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命あるうちに - 静岡地裁が袴田さんに無罪判決 -

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■検察は控訴の断念を - Chapter 5

早ければ、今日明日にも検察が態度を明らかにするかもしれない。控訴をするにしてもしないにしても、キリの良いところまで記事のアップを続けようと思う。



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◎「袴田事件」とボクシング界の主な動き - 波紋を呼んだドキュメンタリー

1992年2月3日、「袴田事件」に関する、初と言っていい本格的なTVドキュメンタリーが放送される。製作したのは日本テレビで、1970年から続く「NNNドキュメント」という番組で採り上げられた。

「プロボクサーは本当に四人を殺したのか ~袴田事件の謎を追う~」

メインとサブどちらのタイトルも、詩的な表現を排して、直截で分かり易い簡潔な言葉だけでまとめたのは、「袴田事件」は世間の関心事では無かった為だと推察するが、真夜中の放送(確か0時丁度だったと思う)だったことも、まったく無関係ではないのかもしれない。

高杉の丁寧な取材風景をメインに、郡司と金平も登場する。「救う会」が全面的に協力したと言うべきか、それとも高杉の方から企画を持ち込んだのか。いずれにしても、この放送をきっかけに、日テレはニュースの特集枠と報道関係の幾つかの番組で、継続的に何本か放送を行い、テレビ朝日も1本だけだったが後に続く。

そして何よりも、高杉の取材と弁護団(と支援団体)による検証を収録して、裁判の中でも問題視され続けた警察の捜査が抱える著しい矛盾を、あらためて明らかにしたという点で、大いに意味と意義のある放送だった。

動画配信サービスの「Hulu」で、過去の放送分も含めて「NNNドキュメント」の視聴が可能になっているが、残念ながらこの回は含まれていない。もしかしたら、ビデオではなくフィルム収録で、再利用されて既に元の映像が無くなっているのかもしれないが、可能ならば今こそ再放送して欲しい番組である。

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◎高杉のインタビュー
<1>医師:山下英秋
医師:山下英秋
※被害者橋本専務一家4名のうち専務夫人と長男2名のご遺体を検案

凶器とされたくり小刀(木工用の小型ナイフ)も、弁護団は捏造された証拠だと主張している。そもそも人を4人も刺殺することは不可能だとする弁護団と、間違いなく凶器だとする検察側が激しく対立した。

小刀のサイズと傷口の大きさが一致しないことや、次女の肋骨を切断して肺と心臓を貫通した上、背骨にまで達した致命傷を与えることの可否等々、ご遺体を検案した医師には確認したいことがヤマほどある。

次女の傷の深さに関する疑念について、「鍛え上げたプロボクサーだからやれた。確かに大人の男であっても、常人には難しい犯行だったかもしれない。そうであるからこそ、くり小刀は袴田の犯人性を裏付けしている」と、検察と警察は袴田さんの犯行だと強弁した。

ところが映像では、供述調書と遺体検案書の矛盾点を問うだけに止まっている。被害者となった一家4人の遺体に残された刺し傷の総数47ヶ所に対して、致命傷とされる深い傷が5ヶ所と少なく、残りの42ヶ所は、胸と腕を中心に軽く小突いたような浅く小さい傷ばかりだった。

「激しく抵抗する家族4人を、逆上した袴田が力尽くで滅多刺しにした」とする供述内容と、実際のご遺体の状況が著しく矛盾するのではないかと、その一点しか聞いていない。

時間も1分程度なので、会話の大半は編集でカットされたと思われるが、取材に応じた山下医師は、議論の主体となる次女の検案を行っておらず、高杉が期待していた言質を取ることがそもそも難しいと、事前に判断していたとも考えられる。

「(供述と傷の不整合について)少し異常だと思う。いかがお考えになりますか?」と問う高杉に対して、山下医師は微笑しながら「そう思いますね」と同意したが、すぐに「そういう気がする」と続けて曖昧にぼかす。

くり小刀と鞘(さや)
※写真上:凶器(?)のくり小刀(刃渡り12センチ/刃の根本部分の幅2.7センチ)
※写真下:犯行当日袴田さんが着ていた合羽のポケットから発見された(?)小刀の鞘(さや)

◎【袴田事件】再審公判2回目 弁護側「警察の証拠は不自然」 雨合羽の写真や凶器と傷口の深さなど
2023年11月10日/テレビ静岡ニュース



さらに高杉は、袴田さんの無傷の拳にも着目している。人を殺傷する為に作られたナイフではないから、小刀には「鍔(つば)」が付いていない。そして証拠写真を見れば一目瞭然だが、小刀のグリップ(柄)部分がむき出しになっている(握る手を保護する為の柄が無い)、

この状態で、4人の人間に47ヶ所の刺し傷を作り、そのうち1人に肋骨を切断して肺と心臓を貫き、背骨まで達する致命傷を負わせたら、犯人の拳や掌が無傷で済むなんてことが有り得るのか。

警察の捜査では、最初に殺害されたことになっている橋本専務(被害者一家の主)は、大柄な体躯の持ち主だったとのことで、供述では、元プロボクサーの袴田さんが思い切り殴ったことになっている。パンチで弱らせてから、くり小刀で殺害したというストーリーなのだが、あらためて述べるまでもなく、力一杯専務を殴りつけた袴田さんの両拳は、素手(ベアナックル)だったと考えるのが妥当だ。

ボクシング・ファンでもあった高杉は、「そんなことをすれば、袴田さんの拳も折れたりするんじゃないのか?」と考え、「救う会」の金平が会長を務める協栄ジムを訪れ、確認する場面が収録されている。

対応したのは、引退してトレーナーに転身していた古口哲(こぐち・さとし/アマ61連勝のトップ・エリート/プロでは大成できずに終わる)で、ボクサーならではの視点から以下の通り答えた。

「バンテージや包帯を巻いていれば(しっかり保護しているならまだしも)、怪我は防げるかもしれないが、ボクサーが素手で力一杯(人の顔や頭部を)殴ったら、間違いなく拳を骨折する。(折らないまでも)ヒビが入る」と、やはり無傷では済まない筈だと述べた。


がしかし、警察が凶器と断定したくり小刀を巡る最大の疑問は、小刀から袴田さんの指紋が発見されていないことだ。しかも、指紋はご遺体(衣服等)と殺害現場からも採取されなかった。一般的に考えられる状況を類推すると、袴田さんが指紋を隠す為に、手袋をして犯行に及んだということになる。

バンデージを巻いて厚手の手袋をすれば、拳の怪我は防止できるのではないかと、そうした推理も不可能ではないが、殺害現場に袴田さんの物と思しき遺留品は皆無で、その後の捜査でも、バンテージと手袋の類は見つかっていない。

無論、有罪を立証する決定打,フィニッシュ・ブローとなった「5点の衣類」にも含まれていなかった。「焼却したのでは?」と、これもまたごく自然な発想が脳裏に浮かぶが、ならば「5点の衣類」もさっさと燃やしている筈である。

味噌を出荷する時期になれば、どうしたってタンクは空になる。遅かれ早かれ発見されることが分かり切っているのに、わざわざタンクの中に決定的な証拠を隠したりするだろうか?。とにかく、限られた物証を巡る諸々は、辻褄の合わないことばかりなのだ。

「救う会」の発起人として、ボクシング界における初期の支援活動をリードした金平と郡司の姿もあるが、ボクシングを取材する側だった郡司と、メイン・イベンターとして袴田さんとともにフィリピンで戦った勝又行雄が、現役時代の袴田さんについて語り、「彼を知る者なら、誰もが無罪を信じているに違いない」と結んでいる。

金平と郡司
※金平正紀(協栄ジム会長)と郡司信夫

古口と勝又
※写真左:古口哲/写真右:勝又行雄


DNA鑑定が影も形もなかった昭和30~40年代、犯罪捜査における最大の物証だった指紋を発見できなかったことが、かつてない規模の証拠捏造へと特捜本部を暴走させた。そう考えるのは、むしろごく自然な流れではないだろうか。

くり小刀には、まだまだ言及すべきポイントがたくさんあるが、番組に合わせて一旦ここまで。


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<2>刃物店店主
刃物店の女性店主と高杉
※女性店主とインタビューを行う高杉

続いて高杉が訪れたのは、袴田さんがくり小刀を買ったとされる刃物店。事件当時、捜査員の聴取に協力した女性店主が、高杉の取材に直接応じている。

聞き込みにやって来た捜査員は、「あなたの店で小刀を買った犯人が書いた地図だ」と言いながら(明らかな誘導)、持参した手書きの地図を店主に見せた。そして、袴田さんを含む十数枚の顔写真を見せられ、袴田さんの顔に見覚えがあると答えている。

指紋という決定的な物証が無い(極めて重要)中、店主の証言は凶器の入手を裏づる決め手となり、有罪の立証に大きな比重を占めることになったが、法廷での証言はかなり曖昧なものだった。

◎検察官の尋問より
(1)店で袴田さんを見たのは捜査員が聞き込みに来た頃より2~3ヶ月前ぐらい(のような記憶)
※検察官が「3~4月頃という感じですか」とあらためて確認・同意
(2)販売の有無について「何か売ったような記憶はある」
(3)販売した商品がくり小刀だったかどうかについて「全然覚えていない」

◎弁護人の尋問より
(1)くり小刀を13本販売(※後述)しているが購入客の(顔の)記憶について「1本(1人)も記憶にない」
(2)くり小刀を捜査員が見せた顔写真の人物が買ったという明確な記憶が「あるわけではない」
(3)弁護側が用意した袴田さんの顔写真を見せても「(明確に小刀の購入客が袴田さんかどうかまでは)わからなかった」
(4)来店客の顔を逐一全部は「覚えていない(写真を見せられても確信を持った照合は難しい)」
(5)袴田さんの場合「(捜査員が持参した)写真を見たら偶然その顔に見覚えがあった」

