2026年春,東京ドーム開催決定!? - 年間表彰式で予期せぬビッグ・サプライズ Part 2 -
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■モンスターがビッグ・バンに対戦を呼びかけ・・・

予期せぬモンスターのフライング。互いに事前の打ち合わせは無く、何も聞いていなかったという大橋会長も、「実現させないとボクシング界に未来はない」とまで話し、前向きに交渉を進めると明言した。
昭和~平成初期(前世紀)の昔なら、会長の了承を得ない情報の発信など有り得ない。絶対に許されない越権行為であり、下手をすれば現役を諦めざるを得ない事態に発展する恐れさえある。
「冗談ですよ、冗談」と言って笑いを誘い、仮にその場が収まったとしても、会長の怒りが爆発するのは不可避。引退してさほど時間が経っていない若い会長さんなら、鉄拳制裁も想定の範囲内だ。
まず第一に、リスクが大き過ぎる。試合をやればチケットの完売を確実に見込めるチャンピオン同士をぶつければ、興行の成功は確約されたも同然。プロモーターとマネージャーを兼ねる所属ジム会長の実入りも、選手が受け取る報酬も大きな金額が確約されるが、下手をすればその1回ですべてが終わってしまう。
引き換えとなる代償を考えた時、興行に関わる誰もが二の足を踏む。目先の大きな利益と引き換えに潰し合うより、1回1回の儲けはそれなりでも、細く長く着実に防衛戦を続けて行った方が賢い・・・と、かつてはどの会長さんもそう考えた。
勝手に取材を受けたりしないよう、直ちにジムに関わる者全員にかん口令が敷かれ、ドリームマッチに関する話題は完全にオフ・リミット。記者とファンからどれほど批判や非難を浴びても、我関せずを貫きダンマリを決め込むしかない。
バックに付くテレビ局の意向も無視できない。ネット配信は遥か遠い未来の絵空事で、想像すらできない時代。中継を行う民放キー局(と大手広告代理店)の力は絶大で、両陣営を支えるキー局が異なる場合、放映権を巡って必ず紛糾する。
昭和40年代のプロボクシングは、プロ野球と大相撲に肩を並べる国民的人気スポーツであり、高い視聴率が確実に見込める優良コンテンツの代表格だった。両会長の思惑がどうであれ、どちらの局も簡単に放映権を譲ろうとはしない。
それこそが好カードの実現を阻む最大の障壁と言って良く、日本ボクシング界のご意見番として永く活躍した郡司信夫は、「小を捨てて大に就かねば、ボクシングは廃れるばかり」だと、事あるごとにテレビ局とジムの癒着体質に苦言を呈していた。
チャンピオンか否かに関係なく、ジムの看板選手はその辺りの事情を察して、公の場所ではけっして余計な事は喋らない。メディアの取材を頻繁に受ける人気選手の多くが、当たり障りの無いつまらない受け答えに終始する。
もっともこうした状況は、競技及びプロ・アマの別を問わない、日本国内のスポーツ全般に共通する、ごくごく日常的な光景でもあった。手っ取り早く言うと、とにかく風通しが悪いこと夥しい。それに尽きる。
なかんづくボクシング界は閉鎖的で、プロモーターとマネージャーを兼ねる会長には、支配下にあるプロ選手の生殺与奪に関わる全権を掌握できる為、会長の言葉は神の言葉に等しく、服従する以外に選択肢はない。
時代錯誤とも言うべき封建的な体制は、ごく最近まで続いていた。内向き一辺倒の村社会が揺らいだ大きな要因として、第一に挙げなくてはならないのは、やはり旧Twitter,facebook,Instagramの普及であり、さらにパンデミックによる興行の休止が強力な追い風(業界の体制側に取っては追い討ち)となった。
強制的に収入の道を閉ざされたプロボクサーだけでなく、ジムの会長までが相次いでyoutubeチャンネルを開設し、積極的に発信・発言を行うようになって、コラボという形で横の連携も強化されて行く。開放への流れが動き出すと、もう押し止めることはできない。
武漢ウィルス禍の具体的な出口戦略がようやく語られ出した2022年、9,300億円と算出されたSNSマーケティングの市場規模は、2024年に1兆2千億円に拡大。2025年の着地は1兆4千億円と見込まれ、2029年には2兆円を超えると予測されている。

