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2026年春,東京ドーム開催決定!? - 年間表彰式で予期せぬビッグ・サプライズ Part 2 -

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■モンスターがビッグ・バンに対戦を呼びかけ・・・

来春の対戦決定?笑顔でがっちり握手する中谷潤人と井上尚弥

予期せぬモンスターのフライング。互いに事前の打ち合わせは無く、何も聞いていなかったという大橋会長も、「実現させないとボクシング界に未来はない」とまで話し、前向きに交渉を進めると明言した。

昭和~平成初期(前世紀)の昔なら、会長の了承を得ない情報の発信など有り得ない。絶対に許されない越権行為であり、下手をすれば現役を諦めざるを得ない事態に発展する恐れさえある。

「冗談ですよ、冗談」と言って笑いを誘い、仮にその場が収まったとしても、会長の怒りが爆発するのは不可避。引退してさほど時間が経っていない若い会長さんなら、鉄拳制裁も想定の範囲内だ。


まず第一に、リスクが大き過ぎる。試合をやればチケットの完売を確実に見込めるチャンピオン同士をぶつければ、興行の成功は確約されたも同然。プロモーターとマネージャーを兼ねる所属ジム会長の実入りも、選手が受け取る報酬も大きな金額が確約されるが、下手をすればその1回ですべてが終わってしまう。

引き換えとなる代償を考えた時、興行に関わる誰もが二の足を踏む。目先の大きな利益と引き換えに潰し合うより、1回1回の儲けはそれなりでも、細く長く着実に防衛戦を続けて行った方が賢い・・・と、かつてはどの会長さんもそう考えた。

勝手に取材を受けたりしないよう、直ちにジムに関わる者全員にかん口令が敷かれ、ドリームマッチに関する話題は完全にオフ・リミット。記者とファンからどれほど批判や非難を浴びても、我関せずを貫きダンマリを決め込むしかない。

バックに付くテレビ局の意向も無視できない。ネット配信は遥か遠い未来の絵空事で、想像すらできない時代。中継を行う民放キー局(と大手広告代理店)の力は絶大で、両陣営を支えるキー局が異なる場合、放映権を巡って必ず紛糾する。

昭和40年代のプロボクシングは、プロ野球と大相撲に肩を並べる国民的人気スポーツであり、高い視聴率が確実に見込める優良コンテンツの代表格だった。両会長の思惑がどうであれ、どちらの局も簡単に放映権を譲ろうとはしない。

それこそが好カードの実現を阻む最大の障壁と言って良く、日本ボクシング界のご意見番として永く活躍した郡司信夫は、「小を捨てて大に就かねば、ボクシングは廃れるばかり」だと、事あるごとにテレビ局とジムの癒着体質に苦言を呈していた。


チャンピオンか否かに関係なく、ジムの看板選手はその辺りの事情を察して、公の場所ではけっして余計な事は喋らない。メディアの取材を頻繁に受ける人気選手の多くが、当たり障りの無いつまらない受け答えに終始する。

もっともこうした状況は、競技及びプロ・アマの別を問わない、日本国内のスポーツ全般に共通する、ごくごく日常的な光景でもあった。手っ取り早く言うと、とにかく風通しが悪いこと夥しい。それに尽きる。

なかんづくボクシング界は閉鎖的で、プロモーターとマネージャーを兼ねる会長には、支配下にあるプロ選手の生殺与奪に関わる全権を掌握できる為、会長の言葉は神の言葉に等しく、服従する以外に選択肢はない。


時代錯誤とも言うべき封建的な体制は、ごく最近まで続いていた。内向き一辺倒の村社会が揺らいだ大きな要因として、第一に挙げなくてはならないのは、やはり旧Twitter,facebook,Instagramの普及であり、さらにパンデミックによる興行の休止が強力な追い風(業界の体制側に取っては追い討ち)となった。

強制的に収入の道を閉ざされたプロボクサーだけでなく、ジムの会長までが相次いでyoutubeチャンネルを開設し、積極的に発信・発言を行うようになって、コラボという形で横の連携も強化されて行く。開放への流れが動き出すと、もう押し止めることはできない。

武漢ウィルス禍の具体的な出口戦略がようやく語られ出した2022年、9,300億円と算出されたSNSマーケティングの市場規模は、2024年に1兆2千億円に拡大。2025年の着地は1兆4千億円と見込まれ、2029年には2兆円を超えると予測されている。

ゴロフキン vs 村田

ゴロフキン vs 村田諒太の大一番(2022年4月9日/さいたまスーパーアリーナ)を、井上尚弥とセットでバックアップしてきたフジテレビではなく、Amazon Prime Videoが独占配信すると発表された瞬間、「来るべき時が遂にやって来た」と、深い感慨を覚えたのは拙ブログ管理人だけではない筈。WBSSをきっかけにして、真に国際的な認知を獲得した井上尚弥も同じ道を辿る。

昭和30~40年代に始まり、ボクシング界の経済基盤を支配し続けてきた民放地上波+大手広告代理店による視聴率第一主義のビジネスモデルでは、高騰を続けるモンスターのギャランティを賄い切れない。

TBS恒例の大晦日格闘技イベントで一翼を担い続けた井岡一翔も、ABEMAへの乗り換えを余儀なくされ、欧米に比べるとかなり遅れはしたものの、「ネット配信+PPV」への移行は避けることのできない必然であり、時代のうねりでもあった。

こうした大きな変化の副次的な効果として、欧米並みとは行かないまでも、封建的な村社会の伝統と慣習も維持できなくなり、選手個々の発言に対する規制が自然発生的に緩んだことは、パンデミックの猛威がもたらした不幸中の幸いと言えなくもない。


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◎55年前に実現していた現役世界王者対決

しかしながら、いつの時代にもどんな世界にも変わり者(失礼),もとい、(良く言えば)常識に囚われない、敢えてそこを突き破ろうとするチャレンジャーはいる。階級が1つ異なる現役世界チャンピオン同士の対決は、「井上 vs 中谷」が初めてではない。

半世紀(およそ55年)も前の1970(昭和45)年12月3日、世界戦を始めとするボクシングの大きな興行が頻繁に行われていた日大講堂(旧両国国技館:1983(昭和58)年に解体)で、史上初の海外奪取を成功させ、”シンデレラ・ボーイ”と呼ばれて絶大な人気を博したWBAフェザー級王者西城正三(協栄)と、J・ライト級で安定政権を築いていたインサイドワークとカウンターの達人,小林弘(中村)がぶつかった。

左:小林弘,右:西城正三

◎対戦時の年齢と戦績
小林(25歳4ヶ月/キャリア8年5ヶ月):71戦59勝(10KO)8敗4分け
西城(23歳11ヶ月/キャリア6年4ヶ月):33戦26勝(8KO)5敗2分け
※いずれもデビューは17歳(C級スタート)


世界,地域(ローカル),国(ナショナル)の種別を問わず、例えノンタイトルであったとしても、チャンピオンが正規のリミット範囲内で敗れれば王座をはく奪されてしまう。どちらが負けてもベルトを失うことが無いよう、132ポンド(約59.87キロ)の契約ウェイトを合意。ノンタイトルの10回戦として行われている。

J・ライト級のリミット上限130ポンド(約58.97キロ)より、2ポンド(約0.9キロ)重く設定されたウェイトは、白井義男とファイティング原田に並ぶ連続4回の防衛に成功して勢いを増す西城が、普段調整している126ポンド(約57.16キロ/フェザー級リミット上限)より6ポンド(約2.72キロ)も重い。

格下の無名選手ならともかく、5連続防衛の国内最多記録(当時)を更新中の小林は、階級も含めて格上とみなされていた。戦前の勝敗予想も、当然のことながら小林有利に傾く。

ただし、取り沙汰されたのは、もっぱら防衛回数と戦績を天秤にかけた実績と経験値の差であり、132ポンド契約に関する議論、不公平ではないかとの論争は皆無だったと記憶する。


ウェイト・ハンディ戦と言っても過言ではないマッチメイクは、今にして思えば、西城に取ってかなりの負担になった筈だが、おそらく西城本人を筆頭に、前景気を煽るメディアは勿論、ファンと関係者の誰もが気にしていなかった。

これには説明可能な理由がある。昭和(20世紀)のプロボクシングでは、1階級どころか、2~3階級異なる者同士の対戦でも当たり前のように組まれることがあり、しかも珍しいことではなかった。これは洋の東西を問わない。

キツい減量が多少なりとも楽になることで、西城のコンディショニングに寄与するとの楽観論さえ囁かれたのは、階級が上の小林(168センチ)より、西城(171センチ)の方が身長が高くリーチも長かったことが少なからず影響した。

胴が長い分(失礼)、重心が低く安定感に満ちた、いかにも日本人らしい体型の小林に対して、西城は日本人離れした足の長さ,スタイルの良さが売りで、なにしろ格好良かったのである。

その頃は特別に意識していた訳ではないけれど(それが日常で当たり前だったから)、当日計量も有形無形に作用していたのは確かだと思う。


読売直系の超大物、”ミスター(ジャイアンツ=プロ野球)”長嶋茂雄をゲストに招いた日テレの実況及び解説席には、小林が実の弟のように可愛がっていた大場政夫(現役フライ級王者)も呼ばれていたが、けっして自分から発言しない。実況担当の芦沢アナから何か聞かれれば答えるが、短く当たり障りの無い内容で切り上げる。西城寄りのバイアスは明々白々。

業界のタブーを打ち破って大き過ぎる賭けに出る以上、日テレがカメラ映えのする西城に勝たせたいと考えるのは止むを得ない面もある。

両雄に共通する対戦相手を媒介とした比較も、西城の勝利に期待をつないだ。

その相手とは、西城が初防衛戦(1969年2月9日/日本武道館)で3-0の判定に退けたベネズエラのペドロ・ゴメス。1966年の春から夏にかけて行った北中米遠征の最中、小林はゴメスの地元カラカスで拳を交えており、7回TKO負けを喫している。

127ポンドの契約ウェイト(おそらく)を考慮する必要もあれば、試合映像が現存せず、客観的かつ詳しい試合内容と状況が分からない為、何1つ断定的なことは言えないものの、2度倒された小林がレフェリー・ストップで負けたと伝えられており、西城にとって明るい材料には違いない。

解説を任された海老原博幸(言わずと知れた協栄OB)は、この年の1月に引退。3階級制覇に再び失敗して、26歳の若さでリングを去ったファイティング原田と歩調を合わせるかのごとく、29歳でリングを去った”カミソリ・パンチ”も、西城推しの空気をおもんばかり(?)、言葉のキレと破壊力はピーク時の左ストレートには程遠かった。

小林 vs 西城2
左から:解説の海老原博幸,大場政夫,長嶋茂雄,芦沢俊美アナウンサー(実況)


本番当日の計量は、西城が130ポンド3/4(約59.3キロ)、対する小林は、131ポンド1/4(約59.5キロ)でクリア。計量時の体重差は、200グラムをほんの少し越える程度でしかない。ただし、平常時に130ポンドを基準に仕上げる小林と、126ポンドに合わせる西城のフィジカルには自ずと開きがある。

”水澄まし”と形容された流麗なフットワークを最大の武器にする西城は、オーソドックス・スタイルのアウトボックスが基本で、痩身ゆえに線が細く見えるのが常だった。前日計量+リバウンドの効用が普及浸透した今日とは違い、当日計量だったから当然と言ってしまえばそれまでになってしまう。

フェザー級のリミット(126ポンド:約57.16キロ)より、4ポンド3/4(約1.84キロ)重い調整の効果はあり、普段に比べれば上半身の厚みが増してはいたが、もともと1発の破壊力には縁が薄く、危険な距離で気迫のこもった強打を応酬し合うも、西城のパンチは小林に脅威を与えるまでには至らない。

そして小林もまた、十八番の右クロスは最良のタイミングで火を噴かず、決定機を創出できなかったのはお互い様。僅少差の2-1で割れたオフィシャル・スコアについて、解説の海老原が「引き分けでいい」と、あくまで協栄OBの立場を崩さず感想を述べていたが、多くの西城ファンも異口同音に残念がっていた。

◎試合映像:小林 10回判定(2-1) 西城
1970年12月3日/日大講堂(旧両国国技館)/132ポンド契約10回戦
オフィシャル・スコア:主審ニッキー・ポップ:48-46(小),副審手崎弘行:49-46(小),副審森田健:48-49(西)
※主審のポップは日本で活動した米国人審判
ttps://www.youtube.com/watch?v=0uwHFus2fQc


リング・オフィシャルは主審も採点に加わる3人制で、10点ではなく5点減点法(5点×10R=50点満点)での運用。振り分け前提の10ポイント・マスト・システムは影も形も無く、プロのファイトにペース・ポイント(リング・ジェネラルシップ)など以ての外。

10-9,5-4のリードを引き寄せる為には、誰の目にも明らかなダメージを伴うクリーンヒットが必要となり、後退しながら軽めのジャブをポンポン当てるだけでラウンドを取ることは叶わず、微妙なラウンドはすべて5-5,10-10の互角になる。

今となってはイーブンの連発がいいとも思わないけれど、ジャブと軽打を重視する余りタッチとヒットの区別をつけられなくなってしまい、後からどうとでもへ理屈をこね回すことが可能な曖昧模糊としたペース・ポイントに、明白なダメージを与えたクリーンヒットと等価値(1ポイント)を与えるのはいかがなものか。

アグレッシブネス(技術の裏づけと手数を伴った前進)の全否定と言っていい「ラスベガス・ディシジョン(現代アメリカのスタンダード=変化の兆しはある)」もまた、本来あるべきプロのスコアリングからは程遠い。

◎管理人KEIのスコア
管理人KEIのスコア(観戦当事のリアルタイム:44-42で小林/現在の振り分け:97-93で小林

昔書いていた観戦メモを引っ張り出して(残っているメモのすべてをテキストファイル化できていない)確認してみると、我ながらまずまずちゃんと見ていたなと少し安堵した。記事を書くに当たって映像をフル・ラウンズ見直し、現在の振り分けマストで採点もやり直してみたが、試合運びに長けた小林の巧さ(狡猾)がやはり一枚上。

拮抗したラウンドが続いてはいるが、一貫して試合を作りペースを掌握しているのはキャリアに優る小林。最終10ラウンドを西城に振ったのは、バッティングで右の瞼をカットした小林のクリンチワークが目立った為で、闘志を奮い立たせて攻め続ける西城のアグレッシブネスに応えてあげたくなった。

