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パックマン vs モンスター Part 1 - Who's Best? Top 25 of The Last 25 Years -

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■ESPNが直近25年間(2000年~2025年)のP4Pベスト25を公表

パッキャオとモンスター

およそ1ヶ月前の先月6日、ESPNが直近(過去)25年間のベスト25(パウンド・フォー・パウンド)を公表した。当然のことながら、我らがモンスターとパッキャオのどちらがNo.1かという話ではなく、奇しくも同じ先月14日(現地:13日)に雌雄を決したカネロとクロフォードに焦点を当てる為である。

なのに、どうして「パッキャオ vs モンスター」に変わったのかと言えば、ボクシング・ビートに記事を寄稿する在米記者(キャッチ三浦のアメリカン・シーン等)であり、「マイノリティの拳」などの著作でも知られる三浦勝夫氏が、Yahoo! Japanの日本語版ニュースサイト内に持つ「西海岸からの風」と題した自身のコラムで、「モンスターvs.パックマン」との見出しでESPNの当該記事を採り上げたからに他ならない。

在米専門サイトへの英語版の寄稿はしておられないご様子で、あくまで日本国内限定の話題との前提をご理解いただいた上で、あれこれと感じたところを書き連ねる前に、まずはESPNが並べた25名のランキングと、三浦氏が公開した当該記事をご案内しなければ。

◎井上尚弥とマニー・パッキアオ。どちらが四半世紀最高選手に相応しいのか?
2025年9月5日/三浦勝夫
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4a750fcad6500a7081bce2f4ac8875656dcb12ac

◎ESPN Top 25 boxers of the century
Canelo, Crawford, Mayweather: Top 25 boxers of the century
2025年9月6日/ESPN
https://www.espn.com/boxing/story/_/id/46113827/canelo-crawford-mayweather-ranking-boxing-top-25-boxers-21st-century

1位:フロイド・メイウェザー(米)
2位:マニー・パッキャオ(比)
3位:バーナード・ホプキンス(米)
4位:オレクサンドル・ウシク(ウクライナ)
5位:カネロ・アルバレス(メキシコ)
6位:アンドレ・ウォード(米)
7位:テレンス・クロフォード(米)
8位:ファン・マヌエル・マルケス(メキシコ)/J・M・M
9位:ロイ・ジョーンズ・Jr.(米)
10位:井上尚弥(日)
11位:ゲンナジー・ゴロフキン(カザフスタン)
12位:ジョー・カルザギ(英)
13位:エリック・モラレス(メキシコ)
14位:ヴァシル・ロマチェンコ(ウクライナ)
15位:オスカー・デラ・ホーヤ(米)
16位:ローマン・ゴンサレス(ニカラグァ)
17位:タイソン・フューリー(英)
18位:ミゲル・コット(プエルトリコ)
19位:ヴィタリ・クリチコ(ウクライナ)
20位:マルコ・アントニオ・バレラ(メキシコ)
21位:ケイティ・テーラー(アイルランド)
22位:ウラディーミル・クリチコ(ウクライナ)
23位:クレラレッサ・シールズ(米)
24位:ロナルド・ウィンキー・ライト(米)
25位:ティモシー・ブラッドリー・Jr.(米)
※選考委員
アンドレス・ヘイル(Andreas Hale/ライター:ESPN・BWAA)
マーク・クリゲル(Mark Kriegel/ライター・アナリスト:ESPN・BWAA)
ニック・パーキンソン(Nick Parkinson/ライター:ESPN・Daily Star Sunday)
ベルナルド・オスナ(Bernardo Osuna/ESPN・ESPNデポルテス)
アンドレス・フェラーリ(Andres Ferrari/ライター・編集者:ESPN)

ドローとノー・コンテストを含まない、いわゆるパーフェクト・レコードでキャリアを終えたメイウェザー(50勝27KO)、ウォード(32勝16KO)、カルザギ(46勝32KO)、同じく無欠の連勝を継続中のウシク(24勝15KO)、驚くべき増量を成功させ、カネロを封殺してしまったクロフォード(42勝31KO)らが名を連ねている。若いファンの皆さんなら、概ね理解を示してくれる面々と序列なのではないか。

中には、?(ハテナ)マークを付けたくなる名前も幾人か含まれていて、「うーん・・・」と首をかしげてしまう。とは言え、在米専門サイトのオールタイムランキング(過去25年間限定ではあるものの)に、これだけの顔ぶれを押しのけて日本のボクサーがトップ10入りの栄誉に浴することは、相当に高い確率で今後二度とないだろうから、この際素直に喜んでおくべきなのだろう。

軽量級としてはまさしく前代未聞、異常としか表しようのない31勝27KOのレコードはもとより、最軽量ゾーンから史上初の選出となったロマ・ゴンに続き、また東洋圏の出身としてパッキャオの後を追う形で、これもまた史上2人目のリング誌P4Pトップに登り詰めた上、2階級での4団体統一、世界戦の最多連続勝利の更新まであと1つ。

単純な比較はできないながらも、半世紀以上前にジョー・ルイスが成し遂げた26連勝に並び、年末(初見参となるリヤド)の更新がほぼ確定済み。

試合を積み重ねる都度、何がしかの記録を塗り替えて行くという点に関して、MLBで未曾有の成功を収めたイチロー,大谷翔平に肩を並べる存在と評して良いのではないか。


そして1位と2位を分け合うメイウェザー(5階級制覇)とパックマン(8階級)は勿論、ウシク(2階級+2階級で4団体統一)、カネロ(4階級+S・ミドル級4団体統一)、クロフォード(4階級+2階級で4団体統一)、ロイ・ジョーンズ(ヘビー級を含む4階級+L・ヘビー級3団体統一+長期防衛)、デラ・ホーヤ(6階級)、コット(4階級/プエルトリコ史上初)、ロマチェンコ(3階級+ライト級3団体統一+五輪連覇/プロアマP4P1位)等々、複数(多)階級制覇はもはや当たり前の状況。

現代を代表するダーティ・ファイターとして、また稼げない不人気王者として、長い間不遇を囲ったミドルの番人ホプキンスが、認定団体が4つに分裂した80~90年代以降、2005年に初めて4本のベルトをまとめた後、女子が先行した複数階級に及ぶ4団体・3団体の統一は、クロフォード(2017年S・ライト/2024年ウェルター/2025年S・ミドル)とウシク(2018年クルーザー/2024年ヘビー)、ジョシュ・テーラー(2021年S・ライト)、カネロ(2021年&2025年S・ミドル)、ジャーメル・チャーロ(2022年5月S・ウェルター)、デヴィン・ヘイニー(2022年ライト)の6名が立て続けに達成。

我らがモンスター(2022年12月バンタム/2023年S・バンタム)もその列に並び、ドミトリー・ビヴォルを破ったアルトゥール・ベテルビエフ(2024年10月L・ヘビー)、そのビヴォルが再戦でベテルビエフにリベンジを果たす等々、男子でも珍しくなくった。


さらに、歴史の浅さゆえに仕方のない事とは言え、これまでほとんど顧みられることの無かった女子からも、無人の野を行く女王クラレッサ・シールズ(17勝3KO/5階級+2階級で4団体統一)と、女子ボクシング史上初の100万ドルファイトを実現したケイティ・テーラー(2階級+2階級で4団体統一)の両巨頭が登場。

体格差のハンディを乗り越え、ケイティと三度び拳を交えた女パッキャオことアマンダ・セラノ(7階級+フェザー級4団体統一)が選から漏れたことは返す返すも残念で、正直なところ驚きを禁じ得ない。アマンダとケイティでなければ、女子初の100万ドルファイトは実現していなかった。クラレッサとケイティを入れるなら、アマンダを外す選択肢は有り得ない。今からでも遅くないと、半ば本気で訂正を促したい気持ちに駆られてしまう。

左から:クラレッサ,ケイティ,アマンダ

90年代の王国アメリカで、女子ボクシングの勃興を牽引したスター第1号クリスティ・マーティン、無敗のまま引退したレイラ・アリ(モハメッド・アリの愛娘)、人気では常にレイラの後塵を拝したものの、実力No.1の評価を受け続けたアン・ウルフ、男女含めて史上初の主要4団体統一を果たしたセシリア・ブレイクフス、総合でも大活躍したホーリー・ホルム、ドイツの女王レッジーナ・ハルミッヒ、メキシコを代表する2強ジャッキー・ナーヴァとアナ・マリア・トーレス、アルゼンチンの2大スター,マルセラ・アクーニャとジェシカ・ボップ、女子格闘家史上最強と謡われるルシア・ライカ等々、人気と実力を兼ね備えた才色兼備の面々を推す声も多いに違いない。

2004年~2008年にかけて主要4団体の承認を受けた女子ボクシングは、五輪の正式競技に迎えられた2012年ロンドン大会を大きな契機として、本格的な活動に拍車をかけた。まだまだ歴史は浅く、60キロを超える階級は選手層の薄さが顕著になるが、多くの才能を輩出しており、男子と分けてP4Pベストを選び表彰すべしとの意見もあるだろう。

実際に昨年夏、ESPNは男女別の「21世紀トップ10」を公表済みだ。選者はニック・パーキンソン。
◎Ranking the top 10 women's boxers of the 21st century
2024年7月26日
https://www.espn.com/boxing/story/_/id/40590132/boxing-ranking-top-10-women-boxers-2000
1位:C・シールズ
2位:K・テーラー
3位:A・セラノ
4位:C・ブレイクフス
5位:L・アリ
6位:C・マーティン
7位:H。ホルム
8位:A・ウルフ
9位:R・ハルミッヒ
10位:J・ナーヴァ

https://www.espn.com/boxing/story/_/id/40588404/boxing-ranking-top-10-men-boxers-2000
1位:メイウェザー
2位:パッキャオ
3位:ホプキンス
4位:R・ジョーンズ
5位:デラ・ホーヤ
6位:カネロ
7位:ウォード
8位:J・M・M
9位:カルザギ
10位:V・クリチコ

女子においても、25名を選び出すこと自体はできる。できるけれども、1人残らず歴史的グレートと評して良いのかどうか。どこまでの説得力を持ち得るのか。そこは疑問を残すことにならざるを得ず、僭越ながら10名に絞ったのは正しい判断だったと思う。

いかに米国と言えども、人気の凋落傾向が明らかなボクシングについて、今回の選抜を男女差別と捉える批判的勢力が現れることはないと思うけれど、今後のオールタイムランキング(P4P・階級別を問わず)作成時において、男女混合の是非は小さからぬ課題となりそうだ。


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ESPNが「過去25年間のベスト25」を選抜・公表するのは今回が初めてではく、2016年にも同様のランキングを策定している。1990年~2015年までの25年間を評価の対象としたもので、3位以下には90年代に全盛を誇ったレジェンドたちの名前がズラリと並ぶ。