ゴロフキン vs 村田諒太の大一番(2022年4月9日/さいたまスーパーアリーナ)を、井上尚弥とセットでバックアップしてきたフジテレビではなく、Amazon Prime Videoが独占配信すると発表された瞬間、「来るべき時が遂にやって来た」と、深い感慨を覚えたのは拙ブログ管理人だけではない筈。WBSSをきっかけにして、真に国際的な認知を獲得した井上尚弥も同じ道を辿る。
昭和30~40年代に始まり、ボクシング界の経済基盤を支配し続けてきた民放地上波+大手広告代理店による視聴率第一主義のビジネスモデルでは、高騰を続けるモンスターのギャランティを賄い切れない。
TBS恒例の大晦日格闘技イベントで一翼を担い続けた井岡一翔も、ABEMAへの乗り換えを余儀なくされ、欧米に比べるとかなり遅れはしたものの、「ネット配信+PPV」への移行は避けることのできない必然であり、時代のうねりでもあった。
こうした大きな変化の副次的な効果として、欧米並みとは行かないまでも、封建的な村社会の伝統と慣習も維持できなくなり、選手個々の発言に対する規制が自然発生的に緩んだことは、パンデミックの猛威がもたらした不幸中の幸いと言えなくもない。
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◎55年前に実現していた現役世界王者対決
しかしながら、いつの時代にもどんな世界にも変わり者(失礼),もとい、(良く言えば)常識に囚われない、敢えてそこを突き破ろうとするチャレンジャーはいる。階級が1つ異なる現役世界チャンピオン同士の対決は、「井上 vs 中谷」が初めてではない。
半世紀(およそ55年)も前の1970(昭和45)年12月3日、世界戦を始めとするボクシングの大きな興行が頻繁に行われていた日大講堂(旧両国国技館:1983(昭和58)年に解体)で、史上初の海外奪取を成功させ、”シンデレラ・ボーイ”と呼ばれて絶大な人気を博したWBAフェザー級王者西城正三(協栄)と、J・ライト級で安定政権を築いていたインサイドワークとカウンターの達人,小林弘(中村)がぶつかった。

◎対戦時の年齢と戦績
小林(25歳4ヶ月/キャリア8年5ヶ月):71戦59勝(10KO)8敗4分け
西城(23歳11ヶ月/キャリア6年4ヶ月):33戦26勝(8KO)5敗2分け
※いずれもデビューは17歳(C級スタート)
世界,地域(ローカル),国(ナショナル)の種別を問わず、例えノンタイトルであったとしても、チャンピオンが正規のリミット範囲内で敗れれば王座をはく奪されてしまう。どちらが負けてもベルトを失うことが無いよう、132ポンド(約59.87キロ)の契約ウェイトを合意。ノンタイトルの10回戦として行われている。
J・ライト級のリミット上限130ポンド(約58.97キロ)より、2ポンド(約0.9キロ)重く設定されたウェイトは、白井義男とファイティング原田に並ぶ連続4回の防衛に成功して勢いを増す西城が、普段調整している126ポンド(約57.16キロ/フェザー級リミット上限)より6ポンド(約2.72キロ)も重い。
格下の無名選手ならともかく、5連続防衛の国内最多記録(当時)を更新中の小林は、階級も含めて格上とみなされていた。戦前の勝敗予想も、当然のことながら小林有利に傾く。
ただし、取り沙汰されたのは、もっぱら防衛回数と戦績を天秤にかけた実績と経験値の差であり、132ポンド契約に関する議論、不公平ではないかとの論争は皆無だったと記憶する。
ウェイト・ハンディ戦と言っても過言ではないマッチメイクは、今にして思えば、西城に取ってかなりの負担になった筈だが、おそらく西城本人を筆頭に、前景気を煽るメディアは勿論、ファンと関係者の誰もが気にしていなかった。
これには説明可能な理由がある。昭和(20世紀)のプロボクシングでは、1階級どころか、2~3階級異なる者同士の対戦でも当たり前のように組まれることがあり、しかも珍しいことではなかった。これは洋の東西を問わない。
キツい減量が多少なりとも楽になることで、西城のコンディショニングに寄与するとの楽観論さえ囁かれたのは、階級が上の小林(168センチ)より、西城(171センチ)の方が身長が高くリーチも長かったことが少なからず影響した。
胴が長い分(失礼)、重心が低く安定感に満ちた、いかにも日本人らしい体型の小林に対して、西城は日本人離れした足の長さ,スタイルの良さが売りで、なにしろ格好良かったのである。
その頃は特別に意識していた訳ではないけれど(それが日常で当たり前だったから)、当日計量も有形無形に作用していたのは確かだと思う。
読売直系の超大物、”ミスター(ジャイアンツ=プロ野球)”長嶋茂雄をゲストに招いた日テレの実況及び解説席には、小林が実の弟のように可愛がっていた大場政夫(現役フライ級王者)も呼ばれていたが、けっして自分から発言しない。実況担当の芦沢アナから何か聞かれれば答えるが、短く当たり障りの無い内容で切り上げる。西城寄りのバイアスは明々白々。
業界のタブーを打ち破って大き過ぎる賭けに出る以上、日テレがカメラ映えのする西城に勝たせたいと考えるのは止むを得ない面もある。
両雄に共通する対戦相手を媒介とした比較も、西城の勝利に期待をつないだ。
その相手とは、西城が初防衛戦(1969年2月9日/日本武道館)で3-0の判定に退けたベネズエラのペドロ・ゴメス。1966年の春から夏にかけて行った北中米遠征の最中、小林はゴメスの地元カラカスで拳を交えており、7回TKO負けを喫している。
127ポンドの契約ウェイト(おそらく)を考慮する必要もあれば、試合映像が現存せず、客観的かつ詳しい試合内容と状況が分からない為、何1つ断定的なことは言えないものの、2度倒された小林がレフェリー・ストップで負けたと伝えられており、西城にとって明るい材料には違いない。
解説を任された海老原博幸(言わずと知れた協栄OB)は、この年の1月に引退。3階級制覇に再び失敗して、26歳の若さでリングを去ったファイティング原田と歩調を合わせるかのごとく、29歳でリングを去った”カミソリ・パンチ”も、西城推しの空気をおもんばかり(?)、言葉のキレと破壊力はピーク時の左ストレートには程遠かった。