刃物店の手書き地図
※捜査員が持参した手書き地図

高杉の問いに対して、「(捜査員が見せた十数枚の顔写真の中に)見覚えのある来店客はいなかった」と店主は回答。1審当時の証言を自ら翻した。

高杉:「十数枚の写真の中に、お母さんが覚えている人物はおられましたか?」

店主:「いなかったです。」

高杉:「どの写真を見ても、まったく見覚えが無かった?」

店主:「見覚えは無かった・・・んですね・・・」

高杉:「見覚えはまったく無かったんですね?」

店主:無言で頷く


「重い口を開いた」とナレーションが入っているが、店主が思わず口ごもったのは、「見覚えが無かったんですね」と認めた時だけで、実際に話したうちのどのくらいがカットされたのかはわからないが、「いなかったです」と答えた場面も含めて、放送された他の会話はスムーズに喋っている。

店主が口ごもった瞬間、偽りの証言をしてしまったことに、ずっと後ろめたさを抱き続けていたことが垣間見えて、視聴しているこちらも辛くなってしまう。

「犯人が書いたんだから間違いなかろうと(捜査員が言った)。私も犯人がそう言うなら間違いないでしょうぐらいで。その時代はねえ・・・」

「今になれば、果たして犯人が書いたもんだか・・。地図は書こうと思えば警察だって書けますからねえ・・。」

「でも、今はそう思ってても、その時点では警察は絶対・・。(高杉が”正しい”と合いの手を入れ,間髪を入れず)正しいと思ってたから・・・。(高杉の相槌に頷きながら)思ってたからねえ、そう(疑いを差し挟む)感じてなかったですね・・。正しいと思ってたから・・。」

虚偽の証言は不可抗力だと、弁明半ばに話す女性店主を、高杉は気持ちのこもった優しい眼差しで見つめ直しながら、「思ってたんですね。なるほど。はい・・。」と、難しい立場を押して事実を述べた店主へのフォローを忘れなかった。

また、以下はインタビューではなくナレーションによる説明だが、捜査員が聞き込みに店を訪問したのは、事件が起きてからおよそ半月後の1966(昭和41)年7月中旬頃。袴田さんが逮捕されるのが8月18日だから、特捜本部による取調べが始まる1ヶ月前になる。

上述した法廷での(偽)証言(袴田さんが店に買いに来た時期=捜査員が来た時から2~3ヶ月前=3~4月頃:検察官尋問)とも一致しているが、取調べを受けて書いたとされる地図には、袴田さんの署名とともに「9月6日」の日付が付されており、時系列が明らかにおかしい。

店主捜査記録・袴田さん署名日付
※写真左:刃物店店主の証言記録
※写真右:手書き地図に記された袴田さんの署名と日付


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◎テレビカメラの前で偽証を告白(2014年)

袴田さんが釈放された2014年、SBSの取材を受けた(元)女性店主は、病床に臥せりながら「本当は見ていないんです」と、偽証したことを告白した。

さらに顔と名前を出したご子息の高橋国明氏は、法廷から帰宅した母が、「証言の仕方を教えて貰った」と話したことを鮮明に記憶していて、「(検察官による)誘導」の可能性を感じたと、重要な事実も明らかにしている。

◎原形のまま残っていることは極めて不自然」検証「袴田事件」(1)疑惑の証拠 9.26再審判決
2024年9月20日/SBSnews6



あらためて唖然としてしまうのは、うろ覚えに近い店主の曖昧な証言を、地裁が証拠認定してしまったことだ。この裁判で左陪席に着いた熊本典道(くまもと・のりみち)元裁判官以外のお二人は、何1つ疑問を感じなかったのだろうか。

これを警察による誘導と言わずして、何と表せばいいのか。手書き地図に記された日付と聞き込みした日付の相違(時系列の食い違い)は、はっきり捏造と言い切れる。1審の裁判長と右陪席は、警察と検察に寄り過ぎていて背筋に怖気が走る。

Chapter 3」で概要を説明した通り、1950(昭和20~30)年代の静岡県は、「昭和の拷問王(冤罪王)」と呼ばれた県警本部のエース、紅林麻雄(くればやし・あさお)警部補が主導した冤罪事件が続発していた。

なおかつ1954(昭和29)年には、「戦後4大冤罪事件」の「島田事件(幼女誘拐殺人/静岡県島田市)」が発生して、「袴田事件」が起きた1966(昭和41)年当時、無実を訴える弁護団が繰り返し再審請求を行い、静岡県警に対するマスコミの論調は厳しく、辛らつな追求姿勢を取らざるを得ない。

番組のナレーションが言及している通り、指紋を検出できなかった為、自白と状況証拠に頼らざるを得ない弱みに、マスコミからのプレッシャーが特捜本部の焦りを加速させたとの推論には、率直に説得力を感じる。

「島田事件」の概要については、「Chapter 1」の後段をご覧いただけると有り難いが、これらの冤罪事件を引き起こした直接的かつ根源的な原因が、紅林警部補に象徴される警察の傲岸不遜極まる捜査手法と、それを追認するだけの検察にあるのは確かだ。

そして同時に、静岡地裁の酷さも目に余る。


※Chapter 6 へ


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◎女性店主のご子息による新たな証言

今年6月30日の支援者集会に、女性(元)店主のご子息が出席。問題のくり小刀について、新たな事実を証言した。

(1)店舗で取り扱っていたくり小刀は、刃渡り13.5センチ(135ミリ)1種類のみ。
(2)現場で発見された刃渡り12センチ(120ミリ)のくり小刀は、事件当時から一度も取り扱ったことがない。

1審に出廷した女性店主に対して、弁護人が行った尋問の中で、くり小刀を13本販売(期間=何時~何時まで=は不明)したとあるが、ご子息の証言通りなら、13本はすべて刃渡り13.5センチの商品だったことになる。

◎袴田事件で重大証言「その刃物は扱っていない」…凶器のくり小刀を販売したとされる店の元従業員 静岡・清水区
2024年6月30日/静岡朝日テレビニュース

※名前を出しているにも拘らず「元従業員」になっている理由と経緯は不明

昨(2023)年、元店主の母がお亡くなりになって、喪が明けるのを待っていたと考えるのが筋にはなるが、再審が結審した5月22日以降、丁度良い機会がこの日だったのだろう。

ただし、当事者の辛さや苦しみを直接知る由がない者としては、「もっと早く証言して欲しかった」との思いがどうしても残る。警察と検察、そして司法が犯した罪は本当に重大で、耳にタコではあるけれど、取り返しがつかないことへの哀切に心が痛む。

命あるうちに - 静岡地裁が袴田さんに無罪判決 -

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■検察は控訴の断念を - Chapter 4

2014-05-19 Japan Boxing Memorial Day
※2014年5月19日「ボクシングの日」記念イベント/左から:袴田ひで子さん(支援活動のシンボル),釈放(仮)された無実の死刑囚 袴田巌さん(4月7日に贈呈されたWBC名誉チャンピオンベルトを巻いて),大橋秀行JPBA会長(当時)

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◎「袴田事件」とボクシング界の主な動き

最高裁が控訴を棄却(1980=昭和55年11月19日/弁護団による判決訂正申立の棄却=同年12月12日)して、袴田さんの死刑が確定してから、間もなく44年が経つ。

冤罪の可能性を感じたノンフィクション・ライターの高杉晋吾氏(以下敬称略)が、手弁当で事件を追い始めて、「現代の眼(現代評論社/廃刊)」という雑誌に最初の寄稿を行ったのが1979(昭和54)年。取材を始めたきっかけは、取調べを受ける袴田さんの様子を伝える新聞記事だったという。

「嘘つきの袴田が、実際には行ったことのないフィリピン遠征の話をして、捜査官が呆れている。」


気になった高杉が袴田さんのレコードを調べてみると、確かにフィリピンで戦っていた。デビュー3年目の1961(昭和36)年4月19日、120ポンドの契約ウェイトで、マルチン・ダヴィドという地元の選手に10回判定負け。

ダヴィドは袴田戦から5ヶ月後の同年9月、同胞のバンタム級トップ,ジョニー・ハミト(1963年5月エデル・ジョフレの世界王座に挑戦/11回終了TKO負け)を12回判定に破り、同級のフィリピン王者になっている。

翌1962年1月には、来日して米倉健司(健志)が保持していた東洋王座に挑み、負けはしたものの判定まで粘っているから、かなりの実力者だったと思われる。

開催地は首都マニラで、スペインに統治されていた19世紀後半、反植民地主義を掲げて独立運動を提起し、銃殺刑によって命を奪われた英雄ホセ・リサールの名前を冠した「リサール・メモリアル・スポーツ・コンプレックス」で行われた。

袴田さんが所属していた不二拳(渡辺勇次郎の高弟,岡本不二が愛弟子のピストン堀口を連れて日具を飛び出し設立したジム)の大先輩で、後に東洋J・ライト級王者となる勝又行雄をメイン(10回判定勝ち)に、帝拳ジムの福地竜吉(後の日本ランカー/ベテランの米国人選手との8回戦で初回KO負け)も出場している。

※Boxrec - events
https://boxrec.com/en/event/167955


時は1970年代、一般向けのインターネット回線やBoxrecなどのWEBサービスは夢物語の世界で、JBC(日本ボクシング・コミッション)の事務局に直接問い合わせたか、「ボクシング年鑑(JBCが毎年発行する公式レコードブック)」で調べたのだろう。

「妙だな・・・」

逮捕した被疑者がとんでもないホラ吹きだと、取材に来た地元紙の記者(おそらくは顔見知りの)に吹聴して、よろしくない印象操作を狙った記事を書かせている。「何かウラがあるぞ」と、筋金の入ったルポライターの第六感が鋭く反応した。

