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カテゴリ:袴田事件 - Hakamada Case Longest-serving death row -

命あるうちに - 袴田さんの無罪が確定 8 -

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■検察は控訴を断念するも・・・ - Chapter 8


※年10月18日/Daiichi-TV news
【袴田さん無罪確定】静岡県警本部長が殺人事件被害者の遺族に直接謝罪

先週の木曜から金曜にかけて、被害者のご遺族(お孫さん)が静岡県警を訪れ、津田隆好本部長が真犯人を逮捕できず、事件の真相解明ができなかったことを謝罪したと報じられた。

主にyoutubeやXを媒体として、被害に遭われた橋本(元)専務一家のご長女(故人)を真犯人とする説が流布されており、心痛を訴えたご遺族に対して、「(訴えがあった場合は)厳正に対処・対応する」と回答したとのこと。

あらためて触れるまでもないが、「被害者一家の長女真犯人説」には何1つ証拠がない。あくまで類推に過ぎないのに、あたかも真犯人だと断定するようなサムネとタイトルを用意して、再生回数稼ぎに走る連中の多さに辟易とするが、中にはネットメディアまで同様の行為に及んでいて呆れるばかり。

こういう表現は極力避けたいところではあるが、「再生回数乞食」とは良く言ったものだ。「インプレ(ッション)ゾンビ」とか「インプレ(稼ぎ)乞食」なんて言葉もあったけれど、ボクシング関係の動画配信にも酷いものが少なくないし、ユーチューバーとして著名になった元日本王者が配信する動画の中にも、杜撰でいい加減な情報に基くものや、事実と異なるものがあったりする。

「表現の自由」≠「何でも好き勝手に言ったり書いたりできる」

他山の石として、十二分に気を付けたいと心する次第。


それにしても、この県警本部長には本当に感心しない。表情と言葉に真実味が感じられないのは、検察と警察幹部の会見や談話に付き物のセオリーではあるものの、血の通わないこと夥しい。しかも、自からご遺族のお宅に伺うのではなく、検察庁舎に来庁して貰っている。

県警が所有する幹部用の高級車と、警護のパトカーをゾロゾロ引き連れずとも、本部長が数名のお付きを乗せて、自家用車でご遺族を訪問することぐらいできるだろうに。


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◎「袴田事件」とボクシング界の主な動き - 波紋を呼んだドキュメンタリー



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<4>静岡県警捜査一課 元巡査部長(取材当時66歳)


高杉が追った4人目の捜査関係者は、県警捜査一課の元巡査部長。「5点の衣類」に次ぐ捏造の主役とも言うべき、警察が実施した「裏木戸の通り抜け実験」で袴田さん役を演じた。

警察が捏造した証拠の数々は、拷問紛いの取調べで袴田さんに強要した自白に合わせて偽装する必要があり、勢い辻褄が合わくなって行く。穴だらけで突っ込みどころが満載なのだが、県警捜査一課の袴田さん起訴・立件への執念は空恐ろしいほどで、証拠の改ざんは自ずとエスカレートの度合いを増す。

「こんな杜撰な証拠で裁判が行われたということ事態が信じられないし、これで死刑判決を出すなんて・・・。法律に携わる者の1人として、心の底から怒りを覚えます。証拠資料を見直す度に、もう腹が立ってしょうがない。」

極めて長期に及んだ第1次再審請求審の最中(おそらく90年代半ば頃?)だったと記憶するが、現弁護団事務局長の小川秀世主任弁護人が、何かの会見かインタビューだったか、憤りを露にしていたことを思い出す。

「今すぐ無罪にして、袴田さんを自由にしなきゃいけないんですよ!。」

憤ると言っても、口調はどこまでも穏やかなのが小川弁護士らしかったけれど、「この事件から絶対に離れることができない。自分自身を駆り立てる強い動機になった」と真情を明かにしていたが、どうにもやり切れない悔しさ、国家権力によって個人の尊厳と自由に徹底的に踏みにじられたことへの憤懣が滲み出ていた。


凶行に及んだ袴田さんの逃走経路とされた「橋本家の裏木戸」も、テレビ番組でこの事件に関する捏造疑惑が採り上げられる都度、「5点の衣類」とともに何がしかの言及が行われることが多い。

では「橋本家の裏木戸」とは、そもそもどういったものなのか。判決に基く犯行の状況とともにまとめてみる。

◎裏木戸
(1)左右2枚の木製の扉(観音開き)
(2)戸の上下に留め金が掛かっている(鍵ではなく指で開けられる)
(3)戸の中央にかんぬき有り(犯行時:放火により焼けて折れていた)
(4)下の留め金のみ外されていた
(5)上の留め金は掛かっていた
(6)袴田さん:留め金が外された戸の下部をめくるように開けてその隙間を通り抜けて出入り

<1>裏木戸(全体図)

◎画像の拡大サイズを見る
画像左:裏木戸(全体図)
画像右:1998年当時の画像
※1998年当時の写真:TVドキュメンタリー「映像’90「死刑囚の手紙」(1998年11月15日放送/製作:MBS)」より

<2>留め金
留め金
※図(出典):「袴田事件 冤罪の構造-死刑囚に再審無罪へのゴングが鳴った」(高杉晋吾著/合同出版/2014年7月10日)

専務宅の裏木戸は、専務宅内の土間から正面出入り口に面する表通りに直結しており、袴田さんを含む工場の敷地内にある社宅(寮)住まいの従業員だけでなく、通いの人たちも含めて日常的に通り抜けしていた。

工場の従業員なら、誰もが留め金を指で外して裏木戸を開けられる。袴田さんがわざわざ下だけ外して、敢えて通行を困難にする理由がない。この点については、後段(※)でさらに説明を加えておく。


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■警察による通り抜け実験:証拠として提出された写真×3枚

◎写真の拡大サイズを見る
写真1(左):実験用に警察が復元した裏木戸
写真2(中):通り抜ける元巡査部長-1
写真3(右):通り抜ける元巡査部長-2


◎捏造された警察実験
これも様々な報道や特集番組で繰り返し触れられてきたことだが、2枚目と3枚目の証拠写真には、肝心要とも言うべき上の留め金が写っていない。実験そのものが、袴田さんの有罪を立証する為に行われた警察による捏だと、弁護団と「救う会」を含む支援者は延々訴え続けてきた。

警察が提出した実験の証拠写真で確認できるように、2枚の裏木戸の間にできる隙間は非常に狭い。警察の証拠写真では、小太りの大人の男性1人が、ぎりぎり(無理やり)通り抜けている。

千歩も万歩も譲って、仮にどうにかこうにか人が通り抜けできたとしよう。では、放火する為に持ち込んだとされる混合油(ガソリン+潤滑油)を入れた「8キロ(リットル)サイズの蓋付きポリ樽(※後段:「犯行の状況」参照)」はどうなのだろう。

横幅が15~16センチ程度の石油缶(4リットル)はともかく、直径が25~26センチあるポリ樽を、上の留め金が掛かったままの裏木戸を通せたのか。

1審の判決文を読むと、この点には言及が無い。弁護側も特に問題視はしていなかったようで、人が1人通れれば、ポリ樽も一緒に通るとの見解に落ち着いたと思われる。

現場から発見されたのは石油缶のみで、ポリ樽は見つからなかった。なおかつ、味噌を入れる為に工場の通路脇置かれていたというポリ樽は、数の増減について確認が取れていない。本当に袴田さんが持ち出したのかどうか、証明はできていない。

□8リットルのポリ樽(例:通販サイト商品ページへのリンク)
※直径:26.5センチ/高さ:24センチ
https://store.shopping.yahoo.co.jp/kohnan-eshop/4522831463992.html?sc_e=afvc_shp_2327384

留め金を含む裏木戸の上部分を除外した警察実験写真
※留め金を含む裏木戸の上部分がカットされている

①弁護団・支援者反証実験 ②検証の為に警察が復元した裏木戸(赤い枠の四角形が上の留め金) ③下の留め金だけ外して裏木戸を開けようとした状態の図示
写真①弁護団と支援者による反証実験
※袴田さんと似た背格好の大人の男性が通り抜けようとしたら上の留め金が外れて吹っ飛んだ
写真②検証の為に警察が復元した裏木戸(赤い枠の四角形が上の留め金)
写真③下の留め金だけ外して裏木戸を開けようとした状態の図示
※図(出典):「袴田事件 冤罪の構造-死刑囚に再審無罪へのゴングが鳴った」(高杉晋吾著/合同出版/2014年7月10日)

弁護団と支援者たちによる反証実験も行われており、警察の主張を根底から覆す(常識的に考えて妥当な)結果となった。さらに、画像解析の専門家に依頼した検証結果も出ていて、これについては後述する。

◎弁護団による実験
上の留め金を懸けたまま扉を開ける



上の留め金を懸けたまま扉を開けると、人が通れるだけの隙間が開く前に上の留め金が吹っ飛ぶか、画像のように、裏木戸の木版ごと千切れるように請われてしまう。この画像は、1998年11月15日に放送されたMBS制作によるドキュメンタリー「映像’90「死刑囚の手紙」」に収録された、弁護団による実験から説ブログ管理人が画像化したもの。




留め金への細工2
※NNNドキュメントより(手持ちの録画ビデオが劣化してしまい画像化して拡大するとほぼ判別不能になってしまう)

上の留め金が2ヶ所(2個)付いているのは理由があって、警察実験の写真の1枚目を拡大して、目を凝らしてよく見ると、留め金の少し下に穴が4ヶ所確認できた為である。弁護団の調査により、この穴の位置が、焼け残った本物の裏木戸にあった上の留め金の位置と合致した。つまり、警察の実験が偽装・捏造であることを、図らずも警察自らが証明していたという次第。

ところが、東京高裁はまたもやこうした捏造を証明する証拠の数々を無視。静岡地検による上告を認めて、静岡地裁に赴任した裁判長が中心となって遂に認めた再審開始決定を棄却してしまう。最高裁も東京高検に倣い、真実と人の道に真っ向から反する冷酷極まりない決定を下すかと思いきや、差し戻しとなって再審の請求審は延命することに。

NNNドキュメントでは、「弁護団による裏木戸の実験は名物になっている」旨のナレーションが入っていて、繰り返し実施されていた。高杉が集大成として2014年に出版した「袴田事件・冤罪の構造: 死刑囚に再審無罪へのゴングが鳴った (2014年6月20日/合同出版 )」には、1991年に東洋大学工学部で行われた再現検証実験の写真が掲載されている。


