2026年春,東京ドーム開催決定!? - 年間表彰式で予期せぬビッグ・サプライズ Part 5 -
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■55年前に実現していた現役世界王者対決

華やかなスター然とした西城とは対照的に、”地味で玄人受けする技巧派”の典型だった小林を育成したのは、超スパルタで知られる中村信一会長。硬派一徹ゆえに、負けを一切気にせずハードコアなマッチメイクを弟子たちに強いた。
昭和の会長さんには概してこのタイプが多く、良くも悪くも精神主義・根性論による支配が当たり前。会長が白と言えば白、黒と言えば黒。選手と雇われトレーナーに、面と向かっての反論・反抗は許されない。
「為せば成る、為さねば成らぬ何事も。成らぬは人の為さぬなりけり」
スポーツ全般に限らず学校から職場に至るまで、ありとあらゆる場面で「為せば成る」が常套句のように用いられていた。それが昭和という時代・・・いや、流石にこれは言い過ぎか・・・。
そして、海外遠征と言えば小林。フェザー級の日本タイトルを3度防衛した後、1966(昭和41)年5月~8月までの3ヶ月間、中米エクアドルを皮切りに、ベネズエラ,メキシコと南北アメリカ大陸を北上。西城がビッグ・チャンスを掴んだロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムを打ち止めに、世界ランカー2名を含む6試合(!)を消化する超強行軍。
◎中南米遠征の戦績:6戦2勝(2KO)2敗2分け
<1>1966(昭和41)年5月14日/キトー(エクアドル)
△小林 10回引分 ハイメ・バラダレス
130ポンド契約(?)10回戦
※当日計量:バラダレス130ポンド,小林127ポンド1/2
※バラダレス:J・ライト級世界ランカー(2年後のV2戦で再戦して判定勝ち)
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<2>1966年5月30日/カラカス(ベネズエラ)
●フレディ・レンヒフォ(ベネズエラ) 10回判定 小林
オフィシャル・スコア:非公表
127ポンド契約(?)10回戦
※当日計量:レンヒフォ126ポンド1/4,小林126ポンド1/2
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<3>1966年6月24日/カラカス(ベネズエラ)
●ペドロ・ゴメス(ベネズエラ) 7回TKO 小林
オフィシャル・スコア(6回まで):非公表
127ポンド契約(?)10回戦
オフィシャル・スコア:非公表
※当日計量:ゴメス126ポンド3/4,小林126ポンド1/2
※ゴメス:フェザー級世界ランカー(3年後に西城の初防衛戦の指名挑戦者として来日・判定負け)
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<4>1966年7月10日/シナロア州シナロア・デ・レイバ(メキシコ)
△小林 10回引分 アウレリオ・カサレス(メキシコ)
※契約ウェイト,当日計量,オフィシャル・スコア:非公表・不明
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<5>1966年7月31日/シナロア州クリアカン(メキシコ)
○小林 9回KO デルフィーノ・ロサレス(メキシコ)
オフィシャル・スコア(8回まで):非公表
フェザー級(?)10回戦
※当日計量:小林不明,ロサレス126ポンド
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<6>1966年8月18日/オリンピック・オーディトリアム(米/ロサンゼルス)
○小林 7回終了TKO ボビー・バルデス(米)
オフィシャル・スコア(6回まで):非公開
127ポンド契約(?)10回戦
※当日計量:両者とも127ポンド/バルデス:後のフェザー級世界ランカー
