にどうにかこうにか人が通り抜けできたとしよう。では、放火する為に持ち込んだとされる混合油(ガソリン+潤滑油)を入れた「8キロ(リットル)サイズの蓋付きポリ樽(※後段:「犯行の状況」参照)」はどうなのだろう。
横幅が15~16センチ程度の石油缶(4リットル)はともかく、直径が25~26センチあるポリ樽を、上の留め金が掛かったままの裏木戸を通せたのか。
1審の判決文を読むと、この点には言及が無い。弁護側も特に問題視はしていなかったようで、人が1人通れれば、ポリ樽も一緒に通るとの見解に落ち着いたと思われる。
現場から発見されたのは石油缶のみで、ポリ樽は見つからなかった。なおかつ、味噌を入れる為に工場の通路脇置かれていたというポリ樽は、数の増減について確認が取れていない。本当に袴田さんが持ち出したのかどうか、証明はできていない。
□8リットルのポリ樽(例:通販サイト商品ページへのリンク)
※直径:26.5センチ/高さ:24センチ
https://store.shopping.yahoo.co.jp/kohnan-eshop/4522831463992.html?sc_e=afvc_shp_2327384

※留め金を含む裏木戸の上部分がカットされている

写真①弁護団と支援者による反証実験
※袴田さんと似た背格好の大人の男性が通り抜けようとしたら上の留め金が外れて吹っ飛んだ
写真②検証の為に警察が復元した裏木戸(赤い枠の四角形が上の留め金)
写真③下の留め金だけ外して裏木戸を開けようとした状態の図示
※図(出典):「袴田事件 冤罪の構造-死刑囚に再審無罪へのゴングが鳴った」(高杉晋吾著/合同出版/2014年7月10日)
弁護団と支援者たちによる反証実験も行われており、警察の主張を根底から覆す(常識的に考えて妥当な)結果となった。さらに、画像解析の専門家に依頼した検証結果も出ていて、これについては後述する。
◎弁護団による実験


上の留め金を懸けたまま扉を開けると、人が通れるだけの隙間が開く前に上の留め金が吹っ飛ぶか、画像のように、裏木戸の木版ごと千切れるように請われてしまう。この画像は、1998年11月15日に放送されたMBS制作によるドキュメンタリー「映像’90「死刑囚の手紙」」に収録された、弁護団による実験から説ブログ管理人が画像化したもの。


※NNNドキュメントより(手持ちの録画ビデオが劣化してしまい画像化して拡大するとほぼ判別不能になってしまう)
上の留め金が2ヶ所(2個)付いているのは理由があって、警察実験の写真の1枚目を拡大して、目を凝らしてよく見ると、留め金の少し下に穴が4ヶ所確認できた為である。弁護団の調査により、この穴の位置が、焼け残った本物の裏木戸にあった上の留め金の位置と合致した。つまり、警察の実験が偽装・捏造であることを、図らずも警察自らが証明していたという次第。
ところが、東京高裁はまたもやこうした捏造を証明する証拠の数々を無視。静岡地検による上告を認めて、静岡地裁に赴任した裁判長が中心となって遂に認めた再審開始決定を棄却してしまう。最高裁も東京高検に倣い、真実と人の道に真っ向から反する冷酷極まりない決定を下すかと思いきや、差し戻しとなって再審の請求審は延命することに。
NNNドキュメントでは、「弁護団による裏木戸の実験は名物になっている」旨のナレーションが入っていて、繰り返し実施されていた。高杉が集大成として2014年に出版した「袴田事件・冤罪の構造: 死刑囚に再審無罪へのゴングが鳴った (2014年6月20日/合同出版 )」には、1991年に東洋大学工学部で行われた再現検証実験の写真が掲載されている。
高杉は、松本に続いてこの巡査部長の自宅を訪問。疑問を率直にぶつけている。
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◎高杉のインタビュー
<1>袴田さん役の元巡査部長(1回目:夜間の訪問)