高杉は、松本に続いてこの巡査部長の自宅を訪問。疑問を率直にぶつけている。

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◎高杉のインタビュー
<1>袴田さん役の元巡査部長(1回目:夜間の訪問)


巡査部長:「ま、僕がやったから・・、僕がやってみたら、開いた(通り抜けられた)ってことだけどね・・」

高杉:「ううん・・(?)」

巡査部長:「ただ、工作はしてないってことです。」

高杉:「う-ん・・(?)」

巡査部長:「やってないんだから(やや大きな声で)・・」

高杉:「う-ん・・(?)」

巡査部長:「実際にやってないんだから・・僕・・、僕自身は、何にも動揺はしない。」

高杉:「う-ん・・(?)」

巡査部長:「一番知っているのは僕ですから。裁判所より僕が知ってますから・・」

高杉:「・・」

巡査部長:「ねっ(やや大きな声で)」

高杉:「・・」

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高杉はまた、松本久次郎元警部(事件の捜査主任)に、非人道的かつ自白を強要した取り調べについてインタビューを行った際、裏木戸の実験についても確認していた。袴田さんに有利な、取調べの録音を含めた600余点の重要証拠が非開示だった為、余裕で白(しら)を切っている。



松本:「うん、そん中が、実験して通れたもんで間違いないんだな。うん。」

高杉:「はあ、はあ・・その、実験そのものが・・」

松本:「(高杉を遮り)そらあね、(上の留め金が掛かったまま通り抜けるのは)ちょっと大変だなあというアレ(疑問)があったもんで、はたしてそれじゃ、通れるかわからんって言って(と聞こえる)、実験をしただからね・・」


※Chapter 9 へ


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◎犯行の状況
(1)犯行日時:1966(昭和41)年6月30日午前1時過ぎ頃
※午前1時20分~1時45分の25分間程度と推定される
(2)犯行目的:家族(母と息子/妻とは離婚)と住むアパートを借りる費用の強奪(金品目的)
(3)犯行着衣1(当初):パジャマ
(4)犯行着衣2(変更):「5点の衣類」+合羽(凶器のくり小刀を隠す為)
(5)凶器:刃渡り12センチのくり小刀
(6)侵入経路:専務宅裏口の立ち木に登り屋根伝いに中庭に降りて宅内に侵入
(7)犯行:殺害
1)専務(41才/柔道の有段者で大柄)を格闘の末に刺殺(ご遺体:裏木戸に続く土間で発見)
2)夫人(39才)と長男(14才)を刺殺
3)次女(17才)を刺殺(肋骨を切断して肺と心臓を貫通/背骨付近の胸骨に達する刺傷有り)
※専務以外3名のご遺体:母屋で発見
※4名のご遺体に総数47ヶ所(致命傷/深い傷:5ヶ所)の刺し傷を負わせて殺害(or 瀕死の重傷)
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(8)専務宅の押入れに保管された売上金3袋を強奪(金品目的)
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■袴田さんの供述に基く侵入経路と方法
(9)東海道線の防護柵を乗り越えて隣家の庭に降りる
1)防護柵:高さ1メートル55センチ
2)枕木を利用
3)防護柵には4本の有刺鉄線が張られていた
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(10)専務宅裏口右手に立つ木(専務宅の屋根に接している)を登り専務宅の屋根に乗り移る
(11)さらに専務宅中庭に面した土蔵の屋根に乗り移る
(12)土蔵の屋根のひさしから水道の鉄管伝いに中庭に降りる
(13)中庭に面した勉強部屋のガラス戸(15センチ程開いていた)を開けて侵入した
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■脱出方法:裏木戸を使用
【裏木戸通り抜け(1回目)】
(14)裏木戸をくぐり抜け線路を渡って工場に帰着
1)「5点の衣類」を脱いでパジャマに着替える
2)工場の石油缶から「8キロ(リットル)入りの蓋付きポリ樽」に5.5リットルを入れ替えた混合油(ガソリン+潤滑油)と石油缶(4リットル)を持ち出す
※専務のご遺体付近に4リットル用のブリキ製石油缶が放置(中身:1/10程度残存)
※ポリ樽は現場から発見されていない(検察及び裁判所:放火により溶解したと判断)
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【裏木戸通り抜け(2回目)】
(15)(14)と同様(逆)の経路で専務宅に戻る
(16)刺殺(or 瀕死の重傷)した4名にそれぞれ混合油をかけてマッチで放火
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【裏木戸通り抜け(3回目)】
(17)裏木戸から逃走


◎画像の拡大サイズを見る
図①(左):現場付近の見取り図(弁護団作成リーフレットに一部補足を追加)
図②(右):専務宅見取り図(捜査資料に一部補足を追加)


判決文によれば、事件当夜、殺人と放火の過程で、袴田さんは3回この裏木戸を通ったことになっている。

柔道の有段者で大柄な専務を格闘の末に殺害した上、夫人,長男,次女を含む在宅のご家族4名を刺殺し、問題の裏木戸を使って工場と専務宅を3度も往復した。犯行に要した時間は僅か25分間程度。

時代劇の忍者さながらの侵入方法も含めて、果たして25分で本当にできるものなのか。当たり前の話だが、すべてのプロボクサーが、アクション俳優も真っ青のアクロバットをこなせる訳ではない。

当該ドキュメンタリーの中で、郡司信夫は「運動神経に優れた選手だった」と追懐しており、いわゆるムーヴィング・センスには恵まれていたと想像される。それでも、線路を渡って有刺鉄線を巻いた高さ1.55メートルの防護策を乗り越え、専務宅裏口の木をよじ登って屋根に上がるまでに、10分近くは経ってしまうのではないか。


この時専務宅正面出入り口のシャッターは開いていて、何の苦もなく通れる状況だった。そして正面入り口を右折して通りを歩けば、地域の人々が毎日行き来する「横砂踏み切り」があり、わざわざ裏木戸を使う必要がない。

横砂踏み切り
※横砂踏み切り/左:1966年当時|右:現在

警察と警察はこの矛盾について、人が異常な犯行に及んだ場合、理屈に合わない一見すると不可思議な行動を取ることが多いともっともらしい説明を行っている。そして、それこそが犯人しか知り得ない「秘密の暴露」に当たると続けた。

だが、冷静になって考えてみて欲しい。シャッターが開いていた正面出入り口から侵入して犯行に及び、同じ正面出入り口から逃走したと想像するのが、常識的で筋の通る推論だと思うのだが・・・。


そして袴田さんの体格だが、現役生活は1959(昭和34)年11月16日のデビュー戦から1961(昭和36)年8月24日のラスト・ファイトまでの、おそよ1年9ヶ月(満年齢で23~25歳まで)。この短い期間に31戦(!)をこなして、16勝(1KO)11敗2分け2Exの戦績を残している。

デビュー戦を125ポンド(約56.7キロ)のフェザー級で戦い、2戦目は117ポンド(約53キロ)のバンタム級。周知の通り、袴田さんの最高位は日本フェザー級6位だが、エキシビジョンを除く29試合中、フェザー級リミット(126ポンド/57.15キロ上限)内でのファイトは9試合ある。

有名な「年間19試合」は、2年目の昭和35年。4ラウンズのエキジビション(ノーヘッドギア・KO決着以外は無判定)を1つ挟んで、14勝(1KO)をマークした(4敗1分け)。

現存するボクシングの記録に、袴田さんの身長を探し出すのは困難な状況で、正確な数値はわからない。ただ、動画配信のサービスが軌道に乗った2007~08年以降の映像資料は非常に数が多く、現在閲覧できるものも豊富にあり、仮釈放された2014年以降に出席したボクシング・イベントの映像を見ると、おおよその見当はつく。

以下の画像は、仮釈放直後の2014年5月19日(ボクシングの日:「世界チャンピオン会」の発足と白井義男の世界王座奪取を記念してJPBAが母体となって2010年に制定)に、後楽園ホールの興行に兼ねて行われた支援イベントで、大場政夫のライバルでもあった花形進会長(元WBAフライ級王者)から花束を受け取る場面。

仮釈放後に初参加したボクシング・イベントでの花束贈呈(2014年5月19日後楽園ホール)
※左から:ひで子さん,袴田さん,花形会長,大橋会長(右後方)

花形会長の身長は公称161センチで、リベンジを許した大場との再戦(WBA王座挑戦/15回0-2判定負け)や、5度目のチャレンジで遂に大願を成就したチャチャイ(大場の死後空位の王座を獲得)への挑戦、判定を巡って議論が噴出したエルビト・サラバリア(比)との2連戦(いずれも僅差の15回1-2判定負け)における予備検診でも、同じくらいの数値だったと記憶する。

ちなみに、花形会長の後ろで微笑んでいる大橋秀行会長は、現役時代の公称が164センチ。最軽量のミニマム~L・フライ級では十分に大きい部類だった。

画像を見ると袴田さんはかなり小さく感じられるが、人の身長は年齢を増すごとに縮んで行く。早い人は40歳代で背が縮み始めて、個人差はあるが70歳を超えると加速するらしい。男性の場合、40~70歳までの間に平均で約3センチ程度、同じく40~80歳までの40年間では、平均5センチ程度縮むという。

大雑把に画像から判断すると、2014年5月19日時点で満78歳だった袴田さん(1936年3月10日生まれ)は、150センチ台の後半ぐらいだろうか。40歳を超えてから概ね5センチ身長が縮んだと推定される為、大人になってからの身長は160センチ台前半~半ばと推計できる。

ざっと165センチのタッパと仮定して、現役時代のウェイトはおおよそ53~57キロの間(計量の数値:事実)。休み無く連戦していたので、年間2~3試合を戦う現代のプロボクサーのように、大幅に体重を増やすほどのオフはない。

事件が発生した1966(昭和41)年6月30日当時、30歳を迎えた袴田さんは、現役を退いてから約5年を経過していた。本格的なトレーニングから離れて5年経った身体は、果たしてどのくらい衰えていただろうか。


所属していた不二拳から紹介され、清水市内のキャバレーでボーイとして働き出した袴田さんは、真面目で裏表の無い仕事ぶりを評価され、キャバレーに酒を卸していた酒屋のご主人から、1963(昭和38)年8月にバーの経営を任される。翌9月にホステスの女性と結婚して、獄中からの手紙に再三登場する息子さんをもうけた。

キャバレー時代に親しくしていた同僚の妻,渡邉昭子さん(90歳になられてご存命)は、袴田さんを支え続けた重要な支援者の1人だが、文字通り家族ぐるみで親交を深めた2歳しか違わない渡邉さんを「母さん」と呼び、渡邉さんは袴田さんを「おなかちゃん」と呼んでいた。

