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■55年前に実現していた現役世界王者対決

左:小林弘(WBA世界J・ライト級チャンピオン)vs 右:西城正三(WBA世界フェザー級チャンピオン)

◎ジュニア・クラスの真実

モンスター井上尚弥のワールドレコードに関する記事の中で既に触れているが、ジュニア・クラスの歴史的位置付け、正統8階級(オリジナル8)との格差について、概略のみあらあためて記しておく。

軽量級を中心したジュニア・クラスの増設が相次いで行われ出す1970年代半ば以前、19550年代末~70年代前半までのプロボクシングは、以下の通り全11階級が規定されていた。

■正統8階級
(1)ヘビー級:175ポンド(79.38キロ)~
(2)L・ヘビー級:~175ポンド(79.38キロ)
(3)ミドル級:~160ポンド(72.57キロ)
(4)ウェルター級:~167ポンド(66.68キロ)
(5)ライト級:~135ポンド(61.24キロ)
(6)フェザー級:~126ポンド(57.15キロ)
(7)バンタム級:~118ポンド(53.52キロ)
(8)フライ級:~112ポンド(50.8キロ)

■ジュニア・クラス
(9)J・ミドル級:~154ポンド(69.85キロ)
(10)J・ウェルター級:~160ポンド(63.5キロ)
(11)J・ライト級:~130ポンド(58.97キロ)

近代ボクシング発祥の地である英国と、19世紀半ばに英国から世界最強の象徴とも言うべきヘビー級王座を奪い、19世紀末~20世紀末までのおよそ100年間ヘビー級を支配し、世界最大規模のマーケットを築いた米国を中心とした欧米諸国では、正統8階級の歴史と伝統を重んじる余り、ジュニア・クラスを軽視(蔑視)する傾向が永く続いた。

1920年代に新設されたJ・ウェルター級とJ・ライト級は、「ライト級とウェルター級で通用しない連中を集めたお助け階級」とみなされ、人気と実力を兼ね備えたトップクラスのスター選手と、それらの人気選手を擁する有力プロモーターから敬遠される。

ライト級,J・ウェルター級,ウェルター級を制覇したバーニー・ロスと、フェザー級,ライト級,J・ウェルター級を獲ったトニー・カンゾネリは、1920年代後半~1930年代末までのおよそ10年余りの間、全8階級のうち3階級を同時制覇したヘンリー・アームストロングらとともに、米国中量級を大いに沸かせたライバルでもあったが、最近まで「2階級制覇王者」として扱われていた。

「地味で目立たす稼げない階級」に甘んじるだけでは済まず、そもそも世界チャンピオンとして認められない。以下に記す通り、2つのジュニア・クラスは四半世紀に及ぶ長い休眠期間を経て、1950年代末に復活。安定的なランキングの形成と王座継承がようやく可能となる。


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◎J・ウェルター級
<1>初代王者:ピンキー・ミッチェル(米/V0)
1923年1月30日/ウィスコンシン州ミルウォーキー,バド・ローガン(米)に10回判定勝ち
※NBAによる認定(在位:~1926年9月21日)

<2>王座推移
第2代:マッシー・キャラハン(米)1926年9月21日~1930年2月18日(V2)
第3代:ジャック・キッド・バーグ(英)1930年2月18日~1931年4月24日(V9)
第4代:トニー・カンゾネリ(米)1931年4月24日~1932年1月18日(V4)
第5代:ジャッキー・ジャディック(米)1932年1月18日~1933年2月20日(V1)
第6代:バトリング・ショウ(米/メキシコ)1933年2月20日~5月21日(V0)
第7代:カンゾネリ(米) 1933年5月21日~6月23日(V0)
第8代:バーニー・ロス(米)1933年6月23日~1935年(V9/返上:日時不明)
※1933年10月ライト級王座を獲得したロスが返上後休眠状態へ

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※一時的な復活
<3>第9代王者ティッピー・ラーキン(米/V1)
1946年4月29日/マサチューセッツ州ボストン,ウィリー・ジョイス(米)に12回判定勝ち
※NYSAC公認ライト級王座に続く2階級制覇。ラーキンが防衛戦を行わないまま消滅/再び休眠状態へ