巡査部長:「ま、僕がやったから・・、僕がやってみたら、開いた(通り抜けられた)ってことだけどね・・」
高杉:「ううん・・(?)」
巡査部長:「ただ、工作はしてないってことです。」
高杉:「う-ん・・(?)」
巡査部長:「やってないんだから(やや大きな声で)・・」
高杉:「う-ん・・(?)」
巡査部長:「実際にやってないんだから・・僕・・、僕自身は、何にも動揺はしない。」
高杉:「う-ん・・(?)」
巡査部長:「一番知っているのは僕ですから。裁判所より僕が知ってますから・・」
高杉:「・・」
巡査部長:「ねっ(やや大きな声で)」
高杉:「・・」
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高杉はまた、松本久次郎元警部(事件の捜査主任)に、非人道的かつ自白を強要した取り調べについてインタビューを行った際、裏木戸の実験についても確認していた。袴田さんに有利な、取調べの録音を含めた600余点の重要証拠が非開示だった為、余裕で白(しら)を切っている。

松本:「うん、そん中が、実験して通れたもんで間違いないんだな。うん。」
高杉:「はあ、はあ・・その、実験そのものが・・」
松本:「(高杉を遮り)そらあね、(上の留め金が掛かったまま通り抜けるのは)ちょっと大変だなあというアレ(疑問)があったもんで、はたしてそれじゃ、通れるかわからんって言って(と聞こえる)、実験をしただからね・・」
※Chapter 9 へ
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◎犯行の状況
(1)犯行日時:1966(昭和41)年6月30日午前1時過ぎ頃
※午前1時20分~1時45分の25分間程度と推定される
(2)犯行目的:家族(母と息子/妻とは離婚)と住むアパートを借りる費用の強奪(金品目的)
(3)犯行着衣1(当初):パジャマ
(4)犯行着衣2(変更):「5点の衣類」+合羽(凶器のくり小刀を隠す為)
(5)凶器:刃渡り12センチのくり小刀
(6)侵入経路:専務宅裏口の立ち木に登り屋根伝いに中庭に降りて宅内に侵入
(7)犯行:殺害
1)専務(41才/柔道の有段者で大柄)を格闘の末に刺殺(ご遺体:裏木戸に続く土間で発見)
2)夫人(39才)と長男(14才)を刺殺
3)次女(17才)を刺殺(肋骨を切断して肺と心臓を貫通/背骨付近の胸骨に達する刺傷有り)
※専務以外3名のご遺体:母屋で発見
※4名のご遺体に総数47ヶ所(致命傷/深い傷:5ヶ所)の刺し傷を負わせて殺害(or 瀕死の重傷)
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(8)専務宅の押入れに保管された売上金3袋を強奪(金品目的)
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■袴田さんの供述に基く侵入経路と方法
(9)東海道線の防護柵を乗り越えて隣家の庭に降りる
1)防護柵:高さ1メートル55センチ
2)枕木を利用
3)防護柵には4本の有刺鉄線が張られていた
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(10)専務宅裏口右手に立つ木(専務宅の屋根に接している)を登り専務宅の屋根に乗り移る
(11)さらに専務宅中庭に面した土蔵の屋根に乗り移る
(12)土蔵の屋根のひさしから水道の鉄管伝いに中庭に降りる
(13)中庭に面した勉強部屋のガラス戸(15センチ程開いていた)を開けて侵入した
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■脱出方法:裏木戸を使用
【裏木戸通り抜け(1回目)】
(14)裏木戸をくぐり抜け線路を渡って工場に帰着
1)「5点の衣類」を脱いでパジャマに着替える
2)工場の石油缶から「8キロ(リットル)入りの蓋付きポリ樽」に5.5リットルを入れ替えた混合油(ガソリン+潤滑油)と石油缶(4リットル)を持ち出す
※専務のご遺体付近に4リットル用のブリキ製石油缶が放置(中身:1/10程度残存)
※ポリ樽は現場から発見されていない(検察及び裁判所:放火により溶解したと判断)
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【裏木戸通り抜け(2回目)】
(15)(14)と同様(逆)の経路で専務宅に戻る
(16)刺殺(or 瀕死の重傷)した4名にそれぞれ混合油をかけてマッチで放火
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【裏木戸通り抜け(3回目)】
(17)裏木戸から逃走