仮釈放後の映像や報道写真でお馴染みになった袴田さんのお腹は、引退してから2年後の1963年には、早くもぽっこり膨らんでいたのである。


藤原組時代の船木優勝(優治)と対戦する為に初来日した”石の拳”ロベルト・デュランの変わり果てた姿を見て、多くの格闘技ファンが「まともに戦える筈がない」と絶望感を露にした。

ところがどっこい、でっぷりと肥えた”石の拳”の足が、本番のリング上でスイスイ動く。見た目とのギャップに驚いた格闘技ファンは「動けるデブ」と酷評したが、年季の入ったボクシング・ファンなら、現役 or 引退後に限らず、短時間ならお腹が出てもスピーディに動くことができるボクサーが少なくないことをよく知っている。

だとしても、酒場での夜間勤務の影響で、袴田さんの身体は相当にナマっていたと思われ、忍者のような侵入方法もさることながら、柔道の心得を持ち大柄だったとされる専務(41歳の男盛り)を、手間隙かけず速やかに殴り倒すことが可能だったのかどうか。

専務の具体的な体格もわからないけれど、1964年の東京オリンピックで正式競技として採用された当時の階級は、重量級(80キロ~),中量級(~80キロ),軽量級(~68キロ)の3つしかなかった。

初開催の体重別競技にありがちな事柄ではあるが、仮に専務を中量級だったと仮定すると、身長は推測のしようもないが、体重は68~80キロの間になる。

調書では激しく格闘したことになっているが、ボクシングと格闘技の熱心なファンは、「激しい格闘」との表現から、果たしてどのくらいの時間を思い描くだろう。

木工用の小さく華奢な小刀で4人もの人を殺め、夜中の1時を過ぎても、数分置きに上下線が行き交う線路(道路から40センチの高さ)を乗り越え、工場に戻って血染めの着衣からパジャマに着替えて、8リットルのポリ樽と4リットルの石油缶を持ち込んだと、警察と検察,そして静岡地裁は断定した。

以下に現場の見取り図を掲載して、後は次章にて。


※Chapter 9 へ


命あるうちに - 袴田さんの無罪が確定 7 -

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■検察は控訴を断念するも・・・ - Chapter 7


※2024年10月10日 /テレビ静岡ニュース
「無罪になった袴田さんを犯人視している」弁護団が怒りあらわ 控訴断念の検事総長談話を猛批判

検察の内向きに過ぎる意識と体制、傲岸不遜なまでに高過ぎるプライド、謝ったら死ぬ病に付ける薬は無い。それが結論。行き着く先ということのようだ。

「持ちつ持たれつ」の関係だった筈の裁判所が、掌を返して検察の痛いところを本気で突いたから、頭に血が上って正気を失った幹部連中が、史上初の女性検事総長に命じて、言わずもがなの余計な一言を喋らせてしまったと、要するにそういう低次元な顛末である。

以下にご紹介するABEMAの番組内で、痴漢冤罪事件を扱った映画「それでもボクはやってない(2007年1月公開)」の取材過程で「袴田事件」を知り、以来20年以上も追って来たという周防正行監督が述べている通り。

◎【謝罪なし】袴田さん無罪確定も…検事総長は異例の談話 「“証拠ねつ造”の言葉が検察官を刺激」“本当は怖い”日本の司法|ABEMA的ニュースショー
2024年10月14日/ABEMAニュース


後追いで出張ってきた警察庁の露木康浩長官と、止せばいいのに、またまたしゃしゃり出てきた牧原法相(元弁護士)も、検察幹部が捻り出した陳腐な言い訳を録音テープのごとくリピートして、三重四重に恥を上塗りする木偶の坊ぶりを発揮する。

「法的地位が不安定な状況に置かれてきたことに思いを致し・・・」

いけしゃあしゃあと、何を寝惚けたことを抜かしているのか?。デッチ上げの証拠で凶悪犯に仕立て上げられた袴田さんは、60年近い年月を殺人犯として生きなければならなかった。1980(昭和55)年12月12日に死刑が確定してから、2014(平成26)年3月27日に(仮)釈放されるまでの33年間は、「今日は俺の番か・・」と、刑の執行に怯えながら朝を迎える毎日だった。

48年近くに及んだ拘置によって重度の拘禁症状を発症した袴田さんは、妄想と現実の狭間を彷徨うところまで追い込まれる。拘禁症状の悪化が確認されてからでも、既に30余年を経過。袴田さんは生きながら殺されたも同然で、警察と検察に裁判所・・・すわなち日本の司法制度によって、一度しかない人生を完全に奪われたのである。


「何が何でも袴田を落とせ!」

特捜本部で捜査に当たった現場の刑事と警官の中には、被害者一家に強い恨みを抱く、外部(従業員ではなく)の複数犯説を主張する人たちもいたとされるが、当時の静岡県警は袴田さん1人に狙いを定めて、他の可能性をすべて自ら否定・封印した。

控訴の取り下げについて、「再審を担当した検察官ら(報道ベース:おそらく地検と高検の誰か)」が専務一家のご遺族と面会し、説明と謝罪をしたと報じられたが、ご遺族から取り下げの理由について問われると、検事総長の談話を読み上げたというから恐れ入る。ご遺族が納得できないのは当たり前で、無念と憤懣もまた察して余りがある。

殺人罪で起訴されなければならないのは、むざむざ真犯人を見逃した警察と検察であり、有罪判決に関わったすべての裁判官も、道義上は同罪と言わねばならない。

◎袴田巌さん無罪確定で検察が遺族と面会し謝罪
2024年10月12日/静岡NEWS WEB(NHK)
https://www3.nhk.or.jp/lnews/shizuoka/20241012/3030025763.html

ここまできたら、ひで子さんは検察と警察の謝罪を受けるべきではないのではないか。まったく心のこもらない、血の通わない上辺だけの空疎な言い訳を並べ立てて、とりあえず頭を下げて終わりにする。

どうせメディアは、検察幹部が頭を下げているところだけを切り取って、ニュースで繰り返し流すのが精一杯。新聞も「検察が袴田さんに謝罪」という見出しを躍らせ、一件落着のムード醸成に一役も二役も買って、検察と警察に貸しを作っておく。所詮はその程度でしかない。

ヘマをやらかしたお前らで何とか始末を着けろという訳で、頭を下げに出てくるのも、東京高検のトップ辺りが関の山だろう。それに、彼奴らが袴田さんの自宅まで来るならまだしも、90歳を過ぎたひで子さんと、足腰が弱って階段の上り下りにも難儀をするようになった袴田さんを、静岡地裁はおろか、平然と東京まで呼びつけかねない連中なのだ。

裁判所が証拠の捏造を認定した判決が確定していることから、日額上限12,500円の刑事補償だけでなく、弁護団は国家賠償請求にも言及している。支援団体との結束を緩めることなく、少なくとも国家賠償が認められるまでは、検察がひで子さんに直接コンタクトを取らないよう、徹底的にガードを固めてくれると良いのだが・・・。


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◎「袴田事件」とボクシング界の主な動き - 波紋を呼んだドキュメンタリー



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<3>静岡県警捜査一課 松本久次郎元警部(取材当時73歳)
落としの松本

県警本部の威信を背負い、主任として「袴田事件」の捜査に当たった松本が、例を見ない大規模な(+杜撰極まりない)捏造を主導した主要人物の1人であることは、議論の余地を許さないところだと確信する。

本事件で松本が果たした役割は、「二俣事件(ふたまたじけん)」や「島田事件」における昭和の拷問王(冤罪王)こと紅林麻雄(県警の元エース)そのものと断じても差支えがなく、そうした意味において「紅林の再来」と呼ぶに相応しい。

しかし同時に、ここまで無茶苦茶な謀(はかりごと)を松本の一存でやり切れるとは到底考えられず、捜査一課単独でも難しいのは勿論、「二俣事件」で紅林の違法な捜査手法を内部告発した山崎兵八元刑事が指摘した通り、静岡県警に染み付いた体質かつ総意だったと理解する以外に無いと思われる。


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◎松本が直接関わったとされる捏造:「共布(ともぬの:「5点の衣類」に含まれるズボンの切れ端)」

1967(昭和42)年8月31日(逮捕から約1年後)に、出荷作業中の従業員が味噌タンクの中で見つけた「5点の衣類」からは、それが袴田さんの持ち物であることを証明する指紋は採取されていない。

昭和30~40年代の犯罪捜査にDNA鑑定は存在せず、指紋こそが犯(個)人を特定する最大の物証だった。従って、いくら血に染まった衣類が都合良く出て来たとは言え、血液型の鑑定は行われるにしても、それだけでは袴田さんを犯人と断定することができない。

袴田さんの実家にある箪笥の中から出て来た、「5点の衣類」に含まれるズボンとまったく同じ材質と色の切れ端(丈詰めの為に裁断された布切れ)が、「5点の衣類」を袴田さんと関連付ける唯一の証拠になる。ズボンと切れ端それぞれの切断面については、縫製・繊維・染色に関する照合が行われて一致することが確認されている。

◎「5点の衣類」
<1>上着(鼠色のスポーツシャツ
<2>緑色のブリーフ(※)
<3>白い半袖のシャツ(下着)
<4>白のステテコ
<5>ズボン(鉄紺色)

5点の衣類

発見時の「5点の衣類」
※味噌タンク内で発見された「5点の衣類」/麻袋(南京袋)に入った状態で見つかる

問題の衣類から検出された血液型は「A型・B型・AB型」の3種類で、肋骨を切断されて肺と心臓を貫き、刺し傷が背骨にまで達していた次女の「O型」は、どうした訳か検出されていない。

白色の半袖シャツの右肩部分と緑色のブリーフ(※)に残された血痕がB型で、袴田さんと同じだった。

◎被害者の血液型
橋本専務(41歳):A型
橋本夫人(39歳):B型
長男(14歳):AB型
次女(17歳):O型
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※袴田さん:B型

橋本さんのご一家は、被害に遭われた4名の血液型が「ABO型」のすべてを網羅する。「5点の衣類」に付着した血痕の血液型から、どの型が検出されても「被害者と一致」してしまう。この偶然が、袴田さんを犯人に仕立て上げる「絶好のチャンス」に成り得ると、特捜本部が捏造へと猛進する動機になったと思えてならない。

Chapter 3で記したように、静岡県下では紅林元警部補らによる冤罪事件が続き、県警は丸潰れになった面子の回復に必死だった。これ以上の不祥事発生は絶対にあってはならず、凶悪事件の真犯人逮捕と速やかな解決も待った無し。身から出た錆以外の何物でもないとは言え、切羽詰まった苦しい状況にあったことは間違いない。