左から:解説の海老原博幸,大場政夫,長嶋茂雄,芦沢俊美アナウンサー(実況)
本番当日の計量は、西城が130ポンド3/4(約59.3キロ)、対する小林は、131ポンド1/4(約59.5キロ)でクリア。計量時の体重差は、200グラムをほんの少し越える程度でしかない。ただし、平常時に130ポンドを基準に仕上げる小林と、126ポンドに合わせる西城のフィジカルには自ずと開きがある。
”水澄まし”と形容された流麗なフットワークを最大の武器にする西城は、オーソドックス・スタイルのアウトボックスが基本で、痩身ゆえに線が細く見えるのが常だった。前日計量+リバウンドの効用が普及浸透した今日とは違い、当日計量だったから当然と言ってしまえばそれまでになってしまう。
フェザー級のリミット(126ポンド:約57.16キロ)より、4ポンド3/4(約1.84キロ)重い調整の効果はあり、普段に比べれば上半身の厚みが増してはいたが、もともと1発の破壊力には縁が薄く、危険な距離で気迫のこもった強打を応酬し合うも、西城のパンチは小林に脅威を与えるまでには至らない。
そして小林もまた、十八番の右クロスは最良のタイミングで火を噴かず、決定機を創出できなかったのはお互い様。僅少差の2-1で割れたオフィシャル・スコアについて、解説の海老原が「引き分けでいい」と、あくまで協栄OBの立場を崩さず感想を述べていたが、多くの西城ファンも異口同音に残念がっていた。
◎試合映像:小林 10回判定(2-1) 西城
1970年12月3日/日大講堂(旧両国国技館)/132ポンド契約10回戦
オフィシャル・スコア:主審ニッキー・ポップ:48-46(小),副審手崎弘行:49-46(小),副審森田健:48-49(西)
※主審のポップは日本で活動した米国人審判
ttps://www.youtube.com/watch?v=0uwHFus2fQc
リング・オフィシャルは主審も採点に加わる3人制で、10点ではなく5点減点法(5点×10R=50点満点)での運用。振り分け前提の10ポイント・マスト・システムは影も形も無く、プロのファイトにペース・ポイント(リング・ジェネラルシップ)など以ての外。
10-9,5-4のリードを引き寄せる為には、誰の目にも明らかなダメージを伴うクリーンヒットが必要となり、後退しながら軽めのジャブをポンポン当てるだけでラウンドを取ることは叶わず、微妙なラウンドはすべて5-5,10-10の互角になる。
今となってはイーブンの連発がいいとも思わないけれど、ジャブと軽打を重視する余りタッチとヒットの区別をつけられなくなってしまい、後からどうとでもへ理屈をこね回すことが可能な曖昧模糊としたペース・ポイントに、明白なダメージを与えたクリーンヒットと等価値(1ポイント)を与えるのはいかがなものか。
アグレッシブネス(技術の裏づけと手数を伴った前進)の全否定と言っていい「ラスベガス・ディシジョン(現代アメリカのスタンダード=変化の兆しはある)」もまた、本来あるべきプロのスコアリングからは程遠い。
◎管理人KEIのスコア

昔書いていた観戦メモを引っ張り出して(残っているメモのすべてをテキストファイル化できていない)確認してみると、我ながらまずまずちゃんと見ていたなと少し安堵した。記事を書くに当たって映像をフル・ラウンズ見直し、現在の振り分けマストで採点もやり直してみたが、試合運びに長けた小林の巧さ(狡猾)がやはり一枚上。
拮抗したラウンドが続いてはいるが、一貫して試合を作りペースを掌握しているのはキャリアに優る小林。最終10ラウンドを西城に振ったのは、バッティングで右の瞼をカットした小林のクリンチワークが目立った為で、闘志を奮い立たせて攻め続ける西城のアグレッシブネスに応えてあげたくなった。
両雄ともに疲労が隠せない苦しい状況の中、より疲弊していたのは1階級下の西城。キャッチウェイトのノンタイトルは規定の路線にしても、東洋タイトルと同じ12回戦でやりそうなところを、どちらの意向で10回戦になったのかはわからないが、西城の消耗ぶりを見るにつけ、12回戦にしなかったのは大正解だとあらためて実感する。
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