両雄ともに疲労が隠せない苦しい状況の中、より疲弊していたのは1階級下の西城。キャッチウェイトのノンタイトルは規定の路線にしても、東洋タイトルと同じ12回戦でやりそうなところを、どちらの意向で10回戦になったのかはわからないが、西城の消耗ぶりを見るにつけ、12回戦にしなかったのは大正解だとあらためて実感する。


※Part 3 へ


2026年春,東京ドーム開催決定!? - 年間表彰式で予期せぬビッグ・サプライズ Part 1 -

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■モンスターがビッグ・バンに対戦を呼びかけ・・・

来春の対戦決定?笑顔でがっちり握手する中谷潤人と井上尚弥

3月31日、東京ドームホテルで行われた2024年度の年間表彰の発表と授賞式の席上、今年一番になるかもしれないハプニング、大きなサプライズが起きた。

「1年後の東京ドームで、ここ日本ボクシングを盛り上げよう!」

7年連続で年間MVPに選出された”モンスター”,井上尚弥が、”ビッグ・バン”に改称した中谷潤人にそう呼び掛けてマイクを手渡し、椅子から立ち上がった中谷も「ぜひやりましょう!」と呼応。笑顔のフェイス・オフで握手を交わす。

拙ブログ管理人がさらにびっくりしたのは、表彰者の最後列一番左端に座っていた大橋会長が、嬉しそうに笑っていたこと。

後列左端:にこやかに微笑む大橋会長
笑顔でシェイクハンドを交わす中谷と井上/後列左端:にこやかに微笑む大橋会長
※場の空気をすべて持って行かれて(?)微妙な表情のまま固まる那須川天心


「合意(内定)したのか!?」

youtubeを検索すると、「打ち合わせはしていなかった」と囲み取材で語るモンスターの映像がすぐに出てきた。大橋会長をキーワードにググってみると、「事前に何も聞いていない」と、モンスターのフライング(?)だったことを認めている。

「俺に確認したら、ダメダメって言うと思ったんじゃないかな。でも全然悪いことじゃない。お互い認め合ってリスペクトもしている。笑顔で(フェイス・オフ)というのがいい。喜ばしいこと。」


◎井上尚弥、中谷潤人に突如呼びかけで宣戦布告「1年後に東京ドームで…」7年連続8回目MVP受賞に喜び明かす 『ボクシング年間優秀選手表彰式』
2025年3月31日/oricon


◎井上尚弥 vs 中谷潤人!衝撃のやり取りの裏側や、東京ドームでの世紀の一戦への心境を両名が語る『2024年度 年間優秀選手表彰式』
2025年3月31日/マイナビニュース


現役時代に自らもリカルド・ロペスの挑戦を受けたことや、フライ級に上げて以降世界戦の交渉がまとまらず、フラストレーションを溜め込んでいたロマ・ゴンと、WBCのベルトを保持していた八重樫東の対戦をまとめ上げた大橋会長は、さらに積極的な言葉を続けた。

「伝説的な選手がいたら戦わない手はない。今伝説的と言えるのは井上尚弥だけど、二人ともP4Pランキングに入っている。世界から注目されるし、実現しないとボクシングの未来はない。実現すれば凄い騒ぎになるだろうし、それがボクシングの将来にもつながる。」

◎関連記事
<1>井上尚弥、7年連続8度目MVP 中谷潤人に対戦要求
2025年3月31日/日経
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOKC317P20R30C25A3000000/

<2>井上尚弥が中谷潤人に突如対戦を呼びかけ 年間表彰式騒然
2025年3月31日/Boxing News
https://boxingnews.jp/news/111723/

<3>大橋会長が1年後の井上尚弥―中谷潤人ドーム決戦に「2人には大きな役割ある」実現へ努力誓う
2025年3月31日/ニッカンスポーツ
https://news.yahoo.co.jp/articles/17f8c1c12d027cc8e9a6b5863c6c1c18db837005

<4>大橋秀行会長「この試合を実現しないとボクシングの未来はない」 井上尚弥VS中谷潤人の東京ドーム決戦へGOサイン
2025年3月31日/スポーツ報知
https://hochi.news/articles/20250331-OHT1T51265.html?page=1


「聞いてないよ」とモンスターに声をかける大橋会長


時代は変わった。確実に。

一昔・二昔前なら、「モンスター vs ビッグ・バン」は陽の目を見ることがなかった筈である。文字通り、「幻と消えたドリーム・マッチ」で終わっていたに違いない。

満面の笑みどころか、大橋会長は真っ青になって表情をこわばらせ、火消しの緊急会見場に早変わり。質疑応答もそこそこに早々と打ち切られ、散会後にモンスターはこっぴどく怒られる・・・。


がしかし、本論に入る前に年間表彰の受賞者を。


■2024年度年間表彰(プロ)
令和7年2月27日/日本ボクシング・コミッション(JBC)
https://jbc.or.jp/wp_jbc/wp-content/uploads/2025/02/2024hyousyou.pdf

<1>最優秀選手賞:井上尚弥(大橋)/7年連続8回目
<2>技能賞:中谷潤人(M・T)/初受賞
<3>殊勲賞:堤聖也(角海老宝石)/初受賞
<4>努力・敢闘賞・那須川天心(帝拳)/初受賞
<5>KO賞:中谷潤人(M・T)/初受賞
<6>新鋭賞:増田陸(帝拳)/初受賞
<7>年間最高試合(世界):井上尚弥(大橋) vs ルイス・ネリ(メキシコ)/2024年5月
※大橋プロモーション
<8>年間最高試合(世界戦以外):村田昴(帝拳) vs 山崎海斗(六島)/2024年10月
※帝拳プロモーション
<9>女子最優秀選手賞:晝田瑞希(三迫)/3年連続3回目
<10>女子年間最高試合:晝田瑞希(三迫) vs パク・ジヒョン(韓国)/2024年1月
※真正プロモーション
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<11>優秀選手賞(12名)
井上拓真(大橋)前WBAバンタム級王者
井上尚弥(大橋)4団体統一S・バンタム級王者
岩田翔吉(帝拳)WBO J・フライ級王者()
重岡銀次郎(ワタナベ)前IBF M・フライ級王者
武居由樹(大橋)WBOバンタム級王者
田中恒成(畑中)前WBO J・バンタム級王者
堤聖也(角海老宝石)WBAバンタム級王者
寺地拳四朗(B.M.B.)WBCフライ級王者
中谷潤人(M・T)WBCバンタム級王者
西田凌佑(六島)IBFバンタム級王者
矢吹正道(緑)IBF J・フライ級王者
ユーリ阿久井政悟(倉敷守安)WBAフライ級王者
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<12>特別賞(3名)
真道ゴー(しんとう・ごう/真正)元WBC女子世界フライ級王者:男子選手としての再起を目指すも2024年12月引退(性別適合手術を受けて2017年7月に戸籍変更済み)
古川夢乃歌(ふるかわ・むのか/山木)元WBAアトム級王者:2024年4月引退
安部和夫(元JBC審判部長/故人)


◎2024年度年間表彰(アマ)
2025年2月27日/JABF公式インスタグラム(JABF:日本ボクシング連盟/日連)
https://www.instagram.com/jabf_official/p/DGiyOrcNxBO/

<1>最優秀選手賞
男子:原田周大(はらだ・しゅうだい/専修大学)
女子:木下鈴花(きのした・りんか/クリエイティブサポート)
<2>優秀選手賞
男子:岡澤セオン(おかざわ・せおん/株式会社INSPA)
女子:田口綾華(たぐち・あやか/自隊校:自衛隊体育学校)
<3>敢闘賞
男子:西山潮音(にしやま・しおん/宮崎県スポーツ協会)
女子:吉澤颯希(よしざわ・さつき/自隊校)
<4>技能賞
男子:若谷豪(わかや・ごう/愛媛県競技力向上対策本部)
女子:加藤光(かとう・ひかる/東洋大学)
<5>努力賞
男子:荒竹一真(あらたけ・かずま/駒澤大学)
女子:國府縞鈴(こくふ・こりん/日体大:日本体育大学)
<6>殊勲賞
男子:牧野草子(まきの・そうし/自隊校) ・中山颯太(なかやま・そうた/駒澤大学)
女子:篠原光(しのはら・ひかる/青山学院大学)
<7>新鋭賞
男子:熊本風真(くまもと・ふうま/西宮香風高校)・藤木勇我(ふじき・ゆうが/興國高校)
女子:岡山さくら(西宮香風高校)
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<8>コーチ表彰
(1)男子優秀コーチ賞
小坂則夫(専修大学)
米田了(興國高校)
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(2)女子優秀コーチ賞
西垣祥二郎(開新高校)
篠原一三(しのはら・いちぞう/青山学院大学)
北村員也(きたむら・かずや/白鴎大足利高校)

左から:室伏広治スポーツ庁長官,井上尚弥,平井佑奈(モデル),萩原実JBCコミッショナー

アテネ五輪男子ハンマー投げの金メダリスト,室伏広治スポーツ庁長官(2020年10月~)が、プレゼンターとして2年ぶり2度目の登場。着物姿の女性は、3年連続でプレゼンターを仰せつかったファッション・モデルの平井佑奈(ひらい・ゆうな)。向かって右端の男性が、萩原実JBCコミッショナー(東京ドーム顧問)。

現在のコミッショナーに代わってから(2023年1月~)、世界戦でのコミッショナー宣言が無くなった。ダブル,トリプルのタイトルマッチが半ば常態化したことも、当然無関係ではないと思われるが、制度上廃止にしたのか、単に萩原氏一代限りの判断なのかは不明。

日本国内の場合、世界戦は各認定団体のルールで運用される為、ウェイトオーバーやドーピング違反など、採点を巡る紛糾等々のトラブルが起きても、JBCは知らぬ存ぜぬの無責任体制を延々続けてきた経緯があり、拙ブログ管理人は常々「コミッショナー宣言なんて辞めてしまえ!」と思っていたので、個人的には現状を歓迎する。


※Part 2 へ


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■2024年度年間表彰・各賞候補(2025年2月10日公表)

◎男子選手各賞ノミネート
■最優秀選手賞
井上尚弥(大橋)
寺地拳四朗(BMB)
中谷潤人(M.T)
ユーリ阿久井政悟(倉敷守安)
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■技能賞
井上尚弥(大橋)
堤聖也(角海老宝石)
寺地拳四朗(BMB)
中谷潤人(M.T)
西田凌佑(六島)
矢吹正道(LUSH緑)
ユーリ阿久井政悟(倉敷守安)
----------------------
■殊勲賞
岩田翔吉(帝拳)
井上尚弥(大橋)
武居由樹(大橋)
堤聖也(角海老宝石)
寺地拳四朗(BMB)
中谷潤人(M.T)
西田凌佑(六島)
矢吹正道(LUSH緑)
ユーリ阿久井政悟(倉敷守安)
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■努力・敢闘賞
出田裕一(三迫)
国本陸(六島)
中嶋一輝(大橋)
那須川天心(帝拳)
三代大訓(横浜光)
波田大和(帝拳)
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■KO賞
井上尚弥(大橋)
帝尊康輝(一力)
中嶋一輝(大橋)
中谷潤人(M.T)
増田陸(帝拳)
矢吹正道(LUSH緑)
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■新鋭賞
奈良井翼(RK蒲田)
増田陸(帝拳)
松本流星(帝拳)
渡邊海(ライオンズ)
李健太(帝拳)
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■優秀選手賞(2024年度以内に世界戦1勝以上)
井上尚弥(大橋)
井上拓真(大橋)
岩田翔吉(帝拳)
重岡銀次朗(ワタナベ)
武居由樹(大橋)
堤聖也(角海老宝石)
寺地拳四朗(BMB)
田中恒成(畑中)
中谷潤人(M.T)
西田凌佑(六島)
矢吹正道(LUSH緑)
ユーリ阿久井政悟(倉敷守安)
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■年間最高試合(世界戦)
WBA・WBC世界L・フライ級タイトルマッチ(1月23日)
(1)寺地拳四朗(BMB) vs カルロス・カニサレス(ベネズエラ)
※帝拳プロモーション
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(2)WBC世界バンタム級タイトルマッチ(2月24日)
アレハンドロ・サンティアゴ(メキシコ) vs 中谷潤人(M.T)
※帝拳プロモーション
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(3)IBF世界バンタム級タイトルマッチ(5月4日)
エマヌエル・ロドリゲス(プエルトリコ) vs 西田凌佑(六島)
※KWORLD3プロモーション
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(4)世界S・バンタム級4団体タイトルマッチ(5月6日)
井上尚弥(大橋) vs ルイス・ネリ(メキシコ)
※大橋プロモーション
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(5)WBA・IBF世界S・フライ級王座統一戦(7月7日)
井岡一翔(志成) vs フェルナンド・マルティネス(アルゼンチン)
※志成プロモーション
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(6)WBO世界バンタム級タイトルマッチ(9月3日)
武居由樹(大橋) vs 比嘉大吾(志成)
※大橋プロモーション
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(7)IBF世界ライトフライ級タイトルマッチ(10月12日)
シビ・ノンシンガ(南アフリカ) vs 矢吹正道(LUSH緑)
※亀田プロモーション
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(8)WBA世界バンタム級タイトルマッチ(10月13日)
井上拓真(大橋) vs 堤聖也(角海老宝石)
※帝拳プロモーション

■年間最高試合(世界戦以外)
(1)OPBF東洋太平洋・WBOアジアパシフィック・スーパーライト級王座統一戦(2月22日)
井上浩樹(大橋) vs 永田大士(三迫)
※大橋プロモーション
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(2)WBOアジアパシフィック・スーパーバンタム級王座決定戦(10月5日)
村田昴(帝拳) vs 山﨑海斗(六島)
※帝拳プロモーション
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(3)WBOアジアパシフィック・ライト・OPBF東洋太平洋・級王座統一戦(11月21日)
保田克也(大橋) vs 宇津木秀(ワタナベ)
※DANGANプロモーション
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(4)OPBF東洋太平洋ライトフライ級タイトルマッチ(12月15日)
タノンサック・シムシー(タイ/Gツダ) vs 谷口将隆(ワタナベ)
※六島プロモーション

◎女子選手各賞ノミネート
■女子最優秀選手賞
晝田瑞希(三迫)
松田恵里(TEAM10COUNT)
山中菫(真正)