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そして高杉の労作を偶然手に取ったのが、”リングサイドの母”と呼ばれたボクシング記者の松永喜久(まつなが・きく)である。

第二次大戦後に日本ボクシング界初の女性プロモーターとして活動した後、ベースボール・マガジンの記者に転身。最盛期を過ぎて久しいとは言え、野球と大相撲に肩を並べる人気を辛うじて維持していた当時においても、ボクシングを専門に取材する女性記者は松永1人しかいない。

帝拳ジムを切り盛りする名物マネージャー,長野ハルとともに、2大女傑として知られていた松永が、「何かできることはないか」と相談を持ちかけたのが郡司信夫(ぐんじ・のぶお)だった。

日本ボクシング界の歴史の生き証人,生き字引にして、我が国唯一のヒストリアン(ボクシング史家)であり、取材を通じて現役時代の袴田さんを良く覚えていた郡司は、理不尽かつ無慈悲な最高裁の特別抗告棄却が下るや否や、高杉を中心にして「無実のプロボクサー袴田巌を救う会」を設立して支援に乗り出す(1980年11月19日)。
※後に改称:「無実の死刑囚・元プロボクサー袴田巌を救う会

熱狂的なボクシング・ファンでもあった寺山修司が協力を名乗り出て、マスコミへの広報活動を引き受けると、川上林成(しげまさ),関光徳,金平正紀の現役会長3名(当時)が、あくまで個人的な有志としてではあったが、郡司と松永の呼びかけに応じてボクシング界から馳せ参じた。


◎「救う会」創設メンバー
<1>高杉晋吾(1933年3月18日~現在91歳)/ノンフィクション・ライター
<2>郡司信夫(1908年10月1日~1999年2月11日)/ボクシング史家,評論家,元記者,元解説者
<3>松永喜久(1912年8月5日~1998年11月1日)/ボクシング記者,スポーツ・ライター
<4>寺山修司(1935年12月10日~1983年5月4日)/歌人.劇作家(劇団「天井桟敷」主宰)

創設メンバー
※左から:高杉晋吾,郡司信夫,松永喜久(いずれも1991~92年頃)

寺山修司(1979年頃)
※寺山修司(1979年頃)

<5>金平正紀(1934年2月10日~1999年3月26日)/協栄ジム会長(元プロボクサー),海老原博幸,西城正三,具志堅用高を始めとする世界王者8名(当時の国内最多)を輩出
<6>関光徳(1941年1月4日~2008年6月6日)/セキジム会長,元東洋フェザー級王者(元同級世界1位)
<7>川上林成(しげまさ:1939年8月29日~2016年6月30日)/新和川上ジム会長,元東洋J・ミドル級王者(元世界J・ウェルター級1位),元アマ全日本王者

創設メンバー
※左から:金平正紀(90年代前半),関光徳(2000年代前半),川上林成(写真は現役時代:1960年代前半)


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1982(昭和56)年4月、弁護団が第1次再審請求を申し立て。そして翌1983(昭和58年)7月15日、遠く離れた九州で一筋の光明が射す。実に6度目の請求で開始された「免田事件」の再審で、熊本地裁が無罪を判決。期限前日の7月28日、検察が控訴を断念。事件発生から34年6ヶ月を経て、死刑が確定していた免田栄元受刑者が無罪を勝ち取る。

最大の誤算だったのは、支援組織を立ち上げた直後の1983(昭和58)年に、「救う会」のシンボルでもあった寺山が急逝したことだろう。宿痾となった肝硬変が再発して、入院療養を余儀なくされた寺山は、回復することなく腹膜炎を併発。47歳の若さで返らぬ人となった。

支援に積極的とは言えなかったボクシング界も、郡司らの再三の声掛けに折れる形で、JPBA(日本プロボクシング協会/ジムの会長が参集した業界内組織)が重い腰を上げたのが、1991(平成3)年11月11日。

「A級トーナメント(旧称)」が行われた後楽園ホールのリング上で、当時のファイティング原田協会長が、用意された原稿を読みながらではあったが、観戦に訪れたファンに応援を呼びかけている。「救う会」の結成から、既に丸10年を経過していた。

1991-11-11 F-harada
※支援呼びかけの声明文を読み上げるファイティング原田(1991年11月11日/後楽園ホール)


「救う会」では、1984年に獄中で洗礼を受けた袴田さんの要望を受け、キリスト教関係者(カトリック)への支援の働きかけが始まり、徐々に拡がって行く間に、一家4人でアマチュアのコーラスグループを作り、80年代半ば頃から世界各地で催される人権集会で歌い続ける門間正輝(もんま・まさき)が、高杉に替わって代表に就任(1992年1月)。

72歳になる今も門間はその任に留まり、副代表となった幸枝(さちえ)夫人とともに、支援活動を継続している。

■門間正輝:1992年1月~「救う会」代表
■門間幸枝:同じく副代表
門間夫妻
※左:門間正輝(2023年)/右:門間幸枝(2020年)


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◎再審に向けた過酷な闘いは続く

同年10月、「免田事件」の弁護人を務めて、再審開始に貢献した安倍治夫弁護士が、袴田さんの弁護団(日弁連)に加わる。安倍と連絡を取り続けて弁護団に仲介したのが、「救う会」の創設に加わった金平正紀(協栄ジム会長:当時)だった。

”ヤメ検”の安倍は、法務省で刑事局の参事官を務めていた時、「昭和の岩窟王事件(大正2年に名古屋で起きた強盗殺人事件)」で冤罪を訴え続けた死刑囚,吉田石松に、後に再審の弁護を行う日弁連を紹介(吉田の仮出所後)しただけでなく、検事を辞した後の第6次再審請求に自らも乗り込み、吉田の逆転無罪を決定付けるアリバイ証人の居場所を突き止め、吉田を救った人権派弁護士としてしても名を上げる。

吉田は1963年2月、名古屋高裁で無罪判決を勝ち取り、確定後の同年12月1日に肺炎で亡くなった(享年84歳)。常識に囚われない言動で「赤い検事」と呼ばれた安倍は、「白鳥事件(1952年に札幌市内で発生した警察官射殺事件/日本共産党の暴力革命を象徴する事件の1つ)」でも、関係者の1人から重要な証言を引き出している。


70年代に勃発した「欠陥車問題」にも深く関わり、自動車メーカーに勤務していた松田文雄(「欠陥車」を造語したとされる)と一緒に、「日本自動車ユーザーユニオン」なる組織を立ち上げ、消費者運動の旗を振り上げた。

国内自動車メーカー各社の欠陥を指摘するだけでは済まず、なんと本田宗一郎を殺人罪(未必の故意)で告訴してまたもや勇名を馳せたが、ホンダ(本田技研工業)との交渉の過程で、16億円の損害賠償金を要求。これが恐喝に当たると、ホンダから逆告訴され、執行猶予付きの有罪判決が確定。弁護士資格を一度はく奪されている。

昭和天皇の崩御にともなう恩赦(1990年)のおかげで、失くした資格を回復する僥倖に恵まれ、70歳を超えてから、金平に請われて袴田さんの支援活動に力を貸すことになった。

常識と旧弊に囚われない大胆な言動と、冤罪事件で数々の実績を上げた安倍の手腕と経験に「救う会」は大きな期待を寄せたが、再審の是非を検討する三者協議(静岡地裁・静岡地検・弁護団)に列席した際、新たな証拠を提出しようとして、弁護団の小倉博事務局長と対立。

1991年10月23日に行われた協議で、新証拠とともに「5つの新しい争点」を持ち出し、その中には「5点の衣類」に付着した血痕のDNA鑑定も含まれていた。当初より検察と裁判所はDNA鑑定には否定的で、仮にDNAを上手く検出できたとしても、経年劣化で正確な鑑定が難しいとの立場を取る。

日弁連の弁護団は、科学的根拠が不確かとされかねない証拠の提出に待ったをかけた。みすみす検察に付け入る隙を与えることになり、裁判所の心証も悪くしかねないとの懸念が付きまとう。しっかり裏付けの取れる証拠と検証で、堅実かつ慎重に戦うべきとの主張が弁護団の大勢で、事務局長の小倉らは、安倍の考えについて、再審請求にはむしろマイナスに働くと考えた。

「救う会」は、金平の肝いりで弁護団入りを承諾した安倍をサポート。「新証拠提出」に協力しつつ、門間夫妻とカトリック教会のツテを活かし、国連の人権小委員会を中心にしたロビー活動を開始する。


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■検察は控訴の断念を - Chapter 3

◎「袴田事件」は起こるべくして起こった・・・?