しかしこのままでは、十中八九、袴田さんは証拠不十分で無罪になる。無理を押して高裁へ上訴しても、有罪に持ち込む為には新たな物証が必要不可欠となり、できなければ地裁の判決が支持されてしまう。

無罪判決が出る前に起訴を取り下げる手段もあるが、いずれにしても、自白は一体何だったのかという話にならざるを得ない。20日間に渡って清水署内で袴田さんを締め上げ、トイレにも行かせず強制的に犯行を認めさせた非人道的な取り調べが槍玉に上がる。

清水署はもとより、県警幹部の誰かが首を差し出さしたぐらいでは、マスコミと世間の批判は収まらない公算が大。

誤認逮捕に対するマスコミの轟々たる非難を浴びながら、振り出しに戻って一から捜査をやり直さざるえを得ないが、事件発生から1年以上が経過する中、袴田さん以外の可能性を捜査からすべて排除した結果、他に被疑者はいない。

警察と検察のリークをそのまま報道して、袴田さんへの容赦ない糾弾を続けたマスコミも、一気に掌を返して、紅林元警部補が主導した冤罪事件を蒸し返す。


「後戻りはできない」

ABOの血液型はどれでも良く(血液型だけでは完全に個人を特定できない)、凶器のくり小刀と現場から指紋が見つかっていなかったことが、「血染めの衣類(血液の付着だけでいい)」をでっち上げるには却って好都合だと、特捜本部をいよいよ狂わせる。「文句の付けようがない決定的な証拠の捏造」という狂気へと駆り立て、暴走させてしまったと考えないと辻褄が合わない。

白い半袖シャツ(下着)の右肩付近と、緑色のブリーフ(※)に付いたB型の血液を、「被害者と揉み合う過程で怪我をして出血した」とする警察と検察の主張通り、地裁も袴田さんのものと認定したが、袴田さんの右肩には血痕に合致する場所に傷は無く、血痕の位置に符合する傷の有無は緑色のブリーフ(※)も同様だった。


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◎実家の再捜索と「共布(ともぬの)」の発見

袴田巌さんの再審を求める会」の平野雄三代表が、1993(平成5)年に「共布(ともぬの)」を発見した岩田竹治警部補から、直に捜索の経緯を聞いている。岩田元警部補によると、捜索は「5点の衣類」の発見から10日以上経った9月12日に行われ、岩田を含む2名が袴田さんの実家に向かったという。

岩田らが指示された捜索の目的は、「5点の衣類」のズボンに付けていたであろうベルトと、指紋を隠す為に着用していた手袋(被害者家族の返り血がベットリ付いている筈)の発見であり、岩田らに「共布(ともぬの)」に関する認識はない。

そして袴田さんの実家に2人が到着すると、宅内には先着していた松本がいて、「箪笥の中を調べてみろ」と後着の2人に指示をしたという。

言われた通りに岩田が箪笥の引き出しを開けると、すぐに「共布」が見つかった。そしてそれを見た松本は、「(味噌タンクから見つかった)ズボンの切れ端に間違いない」と”直ちに断定”。

ベテランの腕利き刑事だけが持つ直観力と言うべきか、一瞥しただけで「これだ!」と断定できてしまう、人間離れした松本の眼力にはまったく恐れ入る。繊維や切断面の分析まで、瞬時に肉眼でできるらしい。

箪笥から発見された共布(ともぬの)
※実家の箪笥から発見された「共布(ともぬの)」

捜索に立ち会った袴田さんの母親ともさんに任意提出の許可を取ると、本来の目的であった「ベルトと手袋」の捜索は早々に打ち切り。「5点の衣類」が袴田さんのものであると証明できる、有罪を立証する為には不可欠かつ決定的な追加の物証を特捜本部は入手した。

母親のともさんは、箪笥の引き出しにそんな物が入っているとは夢にも思わない。被害者となった橋本専務一家の葬儀に、逮捕される前の袴田さんも参列しているが、その時着けていた喪章は、「共布」が見つかった同じ箪笥に保管されていたそうで、「共布」は9月12日の捜索時に初めて見た、それまではただの一度も見ていないと、ともさんは法廷で述べている。


問題の味噌タンクと同様、袴田さんの実家も事件発生当初に捜索を終えていて、証拠の類は見つかっていない。味噌タンクを最初に確認した捜査員は、後にメディアの取材を受けて「何も無かった。見落としは考えられない」と明言している。

◎事件直後の現場検証で味噌タンクを調べた捜査員のインタビュー
<1>【袴田事件】元捜査員が証言「衣類なかった」発生時にタンク捜索に参加 1年後発見に驚き「あり得るのか」
2023年3月15日/テレビ静岡ニュース


<2>“袴田事件”元捜査員 自宅ドアを閉ざし何も語らず 静岡地裁は証拠ねつ造を認定し再審無罪
2024年9月27日/テレビ静岡ニュース


<3>【袴田事件】事件から57年元捜査員の証言 当時みそタンクに5点の衣類が「なかったことは間違いない」
2023年7月6日/静岡朝日テレビニース
※テレビ静岡の取材とは異なる捜査員と思われる


<4>“袴田事件”元捜査員 自宅ドアを閉ざし何も語らず 静岡地裁は証拠ねつ造を認定し再審無罪
2024年9月27日/静岡朝日テレビニース



驚くべきは「共布」発見の翌日、9月13日に予定の無かった公判が緊急に開かれたこと。担当検察官が地裁に申し入れたのが、捜索前日の9月11日。12日に「共布」が見つかり、13日の冒頭陳述において、袴田さんが自供した筈の「パジャマ」から、1年以上も経ってから突然見つかった「5点の衣類」へと、犯行時の着衣を正式に変更した。

おかしな点はまだある。「共布」発見の経緯に関する調書の証人として、引き出しを開けて発見した岩田ではなく、松本の名前が記載されていたというのだ。

家宅捜索を指示された岩田ら2名は、そもそも松本の先着も聞かされていない。捜査主任の松本が自分たちより先に家に上がり込んでいるのを見て、岩田はまずそれに驚いている。そして松本から「探せ」と言われた箪笥の中から、すぐに「共布」が見つかり、捜索の前日に検察官が申請していた翌13日の公判で証拠の訂正・・・。手回しが良過ぎて絶句するしかない。

静岡県警と地検が一蓮托生のグルであることに、もはや疑いを差し挟む余地は無いと思われるが、事ここに至っては「地裁も・・・じゃないの?」と、誰もが想像を膨らませずにはいられない筈である。


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命あるうちに - 袴田さんの無罪が確定 6 -

カテゴリ:
■検察は控訴を断念するも・・・ - Chapter 6


※2024年10月9日/Daiichi-TV news
【袴田巌さん再審】検察の控訴断念で「無罪」確定も…取り戻せぬ“時間” 補償など今後については(静岡)

8日の夕方に報じられてはいたが、控訴期限を翌日に控えた9日、静岡地検が上訴権の放棄を正式に申請。静岡地裁が手続きを行い、事件発生から58年を経て、遂に袴田さんの無罪が確定した。先月26日に宿願の判決を勝ち取ってから、この日を迎えるまでの間、ひで子さんの心中たるやいかばかりであったことか。本当に安堵した。本当に安堵した。

傲岸不遜極まりない畝本直美(うめもと・なおみ)検事総長の談話(10月8日夕)は論外と表す他なく、まるで血の通わない津田隆好(つだ・たかよし)静岡県警本部長の会見には呆れるのみ。

血が通っていないという事で言えば、「ノーコメント」を臆面も無く発した林芳正(前)官房長官と、指揮権発動(検察が控訴した場合)を要請しに法務省を訪れた袴田さんの救済議連に、佐藤淳(さとう・あつし/この人も当然検察官)官房長を対応させ、メディアと国民の前に立とうとしなかった元弁護士の牧原秀樹(前)法相も、五十歩百歩の意気地無し。


「我々は何1つ間違っていない。悪いのは重大な事実誤認を冒した裁判所だ。」

平然と居直る検察と警察の傍若無人も、袴田さんへの心からの謝罪が無いことも、あらかじめ想定されていた事ではあるものの、検察という組織の腐り方は言語を絶する。

どんな屁理屈を強弁したところで、「5点の衣類」が裁判所によって捏造だと断定され、新たに決定的な証拠を提出しない限り、高裁で有罪を立証するのは不可能。だからこそ控訴を諦めざるを得なかった。

今秋(今年)最大のヤマ場を迎えた国内のボクシング界に加えて、戦禍の深刻化に歯止めが利かないアラビア半島では、175ポンドの4団体統一戦が遂に火蓋を切り、お騒がせのカシメロも暴れまくって、時間がいくらあっても足りないけれど、キリの良いところまで記事のアップを続けようと思う。

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◎「袴田事件」とボクシング界の主な動き - 波紋を呼んだドキュメンタリー



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<3>静岡県警捜査一課 松本久次郎元警部(取材当時73歳)
落としの松本

3人目に登場する関係者は、袴田さんの取調べで中心的な役割を担った捜査員,松本久次郎(まつもと・ひさじろう)。「落としの松本」と呼ばれて、「凶悪事件(解決)の切り札的存在だった」とのナレーションが付いている。

老人会の催しに参加中の松本を、高杉がアポ無しで取材を申し込む。73歳になっていた松本は、一見すると痩身のどこにでもいるお爺さんだが、突然の出来事にも慌てず騒がず、催事会場(体育館)に設けられた応援スペースのようなとことろで、パイプ椅子に腰掛け、柔和な笑顔を浮かべつつ高杉の話を聞く。

フォークダンスに興じる松本の映像が間に入り、カメラは壁際で床に座って対話を続ける2人へと移り、インタビューは核心へと進む。


高杉:「十何時間そこ(取調室)に居たまま、そこから出(さ)ないという状態で取調べが行われたという話を聞いていますけれども、便所にも行かさないということがあったということなんですね。」

松本:「(眉を曇らせ少し言い難くそうに)そういう意味ではあんた(ごにょごにょと言い淀む)、そんな馬鹿なことはない・・・(ごにょごにょ)、(ごにょごにょ)それで何度も(ごにょごにょ)、ねえ?(同意を求めるように)、そんなわけないよ、そんなもん(ごにょごにょ)。」