◎2016年 ESPN #P4Prank of past 25 years
1位:メイウェザー
2位:パッキャオ
3位:B・ホプキンス
4位:R・ジョーンズ
5位:フリオ・セサール・チャベス(メキシコ)
6位:デラ・ホーヤ
7位:イヴェンダー・ホリフィールド(米)
8位:パーネル・ウィテカー(米)
9位:J・M・M
10位:リカルド・ロペス(メキシコ)
11位:フェリックス・トリニダード(プエルトリコ)
12位:レノックス・ルイス(英)
13位:M・A・バレラ
14位:カルザギ
15位:シェーン・モズリー(米)
16位:ジェームズ・トニー(米)
17位:A・ウォード
18位:E・モラレス
19位:W・クリチコ
20位:ロマ・ゴン
21位:M・コット
22位:ナジーム・ハメド(英)
23位:ウィンキー・ライト
24位:ゴロフキン
25位:テリー・ノリス(米)
※選考委員
テディ・アトラス(Teddy Atlas/トレーナー・ESPNアナリスト・ヒストリアン)
ブライアン・キャンベル(Brian Campbell/ライター:CBS Sports)
ナイジェル・コリンズ(Nigel Collins/元リング誌編集長・ヒストリアン)
ウォレス・マシューズ(Wallace Matthews/ライター・キャスター・大学教授/N.Y.ポスト・N.Y.タイムズ・ESPN・Yahoo! Sports・BWAA)
カルロス・ナルバエス(Carlos Narvaez/ESPN・BWAA)
ベルナルド・ピラッティ(Bernardo Pilatti/ライター・インフルエンサー/ESPN)
ダン・ラファエル(Dan Rafael/USAトゥデイ・BWAA・WBN・元ESPNボクシング部門主管)
エリック・ラスキン(Eric Raskin/ポッドキャストRaskin&Mulvaney・BWAA・Boxing Scene・ESPN・元リング誌編集主幹)
サルバドール・”チャヴァ”・ロドリゲス(Salvador "Chava" Rodriguez/ESPN・ESPNデポルテス・ESPNノックアウト)

トップ3に並んだマネー・メイ,パックマン,B-HOPが、2度の選出で変わっていない点を除くと、4位以下に90年代に全盛を誇った拳豪たちがズラリと居並ぶ2016年版と比較すると、2025年版は選手の粒が小さくなった感が否めない。
(1)ウォードの急上昇(17位→6位)
(2)カルザギの横ばい(14位→12位)
(3)カネロの高評価(増量+GGG撃破の為PEDに手を出してしまった)
(4)より深刻化の度合いを増すヘビー級の凋落(人材の枯渇)
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※ウシク.フューリー.クリチコ兄弟をどう見るか・・・
クルーザーとヘビーの2階級で4団体を統一したウシクは本当に素晴らしい。母国を襲ったおぞましい悲劇を克己しての偉業であり、30年以上も前に「スピードはパワーを凌駕する」と断言した名コーチ,アレクサンドル・ジミンの言葉をあらためて立証してくれたことも含めて、文句の付けようがない見事な結果を残している。

ただし、ステロイドに頼る前のホリフィールド、ドワイト・ムハマド・カウィにカルロス・デ・レオン、マーヴィン・カメルらが割拠していた草創期(70年代末~80年代半ば過ぎ)のクルーザー級トップに割り込めたのかどうかについては、正直なところ疑問符が付く。

そして全盛のマイク・タイソン(1985~87年)とラリー・ホームズ(70年代後半~80年代初頭),マイケル・スピンクス(80年代)前半)に伍していけのかと問われると、そこにはさらに大きな?マークを付けざるを得ない。
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選者の顔ぶれも違う。ご意見番のオールド・テディ、1回目の就任で破綻状態だったリング誌の経営を立て直し、2000年代初頭の再登板時には伝統のリング誌認定王座を復活させたナイジェル・コリンズ、ESPNのボクシング部門を長らく率いたダン・ラファエル、20世紀後半~21世紀初頭にかけて、一家言を持って王国アメリカのボクシング・ジャーナリズムに寄与貢献したウォレス・マシューズの4名が、総勢9名からなるボードの権威と信頼に重みと厚みを加えてくれる。


然は然り乍ら(さはさりながら)、メイウェザーとB-HOPが過去35年間を通じて、オールタイムP4Pの1位と3位というのは・・・。それもまた致し方のないことと諦めつつ、大きな疑問符を付けずにはいられない。

◎2016年及び2025年のベスト10(ESPN選出)
<1>1位~3位
TOP3

<2>4位・5位
4位・5位
※左から:R・ジョーンズ,ウシク(4位)/チャベス,カネロ(5位)

<3>5位・6位
6位・7位
※左から:デラ・ホーヤ,A・ウォード(6位),ホリフィールド,クロフォード(7位)

<4>8位・9位
8位・9位
※左から:ウィテカー,J・C・マルケス(8位),J・C・マルケス,R・ジョーンズ(9位)

<5>10位
10位
※フィニート・ロペス(左)とモンスター(右)


最近の若いファンの皆様が、概ねメイウェザー支持に傾くのは止むを得ない。何時だったか、エキサイトマッチでもメイウェザーを礼賛する特集番組を組んで、ゲストの芸能人(だったと記憶する)がひたすら誉めそやしていた。

しかし、パックマン・フリークを公言して憚らないアイアン・マイク・タイソンを筆頭に、王国アメリカにはかなりの数の”アンチ・メイ”がいて、批判的な論調を展開する著名な識者やボクシング・インサイダーも少なくない。

90年代後半からESPNでアナリストとして活躍し、HBOでもラリー・マーチャント,ジム・ランプレイ,ハロルド・レダーマンの重鎮に混じり、熱い論説を繰り広げる姿がお馴染みのマックス・ケラーマン、メイウェザーとの比較において、終始一貫パッキャオを推し続けたスキップ・ベイレスがその代表格だろう。

古巣が公表したベスト25について、早速ケラーマンが異を唱えている。

◎マックス・ケラーマン、P4Pリストでマニー・パッキャオはフロイド・メイウェザーより上位だと語る | INSIDE THE RING
2025年9月11日/リング誌公式チャンネル(オートダビング版)
※言語設定は是非ともオリジナルの英語でご視聴を!


2018年の暮れ、リード・アナリストを務めていたHBOがボクシング中継から撤退した後も、変わらずESPNで活動を続けたケラーマンたが、2023年にその職を失った。メイウェザーが大好きなスティーブン・A・スミスとの折り合いが悪く、人気トークショー「First Take」での対立は番組の名物でもあり、互いの理解に基づくスリリングな弁論のバトルだと思っていたが、どうやらスミスの怒りは本物だったらしい。「ヤツを下ろせ!」と訴えていたという。

ケラーマンが四半世紀余り働いたESPNを追われた時、「SAS(サス:スミスの愛称)の差し金に違いない」との噂が公然と語られた。同胞である筈の黒人ファンの中にも一定規模のケラーマン支持層が形成され、さらに拡大の兆候を見せ始めたことにスミスが危機感と焦りを募らせ、過剰な反応に突き進んでしまったというが、例によって真偽のほどは定かではない。

こうしてスミスの主張が通り(?)、ケラーマンは2021年に降板を余儀なくされ、それから2年後の2023年には解雇の憂き目に逢う。勿論ただ黙ってクビを了承した訳ではなく、ESPNもそれなりの代償を支払った。小さからぬ影響力を確立していたケラーマンは、自身の転職を2年間我慢する代わりに、1千万ドル超のキャッシュを手にしたとされる。


リング誌(リヤド・シーズン)とDAZNが組んで先月始まったボクシング情報番組、「インサイド・ザ・リング(Inside The Ring)」の司会者に就任したケラーマン。ボクシング・メディアへの2年ぶりの復帰について、かつての怨敵スミスも祝辞を贈ったというが・・・。

捨てる神あれば拾う神ありとは良く言ったもので、リング誌とESPNで健筆を振るうマイク・コッピンガーとコンビを組み、番組の顔として以前と変わらぬ健舌を振るいまくっている。

そして、DAZNでもAmazon Primeでもなく、Netflixの配信が大きな話題の1つになったカネロ vs クロフォード戦をプロモートしたダナ・ホワイト(Zuffa Boxing)が、「これこそオールスター(ブロード)キャスト」だと胸を張った総勢12名の放送&解説陣に、BWAA(Boxing Writers Association of America)のメンバーでナット・フライシャー賞の受賞者でもあり、ESPNの番組制作にも関わった文筆の重鎮マイク・クリーゲルとコッピンガー、ESPNでの解説が好評を得ていたアンドレ・ウォードの3名とともに、ケラーマンもアナリストとして加わった。

無論のこと、12名のブロードキャスト・チームにスミスの顔と名前は無い。

確執が伝えられるスミス(左)とケラーマン(右)

◎NETFLIX SETS ALL STAR BROADCAST TEAM FOR CANELO CRAWFORD SUPERFIGHT
2025年8月22日/リング誌公式サイト
https://ringmagazine.com/en/news/netflix-sets-all-star-broadcast-team-canelo-alvarez-terence-crawford-max-kellerman-andre-ward

いずれにしても、すべてはトゥルキ長官の思し召し次第。長官の仰せとあらば、犬猿(?)のケラーマンとスミスが、明日呉越同舟していても何の不思議もない。ボクシング界を席巻するサウジのオイル・マネーに喰らい付き、メガ・ファイトの興行権を手中に収めたダナ・ホワイトの鼻息も荒くなるばかり。


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◎ESPNの2016年版当該記事
<1>#P4Prank: Nos. 25-16 of past 25 years
2016年3月7日
https://www.espn.com/boxing/story/_/id/14922956/ranking-top-25-pound-pound-boxers-25-years
<2>#P4Prank: Nos. 15-11 of past 25 years
2016年3月31日
http://www.espn.com/boxing/story/_/id/14969734/ranking-top-25-pound-pound-boxers-25-years
<3>#P4Prank: Nos. 10-6 of past 25 years
2016年4月1日
http://www.espn.com/boxing/story/_/id/14969842/ranking-top-25-pound-pound-boxers-25-years
<4>>#P4Prank: No. 5 of past 25 years
2016年4月4日
http://www.espn.com/boxing/story/_/id/14969864/ranking-top-25-pound-pound-boxers-25-years
<5>#P4Prank: No. 4 of past 25 years
2016年4月5日
http://www.espn.com/boxing/story/_/id/14969875/ranking-top-25-pound-pound-boxers-25-years
<6>#P4Prank: No. 3 of past 25 years
2016年4月6日
http://www.espn.com/boxing/story/_/id/14969879/ranking-top-25-pound-pound-boxers-25-years
<7>#P4Prank: No. 2 of past 25 years
2016年4月7日
http://www.espn.com/boxing/story/_/id/14969990/ranking-top-25-pound-pound-boxers-25-years
<8>#P4Prank: No. 1 of past 25 years
2016年4月8日
http://www.espn.com/boxing/story/_/id/14970037/ranking-top-25-pound-pound-boxers-25-years

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2026年春,東京ドーム開催決定!? - 年間表彰式で予期せぬビッグ・サプライズ Part 6 -

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■55年前に実現していた現役世界王者対決

左:小林弘(WBA世界J・ライト級チャンピオン)vs 右:西城正三(WBA世界フェザー級チャンピオン)

◎ジュニア・クラスの真実

モンスター井上尚弥のワールドレコードに関する記事の中で既に触れているが、ジュニア・クラスの歴史的位置付け、正統8階級(オリジナル8)との格差について、概略のみあらあためて記しておく。

軽量級を中心したジュニア・クラスの増設が相次いで行われ出す1970年代半ば以前、19550年代末~70年代前半までのプロボクシングは、以下の通り全11階級が規定されていた。

■正統8階級
(1)ヘビー級:175ポンド(79.38キロ)~
(2)L・ヘビー級:~175ポンド(79.38キロ)
(3)ミドル級:~160ポンド(72.57キロ)
(4)ウェルター級:~167ポンド(66.68キロ)
(5)ライト級:~135ポンド(61.24キロ)
(6)フェザー級:~126ポンド(57.15キロ)
(7)バンタム級:~118ポンド(53.52キロ)
(8)フライ級:~112ポンド(50.8キロ)