静岡県内で起きた重大事件における冤罪は、「島田事件」と「袴田事件」の2件に止まらない。以下の3件が、後に違法な捜査と取調べが発覚する県警の著名な刑事とともに、公の知るところとなった。

<1>幸浦事件(さちうらじけん/磐田郡幸浦村:現在の袋井市)
・1948(昭和23)年11月29日に起きた一家4人の失踪事件に端を発した強盗殺人事件
・翌1948(昭和23)年2月12日に2名の被疑者A・Bを逮捕/同14日に被疑者C,20日に被疑者Dの計4名を逮捕
・1950(昭和25)年4月27日;静岡地裁が4名全員に有罪判決/A~Cの3名:死刑,D:懲役1年+罰金1,000円
・1951(昭和26)年5月8日:東京高裁にて被告人4名の控訴棄却
・1957(昭和32)年2月14日:最高裁が高裁差し戻し(有罪事由に重大な疑義を指摘)
・1959(昭和34)年2月28日:東京高裁にて全員に無罪判決
・1963(昭和38)年7月9日:最高裁が検察の上告を棄却/4名の無罪確定
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■取調べ
恫喝と自白の強要はもとより、手や耳に焼火箸を押し付けるなどの拷問が発覚。自白を記した供述調書は捜査員の勝手な作文で、4名の被疑者に力尽くで認めさせた。
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■無罪の決め手となった警察による自白の捏造
「秘密の暴露」でなければならない遺体の遺棄場所に、あらかじめ印が付けられていたことが差し戻し審で判明
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■捏造を主導した捜査員:紅林麻雄(くればやし・あさお)警部補
※静岡県警の刑事(事件当時:国家地方警察静岡県本部刑事課:旧警察法時代)
※1954(昭和29)年:新警察法の公布により都道府県警察へと改組


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<2>二俣事件(ふたまたじけん/磐田郡二俣町:現在の浜松市天竜区二俣町)
・1950(昭和25)年1月6日に発生した一家4人強盗殺人事件
・1950(昭和25)年2月23日:被疑者として18歳の少年を別件逮捕(窃盗)
・1950(昭和25)年12月27日:静岡地裁にて死刑判決
・1951(昭和26)年9月29日:東京高裁にて被告側上告棄却
・1953(昭和28)年11月27日:最高裁が原判決破棄
・1956(昭和31)年9月20日:静岡地裁にて逆転無罪判決
・1957(昭和32)年10月26日:東京高裁にて検察の上告棄却
※検察が控訴断念/無罪確定
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■暴力的な取調べと供述調書の捏造
本事件の捜査にも紅林麻雄警部補が当たり、拷問と自白の強要、強引な供述調書の作成が行われた。紅林は自らは手を下さず、部下に命じて拷問を行わせて自白を強要していた。
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■違法な取調べを内部告発した刑事への徹底した弾圧
紅林と一緒に捜査に加わっていた県警の山崎兵八(やまざき・ひょうはち)刑事が、読売新聞に紅林の違法な捜査と取調べを告発。さらに山崎は弁護側の証人として出廷し、紅林の違法行為とそれを容認する県警の悪しき体質について証言した。
県警は山崎を偽証罪で逮捕。検察による精神鑑定が行われ、担当した名古屋大学の乾憲男教授が「妄想性痴呆症」と診断。県警と検察に都合のいい鑑定結果が出るよう、県警内部で違法な薬物を山崎に注射した疑いが持たれ、幸いにも偽証罪は不起訴となったが、県警により懲戒解雇処分を受ける。
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■無実の根拠となった証拠
(1)被害者宅に残された犯人の指紋(とされる)と被疑者少年の指紋が不一致
(2)逮捕された少年の着衣・所持品と衣服から被害者一家の血痕未検出
(3)犯人の靴跡と推測された靴跡痕(27センチ)と少年の靴サイズ(24センチ)が不一致
(4)凶器(鋭利な刃物)の不所持,入手について不証明
(5)被害者の死亡推定時刻(23時),少年は父親が経営する中華そば店を手伝っていた(出前先のマージャン店主による証言有り)
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■真犯人の推定と紅林警部補の関与(犯人隠匿の可能性)
1997(平成9)年に事件の回想録(※)を出版した山崎元刑事は、著作の中で真犯人の可能性が高い人物を特定している(再捜査は行われず公訴時効成立)。この人物は、被害者一家が亡くなることで相応の利益を得ることができ、山崎の捜査に対して「犯人しか知り得ない事実(行方が確認できていなかった幼児について母親の下敷きになっていたと漏らす)」を話した他、紅林が当該人物から金銭を受け取っていたとの伝聞(情報源:紅林の部下)もあった。
※「現場刑事の告発-二俣事件の真相」:ふくろう書房/1997年12月

少年の無罪判決が出た後も、山崎元刑事は真犯人ではないかと疑った人物の監視を続けたという。7~8年にも及んだ監視について、地域住民が誰も気付かない筈がなく、この人物自身も疑われていることを承知していたとされる。


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<3>小島事件(おじまじけん/庵原郡小島村:現在の静岡市清水区=旧清水市)
・1950(昭和25)年5月10日に起きた強盗殺人事件(27歳の女性を斧で撲殺)
・1950(昭和25)年6月19日:27歳の男性を被疑者として逮捕
・1952(昭和27)年2月18日:静岡地裁にて無期懲役判決
・1956(昭和31)年9月13日:東京高裁にて被告側控訴棄却
・1958(昭和33)年6月13日:最高裁が高裁差し戻し(取調べと自白に重大な疑義を指摘)
・1959(昭和34)年12月2日:東京高裁にて逆転無罪判決
※検察が控訴断念/無罪確定
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■繰り返される紅林警部補の違法行為
この事件にも、主任の紅林を筆頭に県警本部から刑事が派遣され、確たる物証を得られないまま、自白に頼る粗暴拙速な捜査と拷問を前提とした取調べが行われた。12回に及ぶ公判と2度の現場検が行われた差し戻し審(裁判長が3名交代)で、東京高裁は上告審で認めた自白を含む供述調書の証拠採用をすべて取り消し、無期懲役の判決を破棄した。
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「幸浦事件」と「二俣事件」に続いて、三度び違法な手法を指摘された紅林は、「島田事件」でも同様の捜査手法を繰り返した。マスコミは紅林を「昭和の拷問王,冤罪王」と呼び、一斉に批判・糾弾する。流石の県警も放置する訳にはいかなくなり、所定の監察を行い二階級降格に該当する処分を下す。解雇されなかったことにむしろ驚くが、県警は手の内に置いておきたかったのかもしれない。
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■その後の紅林
大変な数の表彰を受け、県警本部のエースと自他共に認めていた紅林は、一転派出所勤務を命じられる。名刑事の評判も遅ればせながら地に落ち、監察官の詰問に対して、最後まで自分の非を認めなかった紅林も精神的に追い詰められ、1963(昭和38)年7月に警察を辞職。「幸浦事件」の無罪判決確定(7月9日付け)がきっかけになったとされるが、自宅にこもってアルコールに依存するようになり、2ヶ月後の9月16日に脳溢血でこの世を去る。まだ55歳の若さだった。

紅林の死から3年後に起きた「袴田事件」でも、紅林の部下だった県警の刑事が捜査の指揮に当たっている。分かり易す過ぎる証拠品の捏造や、拷問による自白の強要など、紅林の手法がそのまま踏襲されていることに慄然とする。


冤罪事件のもう1つの大きな問題点として指摘されるのが、真犯人の捜査である。面子に固執する警察と検察は、有罪判決を受けた受刑者を犯人と主張して譲らず再捜査を行わない。再審請求には膨大な時間を要する為、冤罪の高い可能性が明らかになったとしても、時効が成立した後で再捜査は不可能。

「袴田事件」と先例4件も例外ではなく、公訴時効が成立済み。いわゆる未解決事件として迷宮入り。真犯人は特定されず、野放しのままとなった。一部で取り沙汰された、被害者一家の長女(2014年3月28日自宅で死亡/享年67歳)を犯人とする説にも証拠がある訳ではなく、類推の域を出ない。


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カテゴリ:
■検察は控訴の断念を - Chapter 2

◎「袴田事件」経緯(概要)
●味噌製造会社の専務一家4人放火強盗殺人:夫婦2名,10代の次女と長男2名刺殺の上放火
■冤罪(未確定):袴田巌(はかまだ・いわお)
※2024(令和6)年10月現在存命:88歳
※逮捕時:30歳
■逮捕・身柄拘束~仮釈放:約47年7ヶ月(17,388日)
■死刑確定~仮釈放:約33年3ヶ月(12,158日)
■逮捕・身柄拘束~無罪判決:約58年1ヶ月(21,226日)
■逮捕・身柄拘束~無罪確定(見込み):約58年?ヶ月(21,23?日)
※検察の控訴期限:2024年10月10日(木)23時59分(判決の翌日から14日以内)
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◎事件発生~逮捕・起訴
(1)1966(昭和41)年6月30日:事件発生(静岡県清水市)
(2)1966(昭和41)年7月4日:【極微量の血痕が付着したパジャマを押収】
※清水署による味噌製造工場及び工場内従業員寮の捜索/従業員の元プロボクサー袴田巖さんの部屋から発見
(3)1966(昭和41)年8月18日:袴田さん逮捕/容疑:強盗殺人・放火(窃盗の余罪含む)
(4)1966(昭和41)年8月19日:特捜本部による取調べ開始(連日/10時間超)
(5)1966(昭和41)年8月20日:静岡地検に送検・取調べ継続
※袴田さんは一貫して犯行を否認
(6)1966(昭和41)年9月6日:犯行を自白(勾留期限3日前)
(7)1966(昭和41)年9月9日:起訴/容疑事実:住居侵入・強盗殺人・放火(窃盗は不起訴)
(8)1966(昭和41)年11月15日:第1回公判(静岡地裁)/袴田さんが起訴事実を全面否認
※以降一貫して犯行を否認・無実を主張