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※本格的な再開
<4>第10代王者カルロス・オルティス(米/プエルトリコ)
1959年6月12日/MSG・ニューヨーク,ケニー・レイン(米)に2回KO勝ち
※NBAとニューヨーク州アスレチック・コミッション(NYSAC)による同時認定(在位:~1960年9月1日/V2)

カルロス・オルティス

N.Y.のプエルトリカン・コミュニティの圧倒的な支持を受け、殿堂と呼ばれたマディソン・スクウェア・ガーデン(MSG)の新たな顔となったオルティスにベルトを巻かせるべく、ロスから数えて約24年、ラーキンからでも13年ぶりとなる王座復活。

1920年代初頭の設立当初からNBAとの折り合いが悪く、事あるごとに反目対立するNYSACは、初代王者P・ミッチェル以来J・ウェルター級を無視黙殺し続けてきたが、殿堂MSGのボクシング興行を支えるオルティスとあって、NBAに相乗りする格好で世界王座を同時承認。

デュリオ・ロイ(伊)とのリマッチに敗れたオルティスは、一念発起してライト級に階級ダウン。2度の載冠で通算9回の防衛に成功して、60年代のライト級を支配。殿堂MSGを常に満杯にするスターとして君臨した。第1期政権の初防衛戦は、唯一無二の来日。帝拳期待の小坂照男の挑戦を受け、5回KOで一蹴している。

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<5>王座推移
(1)WBA(NBA:1962年)
第11代:デュリオ・ロイ(伊)1960年9月1日~1962年9月14日(V2)
第12代:エディ・パーキンス(米)1962年9月14日~12月15日(V0)
第13代:D・ロイ(伊)1962年12月15日~1963年1月(返上/V0)
第14代:ロベルト・クルス(比)1963年3月31日~6月15日(V0)
第15代:E・パーキンス(米):1963年6月15日~1965年1月18日(V2)
※高橋美徳(よしのり/三迫)の挑戦をワンサイドの13回KOで退けた初来日以降、ライオン古山(笹崎),龍反町(野口),英守(大星)と章次(ヨネクラ)の辻本兄弟と対戦。繰り返し日本に呼ばれて、1960~70年代の国内中量級を代表するトップクラスを寄せ付けない圧倒的な技巧で日本のファンにも愛された。負けたのは、キャリア最晩年(連敗中)に胸を貸した辻本章次のみ(最後の来日)。37歳のパーキンスに判定勝ちした辻本章次は、磐石の日本王者に成長。日本人初のウェルター級王座挑戦を実現した(1976年10月27日/金沢:早熟の怪物的パンチャー,ホセ・ピピノ・クェバスに6回KO負け)。

第16代:カルロス・”モロチョ”・エルナンデス(ベネズエラ)1965年1月18日~1966年4月2日(V2)
第17代:サンドロ・ロポポロ(伊)1966年4月2日~1967年4月30日(V1)
第18代:藤猛(米/日:リキジム所属)1967年4月30日~1968年12月12日(V1)
※1968年月WBC(同年月WBAからの独立を宣言)が王座をはく奪/WBA単独認定となり王座が分裂
第19代:ニコリノ・ローチェ(亜)1968年12月12日~1972年3月10日(V5)
第20代:アルフォンソ・フレーザー(パナマ)1972年3月10日~10月29日(V1)
第21代:アントニオ・セルバンテス(コロンビア)1972年10月29日~1976年3月6日(V10)
第22代:ウィルフレド・ベニテス(プエルトリコ)1976年3月6日~12月(V2/返上)
※歴代最年少記録を更新する17歳5ヶ月での載冠。名王者セルバンテスを相手の大番狂わせは、国際的なヘッドラインとして報じられ世界中を驚嘆させた。

第23代:A・セルバンテス(コロンビア)1977年6月25日~1980年8月2日(V6/通算V16)
第24代:アーロン・プライアー(米)1980年8月2日~1983年10月25日(V8/返上)
※1983年4月WBAに造反した米国東部を地盤にする旧NBA残党組みが旗揚げした新興団体IBFから王座の認定を受けて乗り換え。