■ジュニア・クラス
(9)J・ミドル級:~154ポンド(69.85キロ)
(10)J・ウェルター級:~160ポンド(63.5キロ)
(11)J・ライト級:~130ポンド(58.97キロ)

近代ボクシング発祥の地である英国と、19世紀半ばに英国から世界最強の象徴とも言うべきヘビー級王座を奪い、19世紀末~20世紀末までのおよそ100年間ヘビー級を支配し、世界最大規模のマーケットを築いた米国を中心とした欧米諸国では、正統8階級の歴史と伝統を重んじる余り、ジュニア・クラスを軽視(蔑視)する傾向が永く続いた。

1920年代に新設されたJ・ウェルター級とJ・ライト級は、「ライト級とウェルター級で通用しない連中を集めたお助け階級」とみなされ、人気と実力を兼ね備えたトップクラスのスター選手と、それらの人気選手を擁する有力プロモーターから敬遠される。

ライト級,J・ウェルター級,ウェルター級を制覇したバーニー・ロスと、フェザー級,ライト級,J・ウェルター級を獲ったトニー・カンゾネリは、1920年代後半~1930年代末までのおよそ10年余りの間、全8階級のうち3階級を同時制覇したヘンリー・アームストロングらとともに、米国中量級を大いに沸かせたライバルでもあったが、最近まで「2階級制覇王者」として扱われていた。

「地味で目立たす稼げない階級」に甘んじるだけでは済まず、そもそも世界チャンピオンとして認められない。以下に記す通り、2つのジュニア・クラスは四半世紀に及ぶ長い休眠期間を経て、1950年代末に復活。安定的なランキングの形成と王座継承がようやく可能となる。


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◎J・ウェルター級
<1>初代王者:ピンキー・ミッチェル(米/V0)
1923年1月30日/ウィスコンシン州ミルウォーキー,バド・ローガン(米)に10回判定勝ち
※NBAによる認定(在位:~1926年9月21日)

<2>王座推移
第2代:マッシー・キャラハン(米)1926年9月21日~1930年2月18日(V2)
第3代:ジャック・キッド・バーグ(英)1930年2月18日~1931年4月24日(V9)
第4代:トニー・カンゾネリ(米)1931年4月24日~1932年1月18日(V4)
第5代:ジャッキー・ジャディック(米)1932年1月18日~1933年2月20日(V1)
第6代:バトリング・ショウ(米/メキシコ)1933年2月20日~5月21日(V0)
第7代:カンゾネリ(米) 1933年5月21日~6月23日(V0)
第8代:バーニー・ロス(米)1933年6月23日~1935年(V9/返上:日時不明)
※1933年10月ライト級王座を獲得したロスが返上後休眠状態へ

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※一時的な復活
<3>第9代王者ティッピー・ラーキン(米/V1)
1946年4月29日/マサチューセッツ州ボストン,ウィリー・ジョイス(米)に12回判定勝ち
※NYSAC公認ライト級王座に続く2階級制覇。ラーキンが防衛戦を行わないまま消滅/再び休眠状態へ

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※本格的な再開
<4>第10代王者カルロス・オルティス(米/プエルトリコ)
1959年6月12日/MSG・ニューヨーク,ケニー・レイン(米)に2回KO勝ち
※NBAとニューヨーク州アスレチック・コミッション(NYSAC)による同時認定(在位:~1960年9月1日/V2)

カルロス・オルティス

N.Y.のプエルトリカン・コミュニティの圧倒的な支持を受け、殿堂と呼ばれたマディソン・スクウェア・ガーデン(MSG)の新たな顔となったオルティスにベルトを巻かせるべく、ロスから数えて約24年、ラーキンからでも13年ぶりとなる王座復活。

1920年代初頭の設立当初からNBAとの折り合いが悪く、事あるごとに反目対立するNYSACは、初代王者P・ミッチェル以来J・ウェルター級を無視黙殺し続けてきたが、殿堂MSGのボクシング興行を支えるオルティスとあって、NBAに相乗りする格好で世界王座を同時承認。

デュリオ・ロイ(伊)とのリマッチに敗れたオルティスは、一念発起してライト級に階級ダウン。2度の載冠で通算9回の防衛に成功して、60年代のライト級を支配。殿堂MSGを常に満杯にするスターとして君臨した。第1期政権の初防衛戦は、唯一無二の来日。帝拳期待の小坂照男の挑戦を受け、5回KOで一蹴している。

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<5>王座推移
(1)WBA(NBA:1962年)
第11代:デュリオ・ロイ(伊)1960年9月1日~1962年9月14日(V2)
第12代:エディ・パーキンス(米)1962年9月14日~12月15日(V0)
第13代:D・ロイ(伊)1962年12月15日~1963年1月(返上/V0)
第14代:ロベルト・クルス(比)1963年3月31日~6月15日(V0)
第15代:E・パーキンス(米):1963年6月15日~1965年1月18日(V2)
※高橋美徳(よしのり/三迫)の挑戦をワンサイドの13回KOで退けた初来日以降、ライオン古山(笹崎),龍反町(野口),英守(大星)と章次(ヨネクラ)の辻本兄弟と対戦。繰り返し日本に呼ばれて、1960~70年代の国内中量級を代表するトップクラスを寄せ付けない圧倒的な技巧で日本のファンにも愛された。負けたのは、キャリア最晩年(連敗中)に胸を貸した辻本章次のみ(最後の来日)。37歳のパーキンスに判定勝ちした辻本章次は、磐石の日本王者に成長。日本人初のウェルター級王座挑戦を実現した(1976年10月27日/金沢:早熟の怪物的パンチャー,ホセ・ピピノ・クェバスに6回KO負け)。

第16代:カルロス・”モロチョ”・エルナンデス(ベネズエラ)1965年1月18日~1966年4月2日(V2)
第17代:サンドロ・ロポポロ(伊)1966年4月2日~1967年4月30日(V1)
第18代:藤猛(米/日:リキジム所属)1967年4月30日~1968年12月12日(V1)
※1968年月WBC(同年月WBAからの独立を宣言)が王座をはく奪/WBA単独認定となり王座が分裂
第19代:ニコリノ・ローチェ(亜)1968年12月12日~1972年3月10日(V5)
第20代:アルフォンソ・フレーザー(パナマ)1972年3月10日~10月29日(V1)
第21代:アントニオ・セルバンテス(コロンビア)1972年10月29日~1976年3月6日(V10)
第22代:ウィルフレド・ベニテス(プエルトリコ)1976年3月6日~12月(V2/返上)
※歴代最年少記録を更新する17歳5ヶ月での載冠。名王者セルバンテスを相手の大番狂わせは、国際的なヘッドラインとして報じられ世界中を驚嘆させた。

第23代:A・セルバンテス(コロンビア)1977年6月25日~1980年8月2日(V6/通算V16)
第24代:アーロン・プライアー(米)1980年8月2日~1983年10月25日(V8/返上)
※1983年4月WBAに造反した米国東部を地盤にする旧NBA残党組みが旗揚げした新興団体IBFから王座の認定を受けて乗り換え。

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(2)WBC
単独認定初代:ペドロ・アディグ(比)1968年12月14日~1970年1月31日(V0)
メキシコと手を組みWBCの設立(当初はWBAの内部機関:事実上の下部組織)を主導したフィリピンは、同胞ロベルト・クルスの王座をWBAとともに承認。以降、藤猛まで5人の王者をWBAとともに認定したが、あらためて世界王座を誘致するべく、交通事故(諸々の待遇を巡るリキジムとの対立)を理由に戦線離脱を続ける藤のベルトをはく奪。クルスの後継者と目されるアディグに決定戦を承認。

第2代:ブルーノ・アルカリ(伊)1970年1月31日~1974年8月(V9/返上・引退)
第3代:ぺリコ・フェルナンデス(スペイン)1974年9月21日~1975年7月15日(V)
第4代:センサク・ムアンスリン(タイ)1975年7月15日~1976年6月30日(V1)
※ムエタイで無敵を誇ったセンサクが国際式転向僅か3戦目で載冠。最短奪取の世界記録として国際的な注目を浴びる。
第5代:ミゲル・ベラスケス(スペイン)1976年6月30日~10月29日(V0)
第6代:センサク(タイ) 1976年10月29日~1978年12月30日(V7/通算V8)
~今日に至るまで途絶えることなく継承


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◎J・ライト級
<1>初代王者:ジョニー・ダンディ(米/伊)
1921年11月18日/MSG・ニューヨーク,ジョージ・チェイニー(米)に15回判定勝ち
※NBAとNYSACによる同時認定(在位:~1923年5月30日/V3)

<2>王座推移
第2代:ジャック・バーンスタイン(米/伊)1923年5月30日~12月17日(V0)
第3代:J・ダンディ(米/伊)1923年12月17日~1924年6月20日(V0)
※バーンスタインに敗れた後、1923年6月26日、ニューヨークのポログラウンドでユージン・クリキ(仏)に15回判定勝ち。NYSACの公認を受けフェザー級王座に就く。J・ライト級王座と同時並行で保持した。

第4代:スティーブ・キッド・サリヴァン(米)1924年6月20日~1925年4月1日(V1)
第5代:マイク・バレリノ(米)1925年4月1日~12月2日(V1)
第6代:トッド・モーガン(米)1925年12月2日~1929年12月19日(V12)
第7代:ベニー・バス(米)1929年12月19日~1931年7月15日(V0)
※1927年12月~1928年2月までNBAフェザー級王座を保持(カンゾネリに敗れて陥落)
第8代:キッド・チョコレート(キューバ)1931年7月15日~1933年12月25日(V4)
第9代:フランキー・クリック(米)1933年12月25日~1934年(日時不明)
※防衛戦を行わないまま王座消滅。休眠状態へ。

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※一時的な再開
<3>第10代:サンディ・サドラー(米)
1949年12月6日/オハイオ州クリーヴランド,オーランド・ズルータ(米)に10回判定勝ち
※在位期間:不明(V1)

サンディ・サドラー

デラ・ホーヤが「史上最高のディフェンスマスター」と褒めちぎるイタリア系のスピードスター,ウィリー・ペップ(米)とフェザー級の頂点を懸けて4度戦い、ボクシング史に残るライバル争いを繰り広げたサドラーは、公称174センチ(リーチ178センチ)の超大型選手だった。フラッシュ・エロルデとも2度対戦。来日経験も有り。

ペップから奪ったベルトを再戦で奪還され、その後J・ライト級の王座認定を受けたが、何時まで保持したのかは不明。防衛回数もはっきりせず、1950年4月と1951年2月の2回防衛戦を行ったとされるが、50年4月のラウロ・サラス(メキシコ系米国人/後のライト級王者)戦のみとの指摘もある。

サドラー本人は返上を明言したことは無いらしく、NBAがはく奪を決定・通告したか否かもはっきりしない。1956年4月14日の敗戦(10回判定負け)を最後に、眼疾を理由に引退するまで保持していたとする説もあり、在米識者とヒストリアンの中には、サドラーを歴代J・ライト級王者に含めないとの意見もある。

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※本格的な再開
<4>第11代:ハロルド・ゴメス(米)
1959年7月20日/ロードアイランド州イーストプロヴィデンス,ポール・ヨルゲンセン(米)に15回判定勝ち
※NBAによる認定(在位:~1960年3月16日/V0)
F・クリックから数えて約26年、サドラーを王者に含めて防衛回数を2度とみなした場合でも約8年を経過。

<5>王座推移-認知と定着に貢献したエロルデの登場
第12代:フラッシュ・エロルデ(比)1960年3月16日~1967年6月15日(V10)