高杉:「あの、オマルなり便器なりをですね、あの、取調室に持ち込んだと言うような事というのは・・・」

松本:「(ごにょごにょ)ないな、うん。・・そりゃあんた、便器なんて見たこともないしね、基本的な人権に関わることはね、・・やってないよ。」

高杉:「ない?、ない?・・・」

松本:「うん、ないよな・・・」

高杉:「はあ、はあ(一応頷く)・・・」

松本:「そんなあんた、取調べの良心(と聞こえる)に許されないよ、そんなこと・・・あんた・・・わけわからんことやるわけないよ(ごにょごにょ)・・・いい加減なことを(ごにょごにょ)・・・危険になるのがわかってたんだろうな(と聞こえる)・・・う~ん・・・」

高杉:「ははあ(少し笑みを交えながら)・・・」


昼食を採った後らしく、松本は爪楊枝を咥えながら話している。カメラとマイクも余り近くによれないから、ところどころ音声がしっかり聞き取れない。撮影用のライトも使えず、体育館に射し込む陽光と館内の照明を頼るしかなく、映像の色味と彩度が極端に落ちる。

取調べの録音テープは、静岡地裁(第2次再審請求審:原田保孝裁判長)の強い勧告に基づき、2011年12月の三者協議で初めて弁護団に開示された。

ドキュメンタリーが製作放送された当時、これらの録音は明らかにされていない。苦しみと悔恨を噛み殺すかのような、松本の不自然な態度と表情を高杉が見逃す訳が無く、しかしまた、取調べの実態が表に出ていない以上、捜査権の無い高杉の追求には自ずと限度がある。松本を怒らせないよう、細心の注意を払いながら話を聞くしかない。

折角のインタビューの機会を無にしてはならない、十中八九無理だとわかってはいても、蟻の一穴でもいいから突破口を見出さなければ・・・。高杉の苦心惨憺が、ひしひしと画面から伝わって来る。


がしかし、「落としの松本」は白(しら)を切り通した。違法な取り調べはないと否定する時には、高杉の方を向いて目を見ながら、断固とした調子で話そうとする。強引に冤罪を作り上げる邪な手口は何がどうあろうと認める訳にはいかないけれど、言葉と語りで被疑者を説得し続けた年季の重み、迫力を感じさせる場面ではあった。

敵ながら天晴れと言うか、二重の意味で「流石だな・・」と思ってしまったが、「取り調べの良心に」と続けた時、高杉から視線を逸らして顔を正面に向き直す。そこから先は高杉にではなく、自からの心に一人語っているかのように見える。

高杉の不意打ちによって開いたパンドラの箱から、封印した筈の遠く苦い記憶が覗く。己の重い罪に目を瞑ったまま、真っ直ぐ向き合わずに過ごしてきた人生にグサリと楔を打ち込まれて、自問自答している風に見えなくもない。

高杉の問いに答える落としの松本-


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袴田さんの逮捕から実に45年。とうとう陽の目を見た録音テープには、どうにかして自供を取るべく、あの手この手で袴田さんを追い詰める取調官の様子が収められていた。

何が何でも袴田さんに自白をさせ、犯人として裁判にかける。それ以外の選択肢は有り得ない。特捜本部の強固な姿勢が如実に現れていて、状況を想像しながら注意深く聞き漏らすまいとする為、こちらの集中力も自ずとアップする。

「そう言えば・・・」

突然オーケストラのCDやFMを視聴する時を思い出す。シンフォニーや大きな管弦楽曲を、スコアを読みながら耳で追う時は、映像は邪魔にしかならない。指揮者の身振り手振り(TV放送やDVDなら表情も)、オケの各パートとかソロのクローズアップを眼が追ってしまう。これはどうしようもないことで、だからスコアに集中できない。

そしてライヴを収録した音源より、スタジオ・レコーディングの方が音の分離が良くてダンゴにならない(当たり前)から、生のコンサートでは判別が難しい内声の動きや、音量をセーブする時の低音部なども聴き取り易く、スコアの勉強に向いている。映像が無いことは、必ずしもマイナスばかりではないと妙に納得する自分がいた。


一部報道で「捜査員の前で糞尿まみれに・・・」との表現が使われたが、小用でトイレに行かせて欲しいと頼む袴田さんに、取調官が「まずは喋ってから」だと自白を強要して追い詰める音声や、おそらく松本ではないかと推察するが、立会いの捜査員の1人に「便器の用意」を指示する音声もしっかり残されていた。

◎録音テープに残され法定でも再生された音声の一部
<1>「便器を持ち込んでやらせろ」と指示(1分24秒~)
【袴田さん再審】7回目公判で録音テープ流し音声確認…弁護団“自白は強要されたもの”と訴え(静岡地裁)
2024年1月17日/Daiichi-TV news


<2>「イエスかノーか話してみなさい」(1分20秒~)
「人権を無視した取り調べで“自供”を得た」58年前の音声を法廷で流す 弁護団「袴田さんの犯行はあり得ない」【袴田事件再審公判ドキュメント⑦】
2024年1月17日/SBSnews6


<3>「お前が4人を殺した」 無実訴える袴田さんを厳しく追及 当時の取り調べ音声
2024年9月24日/朝日新聞デジタル


<4>開示された音声を分析した浜田寿美男名誉教授(奈良女子大学)による解説
(1)【取り調べ生音声】浜田氏の解説~前編
2021年4月28日/袴田巖さんに無罪判決を! 【袴田事件】
https://www.youtube.com/watch?v=r0OmB1pWW84

(2)【取り調べ生音声】浜田氏の解説~後編
2021年4月28日/袴田巖さんに無罪判決を! 【袴田事件】
https://www.youtube.com/watch?v=oTmcFlBGglA


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◎証拠の捏造にも直接手を下す(?)

凶悪事件解決の切り札に相応しく、公開された録音テープで確認できる松本の口調は、他の取調官と違って、想像以上に穏やかで温和である。無闇に大きな声を張り上げることもなく、昭和の刑事ドラマさながらの、自白の強要との悪印象までは受けない。極力そういう場面を選んで提出していたにしても、「落としの松本」の異名は伊達ではないと感じた。

例えば被害にあった当事者の隠し録りに顕著な、昨今マスコミにリークされる取調べの音声に聞くことができるあからさまな脅迫・恫喝、怒鳴り散らす取調官とは対照的で、40歳代半ば過ぎの働き盛りだった松本の取調べは、押しなべて冷静で落ち着いている。

そんな手練れの松本でも、なかなか音を上げない袴田さんに苛立ち、時にヒートアップ気味になるし、袴田さんから正論で痛いところを突かれれば、カっとなってきつい調子で言い返す。

そして、「(自白するまで)1年でも2年でもここ(清水署の代用監獄)で調べを続ける、娑婆には出さない」と脅す声が、ポリグラフ(嘘発見機)のテストが行われた8月27日の録音に残されている。裁判所への請求から原則10日(+10日の延長可/刑訴法208条1項)の拘留期間を完全に無視した、無茶苦茶な脅迫としか言いようがない。

さらに松本は、ご遺体の写真を袴田さんに見せた日程も嘘を証言していた。裁判長からの質問に対して、「9月4日に1回だけ見せた」と答えたが、録音の日付は8月28日。理由についても、「袴田が涙ぐんで申し訳ありませんと謝罪したので見せた」と言っているが、袴田さんは断固として否認を続けている。


松本は1審の法廷に呼ばれて、拷問紛いの違法な取調べは勿論のこと、威嚇や強要なども無かったと証言した。取調べだけでなく、主任として捜査を指揮する立場にあった松本が、警察の仕事はすべて適法で一切問題は無かったと主張するのは当然で、「悪うございました」などと言う訳がない。

そして自身が直接行った取調べについて、遂に袴田さんを自供に追い込んだ9月6日、自白に関わる2通の調書を作成して終え、以降は携わっていないと証言しているが、録音テープが開示されると、実際はその後も取調べを行っていたことが判明。これもまた嘘っぱちだった。

なおかつ松本には、「5点の衣類(有罪を立証する最大の決め手)」の捏造を指示しただけでなく、直接手を染めていたとの疑惑がある。


※Chapter 7 へ


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◎取調べ全日程と時間(弁護人の接見時間)
1966(昭和41)年
8月18日(木):13時間08分 ※袴田さん逮捕
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8月19日(金):10時間30分 ※取調べ初日
8月20日(土): 9時間23分 ※静岡地検に送検
8月21日(日): 7時間05分
8月22日(月):12時間11分(7分)
8月23日(火):12時間50分
8月24日(水):12時間07分
8月25日(木):12時間25分
8月26日(金):12時間26分
8月27日(土):13時間17分 ※ポリグラフ・テスト
8月28日(日):12時間32分
8月29日(月): 6時間55分(10分)
8月30日(火):12時間48分
8月31日(水):11時間32分
9月1日(木): 13時間18分
9月2日(金): 11時間15分
9月3日(土): 11時間50分(15分)
9月4日(日): 16時間20分
9月5日(月): 12時間50分
9月6日(火): 14時間40分【自白】
9月7日(水): 11時間30分
9月8日(木): 12時間45分
9月9日(金): 14時間00分【起訴】

旧盆が明けた8月18日に袴田さんは逮捕され、特捜本部は取調べを開始。9月6日に犯行を自白するまで20日間ぶっ通しで行われ、1日当たりの平均は12時間4分(9月4日は16時間20分)。刑訴法で定められた最長23日間のトータルは、277時間38分に及ぶ。起訴後も検察官による取調べが続き、最終的に430時間を超えたとされる。

警察の捜査員はあらかじめ複数名でチームを組み、交代で取り調べを行う。取調官の具体的な氏名は調書に記載されるが、袴田さんに対する取調べでは、調書に記載されていない捜査員が取り調べに加わっていたことが、開示された録音テープにより判明している。

弁護人の接見は僅か3回しか認められておらず、合計しても32分という短さ。この年静岡県は残暑が厳しく、冷房が無く窓に目張りをした代用監獄に23日間も閉じ込められ、朝から晩まで「犯人はお前だ。お前がやったんだ」と責め続けられた。

「自白するな」という方が無理な惨状を、袴田さんは20日間も耐え続けた。自白を拒み無実を訴え続けた。尋常ならざるこの精神力こそ、元プロボクサーの真骨頂と称されるべきだと確信する。

捜査に当たった警察官が作成する供述(自白)調書=「員面調書」=のすべてに、刑事事件を担当する弁護士が同意しないと言われるが、今もなお絶えることのない冤罪被害を見聞きするにつけ、「なるほど」と頷くしかない。