◎画像の拡大サイズを見る
図①(左):現場付近の見取り図(弁護団作成リーフレットに一部補足を追加)
図②(右):専務宅見取り図(捜査資料に一部補足を追加)
判決文によれば、事件当夜、殺人と放火の過程で、袴田さんは3回この裏木戸を通ったことになっている。
柔道の有段者で大柄な専務を格闘の末に殺害した上、夫人,長男,次女を含む在宅のご家族4名を刺殺し、問題の裏木戸を使って工場と専務宅を3度も往復した。犯行に要した時間は僅か25分間程度。
時代劇の忍者さながらの侵入方法も含めて、果たして25分で本当にできるものなのか。当たり前の話だが、すべてのプロボクサーが、アクション俳優も真っ青のアクロバットをこなせる訳ではない。
当該ドキュメンタリーの中で、郡司信夫は「運動神経に優れた選手だった」と追懐しており、いわゆるムーヴィング・センスには恵まれていたと想像される。それでも、線路を渡って有刺鉄線を巻いた高さ1.55メートルの防護策を乗り越え、専務宅裏口の木をよじ登って屋根に上がるまでに、10分近くは経ってしまうのではないか。
この時専務宅正面出入り口のシャッターは開いていて、何の苦もなく通れる状況だった。そして正面入り口を右折して通りを歩けば、地域の人々が毎日行き来する「横砂踏み切り」があり、わざわざ裏木戸を使う必要がない。

※横砂踏み切り/左:1966年当時|右:現在
警察と警察はこの矛盾について、人が異常な犯行に及んだ場合、理屈に合わない一見すると不可思議な行動を取ることが多いともっともらしい説明を行っている。そして、それこそが犯人しか知り得ない「秘密の暴露」に当たると続けた。
だが、冷静になって考えてみて欲しい。シャッターが開いていた正面出入り口から侵入して犯行に及び、同じ正面出入り口から逃走したと想像するのが、常識的で筋の通る推論だと思うのだが・・・。
そして袴田さんの体格だが、現役生活は1959(昭和34)年11月16日のデビュー戦から1961(昭和36)年8月24日のラスト・ファイトまでの、おそよ1年9ヶ月(満年齢で23~25歳まで)。この短い期間に31戦(!)をこなして、16勝(1KO)11敗2分け2Exの戦績を残している。
デビュー戦を125ポンド(約56.7キロ)のフェザー級で戦い、2戦目は117ポンド(約53キロ)のバンタム級。周知の通り、袴田さんの最高位は日本フェザー級6位だが、エキシビジョンを除く29試合中、フェザー級リミット(126ポンド/57.15キロ上限)内でのファイトは9試合ある。
有名な「年間19試合」は、2年目の昭和35年。4ラウンズのエキジビション(ノーヘッドギア・KO決着以外は無判定)を1つ挟んで、14勝(1KO)をマークした(4敗1分け)。
現存するボクシングの記録に、袴田さんの身長を探し出すのは困難な状況で、正確な数値はわからない。ただ、動画配信のサービスが軌道に乗った2007~08年以降の映像資料は非常に数が多く、現在閲覧できるものも豊富にあり、仮釈放された2014年以降に出席したボクシング・イベントの映像を見ると、おおよその見当はつく。
以下の画像は、仮釈放直後の2014年5月19日(ボクシングの日:「世界チャンピオン会」の発足と白井義男の世界王座奪取を記念してJPBAが母体となって2010年に制定)に、後楽園ホールの興行に兼ねて行われた支援イベントで、大場政夫のライバルでもあった花形進会長(元WBAフライ級王者)から花束を受け取る場面。