フラッシュ・エロルデ

第13代:沼田義明(日/極東)1967年6月15日~12月14日(V0)
第14代:小林弘(日/中村)1967年12月14日~1971年7月29日(V6)
※1968年1月WBC(同年月WBAからの独立を宣言)が王座をはく奪/WBA単独認定となり王座が分裂
第15代:アルフレド・マルカノ(ベネズエラ)1971年7月29日~1972年4月25日(V1)
第16代:ベン・ビラフロア(比)1972年4月25日~1973年3月12日(V1)
第17代:柴田国明(日/ヨネクラ)1973年3月12日~10月27日(V1)
※WBCフェザー級(V2)に続く日本で唯一の海外奪取による2階級制覇

第18代:B・ビラフロア(比)1973年10月27日~1976年10月16日(V5/通算V6)
第19代:サムエル・セラノ(プエルトリコ)1976年10月16日~1980年8月2日(V10)
第20代:上原康恒(日/協栄)1980年8月2日~1981年4月9日(V1)
※リング誌アップセット・オブ・ジ・イヤーに選出

第21代:S・セラノ(プエルトリコ)1981年4月9日~1983年1月19日(V3/通算V13)

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(2)WBC
単独認定初代:レネ・バリエントス(比)
1969年2月15日/,ルーベン・ナヴァロ(米)に15回判定勝ち
在位:~1970年4月5日

第2代:沼田義明(日/極東)1970年4月5日~1971年10月10日(V3)
※日本のWBC単独認定王者第1号
第3代:リカルド・アルレドンド(メキシコ)1971年10月10日~1974年2月28日(V5)
第4代:柴田国明(日/ヨネクラ)1974年2月28日~1975年7月5日(V3/通算V4)
第5代:アルフレド・エスカレラ(プエルトリコ)1975年7月5日~1978年1月28日(V10)
第6代:アレクシス・アルゲリョ(ニカラグァ)1978年1月28日~1980年4月27日(V8/返上)
※WBAフェザー級(V5)に続く2階級制覇
~今日に至るまで途絶えることなく継承


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◎WBCに狙い撃ちされた藤と小林
WBCが一方的にWBAからの分派独立を宣言した1968年8月、WBA・WBCが認定する全11階級のチャンピオンは以下の通り。

1.ヘビー級(徴兵拒否を理由にしたアリの王座+ライセンスはく奪)
WBA:ジミー・エリス(米)/68年4月ジェリー・クォーリー(米)との決定戦・15回判定勝ち
WBC・NYSAC:ジョー・フレイジャー(米)/68年3月バスター・マシス(米)との決定戦・11回KO勝ち
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2.L・ヘビー級(A・C):ボブ・フォスター(米)
3.ミドル級(A・C):ニノ・ベンベヌチ(伊)
4.J・ミドル級(A・C):サンドロ・マジンギ(伊)
5.ウェルター級(A・C):カーチス・コークス(米)
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6.J・ウェルター級
WBA:藤猛(米/リキ)→はく奪・空位
WBC:未認定→ペドロ・アディグ(比)/68年12月アドルフ・プリット(米)との決定戦・15回判定勝ち
※67年11月にウィリー・クァルトーア(西独)を4回KOに下して初防衛に成功した後、減量苦による階級アップや契約を巡って所属するリキ・ジムとの確執が表面化。交通事故(軽症)を理由にブランクが長期化した藤の王座をWBCがはく奪。復帰に猶予を与えていたWBAも、ホセ・ナポレス(メキシコ/キューバ)かニコリノ・ローチェ(亜)のいずれかとの対戦を強制。68年12月、1年1ヶ月ぶりの防衛戦(68年4月までノンタイトルを3試合消化)でディフェンスの達人ローチェに翻弄され10回終了TKO負け。
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7.ライト級(A・C):カルロス・テオ・クルス(ドミニカ)
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8.J・ライト級:
WBA:小林弘(中村)→はく奪・空位
WBC:空位→レネ・バリエントス(比)/69年2月ルーベン・ナバロ(米)との決定戦・15回判定勝ち
※WBCは小林が初防衛戦で引き分けたバリエントスとの再戦を通告。WBAも2位ハイメ・バラダレス(エクアドル)との対戦を義務付けしており、JBCがWBCの単独王座認定を国内承認しておらず、WBAのみを正当の世界王座と認める国内状況だった為(海外での挑戦・防衛戦の履行は可能)、中村会長はWBCの通告を拒否。小林はWBCからはく奪処分を受ける。
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9.フェザー級:
WBA:ラウル・ロハス(米)/68年3月エンリケ・ヒギンス(コロンビア)との決定戦・15回判定勝ち
WBC:ホセ・レグラ(スペイン/キューバ)
※V9を達成したビセンテ・サルディバル(メキシコ)が返上・引退(67年10月)。後継王者の決定を巡ってA・Cが分裂。WBA王者ロハスは68年9月の初防衛戦で西城に15回判定負け。関光徳(新和)との初代王者決定戦に露骨な地元裁定で勝利したハワード・ウィンストン(英)も、68年7月の初防衛戦で亡命キューバ人レグラに5回TKO負け。
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10.バンタム級(A・C):ライオネル・ローズ(豪)→ルーベン・オリバレス(メキシコ)
※68年8月のV4戦でローズがオリバレスに5回KO負け
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11.フライ級
WBA:空位→海老原博幸(金平/協栄)/69年3月ホセ・セベリノ(ブラジル)との決定戦・15回判定勝ち
WBC:チャチャイ・チオノイ(タイ)
※65年~66年にかけて、ノンタイトルでの連敗と指名戦の延期を理由に、WBAが時の王者サルバトーレ・ブルニ(伊)をはく奪処分にした際、WBCに加盟した欧州(EBU)と英国が反発。WBAは高山勝義との決定戦(66年3月)に勝利したオラシオ・アカバリョ(亜)を認定。WBCはブルニを継続承認していち早く分裂。統一戦が行われないまま今日に至る。
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11階級中半数を超える6階級は、現在で言うところの統一王者が承認され、ヘビー級は70年2月に統一戦が挙行され、WBCとNYSACから認定を受けるスモーキン・ジョーが、WBA王者エリスに5回KO勝ち。71年3月、復活したアリとの「世紀の一戦」へと歩みを進める。

1968年当時、議長(会長)の職にあったハスティアノ・モンタノ(フィリピンのコミッショナーを兼務)は、自国のホープだったペドロ・アディグとレネ・バリエントスに王座を獲らせる為、持てる政治力をフルに駆使した。

王国アメリカで冷遇され、トップレベルのスタークラスが参戦したがらないJ・ウェルターとJ・ライトに的を絞り、正統8階級から弾かれがちな東洋圏と欧州勢に、メキシコを中心とした中量級以下の中南米勢を優遇する。

当初はWBC単独認定の世界タイトルを認めていなかったJBCも、ファイティング原田の3階級制覇を後押しする為、有り得ない謀略で敗れたジョニー・ファメション(豪)との再戦を契機にWBCの国内承認に踏み切り、沼田も日本国内でのバリエントス挑戦が叶う。


日本のマスメディアは、米・英を中心とした正統8階級偏重とジュニア・クラスへの不当に低い評価について口をつぐみ、取材も行って来なかった。中量級のJ・ウェルター級を重量級と称して、米国籍の藤猛を「日本人初の重量級世界王者」と持て囃す。

特に王国アメリカによるジュニア・クラスへの差別は、エロルデや小林,沼田らの歴史的評価と価値には何の関係も無いと言いたいところではあるが、やはり小さからぬ影響があったと認めねばならない。


※Part 7 へ


2026年春,東京ドーム開催決定!? - 年間表彰式で予期せぬビッグ・サプライズ Part 5 -

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■55年前に実現していた現役世界王者対決

左:小林弘(WBA世界J・ライト級チャンピオン)vs 右:西城正三(WBA世界フェザー級チャンピオン)

華やかなスター然とした西城とは対照的に、”地味で玄人受けする技巧派”の典型だった小林を育成したのは、超スパルタで知られる中村信一会長。硬派一徹ゆえに、負けを一切気にせずハードコアなマッチメイクを弟子たちに強いた。

昭和の会長さんには概してこのタイプが多く、良くも悪くも精神主義・根性論による支配が当たり前。会長が白と言えば白、黒と言えば黒。選手と雇われトレーナーに、面と向かっての反論・反抗は許されない。

「為せば成る、為さねば成らぬ何事も。成らぬは人の為さぬなりけり」

スポーツ全般に限らず学校から職場に至るまで、ありとあらゆる場面で「為せば成る」が常套句のように用いられていた。それが昭和という時代・・・いや、流石にこれは言い過ぎか・・・。

そして、海外遠征と言えば小林。フェザー級の日本タイトルを3度防衛した後、1966(昭和41)年5月~8月までの3ヶ月間、中米エクアドルを皮切りに、ベネズエラ,メキシコと南北アメリカ大陸を北上。西城がビッグ・チャンスを掴んだロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムを打ち止めに、世界ランカー2名を含む6試合(!)を消化する超強行軍。

◎中南米遠征の戦績:6戦2勝(2KO)2敗2分け
<1>1966(昭和41)年5月14日/キトー(エクアドル)
△小林 10回引分 ハイメ・バラダレス
130ポンド契約(?)10回戦
※当日計量:バラダレス130ポンド,小林127ポンド1/2
※バラダレス:J・ライト級世界ランカー(2年後のV2戦で再戦して判定勝ち)
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<2>1966年5月30日/カラカス(ベネズエラ)
●フレディ・レンヒフォ(ベネズエラ) 10回判定 小林
オフィシャル・スコア:非公表
127ポンド契約(?)10回戦
※当日計量:レンヒフォ126ポンド1/4,小林126ポンド1/2
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<3>1966年6月24日/カラカス(ベネズエラ)
●ペドロ・ゴメス(ベネズエラ) 7回TKO 小林
オフィシャル・スコア(6回まで):非公表
127ポンド契約(?)10回戦
オフィシャル・スコア:非公表
※当日計量:ゴメス126ポンド3/4,小林126ポンド1/2
※ゴメス:フェザー級世界ランカー(3年後に西城の初防衛戦の指名挑戦者として来日・判定負け)
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<4>1966年7月10日/シナロア州シナロア・デ・レイバ(メキシコ)
△小林 10回引分 アウレリオ・カサレス(メキシコ)
※契約ウェイト,当日計量,オフィシャル・スコア:非公表・不明
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<5>1966年7月31日/シナロア州クリアカン(メキシコ)
○小林 9回KO デルフィーノ・ロサレス(メキシコ)
オフィシャル・スコア(8回まで):非公表
フェザー級(?)10回戦
※当日計量:小林不明,ロサレス126ポンド
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<6>1966年8月18日/オリンピック・オーディトリアム(米/ロサンゼルス)
○小林 7回終了TKO ボビー・バルデス(米)
オフィシャル・スコア(6回まで):非公開
127ポンド契約(?)10回戦
※当日計量:両者とも127ポンド/バルデス:後のフェザー級世界ランカー
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1966(昭和41)年の小林は、1月~3月まで毎月リングに上がり、キャリアの最終盤に入っていた”メガトン・パンチ”青木勝利(三鷹/元東洋バンタム級王者)、塩山重雄(鈴木/日本タイトル戦)、森洋(極東/S・フェザー級日本ランカー)を連破。

初っ端の3連戦が既に有り得ないが、さらに海外での過酷な6連戦から帰国すると、休む間もなく10月10日に千葉信夫(ヨネクラ/後の日本フェザー級王者)との防衛戦をこなし、11月10日には野畑澄男(常滑/後の日本J・ライト級王者)も10回判定に下してV5を達成。