■年間最高試合
(1)WBO女子世界J・バンタム級タイトルマッチ(1月12日)
晝田瑞希(三迫) vs パク・ジヒョン(韓国)
※真正プロモーション
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(2)IBF世界アトム級タイトルマッチ(1月12日)
岩川美花(姫路木下) vs 山中菫(真正)
※真正プロモーション
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WBA・WBO世界アトム級タイトルマッチ(1月12日)
(3)黒木優子(真正) vs 松田恵里(TEAM10COUNT)
※真正プロモーション
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(4)WBOアジアパシフィック J・バンタム級王座決定戦(6月14日)
チャオズ箕輪(ワタナベ) vs 奥田朋子(堺春木)
※DANGANプロモーション


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記録の罠 - モンスターのワールド・レコードについて Part5  -

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■数字は時に嘘をつく・・・ 世界戦通算勝利「22」

井上尚弥

■時代によって異なる世界タイトルの権威と重み

現代のボクサーが抱える永遠の課題と言うべき最大の相違点、すべての矛盾と欺瞞の出発点と言い換えた方が相応しい、階級と認定団体の増加。ざっくりまとめると次のようになるが、まずは階級。

◎階級の推移
■1740年代:2階級
(1)ヘビー級:160ポンド(72.7キロ/11ストーン4ポンド)超
(2)ライト級:160ポンド未満
18世紀のイングランドに、古代ローマのパンクラチオンに源流を持つボクシングを蘇らせた創始者ジェームズ・フィグの高弟、ジャック・ブロートンが著した史上初のルールブック、「ブロートン・コード(ルール)」により規定。

ジャック・ブロートン
※ジャック・ブロートン(1703年もしくは1704年7月5日~1789年1月8日)

ブロートン・コード(ブロートン・ルール)
◎ブロートン・コード(ブロートン・ルール)について
<1>Broughton’s Rules - Boxrec
https://boxrec.com/media/index.php/Broughton%E2%80%99s_Rules
<2>初期ボクシングのルール(ブロートンズ・ルール)に関する研究(大阪体育学会)
https://www.osaka-taiikugakkai.jp/journal/vol48/48_Umegaki_187-195.pdf

■1740~1860年代:4階級
(1)ヘビー級:160ポンド(72.7キロ/11ストーン4ポンド)超
(2)ライト級:160ポンド未満(130~150ポンド説有り)
(3)ウェルター級:142~145ポンド(目安)
(4)ミドル級:160ポンド(目安)
1838年に「ロンドン・プライズリング・ルールズ(London Prize Ring rules)」が発表され、1853年の改訂版策定公表(ベアナックル・ルールの完成)を経て、ベアナックル・ルールが確立する18世紀後半~19世紀初頭にかけて、142~145ポンドを目安にしたウェルター級、160ポンドを上限(あくまで目安)としたミドル級が定められたとされるが、明確な時期やリミットについては判然としない。

ロンドン・プライズリング・ルールズ(1頁)

「ブロートン・コード(ルール)」と「ロンドン・プライズリング・ルールズ」のいずれにも、階級(ウェイト・クラス)について明文化はされておらず、最軽量のライト級は当然142ポンド未満となる筈だが、各階級のリミットは必ずしも厳格に運用されていた訳ではなく、馴染みの無い新しい階級が定着するまでには相応の時間も必要で、下の階級ほど軽く扱われる傾向も影響して、ライト級について130~150ポンド程度を目安にしていたの説もある。

■1880~1890年代:3・4階級
<1>1867年:3階級/クィーンズベリー・アマチュア選手権(1867~1885年)
(1)ヘビー級
(2)ミドル級
(3)ライト級
明確なリミットの規定は不明だが、おそらく以下のABA選手権に同様と思われる(ABA選手権がクィーンズベリー選手権に倣った)。

<2>1881年:4階級/ABA選手権
(1)ヘビー級:168ポンド超(上限なし)※1889年に「無制限(下限も無し)」に改訂
(2)ミドル級:11ストーン4ポンド(160ポンド=72.7キロ)
(3)ライト級:10ストーン(140ポンド=63.5キロ)
(4)フェザー級:9ストーン(126ポンド=57.15キロ)

1865年にクィーンズベリー・ルール(Marquess of Queensberry rules/2オンスグローブ着用)が施行され、グローブ着用に否定的なプロのプライズ・ファイターの様子を見て、アマチュアの必要性を痛感したクィーンズベリー侯爵が、自らの名前を冠した大会を主催。プロにも参加を呼びかけ、いわゆるオープン選手権の体裁を取った。

クィーンズベリー侯
※クィーンズベリー侯/ジョン・ショルト・ダグラス侯爵
(1844年7月20日~1900年1月31日)

クィーンズベリー侯の活動が継続する間に、イングランドには史上初のアマチュア統括機関が誕生する。現在も英国のアマチュアを管理運営する「ABA:イングランド・アマチュアボクシング協会/Amateur Boxing Association 」で、1880年に12のクラブが参加して創設された。ABAは新大陸アメリカの選手たちにも参加を認めていた為、1903年のセントルイス五輪でボクシングが正式競技として採用されるまで、史上初にして唯一の国際大会と見なされる。

■1909~10年:8階級
(1)ヘビー級:175ポンド超(上限なし)
(2)L・ヘビー級:12ストーン7ポンド(175ポンド=79.5キロ)
(3)ミドル級:11ストーン4ポンド(160ポンド=72.7キロ)
(4)ウェルター級:10ストーン7ポンド(147ポンド=66.8キロ)
(5)ライト級:9ストーン9ポンド(135ポンド=61.4キロ)
(6)フェザー級:9ストーン(126ポンド=57.15キロ)
(7)バンタム級:8ストーン6ポンド(118ポンド=53.5キロ)
(8)フライ級:8ストーン以下(112ポンド=50.9キロ)

1891年にロンドンで設立された「ナショナル・スポーティング・クラブ(ナショナル・スポーツ・クラブ:The National Sporting Club /NSC)」が1909年~10年にかけて定めた階級で、これが現在に続く「正統8階級(Original 8・Traditional 8)」である。

歴史上最古の統括機関(の1つ)と位置づけられる「NSC」は、クィーンズベリー・ルールの改訂に着手した他、試合役員(Ring Officials:レフェリー,タイムキーパー,立会人他)の役割を整理するとともに、初めて採点基準を規定し、勝利者を決定する権限をレフェリーのみに与え、判定に疑義が生じないようラウンドごとのポイントを明確にした。

「NSC」の積極的な活動によって、グローブ着用と階級制への理解と関心が深まり、より安全でフェアな戦いを実現する為、階級とリミットの規定を厳格化しようという機運が高まって行く。

1913年(1911年説有り)に、パリ(ブリュッセル説有り)で発足した最古の世界タイトル認定団体IBU(International Boxing Union/国際ボクシング連合)も、当然のようにNSCの8階級を継承する。

NSCは発祥の地英国を統括する機関として活動を続けるが、フランス革命とウィーン体制崩壊(1848年)に端を発した「特権階級(王侯貴族) VS 下層階級(一般市民)」の対立の構図は、瞬く間に欧州全域に波及拡大。NSCが承認する英国タイトルマッチは、そのまま世界タイトルの権威を無言のうちに主張した。

様々な曲折を経て、第一次大戦(1914年7月~1918年11月)の終結後、王制を敷いていた欧州諸国多くが民主制へと移行。英国も民主化のうねりと無縁ではいられず、19世紀の選挙権拡大に始まった改革の機運に、20世紀に入って以降の税制改正が相まって、巨額の相続税(財産税)に直撃された貴族階級が急速に弱体化。

貴族とその周辺にいる政治経済の権力層を軸にした、NSC会員限定でボクシングの公式戦が催されることに、一般の市民から明確な抗議の声が上がるようになり、特権階級による支配から、一般市民と地域社会が取って代わる時代へと移り行く中、NSCもその役割を終える時がやって来る。

1929年にコヴェントガーデンに構えた立派な居城を閉鎖したNSCは、英国ボクシング管理委員会(BBBofC:British Boxing Board of Control)へとその姿を変え、発展的解消という形で幕を閉じた。


そしてナチスが政権を掌握したドイツが、オーストリアを併合。きな臭さを増す1938年4月、IBUの総会がミラノで開催された数日後、ローマで画期的な出来事が起きる。ボクシングが盛んな国の統括機関から、総勢63名もの代表者が集まり、おそらく史上初にして唯一の国際会議が開かれた。

BBBofC(英国のコミッション)はもとより、NYSACとNBAも出席し、世界タイトルマッチの15ラウンド制が国際的に合意形成された他、各階級の世界チャンピオンについて確認と合意が行われている。

新大陸(NYSAC,NBA)との覇権争いで大きくリードを許したIBUも、第二次大戦の深刻な戦禍により、1940年代以降IBUは活動停止に追い込まれる。そして大戦終結後の1946年、現在のEBU:European Boxing Union)に名称を変更。自主的に欧州王座認定機関へと転換した。

盟主の座をアメリカに奪われ、発祥国としてのプライドを傷付けられた英国と旧IBU残党の反発と抵抗は根強く、英・仏を中心に時折出現する特定の人気選手を世界王者として承認するケースが散見された。


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◎王国アメリカの動き

■1920年~21年:11・13階級
<1>ニューヨーク州アスレチック・コミッション
(1)ヘビー級:175ポンド超
(2)L・ヘビー級:175ポンド以下
(3)ミドル級:160ポンド以下
(4)ウェルター級:147ポンド以下
(5)J・ウェルター級:147ポンド以下
(6)ライト級:135ポンド以下
(7)J・ライト級:130ポンド以下
(8)フェザー級:126ポンド以下
(9)J・フェザー級:122ポンド以下
(10)バンタム級:118ポンド以下
(11)J・バンタム級:115ポンド以下
(12)フライ級:112ポンド以下
(13)J・フライ級:109ポンド以下

<2>NBA(現在のWBA)
(1)ヘビー級:175ポンド超
(2)L・ヘビー級:175ポンド以下
(3)ミドル級:160ポンド以下
(4)ウェルター級:147ポンド以下
(5)J・ウェルター級:140ポンド以下
(6)ライト級:135ポンド以下
(7)J・ライト級:130ポンド以下
(8)フェザー級:126ポンド以下
(9)バンタム級:118ポンド以下
(10)フライ級:112ポンド以下
(11)J・フライ級:109ポンド以下

ニューヨーク州でボクシングの合法化を定めた「ウォーカー法」の成立と同時に、管理運営を担保するコミッション制度が1920年に正式スタート。「ニューヨーク州アスレチック・コミッション(NYSAC:New York State Athletic Commission)」と命名され、プロ・ライセンスの管理を開始するとともに上記の13階級を規定した。

さらに翌1921年、東部を中心とした17州が集まり、世界タイトルを認定する団体「NBA(National Boxing Association:全米ボクシング協会)」を組織する。IBU(音頭を取った英国)の発足から、8(10)年遅れての発進。

J・ウェルター級とJ・ライト級だけでなく、軽量級にも狭間のジュニア・クラスを設けたNYSACの決定にまず驚く。流石に多過ぎると感じたのかどうか、NBAはJ・フェザー級とJ・バンタム級を削って全11階級としたが、フライ級の下にJ・フライ級を設けているのは意外ですらある。

ただし、J・ウェルター級とJ・ライト級は参入する有力選手が皆無に等しく、バーニー・ロスとトニー・カンゾネリのライバル争い等の僅かな例外を除いて開店休業の状態が続き、J・フライ級もこのウェイトで戦う選手がおらず、発足直後に廃止されたらしい。

NYSACの13階級に、J・ミドル(154ポンド以下),ミニマム(105ポンド),S・ミドル(168ポンド以下),クルーザー(190ポンド以下/2003年~2004年に200ポンドに引き上げ)の4つを加えて、J・フライの109ポンドを108ポンドにすれば、現在の17階級と完全に同一となる。

この流れは現実のチャンピオンシップにも影響を及ぼす。現代に継承される世界チャンピオンは、1880年代~90年代にかけてヘビー級,ミドル級,ライト級,バンタム級,フェザー級,ウェルター級の順に次々と登場するが、「正統8階級」を構成するL・ヘビー級は1903年、フライ級は1913年まで待たねばならない。

そしてJ・ライト級は、1921年11月18日にNYSACが承認する決定戦がMSGで行われ、ジョージ・チェイニーに5回反則勝ちを収めたジョニー・ダンディ(米/イタリア系移民)が初代王者となり、NBAも1925年3月に追承認を公表する。

やや遅れて、J・ウェルター級も1923年1月30日、ミルウォーキーでバド・ローガンを10回判定に下したピンキー・ミッチェルを、NBAが初代王者として認定(NYSACは1959年まで未承認/140ポンドに関与せず)。

初代J・ライト級王者ダンディ(左)と初代J・ウェルター級王者ミッチェル
※左:初代J・ライト級王者ジョニー・ダンディ/生涯戦績:335戦90勝(22KO)31敗19分け194ND・1NC/NYSAC J・ライト級王座V3/NYSACフェザー級王座V1
(1991年殿堂入り/戦績:国際ボクシング殿堂)
※右:初代J・ウェルター級王者ピンキー・ミッチェル/生涯戦績:83戦44勝(10KO)23敗6分け/NBA J・ウェルター級王座V2


しかしながら、ジュニア・クラスは容易にファンと識者の支持を得られず、「要するに、ウェルターとライトで王者になれない連中の集まり。お助け階級に過ぎない」と口さがない評価を下す人たちが大勢を占めた。

こうしてJ・ライト級は1933年、J・ウェルター級も1935年を最後に王者が不在となり、1940年代のティッピー・ラーキン(J・W)とサンディ・サドラー(J・L)をごく瞬間的な例外として、MSGを舞台に大活躍するカルロス・オルティス(カーロス・オーティズ/J・ウェルター級とライト級を奪取/殿堂入り)とフラッシュ・エロルデ(比/分裂前のJ・ライト級をV10/殿堂入り)が登場する1959年の正式な復活まで休眠する。

また、NYSACとNBAは設立当初から折り合いが悪く、何かにつけて反目対立したが、ニューヨークを主戦場に活躍する人気選手を手厚くバックアップするNYSACの基本的な姿勢は、MSGがボクシング興行に情熱を失う1970年代後半まで続く。