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1966(昭和41)年の小林は、1月~3月まで毎月リングに上がり、キャリアの最終盤に入っていた”メガトン・パンチ”青木勝利(三鷹/元東洋バンタム級王者)、塩山重雄(鈴木/日本タイトル戦)、森洋(極東/S・フェザー級日本ランカー)を連破。
初っ端の3連戦が既に有り得ないが、さらに海外での過酷な6連戦から帰国すると、休む間もなく10月10日に千葉信夫(ヨネクラ/後の日本フェザー級王者)との防衛戦をこなし、11月10日には野畑澄男(常滑/後の日本J・ライト級王者)も10回判定に下してV5を達成。
これで終わりかと思いきや、野畑戦から18日後(!)の11月28日、フィリピンのローカル・ランカーを招聘して10回判定勝ち。12戦8勝(1KO)2敗2分けの戦果を持って、ハードな1年を終えている。
世界へと羽ばたく翌1967(昭和42)年も、小林は8戦して負けなしの全勝(2KO)を記録しているが、5月8日に行った三橋高夫(田辺)との防衛戦を挟み、韓国人選手×4名,比国人選手×2名の7名に完勝。主戦場を130ポンドに移してWBA1位に付けると、10連続防衛で130ポンドの定着に大きく寄与したフラッシュ・エロルデ(比)から、WBCが分裂する前のWBA王座を奪った沼田義明(極東)への挑戦が具体化。
小林がWBAのトップランカーになったことで、「沼田・小林戦うべし」との機運が高まり、世界戦で初めてとなる日本人対決が実現した。
中村会長と極東ジムの小高伊知夫(こだか・いちお)会長が、シナリオの無い本気の舌戦を応酬し合っただけでなく、赤穂浪士の討ち入りで知られる12月14日の日程に加えて、天覧試合になるのではないかとの風聞が出回るなど、スポーツ報道の枠を超える騒動となった。
丁々発止の駆け引き&ペース争いが続く中、第6ラウンドに伝家の宝刀右クロスで先制のダウンを奪った小林が流れを掴み、迎えた第12ラウンド、またもや右クロスを炸裂させる。思い切り顎を跳ね上げられた沼田は、天を仰ぐようにもんどりうって2度目のダウン。
余力を振り絞って立ち上がるも、この機を逃さず集中打をまとめた小林が2度のダウンを重ねてKO勝ち。同門の大先輩、矢尾板貞男が成し得なかった世界の頂点に立つ。
◎試合映像:小林 12回KO 沼田
1967年12月14日/蔵前国技館
オフィシャル・スコア(11回まで):54-51,54-52,53-51(3-0で小林)
WBA世界J・ライト級タイトルマッチ15回戦(分裂前の統一王座)
※フルファイト
ttps://www.youtube.com/watch?v=PF5yrtZ3p18
2000年代の始め頃だったと記憶するが、専門誌の企画で沼田と小林が対談した折に、小高会長との関係について「難しかった。相手を誘い出す為にわざとガードを下げて、狙い通りにカウンターを決めてKOしても、ジムに戻ると”何で言われた通りにやらないんだ!”って、全員が見てる前で怒鳴られる。大変でしたよ」と苦笑まじりに話していた。
「私たちの時代は、会長に逆らうなんて絶対に許されない。でも、記者さんやテレビの取材が入っている時は、すべて小高会長の言うことを忠実に守って練習しましたよ」とも述べている。
その上で、具体的な対策はほとんどすべて自分で考えてやっていたと、現役時代はもとより、小高会長が存命中は口にできなかったであろう本音を吐露していた。
「人前で会長に恥をかかせるわけにいきません。でも会長が見ていない普段の練習は、全部自分で考えて工夫しながらやっていた。会長やトレーナーのアドバイスは聞きますけど、実際に殴り合うのは僕ですから。」
「”小高理論”ですか?。そんなのいくら教わっても、試合でそのまま通用するわけないでしょう。相手は勝ちたい一心で、必死になっていろんなことをしかけてくる。いちいちこだわってなんかいられません。」