これで終わりかと思いきや、野畑戦から18日後(!)の11月28日、フィリピンのローカル・ランカーを招聘して10回判定勝ち。12戦8勝(1KO)2敗2分けの戦果を持って、ハードな1年を終えている。


世界へと羽ばたく翌1967(昭和42)年も、小林は8戦して負けなしの全勝(2KO)を記録しているが、5月8日に行った三橋高夫(田辺)との防衛戦を挟み、韓国人選手×4名,比国人選手×2名の7名に完勝。主戦場を130ポンドに移してWBA1位に付けると、10連続防衛で130ポンドの定着に大きく寄与したフラッシュ・エロルデ(比)から、WBCが分裂する前のWBA王座を奪った沼田義明(極東)への挑戦が具体化。

小林がWBAのトップランカーになったことで、「沼田・小林戦うべし」との機運が高まり、世界戦で初めてとなる日本人対決が実現した。

中村会長と極東ジムの小高伊知夫(こだか・いちお)会長が、シナリオの無い本気の舌戦を応酬し合っただけでなく、赤穂浪士の討ち入りで知られる12月14日の日程に加えて、天覧試合になるのではないかとの風聞が出回るなど、スポーツ報道の枠を超える騒動となった。

丁々発止の駆け引き&ペース争いが続く中、第6ラウンドに伝家の宝刀右クロスで先制のダウンを奪った小林が流れを掴み、迎えた第12ラウンド、またもや右クロスを炸裂させる。思い切り顎を跳ね上げられた沼田は、天を仰ぐようにもんどりうって2度目のダウン。

余力を振り絞って立ち上がるも、この機を逃さず集中打をまとめた小林が2度のダウンを重ねてKO勝ち。同門の大先輩、矢尾板貞男が成し得なかった世界の頂点に立つ。

◎試合映像:小林 12回KO 沼田
1967年12月14日/蔵前国技館
オフィシャル・スコア(11回まで):54-51,54-52,53-51(3-0で小林)
WBA世界J・ライト級タイトルマッチ15回戦(分裂前の統一王座)

※フルファイト
ttps://www.youtube.com/watch?v=PF5yrtZ3p18


2000年代の始め頃だったと記憶するが、専門誌の企画で沼田と小林が対談した折に、小高会長との関係について「難しかった。相手を誘い出す為にわざとガードを下げて、狙い通りにカウンターを決めてKOしても、ジムに戻ると”何で言われた通りにやらないんだ!”って、全員が見てる前で怒鳴られる。大変でしたよ」と苦笑まじりに話していた。

「私たちの時代は、会長に逆らうなんて絶対に許されない。でも、記者さんやテレビの取材が入っている時は、すべて小高会長の言うことを忠実に守って練習しましたよ」とも述べている。

その上で、具体的な対策はほとんどすべて自分で考えてやっていたと、現役時代はもとより、小高会長が存命中は口にできなかったであろう本音を吐露していた。

「人前で会長に恥をかかせるわけにいきません。でも会長が見ていない普段の練習は、全部自分で考えて工夫しながらやっていた。会長やトレーナーのアドバイスは聞きますけど、実際に殴り合うのは僕ですから。」

「”小高理論”ですか?。そんなのいくら教わっても、試合でそのまま通用するわけないでしょう。相手は勝ちたい一心で、必死になっていろんなことをしかけてくる。いちいちこだわってなんかいられません。」

1分間のインターバル中、コーナーのアドバイスや指示はちゃんと聞くが、いざラウンドが始まったら、積み重ねた経験と自らの感覚を頼りに、その場に合わせて即興的に判断して行くしかないと、この点でも日本中を沸かせたライバルが異口同音に語っていたのが強く印象に残る。


技巧派の頂点に立っていたと言っても過言ではない小林も、「付きっ切りで面倒を見るという意味での専属トレーナーは、少なくとも僕にはいなかった。練習から何から、すべて自分で考えてやっていました」と話し、沼田の言葉に頷いていた。

「作戦ですか?。事前に色々と考えはしますけど、やっぱり試合当日リングに上がって、ゴングが鳴ってからですね。実際に向かい合ってみないとわからない。僕らの頃は15ラウンド(世界戦)ですから、3~4回ぐらいまでの間に、距離とか癖とか色んなことを大体の感じで掴みながら、じゃあ今日はどうやろうかって考える。」

沼田もまったくの同意見で、「私たちの試合は、まずは駆け引きから始まってこれが結構長い。15ラウンドの長丁場を、判定勝負前提で組み立てますから。玄人が見れば色々見どころもあるんですが、素人目には地味に映るでしょう。だから退屈と思われても仕方がない。」

左:小林と中村会長/右:沼田と小高会長

ハイ・ガードの堅持を第一に、つま先やかかと、頭や腕等の位置をミリ,センチ単位でうるさく指示する独特の指導方法をマスコミが「小高理論」と名付け、映画全盛期の日活が社内に設けた「ボクシング部」にコーチとして招かれ、石原裕次郎,小林旭,赤木圭一郎らのトップスターを教えて有名になった小高会長は、TBSが企画した「ボクシング教室」を共催。主管を任される。

そして、全国から集まった7千人もの応募者の中から10名を選抜。北海道から唯一合格したのが中学を卒業したばかりの沼田だった。ボクシング経験を持たない小高会長は、現場とコーナーを腹心のトレーナーに任せる方針を採っていたが、沼田を発掘してから率先して現場に立つようになり、指導に口を挟むようになって行ったという。

小高理論の申し子のように語られ、"精密機械"と呼ばれた沼田だが、実際のファイトスタイルは自由奔放な天才肌の閃き型。今で言うL字やノーガードで駆け引きしながら足を使ったり、”天井アッパー”が今でも語り草になっているラウル・ロハス戦のように、強打をブンブン振り回すことも珍しくない。


最大の弱点と言われたボディを狙われるのが常で、必要とあればクリンチワークも厭わなかった。その為、「沼田は汚い。狡い」と批判されることも度々あったと記憶する。

「レフェリーの注意を受けない限り、反則じゃないですから。注意されれば僕は止めますよ。でも海外の選手はそんなに甘くない。みんな勝つ為に必死なんですよ。」

「あからさまな反則はそりゃダメですよ。でも海外の選手はギリギリのところを、レフェリーに分からないように上手にやってくる。そのレベルまで行けば、それはもう技術のうちですから・・・」と、真顔で記者の問いに反論を返す場面もあった。

◎天才肌の閃き型を象徴する沼田の2試合
<1>沼田 5回KO ラウル・ロハス(米)
1970年9月27日/日大講堂(旧両国国技館)
WBC世界J・ライト級タイトルマッチ15回戦(V1)
https://www.youtube.com/watch?v=nU4aaBz-Nzw

西城に敗れた後、階級を上げたロハスが沼田に挑戦。メキシカン特有の執拗なボディ攻撃でダウンを奪われ、KO負け寸前まで追い込まれた沼田が、”天井アッパー”を放って驚愕の逆転KO勝ち。コーナーを背にロハスの連打を必死に耐える沼田だが、冷静に元フェザー級王者の隙を伺う鋭い視線にゾクっと背筋が震える。

<2>沼田 15回3-0判定 ライオネル・ローズ(豪)
1971年5月30日/広島県立総合体育館
WBC世界J・ライト級タイトルマッチ15回戦(V3)
https://www.youtube.com/watch?v=PEB3gnyiR0E

野球のON,大相撲の大鵬と並ぶ国民的ヒーロー、ファイティング原田を大番狂わせの15回判定に下し、弱冠19歳8ヶ月の若さでバンタム級の頂点に立ったローズは、柔らかいボディワークと滑らかなフットワークを操る技巧派で、年齢からは想像できない完成度の高さを発揮。豪州の先住民アボリジニ初の世界王者として人気を博した。

原田も19歳6ヶ月で世界フライ級王者となり、22歳1ヶ月で50戦無敗(48勝2分け/37KO)のエデル・ジョフレを破り、国内史上初の2階級制覇を成し遂げた早熟のファイターだったが、ローズの天才もけっして引けを取らない。

東京五輪金メダリストの桜井孝雄(スピード・スタータイプのサウスポー)、チューチョ・カスティーヨ(メキシコ/ルーベン・オリバレスのライバル)、アラン・ラドキン(英/当時の欧州No.1)の3人からベルトを守った後、東洋王座を獲得して再浮上した桜井との挑戦者決定戦を6回KOで難なくクリアした怪物オリバレスに5回KO負け。フェザー~J・ライトへと階級を上げた。

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※歴代最年少世界王者
1.ウィルフレド・ベニテス(プエルトリコ):17歳5ヶ月(1976年3月:WBA J・ウェルター級)
2.セサール・ポランコ(ドミニカ):18歳2ヶ月(1986年2月:IBF J・バンタム級)
3.ラタナポン・ソー・ウォラピン(タイ):18歳6ヶ月+5日(1992年10月:IBF M・フライ(ミニマム)級)
4.ホセ・ピピノ・クェバス(メキシコ):18歳6ヶ月+21日(1976年7月:WBAウェルター級)
5.井岡弘樹(日/グリーンツダ):18歳9ヶ月(1987年10月:WBCストローc級/初代王者)
6.トニー・カンゾネリ(米):18歳11ヶ月(1927年10月:NYSAC・リング誌公認フェザー級)
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L字と言えば、小林も左のガードを低く構えて、半身を深くしながら相手をけん制するのが上手く、広い意味で沼田と小林も”L字の使い手”と言えるのかもしれない。

当時は誰もがウィービング,ダッキング,ブロッキング,フットワークといった限られたディフェンス用語しか使っていなかったけれど、パリングやローリング、スリッピング、ボビングなどの重要かつ基本的な技術は、すべて過不足なくマスターしていた。


◎試合映像:小林自ら「生涯のベスト・バウト」と認めるカルロス・カネテ戦
1969(昭和44)年11月9日/日大講堂(旧両国国技館)
小林 vs C・カネテ(亜)


WBA1位の指名挑戦者として小林に挑んだカネテは、1960年ローマ五輪に出場したエリート・アマ出身組み。長い手足が技巧派のアウトボクサーを想起させたが、厚みのあるがっしりとした上半身の持ち主で、92戦77勝(52KO)6敗9分けの生涯戦跡が示す通り、ジャブ&ワンツーを飛ばしながら、積極的に仕掛ける好戦的なボクサーファイターだった。

スタートからキレのある動きとパンチで主導権を握った小林は、得意の右クロスを小さく鋭く放ってカネテのリードジャブを殺し、細かいポジションチェンジを繰り返しながら駆け引きを続けつつ、接近戦で揉み合っても押し負けず、一回り大きいカネテをコントロール。苦戦の予想を覆して、大差の3-0判定勝ち(75-63×2,75-65/5点減点法)。見事な内容で、4度目の防衛に成功している。

1962年にプロに転向してから、7年の歳月をかけて辿り着いた世界戦を落とした後も、アルゼンチンの国内王者として1970年9月まで現役を継続したが、ベテランの中堅ローカル・トップに9回TKO負けを喫して王座を追われ引退。

バンタム級の代表として乗り込んだローマでは、初戦(E32)で日本の芳賀勝男(中央大)に0-5のポイントで敗れており、アマ・プロいずれにおいても、ここ一番の大勝負で日本人に苦杯を喫したのも、何かの因縁だろうか。