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◎公判中の新証拠発見~死刑確定
(1)1967(昭和42)年8月31日:【血染めの「5点の衣類」発見】
※味噌製造工場にある味噌1号タンク内より出荷作業中の従業員が発見
※袴田さんの実家にある箪笥から「5点の衣類」に含まれるズボンの切れ端を捜査員が発見・押収
【犯行時の着衣変更】
1)起訴事実:工場内の従業員寮で発見されたパジャマと合羽(凶器のクリ小刀を隠す為)を着用して犯行に及ぶ(自供)
2)検察による変更:新たに発見された「5点の衣類」を着用
3)既にこの時点で自供の信用性を喪失している
※「パジャマと合羽を着てやった」と袴田さん本人が供述する肉声が録音として残存/公開済み
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■第1次再審請求(1981(昭和56)年4月20日~)の過程で弁護団が同じ大きさの味噌タンクを作り検証実施
1)「5点の衣類」発見当時:味噌タンク内の味噌は80キロ~120キロあった(味噌製造会社の記録)
2)検証結果:80キロ~120キロの容量では「5点の衣類」を完全に隠すことができない
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■元捜査員の証言(2023年3月14日/メディアによる取材)
1)1966(昭和41)年7月4日の捜索時:当該味噌タンクの中には何も無かった(かなりの人数の捜査員がタンク内を覗き込んで確認)
2)新聞報道等で「5点の衣類」発見を知り驚いた(発見時:清水署から異動済み)
3)捜索時に見逃すことはまず有り得ない
4)「タンクに入れたのは袴田本人だと思っている」
※捜索から逮捕まで1ヶ月以上の期間があった
5)「犯人は袴田だと今でも信じている」
6)「味噌漬けの衣類が見つからなければ、証拠不十分で無罪になり控訴もできなかった(と思う)」
※上層部の指示に従って動いた所轄捜査員の率直な心情吐露/色々考えさせられる
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(2)1968(昭和43)年5月9日:死刑求刑(静岡地検:岩成重義検事)
(3)1968(昭和43)年5月23日:弁護人による最終弁論/無罪を主張(第31回公判)
(4)1968(昭和43)年9月11日:静岡地裁にて1審有罪判決(死刑/石見勝四裁判長)
1)自白を含む供述調書45通のうち44通の任意性を否定/1通のみ採用
2)採用された1通:検面調書(検事が作成した供述調書)
【現場捜査員が作成した員面調書はすべて不採用】
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(5)1976(昭和51)年5月18日:東京高裁が被告側控訴を棄却(横川敏雄裁判長)
(6)1980(昭和55)年11月19日:最高裁が被告側上告を棄却(宮崎梧一裁判長)
(7)1980(昭和55)年11月28日:被告側弁護団による判決訂正申立
(8)1980(昭和55)年12月10日:判決訂正申立棄却
(9)1980(昭和55)年12月12日:死刑確定

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◎第1次再審請求
(9)1981(昭和56)年4月20日:第1次再審請求申立
(10)1984(昭和59)年11月17日:三者協議開始(静岡地裁・静岡地検・弁護団)
(11)1993(平成5)年5月26日:三者協議終了(計14回)
(12)1994(平成6)年8月8日:静岡地裁にて第1次再審請求棄却(鈴木勝利裁判長)
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(13)1994(平成6)年8月12日:被告弁護団による即時抗告
(14))1994(平成6)年8月:「5点の衣類」に付着した血痕のDNA鑑定申請
(15)2000(平成)年7月:DNA鑑定不能の結果報告
(16)2004(平成16)年8月26日: 東京高裁にて即時抗告棄却(安廣文夫裁判長)
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(17)2004(平成16)年9月1日:被告弁護団による特別抗告


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(18)2007(平成19)年2月:【死刑判決を書いた元裁判官が無実を強く訴求】
第1審(1968(昭和43)年9月/静岡地裁)で判決文を記した熊本典道(くまもと・のりみち)元裁判官が守秘義務の禁を破り公の場で袴田さんの無実を訴える
(19)2007(平成19)年6月25日:再審を求める上申書を熊本氏自から最高裁に提出
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1)熊本氏は審理の過程で袴田さんに無実の心証を抱く
2)石見勝四裁判長と高井吉夫判事(右陪席)の2人が有罪を支持
3)最年少(当時27歳)だった熊本氏は「石見を説得できなかった」と涙ながらに述べた
4)1969年(昭和44年)の年明け(1審死刑判決からおよそ半年後と語っている)に裁判官を辞職し弁護士に転じる
※弁護士の仕事は順調に推移/良心の呵責に苛まれ続けて精神のバランスを崩しアルコールに依存,浮気を繰り返して2度の離婚を経験するなど私生活は荒み鬱病と肝硬変,パーキンソン病を発症
5)1991(平成3)年に事務所を畳み,司法修習の同期生を頼り鹿児島へ移住するがこの頃より体調がさらに悪化
※1996(平成8)年頃よりホームレスに近い生活に陥ったと告白(同期生の事務所は辞職)
6)2006(平成18)年に65歳の独身女性と内縁関係になり亡くなるまで一緒に暮らす(2010年頃より生活保護を受給)
7)2007(平成18)年06月11日:ブログ「裁判官の良心」開始
※2010年05月30日まで18件の記事を投稿(現在も公開中)
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8)2006(平成18)年6月25日:再審を求める陳述書を最高裁に提出
9)2008(平成20)年10月:国連本部(ニューヨーク)で行われたアムネスティのパネル・ディスカッションに参加
10)2008(平成20)年11月:ステージ3の前立腺癌が見つかる
11)2018(平成30)年1月9日:【約50年ぶりに袴田さんと対面】
※入院中の病院(福岡市内)を袴田さんとひで子さんが訪問/釈放される以前に東京拘置所に面会を申し込むも袴田さんの拘禁症状悪化により叶わなかった
12)2018(平成30)年2月:再審を求める陳述書を東京高裁に提出
13)2020(令和2)年11月11日:入院中の病院で逝去(享年83歳)
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(20)2008(平成20)年1月24日:JPBA(日本プロボクシング協会)がチャリティ・イベント「Free Hakamada Now!」を後楽園ホールで開催
1)JBC(日本ボクシング・コミッション)が袴田さんに名誉ライセンスを授与
2)最高裁に対する再審開始のアピールを目的に事件の解説や寸劇,元世界王者によるパネル・ディスカッション等がリング上で行われた
3)熊本元裁判官も参加
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(21)2008(平成20)年3月24日:【最高裁が弁護側特別抗告棄却(今井功裁判長)】
(22)弁護団は未開示の証拠について開示を請求し続けたが検察は頑なに拒否
1)再審における検察の証拠開示義務無し/裁判官による開示勧告可
2)検察による上告を可する現行法の規定とともに再審請求審を長期化させる直接的かつ最大の原因とされる
※袴田さんの弁護団や確定死刑囚の冤罪限らず、冤罪事件に関わる検察を除く法曹関係者が、刑訴法における再審を規定する迅速な法改正の必要性を訴え続けている。
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◎参考
<1>e-GOV 法令検索:刑事訴訟法 第四編 再審 第四百三十五条~第四百五十三条(全19条)
施行:1922(大正11)年改正
※以降「不利益再審の廃止」以外の改正無し
https://laws.e-gov.go.jp/law/323AC0000000131#Mp-Pa_4

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◎第2次再審請求
(1)2008(平成20)年4月25日:第2次再審請求申立(請求人:姉のひで子さん)
※袴田元受刑者には重度の拘禁反応が確認報告済み/意思疎通が困難と判断
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(2)2010(平成22)年4月20日:衆参両院議員による「袴田巌死刑囚救援議員連盟」設立(民主党政権下)
(3)2010(平成22)年8月24日:上記連盟による千葉景子法務大臣への死刑執行停止要請(長期拘留による心神喪失)
(4)2011(平成23)年1月27日:日本弁護士連合会による法務省への死刑執行停止及び医療機関での治療要請(長期拘留による妄想性障害等)
※刑事訴訟法第四百七十九条:「死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によつて執行を停止する。」
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◎参考
<1>e-GOV 法令検索:刑事訴訟法第四百七十九条(昭和二十三年法律第百三十一号)
施行:昭和24年1月1日
https://laws.e-gov.go.jp/law/323AC0000000131#Mp-Pa_7-Ch_1-At_479
<2>刑事訴訟法第四百七十九条に関する質問主意書(衆議院公式サイト)
2009(平成21)年2月5日 鈴木宗男議員提出
1)質問本文(質問第九三号)
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a171093.htm
2)答弁本文(答弁第九三号/2009(平成21)年2月13日)
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b171093.htm
<3>刑事訴訟法等改正案 新旧対照表(法務省公式/PDF形式)
https://www.moj.go.jp/content/001405812.pdf

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(5)2010(平成22)年~2013(平成25)年:【約600点に及ぶ証拠開示】
1)原田保孝(はらだ・やすたか)裁判長(当時)の積極的な証拠開示勧告により、拒み続けてきた証拠の開示にようやく検察が応じる
2)「5点の衣類」のカラー写真もこの時開示された/捜査機関による捏造の信憑性がクローズアップされるきっかけとなる(味噌タンク内の発見から43年を経過)
3)弁護団は第1審当時からネガフィルムを含めた写真の開示を求めていた
※検察は写真のみ開示/「ネガについては存在しない」と回答
※後に存在が明らかとなる(検察による証拠隠蔽)
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4)2009年(平成21年)に被告人が冤罪を訴える「足利事件(あしかがじけん:幼女誘拐殺人死体遺棄/1990(平成2)年5月発生)」と、「袴田事件」とほぼ同じ時期に起きた「布川事件(ふかわじけん:強盗殺人/1967(昭和42)年8月発生)」の再審が相次いで決定/マスコミが大きく採り上げ冤罪に対する世の中の関心が急速に高まったことが強く影響

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(6)2011(平成23)年8月:静岡地裁が証拠品の衣類5点について【DNAの再鑑定を決定】
(7)2013(平成25)年3月・4月・7月:検察による一部の証拠開示
(8)2013(平成25)年11月:同僚従業員による袴田さんの犯行を印象付ける証言が事件当日の袴田さんのアリバイを証明する間逆の内容だったことが発覚(捜査機関による証言の捏造)
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(9)2013(平成25)年12月:【血痕のDNA鑑定結果提出】
1)弁護団が「5点の衣類」に付着していた血液のDNA鑑定を実施(本田克也筑波大学教授/法医学・法医遺伝学)
2)袴田さんのDNAは検出されず被害者のいずれとも一致しない可能性を示す
【「5点の衣類」に関する捏造の可能性が一層高まる】
3)検察は鑑定結果を全面的に否定
※マスコミが冤罪の可能性を大きく報じて再審の機運が盛り上がる
4)検察の反論1:発見から40年以上が経過/劣化が激しい血液由来のDNA鑑定は科学的な根拠になり得ない
5)検察の反論2:「DNA鑑定の際に第三者が証拠の衣類に直接触れたことが原因」と変更
※最初の反論が説得力を欠いた為に内容を変えたが、裁判全般を通じた地検と地元警察の特徴とも言うべき「場当たり的な対応」をより鮮明に際立たせる

