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■55年前に実現していた現役世界王者対決

左:小林弘(WBA世界J・ライト級チャンピオン)vs 右:西城正三(WBA世界フェザー級チャンピオン)

かような次第で、ウィンストンと関の決定戦が仮に判定勝負にもつれ込んでいたにせよ、イングランド出身のローランド・デーキン(クィーンズ・イングリッシュではダーキンに聞こえることも少なくない)主審にフェアなスコアリングを望むのは不可能に等しく、カウントアウトによるKO以外、そもそも関に勝機は無かったと見るのが妥当と思われる。

サルディバルに3度敗れたウィンストンが、関との決定戦に推挙されたこと自体を問題視する声も当然上がっていた。しかも1~2戦目の開催地は、ロンドンとカーディフ(出身地ウェールズの首都)。ウィンストンは地の利を得てもなお連敗(15回判定)を喫した上、アウェイのメキシコシティに場所を移した3戦目は12回TKO負け。

英国内での2試合は、いずれもイングランド選出の主審が1人で採点する発祥国伝統のローカル・ルールが適用され、ウィンストンと彼の陣営に弁明の余地は一切ない。英国外のファンと関係者が、WBCの通告に首をかしげるのはごく自然な流れだった。


発祥国の意地と沽券にかけて、第二次大戦後もNBA(WBA)への加盟を拒み続けた英国と欧州(EBU)は、WBAへの改称後、内部機関(下部組織)としてスタートしたWBCへの加盟を大義名分にして、盟主の座を奪い取った王国アメリカが誇る巨大なマーケットへの本格的な参入を模索し始める。

全米各州に絶大な影響力を持つニューヨーク州とカリフォルニア州アスレチック・コミッションの審査は厳しく、各国の主要プロモーターたちがギルド化する現象もボクシング界に共通する光景で、英米に限らず(閉鎖的かつ封建的な日本はその筆頭格)、どの国も海外の有力プロモーターに対する参入障壁は低くない。

反WBA(旧NBA=アメリカによる支配体制)の旗印の下に参集した英国に、WBC設立を主導したメキシコ&フィリピン(初期の議長=会長2ヶ国)が手厚い配慮を示したとの推察は、概ねその通りに違いないと思う。


そして旧NBAの支配下にあったWBAが、ウィンストン vs 関戦を良しとする筈もなく、米国籍を持つメキシコ系の人気者ラウル・ロハスと、コロンビアの実力者エンリケ・ヒギンスを指名。ロンドンの謀略(?)から2ヶ月遅れの1968年3月28日、ロハスが根城にしていたロサンゼルスでWBA単独認定による決定戦が行われ、明白な15回3-0判定でヒギンスを下し、無事新チャンピオンの座に就く。

こうして、フライ級(1965年~66年)に続いてフェザー級も王座が分裂(時期を同じくしてヘビー級も再分裂)。同一階級に2人の世界一を認めることについて、当時の国内ボクシング界が抱いた危機感とマスコミも含めた反発は、主要4団体が定着した今日の感覚では理解不可能だと確信する。

「同じ階級に世界一が2人?。有り得ない。本当にそんなことになったら、ボクシングは競技としての信頼を完全に失うんじゃないか。まともなスポーツとみなされなくなるのでは・・・」

WBCが独自のランキング公表&世界王者の承認に踏み切り、王者の分裂が拡大していく過程において、あくまでWBAを正統の世界一だとする空気が、洋の東西を問わずあったことも事実で、国内未承認のWBC単独認定王座挑戦への批判的な意見がまったく無かったと言えばウソになる。がしかし、海外で日本人が不当な目に逢えば、日本のメディアとファンはやはり怒る。

メキシコとフィリピンが主導したWBCに、OBF(Oriental Boxing Federation/東洋ボクシング連盟:現在のOPBF/Oriental and Pacific Boxing Federation)の一員としてタイ・韓国とともに参画しながらも、単独王座の承認には反対する。

議長国(始めは会長ではなく議長と称した)を持ち回りしていた墨・比2ヶ国は、「自己矛盾だ」と日本に国内開催の承認を求めたが、「世界一は各階級に1人であるべき」との正論(建前?)を大真面目に主張し、頑なにその姿勢を崩そうとしない。


「レフェリーは(カットの状態を)ちゃんと見ていない(見たフリをしただけ)。」

目前にしていた悲願の世界王座を突然召し上げられた関は、理不尽な裁定に不服を訴えた。これに対してウィンストンも、「彼が望むのであれば、日本に行って再戦してもいい」とインタビューで回答。どこまで本気だったのかはわからないけれど・・・。

デーキン主審のオフィシャルスコアは非公開だが、ウィンストンの名誉の為に附記しておくと、AP通信(Associated Press)とUPI(United Press International)のアンオフィシャル・スコアはウィンストンを支持している。

AP:3-2-3(ラウンド制による採点:3R=W,2R=S,3R:even)
UPI:4-2-2

KO・TKO決着の場合にオフィシャル・スコアを公表しないケースは、今現在も含めて珍しいことではない。各国コミッションは全面的な公開を義務とすべきだが、「手書き」が原則のスコアリングの現状、事務処理の手間とコストを考えると「何が何でもやれ」とまでは言えない。