日弁連が強硬に要求主張し続けて、ようやく一部が認められた「取調べの完全可視化」の必要性と重要性も再認識させられる。

※可視化の対象となる事件
(1)特捜部・特別刑事部の独自捜査事件
(2)知的障害によりコミュニケーション能力に問題がある被疑者等の事件
(3)裁判員裁判対象事件
(4)精神の障害等により責任能力の減退・喪失が疑われる被疑者等の事件

◎e-GOV 法令検索:改正刑事訴訟法301条の2(可視化法)
施行:2019(令和元年/平成31年:4月30日まで)年6月1日
https://laws.e-gov.go.jp/law/323AC0000000131/20190601_428AC0000000054#Mp-Pa_2-Ch_3-Se_1-At_301


袴田さんの場合、さらに酷いのが、検察官の取調べと裁判官の勾留質問まで、清水署(第1・第2取調室)で行われたことだ。

大ヒットしたドラマ「HERO(ヒーロー)」でお馴染みとなったように、「検事調べ」は検察庁内にある担当検事の執務室で行われるのが一般的(本来は拘置所で行う/一杯で空きが無い=常態化)で、検事の横に検察事務官が必ず立ち会う。殺人などの重大事件の捜査本部が置かれる所轄署で内の取調べは、概して過酷な状況に発展し易く、精神的に深いダメージを負うことも珍しくない。

検事による取調べは、員面調書の任意性を検証しなければならず、調書に問題があると判断すれば、必要に応じて再捜査を指示する場合も有り得る(現実は皆無に等しい)為、環境を変えることに大きな意味がある。

警察での取調べの影響を極力排除して、検事はより客観的な調書を作成しなければならず、検事が作成する調書を「検面調書」と呼び、強引に自白を引き出す恐れが否定し切れない「員面調書」よりも、高い信用性が認められる。

裁判官の勾留質問(非公開・第三者の立会い不可)も同様で、裁判所の構内にある普通の部屋で実施されなければならないのに、やはり清水署内で行われており言葉を失う。これでは警察・検察・裁判所が文字通りの三位一体となり、袴田さんを無理やり有罪に持ち込んだと疑われても文句は言えない。


◎9月9日(金)に行われた取調べ(静岡地裁による自白任意性の認定可否)
(1)午前中 警察官が実施:清水警察署第1取調室(自白の任意性:不認定)
(2)午後~夜/14:00~19:00 検察官が実施:清水警察署第2取調室(自白の任意性:認定)
(3)夜/19:30~21:30 検察官が実施:清水警察署第2取調室(認定)
(4)深夜 警察官が実施:清水警察署第1取調室(不認定)

時間が明示されていない、捜査員(警察)による午前中の取調べの後、昼食を挟んで午後2時から始まり、夜9時30分の終了まで7時間半に及んだ検事調べは、たった30分の休憩しか与えられなかった。

死刑判決を書かざるを得なかった熊本元裁判官は、提出された45通の調書のうち、28通の員面調書総てを含む44通を証拠として採用しなかったが、後に判決文を起草した裁判官ご本人がカミングアウトした通り、「証拠採用のしようがなかった」のである。

松本の法廷での証言は、まさしく「不都合な真実」を隠蔽する為にのみ行われた。


命あるうちに - 静岡地裁が袴田さんに無罪判決 5 -

カテゴリ:
■検察は控訴の断念を - Chapter 5

早ければ、今日明日にも検察が態度を明らかにするかもしれない。控訴をするにしてもしないにしても、キリの良いところまで記事のアップを続けようと思う。



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◎「袴田事件」とボクシング界の主な動き - 波紋を呼んだドキュメンタリー

1992年2月3日、「袴田事件」に関する、初と言っていい本格的なTVドキュメンタリーが放送される。製作したのは日本テレビで、1970年から続く「NNNドキュメント」という番組で採り上げられた。

「プロボクサーは本当に四人を殺したのか ~袴田事件の謎を追う~」

メインとサブどちらのタイトルも、詩的な表現を排して、直截で分かり易い簡潔な言葉だけでまとめたのは、「袴田事件」は世間の関心事では無かった為だと推察するが、真夜中の放送(確か0時丁度だったと思う)だったことも、まったく無関係ではないのかもしれない。

高杉の丁寧な取材風景をメインに、郡司と金平も登場する。「救う会」が全面的に協力したと言うべきか、それとも高杉の方から企画を持ち込んだのか。いずれにしても、この放送をきっかけに、日テレはニュースの特集枠と報道関係の幾つかの番組で、継続的に何本か放送を行い、テレビ朝日も1本だけだったが後に続く。

そして何よりも、高杉の取材と弁護団(と支援団体)による検証を収録して、裁判の中でも問題視され続けた警察の捜査が抱える著しい矛盾を、あらためて明らかにしたという点で、大いに意味と意義のある放送だった。

動画配信サービスの「Hulu」で、過去の放送分も含めて「NNNドキュメント」の視聴が可能になっているが、残念ながらこの回は含まれていない。もしかしたら、ビデオではなくフィルム収録で、再利用されて既に元の映像が無くなっているのかもしれないが、可能ならば今こそ再放送して欲しい番組である。

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◎高杉のインタビュー
<1>医師:山下英秋
医師:山下英秋
※被害者橋本専務一家4名のうち専務夫人と長男2名のご遺体を検案

凶器とされたくり小刀(木工用の小型ナイフ)も、弁護団は捏造された証拠だと主張している。そもそも人を4人も刺殺することは不可能だとする弁護団と、間違いなく凶器だとする検察側が激しく対立した。

小刀のサイズと傷口の大きさが一致しないことや、次女の肋骨を切断して肺と心臓を貫通した上、背骨にまで達した致命傷を与えることの可否等々、ご遺体を検案した医師には確認したいことがヤマほどある。

次女の傷の深さに関する疑念について、「鍛え上げたプロボクサーだからやれた。確かに大人の男であっても、常人には難しい犯行だったかもしれない。そうであるからこそ、くり小刀は袴田の犯人性を裏付けしている」と、検察と警察は袴田さんの犯行だと強弁した。

ところが映像では、供述調書と遺体検案書の矛盾点を問うだけに止まっている。被害者となった一家4人の遺体に残された刺し傷の総数47ヶ所に対して、致命傷とされる深い傷が5ヶ所と少なく、残りの42ヶ所は、胸と腕を中心に軽く小突いたような浅く小さい傷ばかりだった。

「激しく抵抗する家族4人を、逆上した袴田が力尽くで滅多刺しにした」とする供述内容と、実際のご遺体の状況が著しく矛盾するのではないかと、その一点しか聞いていない。

時間も1分程度なので、会話の大半は編集でカットされたと思われるが、取材に応じた山下医師は、議論の主体となる次女の検案を行っておらず、高杉が期待していた言質を取ることがそもそも難しいと、事前に判断していたとも考えられる。

「(供述と傷の不整合について)少し異常だと思う。いかがお考えになりますか?」と問う高杉に対して、山下医師は微笑しながら「そう思いますね」と同意したが、すぐに「そういう気がする」と続けて曖昧にぼかす。

くり小刀と鞘(さや)
※写真上:凶器(?)のくり小刀(刃渡り12センチ/刃の根本部分の幅2.7センチ)
※写真下:犯行当日袴田さんが着ていた合羽のポケットから発見された(?)小刀の鞘(さや)

◎【袴田事件】再審公判2回目 弁護側「警察の証拠は不自然」 雨合羽の写真や凶器と傷口の深さなど
2023年11月10日/テレビ静岡ニュース



さらに高杉は、袴田さんの無傷の拳にも着目している。人を殺傷する為に作られたナイフではないから、小刀には「鍔(つば)」が付いていない。そして証拠写真を見れば一目瞭然だが、小刀のグリップ(柄)部分がむき出しになっている(握る手を保護する為の柄が無い)、

この状態で、4人の人間に47ヶ所の刺し傷を作り、そのうち1人に肋骨を切断して肺と心臓を貫き、背骨まで達する致命傷を負わせたら、犯人の拳や掌が無傷で済むなんてことが有り得るのか。

最初に殺害されたことになっている橋本専務(被害者一家の主)は、柔道の有段者で大柄な体躯の持ち主だったとのことで、格闘技などにそれなりの心得が無ければ、短時間で刺殺するのは難しいと捜査陣は主張した。

供述では、元プロボクサーの袴田さんが思い切り殴ったことになっている。パンチで弱らせてから、くり小刀で殺害したというストーリーなのだが、あらためて述べるまでもなく、力一杯専務を殴りつけた袴田さんの両拳は、素手(ベアナックル)だったと考えるのが妥当だ。

ボクシング・ファンでもあった高杉は、「そんなことをすれば、袴田さんの拳も折れたりするんじゃないのか?」と考え、「救う会」の金平が会長を務める協栄ジムを訪れ、確認する場面が収録されている。

対応したのは、引退してトレーナーに転身していた古口哲(こぐち・さとし/アマ61連勝のトップ・エリート/プロでは大成できずに終わる)で、ボクサーならではの視点から以下の通り答えた。

「バンテージや包帯を巻いていれば(しっかり保護しているならまだしも)、怪我は防げるかもしれないが、ボクサーが素手で力一杯(人の顔や頭部を)殴ったら、間違いなく拳を骨折する。(折らないまでも)ヒビが入る」と、やはり無傷では済まない筈だと述べた。


がしかし、警察が凶器と断定したくり小刀を巡る最大の疑問は、小刀から袴田さんの指紋が発見されていないことだ。しかも、指紋はご遺体(衣服等)と殺害現場からも採取されなかった。一般的に考えられる状況を類推すると、袴田さんが指紋を隠す為に、手袋をして犯行に及んだということになる。

バンデージを巻いて厚手の手袋をすれば、拳の怪我は防止できるのではないかと、そうした推理も不可能ではないが、殺害現場に袴田さんの物と思しき遺留品は皆無で、その後の捜査でも、バンテージと手袋の類は見つかっていない。

無論、有罪を立証する決定打,フィニッシュ・ブローとなった「5点の衣類」にも含まれていなかった。「焼却したのでは?」と、これもまたごく自然な発想が脳裏に浮かぶが、ならば「5点の衣類」もさっさと燃やしている筈である。

味噌を出荷する時期になれば、どうしたってタンクは空になる。遅かれ早かれ発見されることが分かり切っているのに、わざわざタンクの中に決定的な証拠を隠したりするだろうか?。とにかく、限られた物証を巡る諸々は、辻褄の合わないことばかりなのだ。

「救う会」の発起人として、ボクシング界における初期の支援活動をリードした金平と郡司の姿もあるが、ボクシングを取材する側だった郡司と、メイン・イベンターとして袴田さんとともにフィリピンで戦った勝又行雄が、現役時代の袴田さんについて語り、「彼を知る者なら、誰もが無罪を信じているに違いない」と結んでいる。