Part 6 へ


リング誌王者レオ初来日 /来るべき(?)モンスター戦に向けてKO防衛を期す - A・レオ vs 和毅 プレビュー -

カテゴリ:
■5月24日/インテックス大阪5号館,大阪市住之江区/IBF
世界フェザー級タイトルマッチ12回戦
王者 アンジェロ・レオ(米) vs IBF1位 亀田和毅(日/TMK)



昨年9月、126ポンド最強と目されていたルイス・アルベルト・ロペス(メキシコ)をショッキングな失神KOに屠り、見事2階級制覇に成功したレオが初来日。指名挑戦権を持つ和毅を相手に、初夏の陽気となった大阪でV1に臨む。

会場のインデックス大阪は、1935(昭和10)年に開場した大阪国際見本市会館(本町橋:ほんまちばし/現在の中央区本町)が元々の始まりで、1985年に八幡屋総合公園から現在の住之江区に移転した。「インテックスプラザ」と名付けられたドーム型の屋根に覆われた大きな空間と、「スカイプラザ」と称する広場の周辺に、6つの展示場(1号館~6号館)が配置されている。

今回はコンサートとセミナー向けに作られた5号館を借用しての開催だが、メインのAゾーンは「1万人規模」と宣伝されることが多いけれど、あくまでスタンディングのみの設営であり、座席のみの収容人員は5~6千人規模とのこと。

スタンディング8千人,座席5千人を収容可能な別会場(Bゾーン)が併設されていて、連結にも対応できるらしいが、今現在の和毅のバリューと、日本国内におけるレオの認知度(ボクシング・ファン以外は皆無に等しい)を考慮すれば、5千席を埋められたら御の字だと思う。


結論を申し上げれば、関心の対象はレオのパフォーマンスのみ。このままIBFのベルトを保持し続ければ、2026年中にもモンスターの標的に選ばれ、全世界的な注目を浴びる。この試合が持つ意味は、それ以上でもそれ以下でもない。

中盤辺りまでのKO(TKO)ですっきり決着してくれるのが最善ではあるが、まともなボクシングをやれば勝ち目のない和毅が、頭・肩・肘を総動員した”当たり屋戦術”+クリンチ&ホールドありきの泥仕合を仕掛けて、挙句の果てに意味不明な僅少差2-1判定になったとしても、レオの勝利までが動くことはまず無いだろう。

WBOのバンタム級王座を獲得した後、JBC職員との間で裁判沙汰になり、次男大毅のS・フライ級王座統一戦(WBA・IBF/リボリオ・ソリスに判定負け)を巡る騒動=”負けても王座保持”=が引き鉄となって、亀田一家全員国内ライセンスを喪失。アル・ヘイモンの傘下に潜り込み、米本土で生き残りを賭して戦ったものの、確たる評価を得られぬまま、JBC職員との裁判に勝訴したことを機に、復職が叶った盟友(?)安河内事務局長とともに国内復帰。


MGMグランドのメイン・アリーナでプンルアン・ソー・シンユー(タイ)を左ボディでKOして一時は評価を上げかけたが、続く防衛戦で暫定王者アレハンドロ・エルナンデス(メキシコ)に苦闘を強いられ、一転して株価は急落。

さらにWBA王者ジェイミー・マクドネル(英)との統一戦を目論むも、WBAにはスーパー王者のファン・カルロス・パジャーノ(ドミニカ)がいた為、WBOから統一戦出場の承認を得られず。ベルトを返上して挑み2連敗。

アメリカでの成功を夢見た和毅のチャレンジは、マクドネルに喫した連敗で完全に費えた訳だが、もっと露骨に言うなら、ワールド・クラスとしての商品価値も同時に終わりを告げた。

エルナンデス戦を観戦したリング誌元編集長のナイジェル・コリンズが、オフィシャルのツィッター(現X)に投稿した辛らつなコメントがすべてを表現尽くしている。


「アメリカでスーパースターになるだって?。気は確かか。軽いパンチをエルナンデスに当てるだけ。彼にできることはそれだけだ。」

プンルアン戦のKO勝ちを唯一の勲章として帰国した和毅は、古巣の協栄ジムに所属して復帰。その後「3150ファイトクラブ(長男興毅が西成に開いたジム)」、「TRY BOX 平成西山ジム(3150ジムの元トレーナー,西山一志が独立)」、そして自らが出資して金平桂一郎元協栄会長を招き、「TMKジム」を設立。

足場となるジム及びプロモーションは短期間にめまぐるしく変わったが、S・バンタム級に転じた2016年10月以降、拳を交えたリアルな世界の一線級は、WBCの暫定王者としてカリフォルニア州カーソン(ロサンゼルス近郊)に乗り込み、大差の0-3判定(110-117×3)に退いた、正規王者レイ・バルガス(メキシコ)のみ。

しかもこのバルガス戦が酷かった。正当なボクシングの攻防では歯が立たず、バッティングありきの亀田スタイルに先祖帰り。前戦でも挑戦者のラフ・ファイトに巻き込まれてしまい、大小の傷を負って苦しんだバルガスは、もともとラフ&タフの混戦を不得手にしている。

慢性化した減量苦の影響も小さくなかったとは思うが、和毅の”当たり屋戦術”に腰が退ける一方のバルガスに対して、会場のディグニティ・スポーツ・ヘルスセンターに集まった同胞のファンからも、容赦の無いブーイングが飛んだ。


2021年12月には、元WBAバンタム級暫定王者でWBA S・バンタム級10位に付けていたヨンフレス・パレホ(ベネズエラ)に、何とも微妙な判定勝ち(116-112,116-111,114-113)を収めて、WBAとIBFのベルトを保持していたムロジョン・アフマダリエフ(ウズベキスタン)への挑戦権を獲得したが、行使せずにフェザー級に増量。

事あるごとにモンスターの名前を口に出して対戦を煽りながら、最短の近道となる筈のアフマダリエフ戦を回避したことで、国内のコアなファンから失笑を買ったことは記憶に新しい。

昨年、IBFフェザー級王座への指名挑戦権を懸けて2度戦ったレラト・ドラミニ戦に至るまで、数多くの関係者とファンに指摘された深刻な”パワーレス”を克服するだけの武器を、和毅は遂に持ち得なかった。

今でも惜しまれるのは、マクドネル戦に向けて組んだイスマエル・サラスとのコンビを、連敗した後すぐに解消してしまったこと。”負けない為なら何でもあり”+”反則ありき”の亀田スタイルと決別して、本格派のボクサーファイターとしての出直しを図ったことは、彼のキャリアにおいて素直な評価に値する唯一の決断ではなかったか。

何を言ってみたところで、結局は父と2人の兄と行動を共にする以外にない。自分のジムを持ったら持ったで、頭に担いだのは2代目金平元会長。一事が万事、元サヤである。


直近の掛け率も、ホームのチャレンジャーに厳しい数字を突きつけている。

□主要ブックメイカーのオッズ
<1>FanDuel
レオ:-700(約1.14倍)
和毅:+440(5.4倍)

<2>betway
レオ:-599(約1.17倍)
和毅:+400(5倍)

<3>ウィリアム・ヒル
レオ:1/6(約1.17倍)
和毅:15/4(1.75倍)
ドロー:16/1(17倍)

<4>Sky Sports
レオ:3/14(約1.21倍)
和毅:19/4(5.75倍)
ドロー:18/1(19倍)

◎公開練習
<1>レオ


<2>和毅



ボクシングである以上、和毅に勝機がゼロということは有り得ない。ヴェナード・ロペス戦の鮮やか過ぎるノックアウトは、その後の悲劇(ロペスに脳出血が発覚)とも相まって、新チャンピオンのバリューを実態以上に上げているきらいが否めない。

詳細はレオの略歴と特徴に触れた過去記事をご覧いただくと有り難いが、S・バンタムから階級を上げたレオは、以前にも増して打たれ(せ)る傾向が目立つ。プロのワールド・クラスの中では、けっしてズバ抜けたとまでは言い切れない、自身の身体能力とタフネスを過信したロペスの粗さに助けられたことも事実である。

精度と威力はともかく、和毅が間断なくジャブを突き続けて、前後左右にステップを踏み続けることができれば、スタミナがキツくなる中盤以降、許容される限度一杯までクリンチワークを使わざるを得ないにせよ、僅少差の判定に漕ぎ着けること自体は不可能でも夢物語でもない。

ただし勝敗は別だ。キャンプで手数と運動量のアップに徹底的に取り組んだとしても、それだけで勝てるほどレオは組し易い相手はなく、その上でドラミニ戦で見せた後半の息切れは、手数と脚の動きを増やすことの困難を如実に物語っている。

加齢と増量によるフィジカル面でのマイナスが、はっきり顕在化したと見るべき。33歳の和毅が、どこまでスタミナを強化できるのかは未知数。


生来の打たれ脆さは、長男興毅に共通する和毅最大のウィークネスと言って良く、だからこそ技術の裏づけと強靭なハートを併せ持つ、本物のファイターとのマッチアップを避け続けてきた。

止めるタイミングがいささか早かったとは言え、あの上手くて賢い岩佐亮佑(セレス/引退)に1発効かせて、そのまま連打でロープ際まで押し込み、反撃らしい反撃を許さず、一気呵成にレフェリーストップを呼び込んだアフマダリエフから逃げるのは、亀田一家にとっては当たり前の常識。

五輪と世界選手権でメダルを獲ったアフマダリエフは、一級品のパワー&タフネスに加えて、その気になればボクシングも巧い。アウトボックスのクォリティでも、和毅を軽く上回る。アメリカ(ネバダかカリフォルニア)ならまだしも、ウスベクへの遠征など絶対に有り得ない。

一度び打ち合いに応じたレオは、防御に開く穴も小さくはない。突け入る隙もそれなりにある。だけれども、レオの圧力を力で押し返す選択肢は和毅にはない。真っ当なボクシングの技術の範疇で打ち合いに応じると、本来インファイトが苦手なマクドネルとバルガスにも遅れを取った。

そして繰り返しになるが、フェザー級へのアップによって、スタミナを含めたフィジカルの脆弱さがより露になっている。それが和毅の現実。


当たり前に勝敗を予想するなら、中差以上の判定でレオ。王者の防衛は揺るがない。和毅の仕上がりと戦術によっては、中盤~後半にかけてのストップもあり。

唯一最大の懸念は、審判団に対する悪しき影響も含めた亀田スタイル。ラフ&ダーティは、きっとどこかで発動する。その時レオと彼の陣営がどうするのか。「眼には眼を」でやり返すタイプではないだけに、一抹の不安は残る。


◎レオ(31歳)/前日計量:125.7ポンド(57.0キロ)
戦績:26戦25勝(12KO)1敗
世界戦通算:3戦2勝(1KO)1敗
アマ通算:65勝10敗
ニューメキシコ州ジュニア・ゴールデン・グローブス,シルバー・グローブス優勝
※複数回のチャンピオンとのことだが階級と年度は不明
身長:168センチ,リーチ:174(175)センチ
※Boxrec記載の身体データ修正(リーチ/カッコ内:以前の数値)
血圧:103/67
脈拍:78/分
体温:36.1℃
※以上計量時の検診
右ボクサーファイター


◎和毅(33歳)/前日計量:125.7ポンド(57.0キロ)
元WBC S・バンタム級暫定(V0),元WBOバンタム級王者(V3返上)
現在の世界ランク:IBF1位/リング誌1位
戦績:46戦42勝(23KO)4敗
世界戦通算:8戦5勝(1KO)3敗
アマ戦績:27勝 (10RSC・KO) 1敗1分2NC
身長:171センチ,リーチ:170センチ
※アビゲイル・メディナ戦の予備検診データ
血圧:149/83
脈拍:40/分
体温:36.6℃
※以上計量時の検診
右ボクサーファイター