1分間のインターバル中、コーナーのアドバイスや指示はちゃんと聞くが、いざラウンドが始まったら、積み重ねた経験と自らの感覚を頼りに、その場に合わせて即興的に判断して行くしかないと、この点でも日本中を沸かせたライバルが異口同音に語っていたのが強く印象に残る。
技巧派の頂点に立っていたと言っても過言ではない小林も、「付きっ切りで面倒を見るという意味での専属トレーナーは、少なくとも僕にはいなかった。練習から何から、すべて自分で考えてやっていました」と話し、沼田の言葉に頷いていた。
「作戦ですか?。事前に色々と考えはしますけど、やっぱり試合当日リングに上がって、ゴングが鳴ってからですね。実際に向かい合ってみないとわからない。僕らの頃は15ラウンド(世界戦)ですから、3~4回ぐらいまでの間に、距離とか癖とか色んなことを大体の感じで掴みながら、じゃあ今日はどうやろうかって考える。」
沼田もまったくの同意見で、「私たちの試合は、まずは駆け引きから始まってこれが結構長い。15ラウンドの長丁場を、判定勝負前提で組み立てますから。玄人が見れば色々見どころもあるんですが、素人目には地味に映るでしょう。だから退屈と思われても仕方がない。」

ハイ・ガードの堅持を第一に、つま先やかかと、頭や腕等の位置をミリ,センチ単位でうるさく指示する独特の指導方法をマスコミが「小高理論」と名付け、映画全盛期の日活が社内に設けた「ボクシング部」にコーチとして招かれ、石原裕次郎,小林旭,赤木圭一郎らのトップスターを教えて有名になった小高会長は、TBSが企画した「ボクシング教室」を共催。主管を任される。
そして、全国から集まった7千人もの応募者の中から10名を選抜。北海道から唯一合格したのが中学を卒業したばかりの沼田だった。ボクシング経験を持たない小高会長は、現場とコーナーを腹心のトレーナーに任せる方針を採っていたが、沼田を発掘してから率先して現場に立つようになり、指導に口を挟むようになって行ったという。
小高理論の申し子のように語られ、"精密機械"と呼ばれた沼田だが、実際のファイトスタイルは自由奔放な天才肌の閃き型。今で言うL字やノーガードで駆け引きしながら足を使ったり、”天井アッパー”が今でも語り草になっているラウル・ロハス戦のように、強打をブンブン振り回すことも珍しくない。
最大の弱点と言われたボディを狙われるのが常で、必要とあればクリンチワークも厭わなかった。その為、「沼田は汚い。狡い」と批判されることも度々あったと記憶する。
「レフェリーの注意を受けない限り、反則じゃないですから。注意されれば僕は止めますよ。でも海外の選手はそんなに甘くない。みんな勝つ為に必死なんですよ。」
「あからさまな反則はそりゃダメですよ。でも海外の選手はギリギリのところを、レフェリーに分からないように上手にやってくる。そのレベルまで行けば、それはもう技術のうちですから・・・」と、真顔で記者の問いに反論を返す場面もあった。
◎天才肌の閃き型を象徴する沼田の2試合
<1>沼田 5回KO ラウル・ロハス(米)
1970年9月27日/日大講堂(旧両国国技館)
WBC世界J・ライト級タイトルマッチ15回戦(V1)
https://www.youtube.com/watch?v=nU4aaBz-Nzw
西城に敗れた後、階級を上げたロハスが沼田に挑戦。メキシカン特有の執拗なボディ攻撃でダウンを奪われ、KO負け寸前まで追い込まれた沼田が、”天井アッパー”を放って驚愕の逆転KO勝ち。コーナーを背にロハスの連打を必死に耐える沼田だが、冷静に元フェザー級王者の隙を伺う鋭い視線にゾクっと背筋が震える。
<2>沼田 15回3-0判定 ライオネル・ローズ(豪)
1971年5月30日/広島県立総合体育館
WBC世界J・ライト級タイトルマッチ15回戦(V3)
https://www.youtube.com/watch?v=PEB3gnyiR0E