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(10)2014(平成26)年3月27日:【再審開始と死刑執行及び拘置停止を決定】
※静岡地裁にて再審開始決定/同時に死刑執行と拘置の停止も決定(村山浩昭裁判長,大村陽一・満田智彦両裁判官)
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【同日午後東京拘置所から釈放】
※1966(昭和41年)年8月の逮捕から48年を経過(仮釈放)

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(11)2014(平成26)年3月27日:静岡地検による拘置停止に対する抗告申立
(12)2014(平成26)年3月28日:静岡高裁にて地検の抗告を棄却
(13)2014(平成26)年3月31日:静岡地検による地裁の再審開始決定を不服とした即時抗告
(14)2014(平成26)年8月5日:静岡地検が一審当時より「存在しない」としてきた「衣類5点の写真」のネガフィルムについて静岡県警に保管されていたことが発覚(証拠の隠蔽)
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(15)2018(平成30)年6月11日:東京高裁にて静岡地裁の再審開始決定を取り消し・第2次再審請求を棄却
【死刑執行および拘置停止は維持・継続】
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(16)2018(平成30)年6月18日:弁護団が特別抗告申立
(17)2020(令和2)年12月22日:最高裁による高裁差し戻し決定(林道晴裁判長)
1)「5点の衣類」の血痕(赤色)に関する【味噌漬け実験の再検証】指示(審理不十分)
2)DNA再鑑定結果(弁護側:本田克也筑波大学教授による鑑定)は証拠不認定
3)裁判官5名中2名が本田教授の再鑑定を評価/即時再審開始を支持

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◎第2次再審請求差し戻し審(第3次再審請求)
(1)2021(令和3)年3月22日:差し戻し審にて三者協議開始(東京高検・東京高裁・弁護団)
(2)2021(令和3)年11月1日:【5点の衣類:赤みが残る血痕に関する鑑定書提出(黒く変色する筈)】
1)弁護団が証拠品の衣服(味噌漬け)から血痕の赤みが消失する科学的メカニズムに関する鑑定書を提出
2)支援者による衣類の味噌漬け実験を実施(実験を提唱した支援者自身の血液を採取・使用)
(3)2022(令和4)年7月~8月:東京高裁による専門家5名の証人尋問(鑑定人を含む)
(4)2022(令和4)年11月1日:静岡地検にて東京高検の約1年2か月に及ぶ「味噌漬け実験」の確認作業実施【東京高裁の裁判官3名が立会い】
※弁護団の実験結果提出を受けて検察側も反証の為に同様の実験を行う
(5)2022(令和4)年12月5日:東京高裁の担当裁判官3名と袴田元受刑者,姉のひで子さんが面会(第1次も含め再審請求審初)/ひで子さんが意見陳述を行う
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【再審開始決定】
(6)2023(令和5)年3月13日:東京高裁が再審開始決定(検察官による即時抗告棄却)
(7)2023(令和5)年3月20日:東京高検が特別抗告を断念/再審開始確定
(8)2023(令和5)年4月10日:静岡地裁にて再審公判に向けた3者協議開始
(9)2023(令和5)年10月27日:静岡地裁にて再審第1回公判
※袴田元受刑者は心神喪失状態を理由に出廷を免除
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【無罪判決】
(10)2024(令和6)年5月22日:静岡地裁にて再審公判結審(計15回)
(11)2024(令和6)年9月26日:【静岡地裁にて無罪判決】
----------
【無罪確定(見込み)】
(12)検察の控訴期限:2024(令和6)年10月10日(木)23時59分(判決の翌日から14日以内)


Chapter 3 へ


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【再審 冤罪袴田事件】検察は有罪立証方針を撤回して速やかな無罪判決のために審理に協力してください!!

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命あるうちに - 静岡地裁が袴田さんに無罪判決 -

カテゴリ:
■検察は控訴の断念を - Chapter 1



「袴田さんと姉のひで子さんが、天に召されるのを待ってたんだろう?」

検察の本音を明け透けにぶっちゃけてしまえば、そういうことにならざるを得ない。この事件を一度でも耳目にした者なら、大半がそう思い当たった筈である。

88歳の米寿を迎えた袴田さんと、血を分けた弟の無罪を信じて支え続ける91歳の姉ひで子さんのお二人がご存命で本当に良かったと、ただただ天に感謝を申し上げるのみ。

この際検察は、ご姉弟が元気でおられることを天恵(啓)と悟るべきだ。無益な控訴をさらに重ねて、お二人に残された時間を奪い続けてはならない。これ以上、人の道を踏み外し続けてどうするのか。

足利事件(1990年5月に発生した幼女殺人死体遺棄事件)の再審では、審理の開始前に宇都宮地検トップの幕田英雄(まくた・ひでお)検事正が、冤罪の被害を受けた菅家利和氏(2010年3月無罪判決)に直接謝罪したが、静岡地検と東京高検によるお二人への謝罪を期待する者はおそらくいない。「控訴を諦めてギブアップしろ」と、言いたいことはそれだけだ。

自らの手で検察に対する国民の信頼を裏切り続け、傷つけ続けてきたことをいい加減に直視し、首の皮一枚残っているかどうかもわからない自浄作用への僅かな可能性を示す、正真正銘最後のチャンスなのだと、検察という組織全体が胸の奥深くに刻み込む必要が絶対にある。


無罪の判決を言い渡した静岡地裁の國井恒志(くにい・こうし)裁判長は、
(1)自白(供述)調書(警察の取調べ)
(2)有罪の決め手となった「5点の衣類」
(3)ズボンの共布(袴田さんの自宅から発見された証拠衣類のズボンの切れ端)
の3つについて、いずれも捜査官による捏造と断定しただけでなく、気が遠くなるような裁判の長期化と、判決が無罪を確定するものではないこと(検察による控訴が可能:期限は2週間)とを謝罪した。

検察との全面的な対立に発展しかねない「証拠の捏造を断定」したことについて、袴田さんの弁護団は驚きを隠さなかったが、メディアに登場する法曹関係者らも、口を揃えて「異例中の異例」だと積極的な評価を口にする。

昨年3月13日に再審開始を認めた東京高裁においても、大善文男(だいぜん・ふみお)裁判長が、「5点の衣類」について「捏造の可能性が極めて高い」と言及。大善裁判長は、2022年11月1日に静岡地裁を訪れ、東京高検が1年2ヶ月かけて行った「5点の衣類に関する味噌漬け実験」の結果確認に立ち会い、昨年12月5日には袴田さんとの面会も行った上で再審開始を決定した。


大善裁判長のこうした行動を、弁護団は「熱意の表れ」だと歓迎したのは言うまでもなく、振り返ってみれば、2014年に再審開始の決定を下した静岡地裁の村山浩昭(むらやま・ひろあき)裁判長も、問題の「5点の衣類」について「捏造の可能性」を指摘している。

2021年に定年を迎えて退官した村山氏(現在は弁護士として活動)は、東京高裁によって自身の決定が取り消された(2018年6月)ことを今も悔やみ、昨年10月の再審決定まで要した9年の月日について、「長過ぎた。あえて言うなら無駄だった」とSBS(静岡放送・新聞)のインタビューで述べており、「本当に申し訳ない」と袴田さんとひで子さんへの思いを吐露。

◎「あえて言えば9年間は無駄だったんじゃないか」語り始めた「元裁判長」 袴田事件“再審決定”“釈放” 9年前の判断の裏側【単独インタビュー】【袴田事件再審】
2023年11月15日/SBSnews6


◎元裁判長「救済の遅れ」を懸念 問われる再審のあり方【袴田事件再審公判・結審】
2024年5月22日/SBSnews6


再審開始が決定された時点で、刑の執行は一時的に停止される。しかし、拘留は無罪の確定まで延々続く。村山氏は、袴田さんの「拘置の停止」も同時に決定した。「証拠捏造の可能性」を指摘された上に、有罪が確定した死刑囚を釈放する。静岡地検と東京高検を見舞った衝撃は、いかばかりであったことか。

◎「もうこれ以上長引かせるのは本当にやめてほしい」村山浩昭元裁判長 “袴田事件”再審決定から公判開始まで長すぎた9年…いまも後悔 
2023年11月20日 LIFE SBS(静岡新聞)
https://www.at-s.com/life/article/ats/1359851.html

◎前例ない死刑囚の釈放 認めた元裁判長が語る「再審」
2023年10月30日 NHK事件記者/取材note
https://www3.nhk.or.jp/news/special/jiken_kisha/kishanote/kishanote65-2/


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◎検察による控訴阻止を目的としたWEB署名:Change.org
【再審 冤罪袴田事件】検察は有罪立証方針を撤回して速やかな無罪判決のために審理に協力してください!!