※左から:ひで子さん,袴田さん,花形会長,大橋会長(右後方)
花形会長の身長は公称161センチで、リベンジを許した大場との再戦(WBA王座挑戦/15回0-2判定負け)や、5度目のチャレンジで遂に大願を成就したチャチャイ(大場の死後空位の王座を獲得)への挑戦、判定を巡って議論が噴出したエルビト・サラバリア(比)との2連戦(いずれも僅差の15回1-2判定負け)における予備検診でも、同じくらいの数値だったと記憶する。
ちなみに、花形会長の後ろで微笑んでいる大橋秀行会長は、現役時代の公称が164センチ。最軽量のミニマム~L・フライ級では十分に大きい部類だった。
画像を見ると袴田さんはかなり小さく感じられるが、人の身長は年齢を増すごとに縮んで行く。早い人は40歳代で背が縮み始めて、個人差はあるが70歳を超えると加速するらしい。男性の場合、40~70歳までの間に平均で約3センチ程度、同じく40~80歳までの40年間では、平均5センチ程度縮むという。
大雑把に画像から判断すると、2014年5月19日時点で満78歳だった袴田さん(1936年3月10日生まれ)は、150センチ台の後半ぐらいだろうか。40歳を超えてから概ね5センチ身長が縮んだと推定される為、大人になってからの身長は160センチ台前半~半ばと推計できる。
ざっと165センチのタッパと仮定して、現役時代のウェイトはおおよそ53~57キロの間(計量の数値:事実)。休み無く連戦していたので、年間2~3試合を戦う現代のプロボクサーのように、大幅に体重を増やすほどのオフはない。
事件が発生した1966(昭和41)年6月30日当時、30歳を迎えた袴田さんは、現役を退いてから約5年を経過していた。本格的なトレーニングから離れて5年経った身体は、果たしてどのくらい衰えていただろうか。
所属していた不二拳から紹介され、清水市内のキャバレーでボーイとして働き出した袴田さんは、真面目で裏表の無い仕事ぶりを評価され、キャバレーに酒を卸していた酒屋のご主人から、1963(昭和38)年8月にバーの経営を任される。翌9月にホステスの女性と結婚して、獄中からの手紙に再三登場する息子さんをもうけた。
キャバレー時代に親しくしていた同僚の妻,渡邉昭子さん(90歳になられてご存命)は、袴田さんを支え続けた重要な支援者の1人だが、文字通り家族ぐるみで親交を深めた2歳しか違わない渡邉さんを「母さん」と呼び、渡邉さんは袴田さんを「おなかちゃん」と呼んでいた。
仮釈放後の映像や報道写真でお馴染みになった袴田さんのお腹は、引退してから2年後の1963年には、早くもぽっこり膨らんでいたのである。
藤原組時代の船木優勝(優治)と対戦する為に初来日した”石の拳”ロベルト・デュランの変わり果てた姿を見て、多くの格闘技ファンが「まともに戦える筈がない」と絶望感を露にした。
ところがどっこい、でっぷりと肥えた”石の拳”の足が、本番のリング上でスイスイ動く。見た目とのギャップに驚いた格闘技ファンは「動けるデブ」と酷評したが、年季の入ったボクシング・ファンなら、現役 or 引退後に限らず、短時間ならお腹が出てもスピーディに動くことができるボクサーが少なくないことをよく知っている。
だとしても、酒場での夜間勤務の影響で、袴田さんの身体は相当にナマっていたと思われ、忍者のような侵入方法もさることながら、柔道の心得を持ち大柄だったとされる専務(41歳の男盛り)を、手間隙かけず速やかに殴り倒すことが可能だったのかどうか。
専務の具体的な体格もわからないけれど、1964年の東京オリンピックで正式競技として採用された当時の階級は、重量級(80キロ~),中量級(~80キロ),軽量級(~68キロ)の3つしかなかった。
初開催の体重別競技にありがちな事柄ではあるが、仮に専務を中量級だったと仮定すると、身長は推測のしようもないが、体重は68~80キロの間になる。
調書では激しく格闘したことになっているが、ボクシングと格闘技の熱心なファンは、「激しい格闘」との表現から、果たしてどのくらいの時間を思い描くだろう。
木工用の小さく華奢な小刀で4人もの人を殺め、夜中の1時を過ぎても、数分置きに上下線が行き交う線路(道路から40センチの高さ)を乗り越え、工場に戻って血染めの着衣からパジャマに着替えて、8リットルのポリ樽と4リットルの石油缶を持ち込んだと、警察と検察,そして静岡地裁は断定した。
以下に現場の見取り図を掲載して、後は次章にて。
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