140ポンドと130ポンドの復活に華を添えたオルティス(左)とエロルデ(右)
※左:カルロス・オルティス(米/プエルトリコ)/生涯戦績:70戦61勝(30KO)7敗1分け
(NBA・NYSAC J・ウェルター級王座V2/NBA・NYSACライト級王座V4/WBA・WBCライト級王座V5=通算V9)
※右:フラッシュ・エロルデ(比)/生涯戦績:117戦88勝(33KO)27敗2分け(NBA J・ライト級王座V10)
※戦績:国際ボクシング殿堂


日本人選手と43戦(29勝12KO13敗1分)もやったエロルデは、日本で育ったとの評価もある異例中の異例にしても、オルティスとサドラーにも来日経験があり、1962年の冬に東京を訪れたオルティスは、11月7日に後楽園ホールでフェザー級の第一人者,高山一夫(帝拳)似10回判定勝ち。

「高山が強いのか、オルチス(日本国内でのカナ表記)がさほどでもないのか?」と不穏な空気が流れるも、翌12月3日の本番では、日本人初のライト級王座挑戦を果たした帝拳の小坂照男(エロルデとは5戦したライバル:1勝4敗)を問題にせず、圧巻の右強打で5回KO勝ち。余りの強さに、国技館を埋めた満員の観客は言葉を失った。

◎オルティス vs 小坂戦を伝えるニュース映像


◎エロルデ 12回TKO 小坂(第4戦)のニュース映像
1964年7月27日/蔵前国技館



オルティスより7年早い1955年8月8日、後楽園球場(!)で当時の国内フェザー級No.1,金子繁治(笹崎)を6回TKOに屠ると、2週間も経たない8月20日、マニラに飛んでフラッシュ・エロルデにまさかの10回判定負け。

5ヶ月後の1956年1月18日、サンラフランシスコのカウ・パレスで再びエロルデと対峙したサドラーは、得意の裏技(レフェリーの眼を盗んで仕掛ける様々な反則)も容赦なく繰り出し、エロルデの瞼を切り裂いて13回TKO勝ち。フェザー級のベルトを三度び守っている。

Sandy Saddler
※サンディ・サドラー(米)/生涯戦績:162戦144勝(103KO)16敗2分け
NBA・NYSACフェザー級王座V4(2度獲得)/NBA J・ライト級王座V1(返上)
戦績:国際ボクシング殿堂
時のフェザー級で頂点を争ったウィリー・ペップとの3戦(2勝2KO1敗)は、歴史に残る数多のライバル対決のベスト10に数えられる。

◎サドラー vs 金子戦を報じるショート・ドキュメント
SANDY SADLER IN JAPAN
https://www.dailymotion.com/video/x8q34by

この頃の世界王者は防衛戦の合間に数多くのノンタイトルをこなし、各国の偵察を兼ねて稼ぐのが当たり前で、アウェイでの判定負け(キャッチウェイト+地元判定)も珍しいことではなく、タイトルマッチで負けなければいいと割り切るチャンプも少なくなかった。

この時サドラーのスパーリング・パートナーに呼ばれたのが、ウェルター級のプロボクサーだった作家の安部譲二。フェザー級とは思えないパワーと攻防の高度な技術を前に、「何もさせて貰えない。唖然とした」と後に著作の中で追懐。

「フェザーにしちゃサドラーはデカいし(公称174センチ)、俺は駆け出しの三下で比べものにならない。でもさ、4階級も重いんだぜ。なのに赤子の手を捻るどころじゃなくて、子供扱いにもならない。バケモノかって思うよ。こんな強いのとやらされる金子はたまったもんじゃない」と同情さえ覚えたという。


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◎1960年代:11階級(J・ミドル級の新設)
(1)ヘビー級:175ポンド超
(2)L・ヘビー級:175ポンド以下
(3)ミドル級:160ポンド以下
(4)J・ミドル級:154ポンド以下(※)
(5)ウェルター級:147ポンド以下
(6)J・ウェルター級:140ポンド以下
(7)ライト級:135ポンド以下
(8)J・ライト級:130ポンド以下
(9)フェザー級:126ポンド以下
(10)バンタム級:118ポンド以下
(11)フライ級:112ポンド以下

腕に覚えのあるL・ヘビー級の猛者たちが、ほぼ例外なくヘビー級に挑み続けたように、人気と実力を併せ持つウェルター級のベスト・オブ・ベストたちも、真の中量級No.1を目指して時のミドル級トップにぶつかって行くのが、20世紀中頃までの王国アメリカにおける伝統だった。

がしかし、175ポンド上限のL・ヘビー級と、190~200ポンド超のヘビー級との間にある15~20ポンドを超える重量の違いは、致命的とも言えるパワー&耐久性の差となって立ちはだかり、同様にウェルター級(147ポンド上限)とミドル級(160ポンド上限)を分ける「13ポンドの壁」もまた、高く切り立つ断崖絶壁として軽量の男たちの行く手を阻む。

そんな状況に手を打つべく、147ポンドと160ポンドの間に設けられたのが、154ポンドを上限とするJ・ミドル級で、1962年10月20日にデニー・モイヤーとジョーイ・ジャンブラによる初代王者決定戦が行われ、WBA(World Boxing Association)に改称したばかりのNBAは、15回3-0判定勝ちを収めたモイヤーを王者として承認。

AAUトーナメント優勝を手土産に、1957年に18歳でプロ入りしたモイヤーは、僅か2年後の1959年8月、弱冠二十歳でウェルター級王者ドン・ジョーダンに挑戦して15回0-3版手負け。ウェルター級で3度王者(通算V7に成功して返上)になり、ミドル級に上げて2階級を制する名王者エミール・グリフィス(殿堂入り)との1勝1敗を含む連戦で巻き返しを図り、新たな階級でチャンスを掴んだ。

Denny Moyer1
※J・ミドル級初代王者デニー・モイヤー/生涯戦績:141戦98勝(25KO)38敗4分け1NC

2度目の防衛戦で、同じくウェルター級のコンテンダーだったラルフ・デュパスに敗れてしまい、リマッチも落としたモイヤーは、ルイス・ロドリゲス(殿堂入り)やフレディ・リトル(J・ミドル級王者として来日)、ニノ・ベンベヌチ(ローマ五輪金メダル/J・ミドルとミドルを制覇して殿堂入り)ら、自らと同じくウェルター~ミドルを股にかけて戦う実力者たちと顔を合わせ、1965年頃にはミドル級に定住。

初載冠から10年を経た1972年3月、無敵の王としてミドル級を支配するカルロス・モンソンに挑戦したが、5回TKOで一蹴されている。

ヘビー級とともに、近代ボクシングの歴史を切り拓いてきたミドル級とウェルター級に挟まれたJ・ミドル級は、出来たばかりという最大のマイナスを差し引いても、地味で目立たないという点でJ・ウェルター級とJ・ライト級を上回っていた。正当性を疑われるのも、スーパースターや人気選手が敬遠するのも、であるからこそ東洋圏の選手に割り込む隙があったこともまったく同じ。


1969年9月9日、時のJ・ミドル級王者フレディ・リトル(米)が来日。大阪府立体育会館で、東洋王座の2階級(ウェルターとミドル)を制した第一人者の南久雄(中外)を、鮮やかな右ショートストレート1発で2回にノックアウト。

公称170センチの小兵リトルは腕が長く、5センチの身長差(南:175センチ)をものともせず、初回から長身の南に正確なジャブをヒット。もともと南はディフェンスが甘く、特にジャブを貰い過ぎる傾向が目立ったが、やはり世界基準のジャブを面白いように貰って雲行きの悪さを実感させた直後のフィニッシュに、府立を埋めたファンは絶句するしかなかった。

◎試合映像:リトル 2回KO 南


1971年10月31日、日大講堂(旧両国国技館)で五輪銀メダリストのカルメロ・ボッシ(伊)を破り、日本のボクサーとして最重量級の王座に辿り着いた”炎の男”輪島功一(三迫/小林弘に並ぶ6回防衛の国際最多タイ記録)に続き、工藤政志(熊谷),三原正(三迫)と3人の王者を輩出したJ・ミドル級は、昭和のファンにとってはお馴染みの階級でもある。

初期の輪島を象徴する「カエル飛び」や「余所見パンチ」、意表を突く様々なフェイント等々、セオリーから大きく外れる変則スタイルは、オリンピアンのボッシには思いのほか功を奏した。

ところが、郡司信夫を始めとする識者と一部ベテラン記者には甚だウケが悪く、「頭脳的ではあった」と一定の評価をした郡司は、返す刀で「ボクシングに非ず」と一刀両断。ト

世界タイトルマッチの試合会場が、観客の笑い声でどよめく。想像もできなかった光景に、思わず苦虫を噛み潰し、眉をひそめる会長さんもおられた。トリッキーに過ぎる「カエル飛び」等の陽動戦術は、専門家には好まれていなかったと記憶する。

引退後に出演したドキュメンタリー作品で、輪島自身「カエルなんて、本当はやっちゃいけないの」と真顔で話しているが、同時に「背が低くて腕も短い俺は、まともにやっていたら勝てない。真っ正直に飛び込んだってカウンターを食うだけだから、人一倍頭を使って考えるんだよ」とも言っていた。

輪島の代名詞となったカエル飛び

その後防衛を重ねて行く過程で、輪島のボクシングは驚くほど洗練の度合いを増し、熟練した正攻法のボクサーファイターへと変貌する。

キックボクシングの解説もやった作家で僧侶の寺内大吉は、ミゲル・デ・オリベイラ(ブラジル)との再戦を完勝で締め括り、地元判定の批判を免れないドロー防衛で厳しい批判を受けた初戦の因縁に決着を着ける快勝を目撃して、「世界王者としては二流だった輪島が、気が付けば一流の技術と正統の駆け引きを身に付けていた」と、最大限の賛辞を贈り輪島を労った。

どんな時でも頭と腰を低くして、人の悪口と大言壮語を誰よりも嫌った輪島が、幾許かの含羞を浮かべつつ、うっすら涙声で「私の誉れです」と述べる姿が今も脳裏に焼き付いて離れない。


輪島と言えば、何はなくとも「奇跡の復活」。

こっぴどいKO負けを喫したオスカー・アルバラード(米)と柳斉斗(韓)の2人からベルトを獲り戻し、日本人の世界王者で初めて敗れた相手からの奪還に成功した2試合が有名になり過ぎて、すっかり影が薄くなってしまったけれど、生涯のベストバウトは多くのファンが推す柳とのリマッチではなく、オリベイラとの第2戦かもしれないと、時々そんな風に思うことがある。

◎参考映像
<1>奇跡のチャンプ “炎の男”輪島功一 復活伝説
ttps://www.youtube.com/watch?v=lAaYvFsFAOs
<1>炎のチャンピオン 輪島功一
ttps://www.youtube.com/watch?v=0mc2rWOkXDc


80年代以降、シュガー・レイ・レナード&トーマス・ハーンズ、驚愕の増量を繰り返す”石の拳”デュラン、最年少王者ウィルフレド・ベニテスらのスーパースターが相次いで154ポンドに参入。

日本と東洋圏のトップクラスがおいそれと近づけない、正統8階級のウェルター,ミドルと変わらない高みへと昇り、縁遠いクラスとなってしまう。

輪島が成し遂げた連続6回の防衛は、小林弘に並ぶ当時の国内最多記録であり、競技人口が縮小する一方の現状を振り返らずとも、輪島の記録に迫り、塗り替えるような邦人J・ミドル(S・ウェルター)級王者が出現する可能性は限りなくセロに近い。


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記録の罠 - モンスターのワールド・レコードについて Part 4 -

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■数字は時に嘘をつく・・・ 世界戦通算勝利「22」

井上尚弥

■世界戦の通算KO勝利「22」- ”ブラウン・ボンバー”が拳を交えたホール・オブ・フェイマーたち

P4Pランクや殿堂入りへの道のりは、ただでさえ険しく遠い。軽量級で一家を成したトップ・ファイターにとって、その勾配はより一層厳しく斜度を急にし、切り立った岩壁から落石や雪崩が次々と襲い掛かる。地表を厚く覆った氷の裂け目にいつ足下をすくわれ、遥か奈落の底へ吸い込まれても不思議はない。

何連勝したのか、何連続KO勝ちしたのか。記録は戦果の是非を推し量る何よりの指標ではあるが、ことボクシングにおいては、「誰に勝ったのか」が極めて重要になる。あるいは誰に負けて、その勝ち方や負け方はどうだったのか。

プロ通算71戦の中で、”ブラウン・ボンバー”が雌雄を決したホール・オブ・フェイマーと、それに準ずる腕達者を振り返ってみる。

25度の防衛を含む27回の世界戦に、ノンタイトルを含めて対峙したホール・オブ・フェイマーは、以下に挙げる10名(対戦順/延べ13試合)。

<1>マックス・シュメリング(独)/元世界ヘビー級王者(※対戦時)
<2>マックス・ベア(米)/元世界ヘビー級王者(※)
<3>ジャック・シャーキー(米)/元世界ヘビー級王者(※)
<4>ジェームズ・ジム・ブラドック(米)/世界ヘビー級王者(※)
<5>ジョン・ヘンリー・ルイス(米)/世界L・ヘビー級王者(※)
<6>ビリー・コン(米)/前世界L・ヘビー級王者(※ルイスに挑戦する為返上)
<7>ジャージー・ジョー・ウォルコット(米)/コンテンダー(※後の世界ヘビー級王者)
<8>エザード・チャールズ(米)/世界ヘビー級王者(※)
<9>ジミー・ビヴィンズ(米)/L・ヘビー級及びヘビー級ランカー(※)
<10>ロッキー・マルシアノ(米)/気鋭のランカー(※後の世界ヘビー級王者)

近代ボクシングの歴史そのものと表すべき、いずれ劣らぬ錚々たる顔ぶれ。シュメリング,コン,ウォルコットとは2度づつ対戦している。

際立って有名なのが、「ヒトラー vs ルーズベルト」,「悪の枢軸(独裁) vs 自由主義」の代理戦争として全世界の注目を集めたシュメリングとの第2戦(第1戦はルイスのKO負け=プロ初黒星)であり、L・ヘビー級のベルトを投げ打ち、軽量の不利を押してブラウン・ボンバーに挑んだビリー・コンとの対決。

そして引退を撤回して挑んだ後継王者エザード・チャールズに完敗した後、顕在化するロートル化の兆候を承知の上でなおも戦い続けて、台頭著しい”ブロックトン・ブロックバスター”の豪腕に文字通り叩きのめされ、今度こそ息の根を止められたマルシアノとのラストファイト。