野球のON,大相撲の大鵬と並ぶ国民的ヒーロー、ファイティング原田を大番狂わせの15回判定に下し、弱冠19歳8ヶ月の若さでバンタム級の頂点に立ったローズは、柔らかいボディワークと滑らかなフットワークを操る技巧派で、年齢からは想像できない完成度の高さを発揮。豪州の先住民アボリジニ初の世界王者として人気を博した。
原田も19歳6ヶ月で世界フライ級王者となり、22歳1ヶ月で50戦無敗(48勝2分け/37KO)のエデル・ジョフレを破り、国内史上初の2階級制覇を成し遂げた早熟のファイターだったが、ローズの天才もけっして引けを取らない。
東京五輪金メダリストの桜井孝雄(スピード・スタータイプのサウスポー)、チューチョ・カスティーヨ(メキシコ/ルーベン・オリバレスのライバル)、アラン・ラドキン(英/当時の欧州No.1)の3人からベルトを守った後、東洋王座を獲得して再浮上した桜井との挑戦者決定戦を6回KOで難なくクリアした怪物オリバレスに5回KO負け。フェザー~J・ライトへと階級を上げた。
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※歴代最年少世界王者
1.ウィルフレド・ベニテス(プエルトリコ):17歳5ヶ月(1976年3月:WBA J・ウェルター級)
2.セサール・ポランコ(ドミニカ):18歳2ヶ月(1986年2月:IBF J・バンタム級)
3.ラタナポン・ソー・ウォラピン(タイ):18歳6ヶ月+5日(1992年10月:IBF M・フライ(ミニマム)級)
4.ホセ・ピピノ・クェバス(メキシコ):18歳6ヶ月+21日(1976年7月:WBAウェルター級)
5.井岡弘樹(日/グリーンツダ):18歳9ヶ月(1987年10月:WBCストローc級/初代王者)
6.トニー・カンゾネリ(米):18歳11ヶ月(1927年10月:NYSAC・リング誌公認フェザー級)
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L字と言えば、小林も左のガードを低く構えて、半身を深くしながら相手をけん制するのが上手く、広い意味で沼田と小林も”L字の使い手”と言えるのかもしれない。
当時は誰もがウィービング,ダッキング,ブロッキング,フットワークといった限られたディフェンス用語しか使っていなかったけれど、パリングやローリング、スリッピング、ボビングなどの重要かつ基本的な技術は、すべて過不足なくマスターしていた。
◎試合映像:小林自ら「生涯のベスト・バウト」と認めるカルロス・カネテ戦
1969(昭和44)年11月9日/日大講堂(旧両国国技館)
小林 vs C・カネテ(亜)
WBA1位の指名挑戦者として小林に挑んだカネテは、1960年ローマ五輪に出場したエリート・アマ出身組み。長い手足が技巧派のアウトボクサーを想起させたが、厚みのあるがっしりとした上半身の持ち主で、92戦77勝(52KO)6敗9分けの生涯戦跡が示す通り、ジャブ&ワンツーを飛ばしながら、積極的に仕掛ける好戦的なボクサーファイターだった。
スタートからキレのある動きとパンチで主導権を握った小林は、得意の右クロスを小さく鋭く放ってカネテのリードジャブを殺し、細かいポジションチェンジを繰り返しながら駆け引きを続けつつ、接近戦で揉み合っても押し負けず、一回り大きいカネテをコントロール。苦戦の予想を覆して、大差の3-0判定勝ち(75-63×2,75-65/5点減点法)。見事な内容で、4度目の防衛に成功している。
1962年にプロに転向してから、7年の歳月をかけて辿り着いた世界戦を落とした後も、アルゼンチンの国内王者として1970年9月まで現役を継続したが、ベテランの中堅ローカル・トップに9回TKO負けを喫して王座を追われ引退。
バンタム級の代表として乗り込んだローマでは、初戦(E32)で日本の芳賀勝男(中央大)に0-5のポイントで敗れており、アマ・プロいずれにおいても、ここ一番の大勝負で日本人に苦杯を喫したのも、何かの因縁だろうか。
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