※ご興味のある方は「袴田事件 web署名 change.org 」でWeb検索を。
署名ページにアクセスできます。


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■「捏造」の波紋

裁判官として30件以上の無罪判決を確定させたことで知られ、裁判官の鑑と称されることも多い木谷明(きたに・あきら)氏(86歳の今も現役の弁護士として活動)によると、「警察がここまで大掛かりな捏造に手を染めることは、常識的に考えればまず有り得ない」という。

有罪を裏付ける最大にして唯一の物証となった「5点の衣類」について、公判開始から1年後に、捜査の過程で隈なく調べた筈の味噌タンクの中から、真っ赤な血痕が付いた状態で突然発見されたとしても、袴田さんが身に着けることができないほど小さく、サイズがまるで合っていなくても、履けないほど小さなズボンの切れ端が、これもまた隈なく調べた筈の袴田さんの箪笥から都合良く出てきても、弁護団の鑑定によって「5点の衣類」に残った血痕のDNAが袴田さんと被害者のいずれにも一致していなくても、自白を記した供述調書があり、必要な鑑定との整合がそれなりに取れてさえいれば、それが捜査員の仕業だとは考えない。

「サイズが合わないのは、長期間味噌に浸かった為に縮んだから。」

「丸1年味噌に浸かったからと言って、血痕が必ず黒く変色するとは限らない。」

「事件が発生してから40年以上経っている。劣化が激しい血液由来のDNA鑑定は困難で、科学的な見地からも、無罪の証拠とするには無理がある。」


いたずらを見つかった子供の言い訳かと、呆れるほど稚拙で見え透いた主張だったとしても、「流石にそこまではできないでしょう」と、多くの裁判官がそちらに傾くらしい。

そして「捏造」の強い(過ぎる)表現に気おくれするのは、弁護士も同様だという。

◎【捏造?】「同じブリーフが2枚」矛盾だらけの証拠品 弁護団と検証【袴田事件】|ABEMA的ニュースショー
2023年7月19日/ABEMAニュース【公式】



仮に無罪の心証を得て、冤罪のリスクが脳裏を過ぎったとしても、真っ向から主張することは憚られる。検察を信用するのが裁判所の基本的な在り方だと木谷氏は語り、その一方で「それでは駄目だ」と警鐘を鳴らす。

「警察と検察はそこまでやるものなんだと、裁判所はそういう前提に立つべきです。自分の書いた判決が検察との関係を悪化させ、その裁判に関わった諸先輩や身内を否定することになっても、裁判官は自からの確信に従って判決を出すべきです。」

◎裁判官と判決・決定 木谷明弁護士
2020年8月25日/袴田巖さんに無罪判決を! 【袴田事件】


しかしまた、”ヤメ検弁護士”として長くテレビで活躍した大澤孝征(おおさわ・たかゆき)氏のように、「検察官が証拠と法に基き、死刑が相当と判断したのであれば求刑は当然」だと、検察の強硬な姿勢を容認する意見もあって言葉を失う。

有罪の決め手となった証拠に、重大かつ悪質極まる捏造の可能性が否定できないと、裁判所が一度ならず認めた。なおかつ拷問を含む非人道的な取り調べがまかり通り、自白の信用性にも、当初から大きな疑義が呈されてきたにもかかわらず・・・。

◎「死刑求刑は当然のこと」元検事は理解を示す 弁護団は検察を痛烈に批判 判断の真意【袴田事件再審公判】
2024年5月23日/SBSnews6


メディアの報道姿勢に対する批判として、最近良く耳にする「両論併記」ではないが、検察の立場を説明する者が1人ぐらいはいないと駄目だろうと、半ば炎上覚悟で損な役割を引き受けたのかもしれず、あるいはSBSの編集で前後をバッサリやられて、言葉足らずの「切り取り」になってしまったとも考えられるが、「大澤さん、大丈夫ですか?」と余計な心配をしてしまう。


本来ならば、提出された調書45点中44点について、静岡地裁が自ら証拠不採用にしておきながら、自白を含むただ1点のみを根拠に有罪とした1審の判決のみならず、再審請求を棄却し続けたことも含めてそもそもの第1審まで遡り、取り返しのつかない過ちを認めて頭を下げ、はっきり言葉にして詫びる必要があったのは確かだが、法曹界を支配する旧弊の打破に敢えて挑み、「捏造」を判決文に明記してくれたことは率直に評価したい。

その一方で、地裁が「証拠の捏造を断定」したことに対して、東京高検と静岡地検が過剰反応を繰り返す危険性は低くないと、取材に当たる政治記者と解説を依頼される法曹関係者が目に付く。


後段に簡単なあらましと経緯を記載するが、既に多くの報道が伝えている通り、死刑が確定した事件で再審が認められた先例は4件あり、いずれも無罪が確定している。そして4件目の「島田事件」は、「袴田事件」と同じ静岡で発生した。

すなわち、静岡地検(と県警)にとって2度目の歴史的不祥事になる。どれほどマスコミと世間から叩かれ憎まれようと、静岡地検はあくまで自らの正当性をゴリ押しして、鬼畜に成り下がってでも控訴に踏み切るのではないかと、専門家であればある程危惧せざるを得ないようだ。

がしかし、法律のド素人を百も承知の上で敢えて言わせていただくなら、彼らが金科玉条にする「検察の威信」など戯言に過ぎず、とっくの昔に地に落ちている。「秋霜烈日(しゅうそうれつじつ)」の精神に至っては、その欠片を見出すことすら困難と言わざるを得ない。


厚労省の元官僚で、局長や内閣府の政策統括官まで勤めた村木厚子氏を有罪に持ち込む為、大阪地検特捜部の前田恒彦主任検事が、まさしく証拠の改ざんを行い最高検察庁によって逮捕起訴された大スキャンダル(2010年)は未だ記憶に新しい。

同じ大阪の高検で公安部長の要職にあった三井環(みつい・たまき)が、腐れ縁とも言うべき暴力団と起こした不動産に関わる詐欺事件(2000年代初頭)もあった。

曲折を経て民主党に転じた小沢一郎の秘書3名を、政治資金規正法違反で立件した東京地検特捜部による捜査報告書への虚偽記載が大きな問題になった「陸山会事件(2010年)」では、村木氏の事件で逮捕された前田恒彦が行っていた取調べについて、秘書の1人がICレコーダーで隠し録りをしていた録音から、取調べの違法性(威圧的・小沢不起訴の利益誘導)が明るみになっている。

定番の「秘書に任せていた」をリピートするだけに終始する小沢も、2011年に検察審査会によって強制起訴されたが、2012年4月に東京地裁が無罪判決を出し、小沢を起訴した検察官役の指定弁護士は控訴したものの、2012年11月に東京高裁が棄却。指定弁護士と小沢の弁護団双方が上告せず、小沢の無罪が確定した。

バブル景気がいよいよ絶頂を迎えようかという、80年代半ば過ぎに起きた「高槻選挙違反事件(選挙違反を巡る最大級の冤罪とされる)」も、昭和を生きた者の記憶に辛うじて引っかかっている。

とりわけ影響が大きいのは村木氏の冤罪事件で、逮捕起訴した容疑者を有罪に追い込む為なら、「証拠の捏造も辞さない」恐ろしい組織であることを満天下に知らしめた。なおかつ自浄作用をほとんど期待できない点においても、立法(政治家)と司法(裁判官)に引けを取らないと再認識させてくれた。

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◎戦後の死刑囚再審無罪事件

<1>免田事件(祈祷師一家強盗殺人):夫婦2名殺害/10代の娘2名が重傷
■冤罪を認められた死刑囚:免田栄(めんだ・さかえ)
※2020年(令和2年)12月5日没(享年95歳)
※逮捕時:23歳~無罪確定時:57歳(拘束期間:約34年5ヶ月)
(1)1948(昭和23)年12月29~30日:事件発生(熊本県人吉市)
(2)1951(昭和26)年12月25日:最高裁が上告棄却・死刑確定
(3)1952(昭和27)年6月~再審請求開始
(4)1956(昭和31)年8月10日:熊本地裁にて第3次再審請求開始決定
※福岡高裁が取り消し
(5)1972(昭和47)年4月:第6次再審請求申立
(6)1979(昭和54)年9月27日:福岡高裁にて第6次再審請求開始決定
※熊本地裁の請求棄却を覆す決定
(7)1980(昭和55)年12月:再審開始(熊本地検の特別抗告を最高裁が棄却)
(8)1983(昭和58)年7月15日:熊本地裁にて無罪判決
(9)1983(昭和58)年7月28日:検察が控訴断念・無罪確定
※6度目の再審請求が認められて逆転判決を勝ち取る
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■刑事補償金:9千71万2800円を支払い済み
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■人権救済の申し立て
(1)1998(平成10)年4月:免田氏ご本人が日弁連に人権救済を申立
※長期に渡る拘留により無年金状態となった為
(2)2002(平成14)年1月:日弁連が死刑再審無罪者の年金受給に関する法整備を厚労省に提言・勧告
(3)2009(平成21)年6月:免田氏ご本人が総務省に国民年金受給資格の回復申立(不受理)
※日弁連は引き続き厚労省と与野党に救済措置の立法化を提唱(警告)
(4)2013(平成25)年6月19日:死刑再審無罪者に対する国民年金給付を認める特例法可決(超党派の議員立法)
1)死刑判決確定から再審無罪になるまでの保険料の一括納付により、65歳以降の年金相当額を特別給付金として一括支給
2)その後の年金も支給
(5)免田氏と赤堀政夫氏(島田事件の元死刑囚※後述)が無年金状態から救済された
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■刑事補償
1)金額の規定:刑事補償法
2)無罪が確定した場合:拘束された日数1日あたりにつき1,000円~12,500円(現在)を支払う
2)弁護人や被告人の出頭に要した旅費交通費、日当,宿泊料金,弁護人の報酬を含む
3)弁護費用:国選弁護の規定を適用(原則)
4)実際に支払われる金額:請求申立を受けた裁判所が刑事補償法の規定に基づき決定
5)国家賠償とは異なる
※「松山事件」のように裁判費用を借り入れしていた為,受け取った刑事補償金の大半を返済に充てざるを得ない場合もある