ブラウン・ボンバーと戦った11人のホール・オブ・フェイマー
※殿堂入りした11人の名選手たち(7名のヘビー級王者と3名のL・ヘビー級王者+L・ヘビー級&ヘビー級で活躍したトップ・ランカー)

25回連続防衛の偉業を成し遂げ、世界王者のまま引退しながら、経済観念の欠如に加えて、最終盤に稼いだギャランティを気前良く軍に寄付を続けたことが災い。納税に窮して現役復帰するしかなくなる。40歳を目前にしたカムバック・ロードが上手く行く筈もなく、多くの米国人チャンピオンが繰り返した破滅の構図に、ルイスもまた見事にハマり込む。

ブラウン・ボンバーと戦わずして王者にならざるを得ず、多くのファンから正統性に疑問符をつけられたチャールズは、ボクシング史に時折登場する、ベルトを持ったままリングを去った”偉大な王者”の直後を引き受ける後継王者の悩みと苦しみに直面した。

図らずもルイスは、チャールズが最も必要としていた正統性を与えただけでなく、シュガー・レイ・ロビンソンとともに50年代の王国を熱狂させ、シンボリックな存在として君臨したマルシアノの王座にも、紛うことなき重みと真正性を付与してキャリアを終えた。


「負けないで辞めるチャンピオンは卑怯だ。」

焦土と化した戦後間もない東京の復興を体現した後楽園球場で、ハワイからやって来た世界フライ級王者ダド・マリノ(米国籍を持つ比国系移民)を15回判定に下して、開祖渡辺勇次郎以来、日本ボクシング界の悲願だった世界王者第1号となった白井義男の言葉である。

勇躍ロサンゼルスに遠征して、戦勝国アメリカの大会で競泳自由形の世界記録を更新した”フジヤマのトビウオ”こと古橋広之進とともに、白井は敗戦に打ちひしがれる日本人に大きな希望の灯を点した。

フライ級のベルトを4度守り、後楽園球場と大阪球場に合計20万人を動員した白井は、アルゼンチンの”小さな巨人”パスカル・ペレスに敗れてリングに別れを告げ、戦前から国内のリングを見守り続け、ペンと言論で日本ボクシング界を鼓舞し続けた”生き証人”郡司信夫(この人こそが和製ナット・フライシャー)と肩を並べ、TBSの人気中継「東洋チャンピオン・スカウト」の解説席を長らく賑わせる。

Champion_scout
※昭和のボクシング中継を象徴するお二人,白井義男と郡司信夫(右:実況担当の岡部達アナウンサー)

果たして何時のことだったか、そして東洋と日本のどのチャンピオンが負けた時だったか、あるいは日本人世界王者の誰かだったか。記憶が曖昧となって判然とせず申し訳ないが、人気と実力を兼ね備えた王者だったのは間違いない。

その人気王者がトシを取り、すっかりピークアウトして次代を担う新進気鋭にその座を譲り、数日後に引退の会見を開くと、「次の王者に直接バトンを手渡す義務が、すべてのチャンピオンにあるんです、本来は・・・」と白井は続けた。

ペレスとのリマッチで5回KOに退き、自らの時世が終わったことを満天下に知らしめてリングを降りた、かつての自分の姿に思いを馳せているかのようでもあった。


負けた相手から直接王座を奪還した国内史上初の王者で、動画配信サイトのお陰で海外のファンから”ジャパニーズ・ロッキー”と呼ばれ、見直しの機運が高まった輪島功一もそっくり同じことを語っている。

「柳(斉斗/初戦で壮絶なKO負け=2度目の返り咲き)に勝った後、チャンピオンのまま辞めればいいじゃないかって、そう言ってくれる人もいた。でもそれじゃあ、俺の後でチャンピオンになる奴に失礼だって思った。」

「ちゃんと負けて辞めるのが、次の男に対する礼儀なんだよ。”輪島が引退したからチャンピオンになれた”って、そいつがずっと言われ続けたらかわいそうだろ?。ボクサーはみんな裸一貫でチャンピオンになる。最後も裸一貫で終わるのが筋だよ。」

白井義男(左)と輪島功一(右)
※左:白井義男/生涯戦績:58戦48勝(20KO)8敗2分け/NBAフライ級王座V4
(BGジム→フリー/カーン博士の個人マネージメント)
※右:輪島功一(三迫)/生涯戦績:38戦31勝(25KO)6敗1分け/WBA・WBC統一J・ミドル級王座V6(2度の王座奪還に成功)

活躍した時代は勿論、階級もファイトスタイルも、そしてパーソナリティも含めて何もかもが違う2人が、”王者の矜持”とも言うべき覚悟について、”勝ち逃げ”を良しとしない同じ意識を共有していることは実に感慨深い。

世界チャンピオンの称号とその象徴たるベルトは、リングの上のみで継承されるべき。理屈と正義はまったく仰せの通りなのだが、では我らがリアル・モンスターに対して、面と向かって「勝ち逃げ」だと言い切れる者が果たしているだろうか。

戦う相手と時期をじっくり吟味した上で、ライバル,強敵と目される同じ(近い)階級の候補たちの勢いが落ちるまで待ち、可能な限りのローリスク・ハイリターンを恥ずかしげもなく追い求める。

その結果、波乱と敗北のリスクが相応に残る場合は徹底回避・・・計算尽くのマッチメイクを批判され続けたキャリア初期のデラ・ホーヤ、そしてゴールデン・ボーイからPPVセールス・キングの座を受け継いだ”ダーティ込みのスーパー安全運転”メイウェザーには、何の遠慮もなくド真ん中の直球で言い切ってしまえるけれども・・・。


Part 5 へ


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◎ブラウン・ボンバー vs ホール・オブ・フェイマー

<1>ジェームズ・ジム・ブラドック(米)/2001年殿堂入り
1937年6月22日/MSG,N.Y./8回KO勝ち(世界王座獲得)
※試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=s7uLzHZa56U
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生涯戦績:86戦46勝(27KO)23敗4分け11ND2NC
1-10のオッズをひっくり返して、無敵と思われていたマックス・ベア(米)に15回3-0判定勝ち。1926年に軽量のL・ヘビー(今ならミドルに近いS・ミドル)としてプロキャリアを始めたブラドックは、3年目の1929年頃からヘビー級に主戦場を移し、数多くの敗北を糧に経験を積みながら、キャリア最晩年に超特大の番狂わせを起こして世界王者となった。3度の3連敗に2連敗も4回あり、2敗+2引き分けで4試合連続白星無しの記録も残している。
ボクサーがこなす試合数が激減した現在の基準で見れば、とても世界王者に相応しい戦歴とは言い難い。しかし、ブラドックの奇跡は多くのファンに受け入れられ、2005年に製作された映画「シンデレラ・マン」は世界的なヒットを飛ばし、興収は1億ドルを超えると伝えられた。

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<2>マックス・シュメリング(独)/1992年殿堂入り
(1)第1戦
1936年6月19日/ヤンキー・スタジアム/12回KO負け(ヘビー級15回戦)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=igoidtPyy6g
※観客動員:60,000人(有料入場者数:39,875人)
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(2)第2戦
1938年6月22日/ヤンキー・スタジアム/1回KO勝ち(V4)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=Q9jk2IPvDG8
※観客動員:72,000人(有料入場者数:66,227人)
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生涯戦績:70戦56勝(39KO)10敗4分け
若きルイスにプロ初黒星を着けたシュメリングは、1930年6月12日、ヤンキー・スタジアムでジャック・シャーキー(米)に4回反則勝ちで世界王者となり、フライ級~ヘビー級まで300戦以上戦ったとされるヤング・ストリブリング(米)を15回TKOに退けてV1に成功するも、1932年6月21日の再戦(MSG)で15回1-2判定負け。シャーキーに雪辱を許して王座転落。欧州と米本土を往復しながら、ミッキー・ウォーカー(元ミドル級王者/ジャック・デンプシーと並ぶ20年代を代表するスター)やマックス・ベア、パウリノ・ウスクデン(スペイン)らの強豪と連戦。王者候補として台頭してきたルイスに胸を貸した。第2次対戦後に、ドイツ国内におけるコカ・コーラの販売権を獲得して実業家として大成功。経済観念に乏しく、現役時代に滞納した納税に追われるかつてのライバルに匿名で支援を行っていた。

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<3>ジョン・ヘンリー・ルイス(米)/1994年殿堂入り
1939年1月25日/MSG,N.Y./1回KO勝ち(V5)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=QZhsPWon24s
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生涯戦績:117戦103勝(60KO)8敗6分け
認定団体が承認した史上初の黒人世界王者とされるJ・H・ルイスは、現役の世界L・ヘビー級王者として挑戦(5度の連続防衛に成功)。L・ヘビー級リミット上限(175ポンド)を6ポンド上回る181ポンドで計量したが、ブラウン・ボンバーはジャスト200ポンド。1-8の掛け率が示す通り、圧倒的不利を承知の上でルイスに挑み玉砕した(キャリアで唯一のKO負け)。この試合は、1913年12月19日に行われたジャック・ジョンソン vs バトリング・ジム・ジョンソン戦以来となる、黒人同士による史上2回目の世界戦と位置づけられた。
2人のルイスは仲の良い友人で、ジョーはJ・Hの異変に気が付いていたとの説もある。対戦には当初消極的だったとも言われ、J・Hが退職金代わりとなる高額な報酬を得られることを交換受験にオファーを受け、余計なダメージを残さずに済むよう、初回からKOを狙っていたという。

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<4>ビリー・コン(米)/1990年殿堂入り
(1)第1戦
1941年6月18日ポログラウンド/13回KO勝ち(V18)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=q3UnRVEWfoM
※観客動員:54,487人
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(2)第2戦
1946年6月19日/ヤンキー・スタジアム/8回KO勝ち(V22)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=fvurqxGCSYE
※観客動員:45,266人
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生涯戦績:77戦64勝(15KO)12敗1分け
1934年に16歳でプロになったコンは、135ポンドのライト級だった。大人の身体が出来上がるに従い、短期間にウェルターからミドルへと階級をアップ。ミドル級を主戦場に戦っていたが、1939年7月にメリオ・ベッティーナを15回判定に下してL・ヘビー級の世界王座を獲得。167~170ポンド前後の間を推移する軽量(今ならS・ミドル級)のままでの載冠。ベッティーナとの再戦を15回3-0判定でクリアした後、ガス・レスネヴィッチとの2連戦をいずれも15回3-0判定で退け3度の防衛に成功すると、175ポンド前後のL・ヘビー級リミット上限まで増量して、180~190ポンド超のヘビー級の強豪を連破。ルイスへの挑戦が決まり、本番前月の1941年5月にL・ヘビー級王座を返上した。
持ち前のフットワークと正確なジャブ&ショートでリードした第1戦、12回を終えた時点でのスコアは2-0(7-5/7-4/6-6)でコンを支持。残り3ラウンズをアウトボックスで流せば勝利は確実だったが、敢えて勝負に出て逆転KO負け。「逃げまわって勝ったと言われたくなかった」と後に追懐している。
第二次対戦による中断を挟み、5年越しに実現した再戦では、ルイスが強力なプレッシャーをかけ続けてコンの健脚を封印。脚が止まると顕著な体格差は如何ともし難く、ほぼ一方的にルイスが試合を支配した。腕に自信のあるL・ヘビー級は、真の名誉と報酬を求めて例外なくヘビー級に挑み返り討ちに遭う。ヘビー級の歴史は、死屍累々たるL・ヘビー級トップたちの屍の上に築かれたと言っても間違いではない。

◎第1戦時のトレーニング映像(カラー化)
Joe Louis and Billy Conn - Training for their fight & Buildup - 1941 Colorized
Legends of Boxing in Color
https://www.youtube.com/@LegendsofBoxinginColor
https://www.youtube.com/watch?v=--spp3eX1OQ

衰える以前の若々しいルイス(26~27歳)と、全盛を迎えようとしていたコン(23歳)の短いインタビューが納められている。明瞭な滑舌でしっかり話すルイスの姿を、この機会にご覧いただけると有り難い。

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<5>ジャージー・ジョー・ウォルコット(米)/1990年殿堂入り
(1)第1戦
1947年12月5日/ヤンキー・スタジアム/15回2-1判定勝ち(V24)
オフィシャルスコア:9-6/8-6/6-7(オッズ:10-1でルイス)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=4zrF2c2KG7I
ハイライト(画質良好):https://www.youtube.com/watch?v=zacwwq_Wo3o
※観客動員:18,194人
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(2)第2戦
1948年6月25日/ヤンキー・スタジアム/11回KO勝ち(V25)
オフィシャルスコア(10回まで):5-2/3-6/4-5(2-1)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=3VYF7I6Fjjg
※観客動員:42,667人
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生涯戦績:71戦51勝(32KO)18敗2分け
25回連続防衛の末尾を飾る2連戦。1930年9月に165ポンドの”軽いL・ヘビー”としてデビューしたウォルコット(16歳)は、プロ3年目の途中でようやく175ポンドのリミット上限に達すると、1935年頃(20~21歳)にようやく180ポンド前後まで増量してヘビー級に参戦。並み入りランカーたちと勝ったり負けたりを繰り返しながら、1938年の終わり~39年(24~25歳)にかけて190ポンドに到達した。
そこからさらに8年余りをかけて、プロ17年目にして実現した世界タイトル初挑戦が、キャリア最晩年のブラウン・ボンバーだった。33歳11ヶ月での挑戦は当時の最高齢記録で、1-2の割れた判定で涙を呑むと、半年後にセットされた再戦では、10回まで3名中2名の副審がウォルコットを支持する展開に持ち込みながら、第11ラウンドにルイスの強打を浴びて逆転KO負け(最高齢挑戦記録を34歳5ヶ月に更新)。
ルイスの返上・引退を受けて、1年後の1949年6月22日、シカゴのコミスキーパークでエザート・チャールズとの決定戦に臨むも15回0-3判定に退く。チャールズとは最終的に4度戦うライバルとなったが、1951年7月18日に行われた3度目の対決(4度目の挑戦)を実らせ、プロ21年目(!)にして遂に世界の頂点に立つ。37歳5ヶ月での載冠は、1994年11月5日に45歳9ヶ月のビッグ・ジョージ・フォアマンに抜かれるまで、40年以上ヘビー級の最高齢記録として保持された。
チャールズとのリマッチ(4度目の対戦)を15回3-0判定で凌ぐと、ルイスを完全なる引退に追い込んだマルシアノの挑戦を受け、ダウンの応酬の末、13ラウンドにかの”スージーQ”を食らって失神KO負け(1952年9月23日)。翌1953年5月15日のリマッチでは、マッハの踏み込みもろとも叩きつけるマルシアノの右が一閃。初回2分余りで轟沈した。1年2ヶ月と短い在位に終わったが、不惑を眼前にキャリアの第4コーナーを回り切ってからの活躍は強烈な印象を残した。