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■オフィシャル

主審:イグナチウス・ミサイリディス(豪)

副審:
ジル・コー(比)
カール・ザッピア(豪)
リシャール・ブルアン(カナダ)

立会人(スーパーバイザー):ジョージ・マルティネス(カナダ/チャンピオンシップ・コミッティ委員長)

オフィシャルの人選に悪い予感を覚えるのは私だけだろうか。オーストラリアから主審と副審1名、フィリピンからも副審が1名。まずどこよりも心配な韓国、そしてタイ、事後にいくらでも勝手な解釈が可能なペースポイントと、ダメージ&効果などお構いなしにジャブ&軽打を重視したがるネバダとカリフォルニアから選ばれなかったのは何より。

がしかし、韓国とタイに続いて亀田一家の悪しき影響力が懸念されるフィリピンと、同じOPBF圏内で呉越同舟の豪州から2名。

恣意的なスコアリングもさることながら、和毅の”当たり屋戦術”に寛容なレフェリングへの小さからぬ懸念を抱く。これで立会人が安河内JBC事務局長なら、「12回終わって立っていたら和毅の判定勝ち」の悪夢が現実になりかねない。

願わくば、カナダから派遣された立会人と副審1名が、アウェイに乗り込む王者陣営を不正義から守るストッパーとして機能してくれることに大きな期待と望みを懸ける。

すべてが杞憂、要らぬ取り越し苦労であることを願うのみ。


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■王者陣営の動向

大きな収入が確約されるモンスターとの大一番を視線の先に捉えるレオと、マネージャー兼トレーナーとして息子を支える父ミゲルは、日本での防衛戦が持つ意味と重要性を他の誰よりも深く理解・認識している。

興行を主催する亀田一家が手配した航空便とホテルをあえて使わず、亀田側に伝えることなく、予定よりも一足早く来日した王者陣営の用意周到さ、慎重かつ適切な対応にまずは敬意を表したい。

当然のことながら、ホテルを自前で押さえた上での首都上陸。到着直後にやったことは、練習環境の確保だったという。

「Googleマップでボクシングジムを探して、Uberタクシーを呼んで当たりを付けたジムへ行き、練習させて欲しいと頼んだんだ。」

アポなしで突撃(?)された金子ジムは、さぞかしびっくりしたことだろう。アウェイでの初防衛戦を目前に控えた遠来の世界チャンピオンが、前触れもなく突然やって来たのだ。

「快く受け入れて貰えて本当に良かった。」

どこまでが本気でどこまで(から)がブラフなのか。大阪へ移ってからは、亀田側が用意したホテルとジムを利用したとのことだが、最後まで勝手に動くと、必要以上に事を荒立てることになりかねない。

折り合いをつけるべきところはつける。王者陣営は、妥協のさじ加減も一流。大したものである。

◎来日後の様子を追ったショート・ムービー
THE ANGELO LEO アンジェロ・レオJAPANESE BOXING EXPERIENCE!!! ??????
2025年5月22日/TRU SCHOOL SPORTS


2026年春,東京ドーム開催決定!? - 年間表彰式で予期せぬビッグ・サプライズ Part 4 -

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■55年前に実現していた現役世界王者対決

左:小林弘(WBA世界J・ライト級チャンピオン)vs 右:西城正三(WBA世界フェザー級チャンピオン)

かような次第で、ウィンストンと関の決定戦が仮に判定勝負にもつれ込んでいたにせよ、イングランド出身のローランド・デーキン(クィーンズ・イングリッシュではダーキンに聞こえることも少なくない)主審にフェアなスコアリングを望むのは不可能に等しく、カウントアウトによるKO以外、そもそも関に勝機は無かったと見るのが妥当と思われる。

サルディバルに3度敗れたウィンストンが、関との決定戦に推挙されたこと自体を問題視する声も当然上がっていた。しかも1~2戦目の開催地は、ロンドンとカーディフ(出身地ウェールズの首都)。ウィンストンは地の利を得てもなお連敗(15回判定)を喫した上、アウェイのメキシコシティに場所を移した3戦目は12回TKO負け。

英国内での2試合は、いずれもイングランド選出の主審が1人で採点する発祥国伝統のローカル・ルールが適用され、ウィンストンと彼の陣営に弁明の余地は一切ない。英国外のファンと関係者が、WBCの通告に首をかしげるのはごく自然な流れだった。


発祥国の意地と沽券にかけて、第二次大戦後もNBA(WBA)への加盟を拒み続けた英国と欧州(EBU)は、WBAへの改称後、内部機関(下部組織)としてスタートしたWBCへの加盟を大義名分にして、盟主の座を奪い取った王国アメリカが誇る巨大なマーケットへの本格的な参入を模索し始める。

全米各州に絶大な影響力を持つニューヨーク州とカリフォルニア州アスレチック・コミッションの審査は厳しく、各国の主要プロモーターたちがギルド化する現象もボクシング界に共通する光景で、英米に限らず(閉鎖的かつ封建的な日本はその筆頭格)、どの国も海外の有力プロモーターに対する参入障壁は低くない。

反WBA(旧NBA=アメリカによる支配体制)の旗印の下に参集した英国に、WBC設立を主導したメキシコ&フィリピン(初期の議長=会長2ヶ国)が手厚い配慮を示したとの推察は、概ねその通りに違いないと思う。


そして旧NBAの支配下にあったWBAが、ウィンストン vs 関戦を良しとする筈もなく、米国籍を持つメキシコ系の人気者ラウル・ロハスと、コロンビアの実力者エンリケ・ヒギンスを指名。ロンドンの謀略(?)から2ヶ月遅れの1968年3月28日、ロハスが根城にしていたロサンゼルスでWBA単独認定による決定戦が行われ、明白な15回3-0判定でヒギンスを下し、無事新チャンピオンの座に就く。

こうして、フライ級(1965年~66年)に続いてフェザー級も王座が分裂(時期を同じくしてヘビー級も再分裂)。同一階級に2人の世界一を認めることについて、当時の国内ボクシング界が抱いた危機感とマスコミも含めた反発は、主要4団体が定着した今日の感覚では理解不可能だと確信する。

「同じ階級に世界一が2人?。有り得ない。本当にそんなことになったら、ボクシングは競技としての信頼を完全に失うんじゃないか。まともなスポーツとみなされなくなるのでは・・・」

WBCが独自のランキング公表&世界王者の承認に踏み切り、王者の分裂が拡大していく過程において、あくまでWBAを正統の世界一だとする空気が、洋の東西を問わずあったことも事実で、国内未承認のWBC単独認定王座挑戦への批判的な意見がまったく無かったと言えばウソになる。がしかし、海外で日本人が不当な目に逢えば、日本のメディアとファンはやはり怒る。

メキシコとフィリピンが主導したWBCに、OBF(Oriental Boxing Federation/東洋ボクシング連盟:現在のOPBF/Oriental and Pacific Boxing Federation)の一員としてタイ・韓国とともに参画しながらも、単独王座の承認には反対する。

議長国(始めは会長ではなく議長と称した)を持ち回りしていた墨・比2ヶ国は、「自己矛盾だ」と日本に国内開催の承認を求めたが、「世界一は各階級に1人であるべき」との正論(建前?)を大真面目に主張し、頑なにその姿勢を崩そうとしない。


「レフェリーは(カットの状態を)ちゃんと見ていない(見たフリをしただけ)。」

目前にしていた悲願の世界王座を突然召し上げられた関は、理不尽な裁定に不服を訴えた。これに対してウィンストンも、「彼が望むのであれば、日本に行って再戦してもいい」とインタビューで回答。どこまで本気だったのかはわからないけれど・・・。

デーキン主審のオフィシャルスコアは非公開だが、ウィンストンの名誉の為に附記しておくと、AP通信(Associated Press)とUPI(United Press International)のアンオフィシャル・スコアはウィンストンを支持している。

AP:3-2-3(ラウンド制による採点:3R=W,2R=S,3R:even)
UPI:4-2-2

KO・TKO決着の場合にオフィシャル・スコアを公表しないケースは、今現在も含めて珍しいことではない。各国コミッションは全面的な公開を義務とすべきだが、「手書き」が原則のスコアリングの現状、事務処理の手間とコストを考えると「何が何でもやれ」とまでは言えない。

「手書きスコアのPDF化+WEBアップロード公開」は、それこそ我が国行政府の悪しき慣行をなぞる愚行でしかなく、「スコアリングの電子化」&「メイン・イベント(興行の最終試合)の公式結果告知(リングコール)直後のWEB同時公開」が最善だとは思う。

電子スコアはオフラインの完全クローズドで実施し、オフィシャル・ジャッジのアクセス権限も、ラウンドの終了(1分間のインターバル開始)から30秒間のみに限定する。その上で、全試合分のスコア・データをインスペクター(コミッションから派遣されるオフィシャルの一員)が一括アップすればいい。(やらないだろうけれども)。


”疑惑のTKO負け”に不満を爆発させた新和拳は、「是非とも日本で再戦を!」と意気込むも、JBCと協会は「WBCの国内解禁」に対して明確な態度を示さず、歴戦の疲れも当然あったと思うが、2度目の渡英に希望を見出せない関は、引退届けを提出して現役生活に別れを告げた。

16歳でC級デビューしてから10年。1962(昭和37)年9月に獲得した東洋王座を、1967(昭和42年3月/返上)年まで連続12回守り、フライ級時代の初挑戦(ポーン・キングピッチに15回判定負け)を含めて、通算5度世界に挑む。

26歳の若さではあっても、関の生涯戦績は74戦62勝(35KO)11敗1分け。さらに記録に残るエキジビションが6つ。同じく26歳で引退した原田(63戦)と小林(75戦)にも言えることだが、プロボクサーが年間にこなす試合数が激減した現在では、想像すらできないハードワーク。

自ら開いたジムと解説席で、数多くの後輩たちの戦いに続けた原田は、「やっぱり10年が限界じゃないですかね。個人差はあるにしても、プロは10年が一区切りになると僕は思う。」と良く語っていたが、20世紀半ば頃までと現在の圧倒的な試合数の違いを考慮する必要はあるにせよ、確実にダメージが残る競技だけに傾聴すべき指摘ではある。


WBCの初代王者となったウィンストンもまた、1968年7月の初防衛戦(郷里のウェールズ開催)でスペイン在住の亡命キューバ人,ホセ・レグラに5回TKO負け。初回にいきなり2度のダウンを喫すると、左瞼を酷く腫らして無念のギブアップ。

◎試合映像:レグラ 5回TKO ウィンストン(第2戦)
1968年7月24日/コニー・ビーチ・アリーナ,ポートコール(英/ウェールズ)
WBC世界フェザー級タイトルマッチ15回戦
https://www.youtube.com/watch?v=RF7iyZNswrk

レグラとは1965年6月に、社交ダンスのフェスティバルで知られるブラックプール(イングランド)で一度拳を交えており、この時はウィンストンが10回判定勝ちを収めている。深いダメージを負ってリベンジを許したウィンストンは、再起への意欲を見せることなく、そのまま29歳で現役を退く。生涯戦績は67戦61勝(27KO)6敗。あと半年ちょっとで、丸10年の節目になるところだった。

80戦を超えるアマチュアキャリアを併せ持ち、1958年にカーディフで行われたコモンウェルス・ゲームズにバンタム級の代表として出場。見事金メダルに輝いたエリート選手でもあり、引退と同時に「MBE(Member of the Most Excellent order of the British Empire/大英帝国勲章)」を叙勲。