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(2)WBC
単独認定初代:ペドロ・アディグ(比)1968年12月14日~1970年1月31日(V0)
メキシコと手を組みWBCの設立(当初はWBAの内部機関:事実上の下部組織)を主導したフィリピンは、同胞ロベルト・クルスの王座をWBAとともに承認。以降、藤猛まで5人の王者をWBAとともに認定したが、あらためて世界王座を誘致するべく、交通事故(諸々の待遇を巡るリキジムとの対立)を理由に戦線離脱を続ける藤のベルトをはく奪。クルスの後継者と目されるアディグに決定戦を承認。

第2代:ブルーノ・アルカリ(伊)1970年1月31日~1974年8月(V9/返上・引退)
第3代:ぺリコ・フェルナンデス(スペイン)1974年9月21日~1975年7月15日(V)
第4代:センサク・ムアンスリン(タイ)1975年7月15日~1976年6月30日(V1)
※ムエタイで無敵を誇ったセンサクが国際式転向僅か3戦目で載冠。最短奪取の世界記録として国際的な注目を浴びる。
第5代:ミゲル・ベラスケス(スペイン)1976年6月30日~10月29日(V0)
第6代:センサク(タイ) 1976年10月29日~1978年12月30日(V7/通算V8)
~今日に至るまで途絶えることなく継承


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◎J・ライト級
<1>初代王者:ジョニー・ダンディ(米/伊)
1921年11月18日/MSG・ニューヨーク,ジョージ・チェイニー(米)に15回判定勝ち
※NBAとNYSACによる同時認定(在位:~1923年5月30日/V3)

<2>王座推移
第2代:ジャック・バーンスタイン(米/伊)1923年5月30日~12月17日(V0)
第3代:J・ダンディ(米/伊)1923年12月17日~1924年6月20日(V0)
※バーンスタインに敗れた後、1923年6月26日、ニューヨークのポログラウンドでユージン・クリキ(仏)に15回判定勝ち。NYSACの公認を受けフェザー級王座に就く。J・ライト級王座と同時並行で保持した。

第4代:スティーブ・キッド・サリヴァン(米)1924年6月20日~1925年4月1日(V1)
第5代:マイク・バレリノ(米)1925年4月1日~12月2日(V1)
第6代:トッド・モーガン(米)1925年12月2日~1929年12月19日(V12)
第7代:ベニー・バス(米)1929年12月19日~1931年7月15日(V0)
※1927年12月~1928年2月までNBAフェザー級王座を保持(カンゾネリに敗れて陥落)
第8代:キッド・チョコレート(キューバ)1931年7月15日~1933年12月25日(V4)
第9代:フランキー・クリック(米)1933年12月25日~1934年(日時不明)
※防衛戦を行わないまま王座消滅。休眠状態へ。

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※一時的な再開
<3>第10代:サンディ・サドラー(米)
1949年12月6日/オハイオ州クリーヴランド,オーランド・ズルータ(米)に10回判定勝ち
※在位期間:不明(V1)

サンディ・サドラー

デラ・ホーヤが「史上最高のディフェンスマスター」と褒めちぎるイタリア系のスピードスター,ウィリー・ペップ(米)とフェザー級の頂点を懸けて4度戦い、ボクシング史に残るライバル争いを繰り広げたサドラーは、公称174センチ(リーチ178センチ)の超大型選手だった。フラッシュ・エロルデとも2度対戦。来日経験も有り。

ペップから奪ったベルトを再戦で奪還され、その後J・ライト級の王座認定を受けたが、何時まで保持したのかは不明。防衛回数もはっきりせず、1950年4月と1951年2月の2回防衛戦を行ったとされるが、50年4月のラウロ・サラス(メキシコ系米国人/後のライト級王者)戦のみとの指摘もある。

サドラー本人は返上を明言したことは無いらしく、NBAがはく奪を決定・通告したか否かもはっきりしない。1956年4月14日の敗戦(10回判定負け)を最後に、眼疾を理由に引退するまで保持していたとする説もあり、在米識者とヒストリアンの中には、サドラーを歴代J・ライト級王者に含めないとの意見もある。