◎史上に残るノックアウト2選
(1)マルシアノ 13回KO ウォルコット第1戦/第13ラウンド
”Suzy Q(スロー再生)”

※フルファイト(カラー化)
https://www.youtube.com/watch?v=TPKFt4Y7UaQ

(2)ウォルコット 7回TKO E・チャールズ第3戦/第7ラウンド

※フルファイト
https://www.youtube.com/watch?v=Paso9Isirg8

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<6>エザード・チャールズ(米)/1990年殿堂入り
1950年9月27日/ヤンキー・スタジアム/15回0-3判定負け(世界王座挑戦)
オフィシャル・スコア:5-10/2-13/3-12
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=Q4TG57JflxY
※観客動員:22,357人
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生涯戦績:115戦89勝(51KO)25敗1分け
1940年に16歳でデビューしたチャールズも、ミドル級からスタートして徐々にウェイトを増やし、プロ8年目頃まではL・ヘビー級の第一人者として活躍。ヘビー級の王座に就いた当初は180ポンド台前半~半ばの軽量で、そのまま防衛を続けた(通算V8)。
現役時代の後半から身体に麻痺を感じるようになっていたが、負けが込んでも経済的な理由で引退することができず、ダメージを深めてしまう。引退後に麻痺が進み、車椅子での生活を余儀なくされてパンチドランクを疑われたが、1968年に「ALS(筋萎縮性側索硬化症)」の診断を受ける。治療法の発見と確立を信じて闘病を続けるも、1975年5月28日、53歳の若さで永眠。

◎チャールズ 15回3-0判定勝ち ジョーイ・マキシム(米)
1951年5月30日/シカゴ・スタジアム
オフィシャル・スコア:85-65×2,78-72

元L・ヘビー級王者のマキシムは、175ポンド時代から合計4度対戦したライバル。結果はチャールズの全勝(すべて判定)となっているが、いずれも実力伯仲の好勝負と言われ、特にヘビー級王座を懸けた第4戦(V8)は、ニック・バロン(米)を11回KOで下したV5戦とともに、ベスト・パフォーマンスに挙げる識者が少なくない。

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◎ノンタイトル
<2>マックス・シュメリング(独)/1992年殿堂入り
(1)第1戦
1936年6月19日/ヤンキー・スタジアム/12回KO負け(ヘビー級15回戦)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=igoidtPyy6g
※観客動員:60,000人(有料入場者数:39,875人)

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<7>ジャック・シャーキー(米)/1994年殿堂入り
1936年8月18日/ヤンキー・スタジアム/3回KO勝ち(15回戦)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=DW-w6UqR4kw
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生涯戦績: 55戦38勝(14KO)13敗3分け1ND
1902年生まれのシャーキーは、19世紀末に生を受けたジャック・デンプシーやジーン・タニーと世代的には重複する。ローリング・トゥエンティ(1920年代)の後半~30年代の始め頃までがピークと考えてよく、デンプシーを連破したタニーが引退した後の王座をシュメリングと争い反則負け(1930年6月12日)。2年後の再戦でシュメリングを15回2-1判定にかわして王座に就いたが、翌1933年6月29日の初防衛戦で”動くアルプス”プリモ・カルネラ(伊)に6回KO負け。公称183センチは、20年代当時としては十分なサイズに分類され、1927年7月21日にヤンキー・スタジアムで行われたデンプシーとの15回戦(ノンタイトル)は、75,000人の大観衆を集めるなど人気を博した。
後にカルネラを巡る八百長疑惑の追及が始まり、ナット・フライシャーを始めとする記者たちは、シャーキーのKO負けにも容赦無く鋭い視線を向ける。「夫はお金を受け取っていた」と夫人が証言して苦境に立たされ、「神に誓って言う。真剣勝負だった。実力で負けたんだ」と、シャーキー自身は亡くなるまで一貫して潔白を主張し続けた。

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<8>マックス・ベア(米)/1995年殿堂入り
1935年9月24日/ヤンキー・スタジアム/4回KO勝ち(15回戦)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=6n3YEN_Xe5I
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生涯戦績:84戦72勝(53KO)12敗
反則も辞さない荒々しいインファイトで時に物議を醸しながらも、多くのファンに支持されたベア(189センチ/209ポンド)は、デビュー5年目の1934年6月14日、大物プロモーター,テックス・リカードがロングアイランドにオープンしたMSGボウル(屋外施設)で、プリモ・カルネラ(197センチ/263ポンド)から合計12回(10回・11回・7回等諸説有り)に及ぶダウンを奪う圧勝で世界王座に就く。
当然のように安定政権を期待されたが、1年後の1935年6月13日に同じMSGボウルで迎えた初防衛戦で、伏兵ブラドックによもやの15回0-2判定負け。10-1の掛け率をひっくり返す超特大の番狂わせを許したベアは、「舐めていた。トレーニングキャンプも適当にこなすだけで、真剣さが足りなかった」と練習不足を認めるしかない。王座を獲得してからの1年間、ベアは完全にオフして心身をなまらせてしまっていた。
激しく攻撃的なファイトが原因で2度のリング禍を経験しており、最初のフランキー・キャンベル戦(1930年8月25日/5回TKO勝ち)では、揉み合いから倒れ込んだ後、キャンベルの頭を掴んで振り回して倒してしまう。試合後異変を訴えたキャンベルは救急搬送されたが、手当ての甲斐なくその日のうちに逝去。
2人目のアーニー・シャーフとは2度対戦があり、1勝1敗と星を分けている。1930年12月19日の初戦はシャーフが10回3-0判定勝ちを収めて、1932年8月31日の再戦はベアの10回2-0判定勝ち。最終10ラウンド、ベアに滅多打ちされたシャーフは終了ゴング直前に昏倒。10カウントは免れたが、意識を取り戻すまでに3分を要したとされる。
目を覚まして事無きを得たシャーフだが、頻繁に頭痛を訴えるようになり、そうした状況下で8月に続いて12月、翌1933年1月と3試合を消化(2勝1敗)。
そして1933年2月10日、運命のプリモ・カルネラ戦に臨み13回KO負け。フィニッシュされたシャーフは、そのまま意識を失い絶命。試合の直前インフルエンザに罹患したシャーフは、病理解剖の結果髄膜炎を発症していたことが判明するも、「2人ともベアに殴り殺された」との風聞が流布された。公の場では相変わらず傍若無人に振舞うベアだったが、2人の死亡事故による精神的なダメージは深く、毎晩のように悪夢にうなされていたと家族が証言している。

ルイス vs バディ・ベア第1戦(左)・第2戦(右)

6歳離れた弟のバディ・ベアもヘビー級で活躍した実力者で、兄弟ボクサーとしても有名。バディは挑戦者として2度ルイスにアタックしたが、初戦を7回反則で落とした後、2戦目はショッキングな初回KOに退き兄の敵討ちはならず。

◎ベア 11回TKO カルネラ
1934年6月14日/MSGボウル(N.Y.州ロングアイランド)
※観客動員:52,268人
https://www.youtube.com/watch?v=QoXFwJUszIw

◎ブラドック 15回2-0判定 ベア
1935年06月13日/MSGボウル(N.Y.州ロングアイランド)
オフィシャル・スコア:5-9/4-11/7-7
※観客動員:29,366人
https://www.youtube.com/watch?v=721t9npoB3U

◎ルイス 7回反則 バディ・ベア(V17)
1941年5月23日/グリフィス・スタジアム(ワシントンD.C.)
※観客動員:23,912人
https://www.youtube.com/watch?v=S9zaOdAr2jY

◎ルイス 1回KO バディ・ベア(V20)
1942年1月9日/MSG,N.Y.
※観客動員:16,689人
https://www.youtube.com/watch?v=WgpfTBWY1DA

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<9>ジミー・ビヴィンズ(米)/1999年殿堂入り
1951年8月15日/メモリアル・スタジアム(メリーランド州ボルティモア)
10回3-0判定勝ち(6-3×2/7-3)
参考映像:
(1)ショートドキュメント:https://www.youtube.com/watch?v=3Vq777nUPIk
(2)E・チャールズ第4戦:https://www.youtube.com/watch?v=QVJPgXWk7RM
(3)E・チャールズ第5戦:https://www.youtube.com/watch?v=4JKoxiJv1ZU
(4)アーチー・ムーア第5戦:https://www.youtube.com/watch?v=0Kqobp78uUA
※観客動員:18,215人
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生涯戦績:112戦86勝(31KO)25敗1分け
AAUナショナルズの決勝まで進んだ後、1940年の年明けにミドル級でプロのキャリアを始めたビヴィンズ(二十歳)は、翌1941年~1943年にかけてキャリアのピークを築いたとされる。
”史上最高の無冠の帝王”チャーリー・バーリー、後のL・ヘビー級王者アントン・クリストフォリディス、ミドル級コンテンダーのネイト・ボールデン、N.Y.公認ミドル級王者テディ・ヤローズ、後のミドル級王者ビリー・スース、同じくL・ヘビー級の頂点に立つガス・レスネヴィッチとジョーイ・マキシム、コンテンダーとして活躍するタミー・マウリエロにボブ・パスター、リー・サボルドといった面々を破り、クリーヴランドの新人はセンセーションを巻き起こす。
第二次大戦によるブランクも短期間で済だんが、強過ぎるが故に世界王座挑戦の機会には恵まれず、1953年10月のラストファイトまで、13年9ヶ月の間に、7名のホール・オブ・フェイマー(4名に勝利)と11人の世界王者(8名に勝利)と対戦したが、世界タイトルマッチのリングに上がる事なく、34歳で実戦のリングを去った。
上述したクリストフィリディスと3回(2勝1敗)、マキシムとも2回(1勝1敗)、メリオ・ベッティーナ(L・ヘビー級王者)と3回(1勝2敗)、マリーとは5回(3回勝利)、チャールズとは5回(1回勝利)、リー・Q・マリーとは5回(3勝2敗)、そして”オールド・マングース”ことアーチー・ムーアとも5回(1勝4敗)拳を交えていたビヴィンズについて、「チャーリー・バーリーとサム・ラングフォード以上に運が無かった。彼こそ”無冠の帝王”と呼ばれるべきだ」と評価する識者とマニアも多い。

◎A・ムーア 9回終了TKO ビヴィンズ
1951年2月21日/セント・ニコラス・アリーナ(リンク)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=AZMaR2o4TeE

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<10>ロッキー・マルシアノ(米)/1990年殿堂入り
1951年10月26日/MSG,N.Y./8回TKO負け
オフィシャルスコア(7回まで):2-4/3-4/2-5
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=Inv30LbuZkU
※観客動員:17,241人
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生涯戦績:49戦49勝(43KO)
一~二昔前、強いボクサーと言えばアイリッシュかイタリア系と相場は決まっていた。イタリア系のスター王者や人気のコンテンダーは数多く、主役の座を優れた黒人の若者たちに譲った後も枚挙に暇はないけれど、イの一番に名前が挙がるとすればこの人しかいない。”ブロックトン・ブロックバスター”ことロッキー・マルシアノである。
黒人特有の下からアッパー気味に振り上げる、凄まじい左フック1発でチャールズをし止めて王座に就いた老練ウォルコットに挑戦したマルシアノは、豊富な経験と巧まざるセンスに裏づけされた駆け引きに苦しみながらも、終盤13ラウンドに必殺の”スージーQ(Suzy Q)”が炸裂。衰えを知らないジャージー・ジョーを完璧に眠らせて、悲願の世界一を射止めた。
ウォルコットとのリマッチを瞬殺で終えると、復活の執念を燃やすエザード・チャールズとの2連戦を含む6連続防衛に成功。判定決着となったのは、チャールズとの初戦のみ。そして1956年4月、引き分けとノー・コンテスト(ディシジョン)が1つもない、49戦全勝(43KO)のパーフェクト・レコードとベルトを持ったまま引退を表明。最後の挑戦者は、最後の最後までヘビー級制覇に挑み続けたL・ヘビーの帝王アーチー・ムーアだった。
子供の頃は大のベースボール・ファンで、第一の夢はメジャーリーガーだった。プロボクサーとしてデビューする1947年(23歳)、シカゴ・カブスのマイナー球団(クラスD~E)のキャンプに参加してテストを受けたが、3週間でクビになっている。中途半端に続けるよりも、スパっと切られたことでボクシング1本に絞る決断ができた。災い転じて福となすとはよく言ったものである。
マルシアノはお金に厳しく、金銭の出入りを巡って家庭内の摩擦を繰り返したとされるが、引退後に納税や生活に困窮することなく、一度も復帰せずに済んだ点は素直に評価されていい。1969年8月31日、乗っていたセスナが墜落。46歳の若さで天に召された。

◎マルシアノ 9回KO A・ムーア
1955年9月21日/ヤンキー・スタジアム
※観客動員:61,574人
https://www.youtube.com/watch?v=_pPfPUQopfg


殿堂入りした名選手との対戦の多寡について、中~重量級と軽量級を単純比較できないことは前章で示した通り。家庭用のTVが普及する以前、ラジオの時代へと遡れば遡るほど、こなす試合数の違いも影響して、年代が古い選手ほど名選手同士の対戦機会が増える。

そうした事情を前提にした上で、全試合中に占める構成比を記しておく。

こうやって数字をまとめると、ルイスの凄さがより一層明確になる。リマッチをやったコン,ウォルコットの4戦を含んで、26回ある世界戦のうち、4割近い8戦がホール・オブ・フェイマーで、判定まで持ち込んだのはウォルコットのみ。再起した後のビヴィンズ(10回戦)を加えても、フルラウンズ持ち応えたのはこの2人だけ。

そしてコンとウォルコットだけでなく、初戦でミソを付けられたアルトゥロ・ゴドイ(チリ)とエイブ・サイモン(米)の両者とも再戦に応じて、しっかり決着を着けている。1930年代のヘビー級を語る上で欠かすことのできないマックス・ベア、ジャック・シャーキー,プリモ・カルネラ(伊),パウリノ・ウスクデン(スペイン)の4人を倒している点も、画竜点睛を欠かずに済んでいる重要なポイント。