金平と郡司
※金平正紀(協栄ジム会長)と郡司信夫

古口と勝又
※写真左:古口哲/写真右:勝又行雄


DNA鑑定が影も形もなかった昭和30~40年代、犯罪捜査における最大の物証だった指紋を発見できなかったことが、かつてない規模の証拠捏造へと特捜本部を暴走させた。そう考えるのは、むしろごく自然な流れではないだろうか。

くり小刀には、まだまだ言及すべきポイントがたくさんあるが、番組に合わせて一旦ここまで。


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<2>刃物店店主
刃物店の女性店主と高杉
※女性店主とインタビューを行う高杉

続いて高杉が訪れたのは、袴田さんがくり小刀を買ったとされる刃物店。事件当時、捜査員の聴取に協力した女性店主が、高杉の取材に直接応じている。

聞き込みにやって来た捜査員は、「あなたの店で小刀を買った犯人が書いた地図だ」と言いながら(明らかな誘導)、持参した手書きの地図を店主に見せた。そして、袴田さんを含む十数枚の顔写真を見せられ、袴田さんの顔に見覚えがあると答えている。

指紋という決定的な物証が無い(極めて重要)中、店主の証言は凶器の入手を裏づける決め手となり、有罪の立証に大きな比重を占めることになったが、法廷での証言はかなり曖昧なものだった。

◎検察官の尋問より
(1)店で袴田さんを見たのは捜査員が聞き込みに来た頃より2~3ヶ月前ぐらい(のような記憶)
※検察官が「3~4月頃という感じですか」とあらためて確認・同意
(2)販売の有無について「何か売ったような記憶はある」
(3)販売した商品がくり小刀だったかどうかについて「全然覚えていない」

◎弁護人の尋問より
(1)くり小刀を13本販売(※後述)しているが購入客の(顔の)記憶について「1本(1人)も記憶にない」
(2)くり小刀を捜査員が見せた顔写真の人物が買ったという明確な記憶が「あるわけではない」
(3)弁護側が用意した袴田さんの顔写真を見せても「(明確に小刀の購入客が袴田さんかどうかまでは)わからなかった」
(4)来店客の顔を逐一全部は「覚えていない(写真を見せられても確信を持った照合は難しい)」
(5)袴田さんの場合「(捜査員が持参した)写真を見たら偶然その顔に見覚えがあった」

刃物店の手書き地図
※捜査員が持参した手書き地図

高杉の問いに対して、「(捜査員が見せた十数枚の顔写真の中に)見覚えのある来店客はいなかった」と店主は回答。1審当時の証言を自ら翻した。

高杉:「十数枚の写真の中に、お母さんが覚えている人物はおられましたか?」

店主:「いなかったです。」

高杉:「どの写真を見ても、まったく見覚えが無かった?」

店主:「見覚えは無かった・・・んですね・・・」

高杉:「見覚えはまったく無かったんですね?」

店主:無言で頷く


「重い口を開いた」とナレーションが入っているが、店主が思わず口ごもったのは、「見覚えが無かったんですね」と認めた時だけで、実際に話したうちのどのくらいがカットされたのかはわからないが、「いなかったです」と答えた場面も含めて、放送された他の会話はスムーズに喋っている。

店主が口ごもった瞬間、偽りの証言をしてしまったことに、ずっと後ろめたさを抱き続けていたことが垣間見えて、視聴しているこちらも辛くなってしまう。

「犯人が書いたんだから間違いなかろうと(捜査員が言った)。私も犯人がそう言うなら間違いないでしょうぐらいで。その時代はねえ・・・」

「今になれば、果たして犯人が書いたもんだか・・。地図は書こうと思えば警察だって書けますからねえ・・。」

「でも、今はそう思ってても、その時点では警察は絶対・・。(高杉が”正しい”と合いの手を入れ,間髪を入れず)正しいと思ってたから・・・。(高杉の相槌に頷きながら)思ってたからねえ、そう(疑いを差し挟む)感じてなかったですね・・。正しいと思ってたから・・。」

虚偽の証言は不可抗力だと、弁明半ばに話す女性店主を、高杉は気持ちのこもった優しい眼差しで見つめ直しながら、「思ってたんですね。なるほど。はい・・。」と、難しい立場を押して事実を述べた店主へのフォローを忘れなかった。

また、以下はインタビューではなくナレーションによる説明だが、捜査員が聞き込みに店を訪問したのは、事件が起きてからおよそ半月後の1966(昭和41)年7月中旬頃。袴田さんが逮捕されるのが8月18日だから、特捜本部による取調べが始まる1ヶ月前になる。

上述した法廷での(偽)証言(袴田さんが店に買いに来た時期=捜査員が来た時から2~3ヶ月前=3~4月頃:検察官尋問)とも一致しているが、取調べを受けて書いたとされる地図には、袴田さんの署名とともに「9月6日」の日付が付されており、時系列が明らかにおかしい。

店主捜査記録・袴田さん署名日付
※写真左:刃物店店主の証言記録
※写真右:手書き地図に記された袴田さんの署名と日付


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◎テレビカメラの前で偽証を告白(2014年)

袴田さんが釈放された2014年、SBSの取材を受けた(元)女性店主は、病床に臥せりながら「本当は見ていないんです」と、偽証したことを告白した。

さらに顔と名前を出したご子息の高橋国明氏は、法廷から帰宅した母が、「証言の仕方を教えて貰った」と話したことを鮮明に記憶していて、「(検察官による)誘導」の可能性を感じたと、重要な事実も明らかにしている。

◎原形のまま残っていることは極めて不自然」検証「袴田事件」(1)疑惑の証拠 9.26再審判決
2024年9月20日/SBSnews6



あらためて唖然としてしまうのは、うろ覚えに近い店主の曖昧な証言を、地裁が証拠認定してしまったことだ。この裁判で左陪席に着いた熊本典道(くまもと・のりみち)元裁判官以外のお二人は、何1つ疑問を感じなかったのだろうか。

これを警察による誘導と言わずして、何と表せばいいのか。手書き地図に記された日付と聞き込みした日付の相違(時系列の食い違い)は、はっきり捏造と言い切れる。1審の裁判長と右陪席は、警察と検察に寄り過ぎていて背筋に怖気が走る。

Chapter 3」で概要を説明した通り、1950(昭和20~30)年代の静岡県は、「昭和の拷問王(冤罪王)」と呼ばれた県警本部のエース、紅林麻雄(くればやし・あさお)警部補が主導した冤罪事件が続発していた。

なおかつ1954(昭和29)年には、「戦後4大冤罪事件」の「島田事件(幼女誘拐殺人/静岡県島田市)」が発生して、「袴田事件」が起きた1966(昭和41)年当時、無実を訴える弁護団が繰り返し再審請求を行い、静岡県警に対するマスコミの論調は厳しく、辛らつな追求姿勢を取らざるを得ない。

番組のナレーションが言及している通り、指紋を検出できなかった為、自白と状況証拠に頼らざるを得ない弱みに、マスコミからのプレッシャーが特捜本部の焦りを加速させたとの推論には、率直に説得力を感じる。

「島田事件」の概要については、「Chapter 1」の後段をご覧いただけると有り難いが、これらの冤罪事件を引き起こした直接的かつ根源的な原因が、紅林警部補に象徴される警察の傲岸不遜極まる捜査手法と、それを追認するだけの検察にあるのは確かだ。

そして同時に、静岡地裁の酷さも目に余る。


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◎女性店主のご子息による新たな証言

今年6月30日の支援者集会に、女性(元)店主のご子息が出席。問題のくり小刀について、新たな事実を証言した。

(1)店舗で取り扱っていたくり小刀は、刃渡り13.5センチ(135ミリ)1種類のみ。
(2)現場で発見された刃渡り12センチ(120ミリ)のくり小刀は、事件当時から一度も取り扱ったことがない。

1審に出廷した女性店主に対して、弁護人が行った尋問の中で、くり小刀を13本販売(期間=何時~何時まで=は不明)したとあるが、ご子息の証言通りなら、13本はすべて刃渡り13.5センチの商品だったことになる。

◎袴田事件で重大証言「その刃物は扱っていない」…凶器のくり小刀を販売したとされる店の元従業員 静岡・清水区
2024年6月30日/静岡朝日テレビニュース

※名前を出しているにも拘らず「元従業員」になっている理由と経緯は不明

昨(2023)年、元店主の母がお亡くなりになって、喪が明けるのを待っていたと考えるのが筋にはなるが、再審が結審した5月22日以降、丁度良い機会がこの日だったのだろう。

ただし、当事者の辛さや苦しみを直接知る由がない者としては、「もっと早く証言して欲しかった」との思いがどうしても残る。警察と検察、そして司法が犯した罪は本当に重大で、耳にタコではあるけれど、取り返しがつかないことへの哀切に心が痛む。

命あるうちに - 静岡地裁が袴田さんに無罪判決 4 -

カテゴリ:
■検察は控訴の断念を - Chapter 4

2014-05-19 Japan Boxing Memorial Day
※2014年5月19日「ボクシングの日」記念イベント/左から:袴田ひで子さん(支援活動のシンボル),釈放(仮)された無実の死刑囚 袴田巌さん(4月7日に贈呈されたWBC名誉チャンピオンベルトを巻いて),大橋秀行JPBA会長(当時)

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◎「袴田事件」とボクシング界の主な動き

最高裁が控訴を棄却(1980=昭和55年11月19日/弁護団による判決訂正申立の棄却=同年12月12日)して、袴田さんの死刑が確定してから、間もなく44年が経つ。

冤罪の可能性を感じたノンフィクション・ライターの高杉晋吾氏(以下敬称略)が、手弁当で事件を追い始めて、「現代の眼(現代評論社/廃刊)」という雑誌に最初の寄稿を行ったのが1979(昭和54)年。取材を始めたきっかけは、取調べを受ける袴田さんの様子を伝える新聞記事だったという。

「嘘つきの袴田が、実際には行ったことのないフィリピン遠征の話をして、捜査官が呆れている。」


気になった高杉が袴田さんのレコードを調べてみると、確かにフィリピンで戦っていた。デビュー3年目の1961(昭和36)年4月19日、120ポンドの契約ウェイトで、マルチン・ダヴィドという地元の選手に10回判定負け。

ダヴィドは袴田戦から5ヶ月後の同年9月、同胞のバンタム級トップ,ジョニー・ハミト(1963年5月エデル・ジョフレの世界王座に挑戦/11回終了TKO負け)を12回判定に破り、同級のフィリピン王者になっている。