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※本格的な再開
<4>第11代:ハロルド・ゴメス(米)
1959年7月20日/ロードアイランド州イーストプロヴィデンス,ポール・ヨルゲンセン(米)に15回判定勝ち
※NBAによる認定(在位:~1960年3月16日/V0)
F・クリックから数えて約26年、サドラーを王者に含めて防衛回数を2度とみなした場合でも約8年を経過。

<5>王座推移-認知と定着に貢献したエロルデの登場
第12代:フラッシュ・エロルデ(比)1960年3月16日~1967年6月15日(V10)

フラッシュ・エロルデ

第13代:沼田義明(日/極東)1967年6月15日~12月14日(V0)
第14代:小林弘(日/中村)1967年12月14日~1971年7月29日(V6)
※1968年1月WBC(同年月WBAからの独立を宣言)が王座をはく奪/WBA単独認定となり王座が分裂
第15代:アルフレド・マルカノ(ベネズエラ)1971年7月29日~1972年4月25日(V1)
第16代:ベン・ビラフロア(比)1972年4月25日~1973年3月12日(V1)
第17代:柴田国明(日/ヨネクラ)1973年3月12日~10月27日(V1)
※WBCフェザー級(V2)に続く日本で唯一の海外奪取による2階級制覇

第18代:B・ビラフロア(比)1973年10月27日~1976年10月16日(V5/通算V6)
第19代:サムエル・セラノ(プエルトリコ)1976年10月16日~1980年8月2日(V10)
第20代:上原康恒(日/協栄)1980年8月2日~1981年4月9日(V1)
※リング誌アップセット・オブ・ジ・イヤーに選出

第21代:S・セラノ(プエルトリコ)1981年4月9日~1983年1月19日(V3/通算V13)

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(2)WBC
単独認定初代:レネ・バリエントス(比)
1969年2月15日/,ルーベン・ナヴァロ(米)に15回判定勝ち
在位:~1970年4月5日

第2代:沼田義明(日/極東)1970年4月5日~1971年10月10日(V3)
※日本のWBC単独認定王者第1号
第3代:リカルド・アルレドンド(メキシコ)1971年10月10日~1974年2月28日(V5)
第4代:柴田国明(日/ヨネクラ)1974年2月28日~1975年7月5日(V3/通算V4)
第5代:アルフレド・エスカレラ(プエルトリコ)1975年7月5日~1978年1月28日(V10)
第6代:アレクシス・アルゲリョ(ニカラグァ)1978年1月28日~1980年4月27日(V8/返上)
※WBAフェザー級(V5)に続く2階級制覇
~今日に至るまで途絶えることなく継承


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◎WBCに狙い撃ちされた藤と小林
WBCが一方的にWBAからの分派独立を宣言した1968年8月、WBA・WBCが認定する全11階級のチャンピオンは以下の通り。