闘うべき相手と時期を逸し過ぎることなく闘い、スーパースターに求められる結果をしっかり残した。一度引退する前の敗北はシュメリングに喫した初黒星だけで、ピークを迎える前夜でもあり、若さ(トップレベルにおける経験の浅さ)を露呈した感は否めない。

世界戦での1敗は、引退を撤回して挑んだチャールズ戦。従軍(第二次大戦)による中断と加齢による衰えが明白で、ラストファイトのマルシアノ戦は痛々しくて見ていられない。ラリー・ホームズのパンチに反応できず、思わず恐怖を浮かべる老いたモハメッド・アリの顔が二重写しになる。


余りにも鈍くて重いアリを弱肉強食のリングから救い出す為、デビュー以来チーフとしてコーナーを率いたアンジェロ・ダンディが10ラウンド終了後に棄権を決めると、強硬に継続を主張する名物セコンドのバンディニ・ブラウンを大声で一喝。

「チーフはこの俺だ!(引っ込んでろ!)」

あれは歴史に残る名シーンだったと、今でも信じて疑わない。

「(パンチが飛んで)来るのがわかっているのによけられない。あんな経験は、後にも先にもあの時だけだ。恐ろしかったよ・・・」

今にして思えば、ホームズ戦の準備に入ったアリは滑舌が悪くなって、呂律が回っていない時があり、宿痾となるパーキンソン病の初期症状が顕在化し始めていた。長くアリの健康面をサポートしたチームドクターのファーディ・パチェコは、アリの復帰に反対を貫きチームを追われている。

アリが戦える状態に無いことは、トレーナーのダンディにもわかっていたと思う。だからこそのストップだった筈。「アリが戦うと決めた以上、コーナーに立つのは私だ。他の誰にも任せる訳にはいかない」と、90年代の中頃~後半だったと記憶するが、何かのインタビュー記事で読んだ。

残念なことに、ブラウン・ボンバーのコーナーにダンディはいない。マルシアノの豪打に晒され、止めの一撃をまともに受けてしまった。

14年8ヶ月(1934年7月~1949年3月/戦時下の中断含む)のプロキャリアで許した3敗は、すべてホール・オブ・フェイマーとの対戦になる。

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記録の罠 - モンスターのワールド・レコードについて Part 3 -

カテゴリ:
■数字は時に嘘をつく・・・ 世界戦通算勝利「22」

井上尚弥

■世界戦の通算KO勝利「22」- 偉大なる”ブラウン・ボンバー”との比較

前章で触れたせんない繰言が、ひょっとして現実になったとしよう。ジョー・ルイスの通算記録「22」の息を少しでも長らえさせるべく、4ラウンズのエキジビションに過ぎないジョニー・デイヴィス戦を、強引に世界タイトルマッチとしてカウントしてしまった。

仮にそうなってしまい、ルイスの通算KO勝利が「23」に増えたところで、次のピカソ戦でモンスターはすぐに追いつく。もしも9月にアフマダリエフが判定まで粘ったとしても、年末のリヤドでニック・ボール(英)と相まみえさえすれば、9割方の確率で5階級制覇と新記録を同時に達成できる。

ピカソ,アフマダリエフ,ボールとの3試合が、万が一にもすべて判定決着に終わったとしても、デッドラインの35歳まであと3年。そのうち2年間×3試合、ラスト・イヤーを2試合とすれば、残りの試合数は8。

大きな故障や病気などのアクシデントさえ無ければ、ブラウン・ボンバーの記録更新は決まったも同然であり、時間の問題ということになる。だがしかし、事はそう簡単に運びそうにない。

モンスターが23度目のKO勝ちを収めて、米英の主要なボクシング・メディアのSNSで報じられるや否や、あれやこれやと注文が付くだろう。どんな文句なのか、その内容もおおよその見当はつく。

では、その見当を羅列する前に、我らがモンスターの世界戦を再確認しておこう。

◎モンスターの世界戦:24戦24勝(22KO)
※通算戦績:29戦29勝(26KO)
*東京ドーム×1
**さいたまスーパーアリーナ×2
***有明アリーナ×5
****横浜アリーナ×2
#米/ラスベガス MGMグランド/ザ・バブル(無観客専用特設会場)
##米/ラスベガス ヴァージン・ホテルズ
###米/カリフォルニア ディグニティ・ヘルス・スポーツパーク
*#英/スコットランド SSEハイドロ

■L・フライ級(108ポンド/48.97キロ上限)/20歳11ヶ月~21歳7ヶ月
※呼称の違い:IBFとWBO=J・フライ級(旧来通り)
(1)2014年4月6日 アドリアン・エルナンデス(メキシコ)6回TKO勝ち
(WBC L・フライ級獲得/WBC4位として挑戦)
(2)2014年9月5日 サマートレック・ゴーキャットジム(タイ/WBC13位)11回TKO勝ち
(WBC L・フライ V1)
※2014年11月6日返上
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■S・フライ級(115ポンド/52.16キロ上限)/21歳8ヶ月~24歳11ヶ月
※呼称の違い:IBFとWBO=J・バンタム級(旧来通り)
(3)2014年12月30日 オマール・ナルバエス(亜)2回TKO勝ち
(WBO J・バンタム級獲得/2階級制覇/WBO8位として挑戦)
(4)2015年12月29日 ワルリト・パレナス(比/WBO1位)2回TKO勝ち
(WBO J・バンタム V1)
(5)2016年5月8日 デヴィッド・カルモナ(メキシコ/WBO1位)12回3-0判定勝ち
(WBO J・バンタム V2)
(6)2016年9月4日 ペッチバンボーン・ゴーキャットジム(タイ/WBO1位)10回KO勝ち
(WBO J・バンタム V3)
(7)2016年12月30日 河野公平(ワタナベ/元WBA王者・WBO10位)6回TKO勝ち
(WBO J・バンタム V4)
(8)2017年5月21日 リカルド・ロドリゲス(米/WBO2位)3回KO勝ち
(WBO J・バンタム V5)
(9)2017年9月9日 アントニオ・ニエベス(米/WBO7位)6回終了TKO勝ち
(WBO J・バンタム V6)###
(10)2017年12月30日 ヨアン・ボワイヨ(仏/WBO6位)3回TKO勝ち
(WBO J・バンタム V7)****
※2018年3月6日返上
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■バンタム級(118ポンド/53.52キロ上限)/25歳1ヶ月~29歳9ヶ月
(11)2018年5月25日 ジェイミー・マクドネル(英)1回TKO勝ち
(WBAバンタム級獲得/3階級制覇/WBA2位として挑戦)
(12)2018年10月7日 ファン・C・パジャーノ(ドミニカ/元WBA SP王者/4位)1回KO勝ち
(WBAバンタム V1/WBSS初戦)****
(13)2019年5月18日 エマヌエル・ロドリゲス(プエルトリコ/IBF王者)2回TKO勝ち
(IBFバンタム級獲得・WBAバンタムV2・2団体統一/WBSS準決勝)*#
(14)2019年11月7日 ノニト・ドネア(比/WBA SP王者)12回3-0判定勝ち
(WBA:V3/IBF:V1)**
(15)2020年10月31日 ジェイソン・モロニー(豪/WBO1位)7回KO勝ち
(WBA:V4/IBF:V2)#
(16)2021年6月19日 マイケル・ダスマリナス(比/IBF1位)3回TKO勝ち
(WBA:V5/IBF:V3)##
(17)2021年12月14日 アラン・ディパエン(タイ/IBF5位)8回TKO勝ち
(WBA:V6/IBF:V4)
(18)2022年6月7日 ノニト・ドネア(比/WBC王者)2回TKO勝ち
(WBCバンタム級獲得 WBA:V7/IBF:V5/3団体統一)**
(19)2022年12月13日 ポール・バトラー(英/WBO王者)11回KO勝ち
(WBOバンタム級獲得 WBA:V6/IBF;V4/WBC:V1/4団体統一)***
※2023年1月13日返上
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■S・バンタム級(122ポンド/55.34キロ上限)/30歳3ヶ月~在位中
※呼称の違い:IBFとWBO=J・フェザー級(旧来通り)
(20)2023年7月25日 スティーブン・フルトン(米)8回TKO勝ち
(WBC・WBO S・バンタム級獲得/4階級制覇/WBC・WBO1位として挑戦)***
(21)2023年12月26日 マーロン・タパレス(比)10回KO勝ち
(WBA・IBF S・バンタム級獲得 WBC・WBO:V1/4団体統一)***
(22)2024年5月6日 ルイス・ネリー(メキシコ/WBC1位)6回TKO勝ち
(WBA・IBF:V1/WBC・WBO:V2)*
(23)2024年9月3日 T・J・ドヘニー(アイルランド/WBO2位)7回TKO勝ち
(WBA・IBF:V2/WBC・WBO:V3)***
(24)2025年1月24日 キム・イェジョン(韓/WBO11位)4回KO勝ち
(WBA・IBF:V3/WBC・WBO:V4)***
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(25)2025年6月14日 アラン・ピカソ(メキシコ/WBC1位):米/ラスベガス
(26)2025年9月 ムロジョン・アフマダリエフ(ウズベキスタン/WBA暫定王者):開催地未定
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■フェザー級(126ポンド/57.15キロ上限)?
(27)2025年12月 ニック・ボール(英):リヤド/WBA世界フェザー級タイトル挑戦
※ボール戦が正式決定した場合:S・バンタム級王座を保持したまま挑戦。フェザー級王座は獲得後即返上して、S・バンタムに戻るとの意向を明らかにしている(中谷潤人戦に備えて?)。


壮観。

こうやって振り返ってみると、この二文字以外の言葉が出て来ない。見当たらない。「フーっ」と深いため息をつく。

2014年4月6日にデビュー6戦目でL・フライ級のWBC王座を獲って以来、10年10ヶ月という、スポーツ選手にとっては途方もなく長い年月の間、23試合もの世界タイトルマッチを延々戦い続けている。

これほどのレコードを、井上尚弥以外にどこの誰が達成できると言うのか。前章でジョー・ルイスの27試合を書き出した時、同じように「とんでもないな・・・」と深いため息をついてしまったが、モンスターの凄さもけっして引けを取らない。

日ごろ私たちは、唯一無二と良く言ったり書いたりするけれど、比類のない飛び抜けて優れた価値を表す「唯一」と「無二」を、わざわざ重ねて記す強調語の意味と希少性について、今一度考え直す必要があると、半ば本気で思ったりしてしまう。

◎Monster Milestones: Naoya Inoue | FULL EPISODE
2024年8月26日/Top Rank公式


◎Naoya Inoue's Destructive Knockout Power
2024年4月24日/Top Rank公式



では、今をときめくモンスターに対して、在米記者と識者,年季の入ったマニアたちは、どんな注文(難癖?)を付けてくるのか。想定できる幾つかを記すと・・・。

「認定団体は事実上NBAただ1つ。そして正統8階級しかない時代に、10年以上に渡ってヘビー級を完全に統治した偉大なブラウン・ボンバーと、階級が倍増(3→7)した軽量級のナオヤを同列に語るのは難しい。4つに分裂したベルトをまとめたことは評価に値するが・・・」

「ナオヤは素晴らしいボクサーだ。プロで12年以上戦って未だに無敗であり、異なる4つの階級で王者となり、そのうち2つで4団体を統一した。(男性では)クロフォード,ウシク,ナオヤの3人しかいない。ただ、戦績の中身が違う。」

「ルイスは多くのホール・オブ・フェイマーと激闘を繰り広げて勝ち残り、近代ボクシングの歴史そのものと表すべきヘビー級で、10年以上もベルトを守り続けた。ナオヤのレコードに載る真のビッグネームは、ドネアただ1人。初戦の彼は本当によくやったが、ピークを過ぎて久しく、スピード&反応も落ちていた。」

「王者の乱立と、水増しされたランカーの爆増。ナオヤが倒したチャレンジャーの中に、11位以下の実質ノーランカーは2~3人だけだが、現在のS・バンタムには、かつてのウィルフレド・ゴメス、ジェフ・フェネックにタイのサーマート、エリック・モラレスとマルコ・A・バレラ、イスラエル・バスケスにラファエル・マルケスのような本物がいない。」

「バンタムも同じだ。エデル・ジョフレとマサヒコ・ファイティング・ハラダ(原田)、ルーベン・オリバレスにサラテとサモラのZボーイズ、ルペ・ピントール,ジェフ・チャンドラー,ヒバロ・ペレス,オーランド・カニザレス。彼らに匹敵する実力者は見当たらない。」

「ジョニー・タピアが蘇って118~122で闘ったら、勝敗はともかく、モンスターを無事には済まさないだろう。現代のボクシングの相対的なレベルは、明らかに低下している。だからこそ、モンスターの強さが一層際立つ。彼らとモンスターが真正面からぶつかったら・・・誰だってワクワクせずにはいられないだろう!?」


悔しいけれど、いちいちごもっとも。ただし、4団体の分裂も15位まで居並ぶランカーの数も、現代を生きる選手たちに一切責任はない。だって、モンスターが座間で産声を上げた1993年、ミニマム級とS・ミドル級を除く15の階級は既に世界王座の価値と権威を認められて定着していた。

4つに分かれた認定団体も、新参のIBFが設立から10年目を迎えて認知を確立。5年目のWBOはまだまだ認知が進んでおらず、ナジーム・ハメドとバレラ、デラ・ホーヤらの快進撃がスタートする前夜。世界タイトルとは名ばかりのマイナー団体として、扱われ方は設立当初のIBF以下。ただひたすら、じっと耐えるのみ。

数多の非難と拒絶反応にめげることなく、12~15位への拡大が認知され出した世界ランキングと、それ以上に批判の多かった暫定王座制度も、「常に独断先行するWBC・始めは否定的でも必ず後追いするWBA(とIBF)」の基本的な構図に変わりはない。

経済原則(承認料収入の確保)には抗えず、後発のIBFとWBOが勝手にやり出した実体無き地域王座の乱発(陣取り合戦)にストップをかけるどころか、老舗の2団体まで同じ手口で対抗する始末。有力プロモーターとの呉越同舟にも拍車がかかる。


小さな日本人が中量級と重量級のスターを凌駕することに、大層ご不満で承服できないのはわかるが、鬱憤をぶつける相手が違う。空前絶後のミラクル・フィストを持ってしても、この壁だけはぶち破ることができない。