翌1962年1月には、来日して米倉健司(健志)が保持していた東洋王座に挑み、負けはしたものの判定まで粘っているから、かなりの実力者だったと思われる。

開催地は首都マニラで、スペインに統治されていた19世紀後半、反植民地主義を掲げて独立運動を提起し、銃殺刑によって命を奪われた英雄ホセ・リサールの名前を冠した「リサール・メモリアル・スポーツ・コンプレックス」で行われた。

袴田さんが所属していた不二拳(渡辺勇次郎の高弟,岡本不二が愛弟子のピストン堀口を連れて日具を飛び出し設立したジム)の大先輩で、後に東洋J・ライト級王者となる勝又行雄をメイン(10回判定勝ち)に、帝拳ジムの福地竜吉(後の日本ランカー/ベテランの米国人選手との8回戦で初回KO負け)も出場している。

Phili_Box_Poster
◎現地で貼り出されたポスター(右)/袴田さんと勝又を含むフィリピン遠征団一行
※画像:1992年2月3日放送/NNNドキュメント「プロボクサーは本当に四人を殺したのか ~袴田事件の謎を追う~」より

◎Boxrec - events
https://boxrec.com/en/event/167955


時は1970年代、一般向けのインターネット回線やBoxrecなどのWEBサービスは夢物語の世界で、その頃はまだ存続していた不二拳(ふじけん・不二拳闘クラブ:2010年閉鎖/創立者の岡本不二は1984年に逝去)や、引退後に独立して不二勝又ボクシングジムを開いた勝又行雄だけでなく、JBC(日本ボクシング・コミッション)の事務局にも直接問い合わせたか、「ボクシング年鑑(JBCが毎年発行する公式レコードブック)」で調べたのだろう。

「妙だな・・・」

逮捕した被疑者がとんでもないホラ吹きだと、取材に来た地元紙の記者(おそらくは顔見知りの)に吹聴して、よろしくない印象操作を狙った記事を書かせている。「何かウラがあるぞ」と、筋金の入ったルポライターの第六感が鋭く反応した。

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そして高杉の労作を偶然手に取ったのが、”リングサイドの母”と呼ばれたボクシング記者の松永喜久(まつなが・きく)である。

第二次大戦後に日本ボクシング界初の女性プロモーターとして活動した後、ベースボール・マガジンの記者に転身。最盛期を過ぎて久しいとは言え、野球と大相撲に肩を並べる人気を辛うじて維持していた当時においても、ボクシングを専門に取材する女性記者は松永1人しかいない。

帝拳ジムを切り盛りする名物マネージャー,長野ハルとともに、2大女傑として知られていた松永が、「何かできることはないか」と相談を持ちかけたのが郡司信夫(ぐんじ・のぶお)だった。

日本ボクシング界の歴史の生き証人,生き字引にして、我が国唯一のヒストリアン(ボクシング史家)であり、取材を通じて現役時代の袴田さんを良く覚えていた郡司は、理不尽かつ無慈悲な最高裁の特別抗告棄却が下るや否や、高杉を中心にして「無実のプロボクサー袴田巌を救う会」を設立して支援に乗り出す(1980年11月19日)。
※後に改称:「無実の死刑囚・元プロボクサー袴田巌を救う会

熱狂的なボクシング・ファンでもあった寺山修司が協力を名乗り出て、マスコミへの広報活動を引き受けると、川上林成(しげまさ),関光徳,金平正紀の現役会長3名(当時)が、あくまで個人的な有志としてではあったが、郡司と松永の呼びかけに応じてボクシング界から馳せ参じた。


◎「救う会」創設メンバー
<1>高杉晋吾(1933年3月18日~現在91歳)/ノンフィクション・ライター
<2>郡司信夫(1908年10月1日~1999年2月11日)/ボクシング史家,評論家,元記者,元解説者
<3>松永喜久(1912年8月5日~1998年11月1日)/ボクシング記者,スポーツ・ライター
<4>寺山修司(1935年12月10日~1983年5月4日)/歌人.劇作家(劇団「天井桟敷」主宰)

創設メンバー
※左から:高杉晋吾,郡司信夫,松永喜久(いずれも1991~92年頃)

寺山修司(1979年頃)
※寺山修司(1979年頃)

<5>金平正紀(1934年2月10日~1999年3月26日)/協栄ジム会長(元プロボクサー),海老原博幸,西城正三,具志堅用高を始めとする世界王者8名(当時の国内最多)を輩出
<6>関光徳(1941年1月4日~2008年6月6日)/セキジム会長,元東洋フェザー級王者(元同級世界1位)
<7>川上林成(しげまさ:1939年8月29日~2016年6月30日)/新和川上ジム会長,元東洋J・ミドル級王者(元世界J・ウェルター級1位),元アマ全日本王者

創設メンバー
※左から:金平正紀(90年代前半),関光徳(2000年代前半),川上林成(写真は現役時代:1960年代前半)


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1982(昭和56)年4月、弁護団が第1次再審請求を申し立て。そして翌1983(昭和58年)7月15日、遠く離れた九州で一筋の光明が射す。実に6度目の請求で開始された「免田事件」の再審で、熊本地裁が無罪を判決。期限前日の7月28日、検察が控訴を断念。事件発生から34年6ヶ月を経て、死刑が確定していた免田栄元受刑者が無罪を勝ち取る。

最大の誤算だったのは、支援組織を立ち上げた直後の1983(昭和58)年に、「救う会」のシンボルでもあった寺山が急逝したことだろう。宿痾となった肝硬変が再発して、入院療養を余儀なくされた寺山は、回復することなく腹膜炎を併発。47歳の若さで返らぬ人となった。

支援に積極的とは言えなかったボクシング界も、郡司らの再三の声掛けに折れる形で、JPBA(日本プロボクシング協会/ジムの会長が参集した業界内組織)が重い腰を上げたのが、1991(平成3)年11月11日。

「A級トーナメント(旧称)」が行われた後楽園ホールのリング上で、当時のファイティング原田協会長が、用意された原稿を読みながらではあったが、観戦に訪れたファンに応援を呼びかけている。「救う会」の結成から、既に丸10年を経過していた。

1991-11-11 F-harada
※支援呼びかけの声明文を読み上げるファイティング原田(1991年11月11日/後楽園ホール)


「救う会」では、1984年に獄中で洗礼を受けた袴田さんの要望を受け、キリスト教関係者(カトリック)への支援の働きかけが始まり、徐々に拡がって行く間に、一家4人でアマチュアのコーラスグループを作り、80年代半ば頃から世界各地で催される人権集会で歌い続ける門間正輝(もんま・まさき)が、高杉に替わって代表に就任(1992年1月)。

72歳になる今も門間はその任に留まり、副代表となった幸枝(さちえ)夫人とともに、支援活動を継続している。

■門間正輝:1992年1月~「救う会」代表
■門間幸枝:同じく副代表
門間夫妻
※左:門間正輝(2023年)/右:門間幸枝(2020年)


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◎再審に向けた過酷な闘いは続く

同年10月、「免田事件」の弁護人を務めて、再審開始に貢献した安倍治夫弁護士が、袴田さんの弁護団(日弁連)に加わる。安倍と連絡を取り続けて弁護団に仲介したのが、「救う会」の創設に加わった金平正紀(協栄ジム会長:当時)だった。

”ヤメ検”の安倍は、法務省で刑事局の参事官を務めていた時、「昭和の岩窟王事件(大正2年に名古屋で起きた強盗殺人事件)」で冤罪を訴え続けた死刑囚,吉田石松に、後に再審の弁護を行う日弁連を紹介(吉田の仮出所後)しただけでなく、検事を辞した後の第6次再審請求に自らも乗り込み、吉田の逆転無罪を決定付けるアリバイ証人の居場所を突き止め、吉田を救った人権派弁護士としてしても名を上げる。

吉田は1963年2月、名古屋高裁で無罪判決を勝ち取り、確定後の同年12月1日に肺炎で亡くなった(享年84歳)。常識に囚われない言動で「赤い検事」と呼ばれた安倍は、「白鳥事件(1952年に札幌市内で発生した警察官射殺事件/日本共産党の暴力革命を象徴する事件の1つ)」でも、関係者の1人から重要な証言を引き出している。


70年代に勃発した「欠陥車問題」にも深く関わり、自動車メーカーに勤務していた松田文雄(「欠陥車」を造語したとされる)と一緒に、「日本自動車ユーザーユニオン」なる組織を立ち上げ、消費者運動の旗を振り上げた。

国内自動車メーカー各社の欠陥を指摘するだけでは済まず、なんと本田宗一郎を殺人罪(未必の故意)で告訴してまたもや勇名を馳せたが、ホンダ(本田技研工業)との交渉の過程で、16億円の損害賠償金を要求。これが恐喝に当たると、ホンダから逆告訴され、執行猶予付きの有罪判決が確定。弁護士資格を一度はく奪されている。

昭和天皇の崩御にともなう恩赦(1990年)のおかげで、失くした資格を回復する僥倖に恵まれ、70歳を超えてから、金平に請われて袴田さんの支援活動に力を貸すことになった。

常識と旧弊に囚われない大胆な言動と、冤罪事件で数々の実績を上げた安倍の手腕と経験に「救う会」は大きな期待を寄せたが、再審の是非を検討する三者協議(静岡地裁・静岡地検・弁護団)に列席した際、新たな証拠を提出しようとして、弁護団の小倉博事務局長と対立。

1991年10月23日に行われた協議で、新証拠とともに「5つの新しい争点」を持ち出し、その中には「5点の衣類」に付着した血痕のDNA鑑定も含まれていた。当初より検察と裁判所はDNA鑑定には否定的で、仮にDNAを上手く検出できたとしても、経年劣化で正確な鑑定が難しいとの立場を取る。

日弁連の弁護団は、科学的根拠が不確かとされかねない証拠の提出に待ったをかけた。みすみす検察に付け入る隙を与えることになり、裁判所の心証も悪くしかねないとの懸念が付きまとう。しっかり裏付けの取れる証拠と検証で、堅実かつ慎重に戦うべきとの主張が弁護団の大勢で、事務局長の小倉らは、安倍の考えについて、再審請求にはむしろマイナスに働くと考えた。

「救う会」は、金平の肝いりで弁護団入りを承諾した安倍をサポート。「新証拠提出」に協力しつつ、門間夫妻とカトリック教会のツテを活かし、国連の人権小委員会を中心にしたロビー活動を開始する。


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