1.ヘビー級(徴兵拒否を理由にしたアリの王座+ライセンスはく奪)
WBA:ジミー・エリス(米)/68年4月ジェリー・クォーリー(米)との決定戦・15回判定勝ち
WBC・NYSAC:ジョー・フレイジャー(米)/68年3月バスター・マシス(米)との決定戦・11回KO勝ち
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2.L・ヘビー級(A・C):ボブ・フォスター(米)
3.ミドル級(A・C):ニノ・ベンベヌチ(伊)
4.J・ミドル級(A・C):サンドロ・マジンギ(伊)
5.ウェルター級(A・C):カーチス・コークス(米)
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6.J・ウェルター級
WBA:藤猛(米/リキ)→はく奪・空位
WBC:未認定→ペドロ・アディグ(比)/68年12月アドルフ・プリット(米)との決定戦・15回判定勝ち
※67年11月にウィリー・クァルトーア(西独)を4回KOに下して初防衛に成功した後、減量苦による階級アップや契約を巡って所属するリキ・ジムとの確執が表面化。交通事故(軽症)を理由にブランクが長期化した藤の王座をWBCがはく奪。復帰に猶予を与えていたWBAも、ホセ・ナポレス(メキシコ/キューバ)かニコリノ・ローチェ(亜)のいずれかとの対戦を強制。68年12月、1年1ヶ月ぶりの防衛戦(68年4月までノンタイトルを3試合消化)でディフェンスの達人ローチェに翻弄され10回終了TKO負け。
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7.ライト級(A・C):カルロス・テオ・クルス(ドミニカ)
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8.J・ライト級:
WBA:小林弘(中村)→はく奪・空位
WBC:空位→レネ・バリエントス(比)/69年2月ルーベン・ナバロ(米)との決定戦・15回判定勝ち
※WBCは小林が初防衛戦で引き分けたバリエントスとの再戦を通告。WBAも2位ハイメ・バラダレス(エクアドル)との対戦を義務付けしており、JBCがWBCの単独王座認定を国内承認しておらず、WBAのみを正当の世界王座と認める国内状況だった為(海外での挑戦・防衛戦の履行は可能)、中村会長はWBCの通告を拒否。小林はWBCからはく奪処分を受ける。
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9.フェザー級:
WBA:ラウル・ロハス(米)/68年3月エンリケ・ヒギンス(コロンビア)との決定戦・15回判定勝ち
WBC:ホセ・レグラ(スペイン/キューバ)
※V9を達成したビセンテ・サルディバル(メキシコ)が返上・引退(67年10月)。後継王者の決定を巡ってA・Cが分裂。WBA王者ロハスは68年9月の初防衛戦で西城に15回判定負け。関光徳(新和)との初代王者決定戦に露骨な地元裁定で勝利したハワード・ウィンストン(英)も、68年7月の初防衛戦で亡命キューバ人レグラに5回TKO負け。
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10.バンタム級(A・C):ライオネル・ローズ(豪)→ルーベン・オリバレス(メキシコ)
※68年8月のV4戦でローズがオリバレスに5回KO負け
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11.フライ級
WBA:空位→海老原博幸(金平/協栄)/69年3月ホセ・セベリノ(ブラジル)との決定戦・15回判定勝ち
WBC:チャチャイ・チオノイ(タイ)
※65年~66年にかけて、ノンタイトルでの連敗と指名戦の延期を理由に、WBAが時の王者サルバトーレ・ブルニ(伊)をはく奪処分にした際、WBCに加盟した欧州(EBU)と英国が反発。WBAは高山勝義との決定戦(66年3月)に勝利したオラシオ・アカバリョ(亜)を認定。WBCはブルニを継続承認していち早く分裂。統一戦が行われないまま今日に至る。
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11階級中半数を超える6階級は、現在で言うところの統一王者が承認され、ヘビー級は70年2月に統一戦が挙行され、WBCとNYSACから認定を受けるスモーキン・ジョーが、WBA王者エリスに5回KO勝ち。71年3月、復活したアリとの「世紀の一戦」へと歩みを進める。

1968年当時、議長(会長)の職にあったハスティアノ・モンタノ(フィリピンのコミッショナーを兼務)は、自国のホープだったペドロ・アディグとレネ・バリエントスに王座を獲らせる為、持てる政治力をフルに駆使した。

王国アメリカで冷遇され、トップレベルのスタークラスが参戦したがらないJ・ウェルターとJ・ライトに的を絞り、正統8階級から弾かれがちな東洋圏と欧州勢に、メキシコを中心とした中量級以下の中南米勢を優遇する。

当初はWBC単独認定の世界タイトルを認めていなかったJBCも、ファイティング原田の3階級制覇を後押しする為、有り得ない謀略で敗れたジョニー・ファメション(豪)との再戦を契機にWBCの国内承認に踏み切り、沼田も日本国内でのバリエントス挑戦が叶う。


日本のマスメディアは、米・英を中心とした正統8階級偏重とジュニア・クラスへの不当に低い評価について口をつぐみ、取材も行って来なかった。中量級のJ・ウェルター級を重量級と称して、米国籍の藤猛を「日本人初の重量級世界王者」と持て囃す。

特に王国アメリカによるジュニア・クラスへの差別は、エロルデや小林,沼田らの歴史的評価と価値には何の関係も無いと言いたいところではあるが、やはり小さからぬ影響があったと認めねばならない。


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