強力なライバル不在もまた、モンスターが責任を問われる課題ではまったく無く、各国各地域の統括組織と関係者たちが知恵を絞り、競技人口の減少スピードを少しでも緩やかに減速させるしかないと思う。


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◎ホール・オブ・フェイマーとP4P・・・軽量級の選出を阻む開かずの扉

そして、「ホール・オブ・フェイマーとの激闘」云々は、これこそ本当に勘弁して貰いたい。もともと米英は中~重量級中心にマーケットが形成されていて、軽量級の需要が少なく扱いも低かった歴史的経緯がある。

100年の歴史を持つリング誌の「ファイター・オブ・ジ・イヤー」は、「選出=将来の殿堂入り」との印象が強い。1922年から102回の選出(1933年:該当者無し)を毎年行ってきたが、ヘビー級を文字通りの大黒柱として、ウェルター級とミドル級を軸にした中~重量級が大勢を占めている上、そのほとんどが殿堂入りしているからだ。

フェザー級以下の階級から選ばれた精鋭は、以下に列挙した通り僅か7名に過ぎず、投票権を持つ記者が相当数重複するBWAA(Boxing Writers Association of America:1938年から選出開始)はさらに少なく、リング誌と同時受賞のフランプトン,モンスターと、BWAA単独選出となったドネアの3名しかいない。

リング誌とBWAAで判断が分かれた2012年のドネアを含めても、王国アメリカが認めたフェザー級以下の年間MVPは、1世紀に渡る歴史の中で8名ということになる。

◎リング誌ファイター・オブ・ジ・イヤー:フェザー級以下
<1>1945年:ウィリー・ペップ(フェザー級/1990年殿堂入り)
<2>1977年:カルロス・サラテ(バンタム級/1994年殿堂入り)
<3>1981年:サルバドル・サンチェス(フェザー級/1991年殿堂入り)
<4>1993年:マイケル・カルバハル(J・フライ級/2006年殿堂入り)
<5>1999年:ポーリー・アヤラ(バンタム級)
<6>2016年:カール・フランプトン(S・バンタム~フェザー級)
<7>2023年:井上尚弥(S・バンタム級)
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※ペップ:元王者フィル・テラノヴァとの防衛戦(N.Y.公認/MSG/V2)を含む年間7戦6勝(1KO)1分け
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※サラテ:世界中の注目を集めた「Zボーイズ」の片割れアルフォンソ・サモラ(WBA王者)との無敗対決に4回TKO勝ち(10回戦)=事実上の統一戦=を含む年間4試合(V3)
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※サンチェス:無敵のJ・フェザー級王者ウィルフレド・ゴメスに8回KO勝ち(V6)=を含む年間5試合(全勝/V4)/シュガー・レイ・レナード(ファイト・オブ・ジ・イヤーをW受賞したハーンズとの統一戦に劇的な逆転勝ち)との2人受賞
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※カルバハル:伝説となった「vs チキータ三部作(最軽量ゾーン史上初の100万ドルファイト)」の初戦における7回KO勝ちを含む年間3度の防衛(ファイト・オブ・ジ・イヤーとの同時受賞)
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※アヤラ:WBA王座を獲得したジョニー・タピア戦がファイト・オブ・ジ・イヤーをW受賞
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※フランプトン:レオ・サンタクルスを破ってWBAフェザー級スーパー王座獲得(2階級制覇)


◎BWAAファイター・オブ・ジ・イヤー(シュガー・レイ・ロビンソン賞):フェザー級以下
<1>2012年:ノニト・ドネア(S・バンタム級)
<2>2016年:カール・フランプトン(リング誌とのW受賞)
<3>2023年:井上尚弥(リング誌とのW受賞)
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※2012年のリング誌:ファン・M・マルケス(パッキャオ第4戦で歴史に残るKO勝ち)
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※2017年に両方ともFOYに選ばれたロマチェンコは、130ポンドのWBO王者としてリゴンドウ戦を含む年間3度の防衛に成功。
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※BWAAは1976年度にモントリオール五輪で金メダルを獲得した5名を同時に選出・表彰。レオン(L・ヘビー)とマイケル(ミドル)のスピンクス兄弟,レイ・レナード(L・ウェルター),ハワード・ディヴィス(ライト)とともに、フライ級のレオ・ランドルフも栄誉に浴しているが極めて稀な例外的表彰。


ご覧いただいて分かる通り、最も権威を認められたリング誌とBWAAの年間MVPは、概ねライト級が対象範囲の下限と見ても間違いではなく、フェザー級以下の軽量級からの選出は異例中の異例と表していい。

フェザー級以下のファイター・オブ・ジ・イヤー
写真上左から:W・ペップ,C・サラテ,S・サンチェス,M・カルバハル
写真下左から:P・アヤラ,C・フランプトン,N・ドネア(BWAA表彰),井上尚弥


栄えある年間MVPに選出されたにも拘らず、ラストファイトから5年経過(資格条件)した後も、国際ボクシング殿堂から招待状が届いていない選手は、ただ今のところは以下の5名しかいない。

◎有資格・未選出
<1>1947年ガス・レスネヴィッチ(米/世界L・ヘビー級王者)Last:1949年8月
<2>1999年:ポーリー・アヤラ(バンタム級)
<3>2002年ヴァーノン・フォレスト(米/元2階級制覇王者/ウェルター,S・ウェルター)Last:2008年9月
<4>2004年グレン・ジョンソン(ジャマイカ/元IBF L・ヘビー級王者)Last:2015年8月
<5>2013年アドニス・スティーブンソン(カナダ/元WBC L・ヘビー級王者)Last:2018年1月

殿堂未選出の年間MVPたち
※左から:レスネヴィッチ,フォレスト,ジョンソン,スティーブンソン


セルヒオ・マルティネス
”マラヴィーリャ”・マルティネス

有資格となる2020年に45歳でカムバックしてしまったセルヒオ・マルティネス(亜)は、ポール・ウィリアムズを狙い済ました左の一撃で沈めた2010年の選出。カっと目を見開いたまま失神するウィリアムズの姿を思い出すたび、全身を襲った戦慄が確かな実感を伴って蘇る。

ドネア vs モンティエル,R・ジョーンズ vs A・ターヴァー第1戦,パッキャオ vs ハットン,パッキャオ vs マルケス4,モンスター vs ドネア2,中谷潤人 vs A・モロニー戦等々をも凌駕する、ボクシングの怖さと魅力のすべてが集約・凝縮された瞬間だった。

完全アウェイのオン・ザ・ロードを生き残り、「リング誌FOY+P4P1位(ベスト3)」を達成したマラヴィーリャは、殿堂入り当確と考えるのがセオリー。大人しくしていれば、速攻でキャナストゥータに招かれていた筈。

余計なお世話と怒られるかもしれないが、”ポーリーの再来”になりそうな予感が漂うフランプトン。来(2026)年4月、最後の試合から5年を経過する。2010年年代半ば~後半の122~126ポンドを大いに盛り上げた小柄なアイリッシュに、狭き門の扉は開いてくれるのだろうか?。


2017年のロマチェンコ以降、ウシク(2018年),カネロ(2019年),フューリー(2回目)&テオフィモ(2020年),カネロ(2021年/2回目),ビヴォル(2021年),モンスター(2023年)と続き、昨年度はウシクが2度目の栄冠を射止めた。

ロマ,ウシク,カネロの3名と、年間MVPには縁が無いクロフォードは、現時点で既に殿堂入り当確で間違いなし。余程のスキャンダルに見舞われたとしても、多少の前後はあってもきっと招かれる。

同居の女性(3人目)を2階から投げ落として命を奪ったカルロス・モンソンと、レイプで実刑判決を受けたマイク・タイソンも無事キャナストゥータに召喚の運びとなった。八百長が発覚したり、米国内での第1級殺人で有罪が確定するような事態になれば話は別だが、この人たちに限ってそうした心配は無用だろう。

勿論、我らがモンスターも昨年当確を打った。驚くべき異能・難敵の出現や、モンスター自身増量の限界に達して誰かに名をなさしめることがあっても、キャリアトータルの評価が揺らぐことはおそらくない。

当落線上のラインぎりぎりにいる可能性が高いフューリーは、恒例行事の引退声明を出したばかり(何度目?)。ジュシュア戦の条件闘争と見る向きが大勢で、まともに信じるファンは少数派になる。仮にジョシュア戦が行われて勝ったとしても、A・Jがバリューを大きく落としてしまった後だけに、殿堂入りの決め手になるかどうかは微妙。

今月22日に再びリヤド開催でセットされた、ベテルビエフとのリマッチが迫るビヴォル。まずはリベンジの成功が第一の関門になるが、テオフィモともども、今後どこまで巻き返せるのかにすべてが懸かる。


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モンスターが戦ってきた29名(延べ)の対戦相手の中で、近い将来(最短で)の殿堂入りが確約されているのはドネアだけであり、他に可能性があるとすれば、今のところはオマール・ナルバエスただ1人。

”エル・ウラカン(ザ・ハリケーン)”の異名を欲しいままにした技巧派サウスポーも、寄る年波には勝てない、43歳の誕生日まで3ヶ月と迫った2018年4月、ベルファストで長身痩躯のゾラニ・テテ(南ア/WBOバンタム級)に挑戦して判定負けした後、2019年5月に同胞の無名選手に10回判定勝ちを収めたが、12月21日にやはり無名の中堅選手に10回判定負け(1-2)して以降、実戦のリングに戻っていない。

正式に引退のアナウンスがあったのかどうかは判然としないが、既にアマチュアの指導者(ジュニア・ユース世代)として第二の人生をスタートしたと報じられており、49歳という年齢を考えても復帰はまず無いと思われる。

昨年5月の時点で、最後の敗北から丸5年を経過。殿堂入りの基準を満たしているが、パッキャオ,ビニー・パジエンザ,マイケル・ナンらが選ばれた2025年度インダクティーズのリストに、ナルバエスの名前は無かった。

◎Class of 2025 Announced In Canastota!
2024年12月5日/IBHOF
http://www.ibhof.com/pages/inductionweekend/2025/announce_25.html


2大会連続で五輪出場(1996年アトランタ,2000年シドニー:いずれも2回戦敗退)を果たし、世界選手権でも2大会でメダルを獲得(1997年銅/1999年銀:いずれもフライ級)したトップ・エリートで、プロに転じてWBOのフライ級とJ・バンタム級の2階級を制覇。

フライ級は連続16回の防衛に成功して、70年代のミドル級に君臨したカルロス・モンソンの14回を抜き、アルゼンチンの国内最多記録を樹立(歴史的な評価でモンソンを抜くことはまず無いけれど)。続くJ・バンタム級も連続11回守り、通算の防衛回数は27回に上る。

オマール・ナルバエス(2014年)
■生涯戦績:55戦49勝(25KO)4敗2分け(KO率:51%)
◎世界戦通算:31戦29勝(12KO)3敗1分け
※在位期間:通算11年10ヶ月
<1>WBOフライ級:7年3ヶ月/2002年7月~2009年10月
<2>WBO J・バンタム級:4年7ヶ月/2010年5月~2014年12月

◎33歳当時の試合映像:ラヨンタ・ホイットフィールド(米)戦
2009年2月7日/プエルト・マドリン(亜)
10回TKO勝ち(WBOフライ級V15)
五輪代表候補の長身黒人アマ・エリート(公称170センチ)を一蹴。モンソンの記録(V14)を抜く。
※9回までのスコア:90-79×2,88-81)


殿堂入りの資格は十二分に有していると思うけれど、最短での選出は叶わなかった。投票権を持つ記者たちには、何が不足と映ったのだろうか。そこは幾ら詮索してみたところでせんないことではあるが、以下の諸要素がマイナスに響いたように思う。

<1>渡米は1回のみ(2011年10月のドネア戦:WBC・WBO統一バンタム級王座挑戦)
<2>統一戦をやっていない
<3>ビッグネームとの対戦が少ない(ドネアと井上の2名)
<4>世界王者経験者との対戦:8戦5勝3敗(KO勝ちゼロ)
<5>J・バンタムに上げて以降KO勝ちが目にみえて減った
<6>J・バンタム級でのV11中半数の5名が11位以下の実質ノーランカー+1名がバンタム級のローカル王者(正真正銘のノーランカー)
※フライ級:V16中11位以下は4名
<7>唯一の渡米となったドネア戦での守備的かつ消極的な姿勢

◎試合映像:ドネア戦
2011年10月22日/MSGシアター,N.Y.
12回0-3判定負け(120-108×3)
ttps://www.youtube.com/watch?v=04q1ASURchk

何だかんだと言いながら、アメリカのスポーツ界はアメリカに来ることを要求する。そしてアメリカで認められる為には、アメリカで記憶に残る結果を繰り返し残すことが不可欠。

ドネア戦のディフェンス一辺倒は、「勝つ気があるのか?」と謗られても止むを得ないものではあった。モンスターを目の前に、ひたすら延命に撤するだけだったポール・バトラー,アラン・ディパエン,T・J・ドヘニーに匹敵すると言ったら、きっとナルバエスはプライドを傷つけられて気分を害するだろうが、それぐらい打たれないことに専念していた。

ただしバトラーたちと違うのは、得意の脚を使ってドネアの間合いを外しながら、少ないながらも見映えのいいパンチを当てていたこと。正確なジャブ&ショートで、ドネアの顔を腫らすことには成功した。

もしも母国アルゼンチンで開催されていたら、中差程度のマージンでナルバエスの手が挙がっていたかもしれないと、妄想に近い想像を巡らせたことを思い出す。


※当たり前だが21歳のモンスターが細い

160センチに満たないサイズの不利を考慮せずとも、最軽量ゾーンでのKO率5割超えは充分過ぎる数値。フライ級時代には7連続KO防衛も記録していて、数字だけで判断すれば強打者に分類されるが、ナルバエスの場合は技術&タイミングをベースに,手数でストップに追い込む「倒すこともできる技巧派」。

(1)フライ級:7戦5勝(2KO)2敗
(2)J・バンタム級:16戦14勝(4KO)1敗
(2)フライ級:32戦30勝(19KO)2分け

モンスターのP4P1位と年間MVPは、米本土で3回(ラスベガス2回+カリフォルニア1回)戦い、ジェイソン・モロニーとダスマリナスを印象的なKOでフィニッシュしたことに加えて、英国スコットランドに遠征して、IBF王者だったマニー・ロドリゲスを僅か2ラウンドで破壊した、戦慄的なKOが強い追い風になったのは確かだと思う。


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