生誕の地であり、2000年9月に61歳で亡くなるまで暮らし続けたマーサータイドフィルの広場には、ウェールズ出身の著名な彫刻家の手によるウィンストンの銅像が立てられている。昭和の日本人にしてみれば、関の勝利を盗んだ大悪人。しかし故郷の人々にとっては、世界タイトルを持ち帰ってくれたスポーツ・ヒーロー。

ハワード・ウィンストン像(Bronze statue of Howard Winstone)
ハワード・ウィンストン像(2001年建立/制作:デヴィッド・ピーターセン)


日本のボクサーで銅像になったのは、ピストン堀口のライバルとして名を馳せ、”槍の笹崎”と呼ばれた笹崎タケシと、”カンムリワシ”こと具志堅用高だけではなかったか。

戦前・戦後を通じて最大のヒーローと称しても過言ではないピストン堀口、世界王者第1号の白井義男、”槍の笹崎”が手塩にかけて育てた戦後最大のスター,ファイティング原田(ピストン堀口に比肩し得る唯一無二の存在)も銅像は建立されていない。

左:笹崎タケシ像,右:具志堅用高銅像とご本人
写真左:笹崎たけし像 東京都目黒区 圓融寺(天台宗)墓地/建立時期及び製作者不明
写真右:具志堅用高像とご本人 沖縄県石垣島 石垣港離島ターミナル/建立:2013年12月26日/制作:株式会社竹中銅器(富山県高岡市)

◎関連記事:具志堅用高さんの銅像を設置 「涙が出るくらいうれしい」 石垣港離島ターミナル 沖縄
2013年12月31日/琉球新報
https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-217335.html

我が国の政治と行政は、一般的に言って芸術家やアスリートを遇することに冷淡で無関心だが、欧米を中心とした海外では、国や街を代表・象徴する芸術家と音楽家,アスリートの名前をストリートに付けたり、スタジアムや各種施設,グラウンド等に名前を冠したり、公共スペースや墓地に銅像(胸像)を建立することも、ごく当たり前に行われる。

我らがモンスターはどうだろう。生まれ故郷の神奈川県座間市は、L・フライ級のWBC王座獲得直後の2014年4月25日に、名誉市民栄誉賞を新たに創設して第1号の表彰を行ってくれたが、神奈川県が所管する「県民功労者表彰」もまだだったのでは。

またまた閑話休題。


勝ち負けを繰り返していたノーランカーの西城に、キラリと光る原石の魅力を見出した金平会長が長期渡米の賭けに打って出たのも、本田明先代帝拳会長と高山、そして関の活躍があったればこそ。

「世界に通用するのはフライ級のみ」

ベテランのスポーツ記者だけでなく、記者と業界関係者の中でも「日本人はフライ級限定」との考え方が根強く語られ続ける中、”黄金のバンタム”ことエデル・ジョフレを攻略して、初のバンタム級+2階級制覇に成功したファイティング原田の快挙(1965/昭和40年5月)に続き、沼田義明(1967/昭和42年6月)と小林弘(1967年12月)がJ・ライト級王者に就く。

そしてハワイと西海岸で眠れる素質を開花させた西城の載冠により、「フライ級限定」の誤った定説が根底から覆る。

◎試合映像:西城 15回3-0判定 R・ロハス
1968年9月27日/メモリアル・コロシアム(米/ロサンゼルス)
オフィシャル・スコア:13-3,11-5,10-5(採点:ラウンド制)
WBA世界フェザー級タイトルマッチ15回戦



映画俳優も顔負けのスマートでハンサムな青年を一目見ようと、ボクシング興行とは無縁なうら若き女性客が来場するようになり、「殺伐とした会場の空気が一変した」と話題になる。西城に魅せられた女性ファンには、打たれ脆い危うさも大層魅力的に映ったらしい。

シンデレラ・ボーイの成功にあやかろうと、大いに刺激を受けた有名・無名の邦人ボクサーがこぞってハワイと西海岸を目指すようになり、”海外遠征ブーム”が到来。カリフォルニアを取り仕切っていた大プロモーター,ジョージ・パーナサスも、勇敢でクリーンな日本人選手を気に入ったようで、まだ見ぬ才能を発掘しようとわざわざ来日。

WBAフライ級王者の大場政夫(帝拳)と、WBC王者エルビト・サラバリア(比)の統一戦をロサンゼルスでやろうとしたり、西城に続く2人目の海外奪取でフェザー級のWBC王者となる柴田国明(ヨネクラ)をロスに呼んで、体重苦から126ポンドに上げた”怪物”ルーベン・オリバレスのライバルにしようと目論んだ。


国内のボクシング人気は下降線を辿り出していたとは言え、世界戦は高い数字が確実に取れる目玉コンテンツであり続け、スポンサーも現在とは比較にならないほど潤沢。放送衛星の商用利用がようやく実用化したばかりで、マスコミも含めて「クローズド・サーキット?。いったいなにもの?」といった程度の理解が精一杯。

ケーブルTV網を利用したPPVは夢物語ですらなく、王国アメリカまで出かけたとて、ハイリスクに見合うだけの巨額の報酬は望むべくもなし。世界タイトルへの挑戦や、オプションを握られアウェイでリマッチに応じざるを得ないとかなら仕方がないけれど、大事な王者をわざわざ危険極まりない敵地へ送り出して防衛戦をやらせるなど、その頃の会長さんとバックの民放キー局の頭には微塵もない。

パーナサスの計画は結局実を結ばなかったのだが、なかなかファンの想像が及びづらい、ダイナミックな交渉が行われていたことにあらためて驚く。


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◎渡米中の戦績:6戦4勝(1KO)2敗
※1967年12月ハワイ着
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<1>1968年1月7日/シナロア州シナロア・デ・レイバ(メキシコ)
●イグナシオ・ピーニャ 10回判定 西城
オフィシャル・スコア,契約ウェイト,当日計量結果不明10回戦
※ピーニャ:ベテラン・ローカルトップ/対戦時点の戦績46勝(15KO)16敗4分け
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<2>1968年1月25日/オリンピック・オーディトリアム(米/ロサンゼルス)
○西城 TKO4R トニー・アルバラード(米)
オフィシャルスコア(3回まで),契約ウェイト不明10回戦
当日公式計量:西城126ポンド1/4,アルバラード128ポンド1/4
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<3>1968年2月15日/オリンピック・オーディトリアム(米/ロサンゼルス)
●ホセ・ルイス・ピメンテル(メキシコ) 10回2-1判定 西城(第1戦)
オフィシャル・スコア:4-5×2(P),6-5(S)
契約ウェイト不明10回戦(おそらく127ポンド?)
当日公式計量:西城126ポンド1/4,ピメンテル125ポンド1/2
※ピメンテル:WBAフェザー級10位
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<4>1968年3月21日/オリンピック・オーディトリアム(米/ロサンゼルス)
○西城 10回3-0判定 ピメンテル(第2戦)
オフィシャル・スコア不明/契約ウェイト不明10回戦
当日公式計量:西城127ポンド,ピメンテル125ポンド
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<5>1968年6月6日/オリンピック・オーディトリアム(米/ロサンゼルス)
○西城 10回2-0判定 ラウル・ロハス(米)
オフィシャル・スコア:8-2(S),5-4(S),5-5
契約ウェイト不明10回戦(おそらく130ポンド)
当日公式計量:西城128ポンド,ロハス130ポンド
※現役世界王者ロハスに殊勲の判定勝ち
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<6>1968年9月27日/メモリアル・コロシアム(米/ロサンゼルス)
○西城 15回3-0判定 ラウル・ロハス(米)
オフィシャル・スコア:13-3,11-5,10-5
WBA世界フェザー級タイトルマッチ15回戦
当日公式計量:西城125ポンド,ロハス126ポンド
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<7>1968年11月18日/後楽園ホール
○西城 8回KO フラッシュ・ベサンテ(比)
オフィシャル・スコア(7回まで):非公開/129ポンド契約10回戦
当日公式計量;西城126ポンド3/4,ベサンテ128ポンド3/4
※凱旋試合/ベサンテ:比国ナショナル王者
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ベサンテ戦を含む1968年の戦績:7戦5勝(2KO)2敗
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■1969年月8日/日本武道館(初防衛戦)
西城 15回3-0判定 WBA1位 ペドロ・ゴメス(ベネズエラ)
オフィシャル・スコア:遠山74-68(主),羽後74-69(副),N・ポップ74-71(副)
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およそ10ヶ月の間に6試合。スタートの1月に2試合をこなし、2月・3月は世界ランカーとの連戦。そして3ヶ月開けて、現役世界王者との腕試し。今なら絶対に考えられないスケジュールだが、この当時は頻繁に目にすることができた。

3度目(にして初の国内開催)の挑戦を実らせ、日本は勿論東洋のボクサーには不可能と考えられていたライト級で天下を獲った”100年に1人の男”ガッツ石松も、名王者イスマエル・ラグナへの初挑戦(敵地パナマへの遠征)が実現した1970年、1月~10月までの9ヶ月間に、ラグナとの世界戦を含めて5試合を戦っている。

まずは1月25日、西海岸のスター王者マンド・ラモスへの挑戦が決まっていた東洋王者ジャガー柿沢(中村)に大番狂わせの10回3-0判定勝ち。石松は5ヶ月後の6月6日、3月にラモスを9回KOに退けたラグナ(4年ぶり2度目の載冠)に挑戦して13回TKO負け。12回までのスコアは、ほぼフルマークの0-3だったが、終盤まで粘って「5回まで持てば上出来」の前評判を覆す。


現代ならここから丸1年休んでも不思議はないけれど、昭和のランカーは試合が組まれたら嫌とは言えない。一息つく間もない8月26日、後楽園ホールで韓国人選手に10回判定勝ちを収めて早々と実戦復帰。

そして10月。米倉会長がとんでもないマッチメイクを石松に課した。10日にハワイでライオネル・ローズ(豪)に10回0-3判定負けすると、29日にはマニラへ飛んで、レネ・バリエントスに10回0-2判定負け。

ファイティング原田から19歳でバンタム級王座を奪取した天才ローズは、怪物オリバレスに敗れて無冠となった後、フェザー級~J・ライト級へと階級を上げて世界ランク入り。小林弘(WBA)と沼田義明(WBC)への挑戦機会を探っていた。


WBC単独認定による初代J・ライト級王者バリエントスは、半年前に沼田の挑戦を受けて15回1-2判定負け。小林との世界戦日本人対決(史上初)で、伝説的な右クロスを浴びて鮮烈なKO負けを喫した沼田の復活をアシスト。

虎の子をベルトを奪還すべく、6月に地元マニラでライト級国内トップの1人,門田新一(三迫)を10回判定に下して再起すると、8月にはやはりマニラでタイのサリマン・イチアヌチットに12回判定勝ちして東洋王座を獲得。

さらに9月、ホノルルへ渡航。フィリピン人コミュニティのバックアップを受けて、140ポンドのフランス国内王者(元欧州王者・世界ランカー)ロジェ・ザミに7回TKO勝ち。沼田とのリマッチ(1971年1月/15回1-2判定負け)に向けて、調子を上げていた。

「1ヶ月に2試合」自体は珍しいことでは無いにしても、元・前の世界王者で、なおかつ現役世界ランカーとのアウェイでの連戦は幾ら何でも厳し過ぎる。しかも初めての世界挑戦でTKO負けしてから、4ヶ月しか経っていない。

流石の石松もこの後5ヶ月休むことになるのだが、ハードコアなマッチメイクに驚くばかり。


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