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<2>財田川事件(闇米ブローカー強盗殺人)
■冤罪を認められた死刑囚:谷口繁義(たにぐち・しげよし)
※2005年(平成17)7月26日没(享年74歳)
※逮捕時:19歳~無罪確定:47歳(拘束期間:約28年5ヶ月)
(1)1950(昭和25)年2月28日:事件発生(香川県三豊(みとよ)郡財田村:現在の三豊市財田町)
(2)1950(昭和25)年4月1日:隣町で2人組の農協強盗事件が発生/容疑者の1人として逮捕拘留
※2名を同時逮捕/谷口以外の1名:アリバイの証明により釈放
(3)1957(昭和32)年1月22日;最高裁が上告棄却・死刑確定
(4)1969(昭和44)年4月:第2次再審請求申立
(5)1979(昭和54)年6月7日:高松地裁にて再審開始決定
(6)1981(昭和56)年3月14日:再審開始(高松地検の即時抗告を高松高裁が棄却)
(7)1984(昭和59)年3月12日:高松地裁にて無罪判決
(8)1984(昭和59)年3月24日:検察が控訴断念・無罪確定
※第2次再審請求も地裁と高裁で棄却されたが最高裁が差し戻し
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■刑事補償金:約7500万円を支払い済み


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<3>松山事件(一家4人放火殺人):夫婦2名と10代の四女刺殺/幼い長男焼死
■冤罪を認められた死刑囚:斎藤幸夫(さいとう・ゆきお)
※2006(平成18)年7月4日没(享年75歳)
※逮捕時:24歳~無罪確定:52歳(拘束期間:約28年6ヶ月)
(1)1955(昭和30)年10月18日:事件発生(宮城県志田(しだ)郡松山町:現在の大崎市)
(2)1960(昭和35)年11月1日:最高裁が上告棄却・死刑確定
(3)1969(昭和44)年5月27日:第2次再審請求申立
(4)1979(昭和54)年12月6日:仙台高裁にて再審開始決定
(5)1983(昭和58)年7月12日:仙台地裁にて再審開始
(6)1984(昭和59)年7月11日:仙台地裁にて無罪判決
(7)1984(昭和59)年7月:検察が期限までに控訴断念・無罪確定
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■刑事補償金:7千5百16万8千円を支払い済み
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■国家賠償訴訟
(1)斎藤氏ご本人と母親が提訴/補償金:1億4千3百万円を請求
※裁判費用を借り入れしていた為、刑事補償金はその返済に充てられている
(2)1991(平成3)年7月31日:仙台地裁にて請求棄却
(3)2000(平成12)年3月16日:仙台高裁にて控訴棄却
(4)2001(平成13)年12月20日:最高裁が上告棄却
(5)刑事裁判で違法と認定された内容について民事裁判では合法と判断
(6)長い拘束期間の為に無年金となった晩年の斎藤氏は、止むを得ず生活保護を受給
※国家賠償法による補償金請求:「公務員の不法行為」立証が必須となる為勝訴は難しいとされる


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<4>島田事件(幼女誘拐殺人)
■冤罪が認められた死刑囚:赤堀政夫(あかほり・まさお)
※2024(令和6)年2月22日没(享年94歳)
※逮捕時:25歳~無罪確定:59歳(拘束期間:約34年8ヶ月)
(1)1954(昭和29)年3月10日:事件発生(静岡県島田市/遺体発見:13日)
(2)1954(昭和29)年5月24日:岐阜県内で赤堀氏逮捕(※)
(3)1960(昭和35)年12月5日:最高裁が上告棄却・死刑確定
(4)1961(昭和36)年8月17日~再審請求申立
※第1次~第3次請求:すべて棄却
(5)1969(昭和44)年5月9日:第4次再審請求申立
(6)1977(昭和52)年3月11日:静岡地裁にて棄却⇒3月14日即時抗告
(7)1983(昭和58)年5月23日:東京高裁にて静岡地裁の棄却決定を取り消し・差し戻し
(8)1986(昭和61)年5月30日:静岡地裁にて再審開始決定
(9)1987(昭和62)年3月25日:東京高裁にて静岡地検の即時抗告棄却・再審開始確定
(10)1987(昭和62)年10月19日:再審開始
(11)1989(平成元)年1月31日:静岡地裁にて無罪判決
(12)1989(平成元)年2月10日:検察が控訴断念・無罪確定
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■刑事補償金:1億1千9百7万9,200円を支払い済み
赤堀弁護団は、刑事補償法が定める日次の最高額を請求申し立て。静岡地裁もこれを認めて、請求された満額の支払いを決定。4件の死刑囚再審無罪事件中、最高額となった。
1)拘束された日数:12,668日×9,400円(法令で定められた当時の日次最高額/現在:12,500円)
2)拘束された期間:1954(昭和29)年5月28日(別件逮捕拘留)~1989(平成元)年1月31日(無罪判決)まで
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3)恣意的な別件逮捕(※):岐阜県内の検問で2人連れの浮浪者に対する職質が行われ、2名のうち捜査対象リスト(刑余(前科)者・変質者・浮浪者・精神障害者・被差別部落民など2百数十名)に含まれていた赤堀氏を窃盗の別件で逮捕拘留。
4)赤堀氏には軽度の知能障害と精神病歴に加えて、自殺未遂と窃盗の前歴が二回づつあり、捜査陣は「犯人に違いない」との心証を抱く。
※1回目の窃盗:少年院送致,2回目:服役/1953(昭和28)年7月に出所/定職に就かずホームレス状態だった
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■乏しい物証,杜撰な捜査と異常な取調べ
1)逮捕の経緯と濡れ衣を着せられた赤堀氏の経歴も含めて、当初より「赤堀氏の犯行ありき」で捜査が進められた。
2)凶器とされる石以外に物証らしい物証は無く、本件においても殴る蹴るに始まり、捜査陣が作り上げた犯行の流れを、複数の捜査員が演じて見せた上自白を強要。それでも無実を訴え続ける赤堀氏を複数の捜査員が押さえつけて身体の自由を奪い、捜査員の1人が万年筆を握らせ、手首を取って強引に調書を書かせて拇印を押させるなど、もはや取調べとは言えない、常軌を逸した供述調書の作成が行われている。
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3)法医鑑定に基づく遺体検案書が示す殺害の流れ:「頸部絞扼(こうやく:手で首を絞めて圧迫:気を失わせた)⇒陰部への加傷⇒胸の強打」と説明。鑑定を行った鈴木完夫医師(静岡県警司法鑑定医)は、性器の外傷について「性的暴行の証明までは困難」とし、直接的な死因と結論付けた胸の強打についても「凶器は不明」とした。
4)自白調書に基づく殺害手順:「性的暴行⇒胸の強打⇒絞殺」
※不一致
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5)幼女連れ去り時の目撃情報(複数):スーツとネクタイを着用した若い男(髪も7-3分け)を複数の近隣住民が目撃。ホームレス状態の赤堀氏とはまるで違っていたにもかかわらず、上記捜査対象リストの中に合致する者が見当たらず(そもそもの絞り込みが間違い)、赤堀氏の逮捕後、捜査陣は目撃情報を黙殺。
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6)精神鑑定における自白剤の使用:鑑定医同席の下、捜査員(警察)の質問を受ける。赤堀氏は取調べ時と同様無罪を主張。すると催眠・鎮静薬のイソミタール(赤堀氏による)を注射されたという。捜査員は調書を見ながら聴取を継続したが、赤堀氏は「薬のせいで朦朧としていたので、何を喋ったかも判然としない」と述べている。
7)遺体検案書と異なる再鑑定:公判中に行われた再鑑定で、地裁の依頼を受けた古畑種基東大教授(法医学)が、殺害手順について、自白調書と同じ「性的暴行⇒胸の強打⇒頸部絞扼(こうやく)」の鑑定結果を提出。火葬された後でご遺体の検案は不可能=現場写真と供述調書のみによる鑑定だったが、供述調書の正当性を裏付けすることになった。
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8)再審請求時の遺体鑑定書(鈴木医師)と再鑑定(古畑教授)の調査:弁護団はいわゆる「古畑鑑定」の信用性に疑問を抱き続けていたが、第4次再審請求に際して、3名の法医学者に鑑定書の調査をあらためて依頼。3名とも「古畑鑑定」を否定する調査結果を報告したが、静岡地裁は「自白を含む供述調書重視」の姿勢を固持。4度目の再審請求も棄却した。
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■凶器の石を巡る捏造の判明
1)確たる物証が皆無に近い本事件では、「自白によって凶器の石を発見した」とする供述調書が有罪判決の決め手(犯人しか知り得ない秘密の暴露)となり、最高裁が被告側の上告を棄却(死刑確定)する際に依拠したのも、「凶器の石の所在を明らかにした自白」と「古畑鑑定」だった。
2)ところが、第4次再審請求の是非を争う抗告審において、検察が取調請求した新聞記者が、「3月14日頃(遺体発見の翌日)、凶器の石を島田警察署で見た」と供述。
※赤堀氏の逮捕は5月24日。取調べは島田署に移送後実施。
3)調書に記載されたこの供述により、警察による捏造が発覚。「秘密の暴露」が根底から覆り、東京高裁は静岡地裁への差し戻しを決定(1983(昭和58)年5月)。
4)差し戻し審を経て、静岡地裁は再審開始と死刑の執行停止を決定(1986(昭和61)年5月)。
5)有罪立証の最大の拠り所を失ったにもかかわらず、静岡地検は再審開始を不服として即時抗告。
6)東京高裁が検察の抗告を棄却/再審開始確定(1987(昭和62)年3月)。
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■杜撰な捜査と違法な取調べを主導した”県警のエース”
「島田事件」の捜査指揮に当たったのが、300回を超える表彰を受けて名刑事の誉れも高い、県警本部強力犯係の主任だった紅林麻雄(くればやし・あさお)警部補である。詳しくは後述するが、静岡県下で発生した複数の冤罪事件を主導した人物で、「袴田事件」発生時には亡くなっていた(責任を追及され辞職)が、捜査を指揮する県警本部刑事の多くは紅林の部下だった者たちで、暴力的かつ違法な捜査手法が繰り返される原因となった。

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