「手書きスコアのPDF化+WEBアップロード公開」は、それこそ我が国行政府の悪しき慣行をなぞる愚行でしかなく、「スコアリングの電子化」&「メイン・イベント(興行の最終試合)の公式結果告知(リングコール)直後のWEB同時公開」が最善だとは思う。

電子スコアはオフラインの完全クローズドで実施し、オフィシャル・ジャッジのアクセス権限も、ラウンドの終了(1分間のインターバル開始)から30秒間のみに限定する。その上で、全試合分のスコア・データをインスペクター(コミッションから派遣されるオフィシャルの一員)が一括アップすればいい。(やらないだろうけれども)。


”疑惑のTKO負け”に不満を爆発させた新和拳は、「是非とも日本で再戦を!」と意気込むも、JBCと協会は「WBCの国内解禁」に対して明確な態度を示さず、歴戦の疲れも当然あったと思うが、2度目の渡英に希望を見出せない関は、引退届けを提出して現役生活に別れを告げた。

16歳でC級デビューしてから10年。1962(昭和37)年9月に獲得した東洋王座を、1967(昭和42年3月/返上)年まで連続12回守り、フライ級時代の初挑戦(ポーン・キングピッチに15回判定負け)を含めて、通算5度世界に挑む。

26歳の若さではあっても、関の生涯戦績は74戦62勝(35KO)11敗1分け。さらに記録に残るエキジビションが6つ。同じく26歳で引退した原田(63戦)と小林(75戦)にも言えることだが、プロボクサーが年間にこなす試合数が激減した現在では、想像すらできないハードワーク。

自ら開いたジムと解説席で、数多くの後輩たちの戦いに続けた原田は、「やっぱり10年が限界じゃないですかね。個人差はあるにしても、プロは10年が一区切りになると僕は思う。」と良く語っていたが、20世紀半ば頃までと現在の圧倒的な試合数の違いを考慮する必要はあるにせよ、確実にダメージが残る競技だけに傾聴すべき指摘ではある。


WBCの初代王者となったウィンストンもまた、1968年7月の初防衛戦(郷里のウェールズ開催)でスペイン在住の亡命キューバ人,ホセ・レグラに5回TKO負け。初回にいきなり2度のダウンを喫すると、左瞼を酷く腫らして無念のギブアップ。

◎試合映像:レグラ 5回TKO ウィンストン(第2戦)
1968年7月24日/コニー・ビーチ・アリーナ,ポートコール(英/ウェールズ)
WBC世界フェザー級タイトルマッチ15回戦
https://www.youtube.com/watch?v=RF7iyZNswrk

レグラとは1965年6月に、社交ダンスのフェスティバルで知られるブラックプール(イングランド)で一度拳を交えており、この時はウィンストンが10回判定勝ちを収めている。深いダメージを負ってリベンジを許したウィンストンは、再起への意欲を見せることなく、そのまま29歳で現役を退く。生涯戦績は67戦61勝(27KO)6敗。あと半年ちょっとで、丸10年の節目になるところだった。

80戦を超えるアマチュアキャリアを併せ持ち、1958年にカーディフで行われたコモンウェルス・ゲームズにバンタム級の代表として出場。見事金メダルに輝いたエリート選手でもあり、引退と同時に「MBE(Member of the Most Excellent order of the British Empire/大英帝国勲章)」を叙勲。

生誕の地であり、2000年9月に61歳で亡くなるまで暮らし続けたマーサータイドフィルの広場には、ウェールズ出身の著名な彫刻家の手によるウィンストンの銅像が立てられている。昭和の日本人にしてみれば、関の勝利を盗んだ大悪人。しかし故郷の人々にとっては、世界タイトルを持ち帰ってくれたスポーツ・ヒーロー。

ハワード・ウィンストン像(Bronze statue of Howard Winstone)
ハワード・ウィンストン像(2001年建立/制作:デヴィッド・ピーターセン)


日本のボクサーで銅像になったのは、ピストン堀口のライバルとして名を馳せ、”槍の笹崎”と呼ばれた笹崎タケシと、”カンムリワシ”こと具志堅用高だけではなかったか。

戦前・戦後を通じて最大のヒーローと称しても過言ではないピストン堀口、世界王者第1号の白井義男、”槍の笹崎”が手塩にかけて育てた戦後最大のスター,ファイティング原田(ピストン堀口に比肩し得る唯一無二の存在)も銅像は建立されていない。

左:笹崎タケシ像,右:具志堅用高銅像とご本人
写真左:笹崎たけし像 東京都目黒区 圓融寺(天台宗)墓地/建立時期及び製作者不明
写真右:具志堅用高像とご本人 沖縄県石垣島 石垣港離島ターミナル/建立:2013年12月26日/制作:株式会社竹中銅器(富山県高岡市)

◎関連記事:具志堅用高さんの銅像を設置 「涙が出るくらいうれしい」 石垣港離島ターミナル 沖縄
2013年12月31日/琉球新報
https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-217335.html

我が国の政治と行政は、一般的に言って芸術家やアスリートを遇することに冷淡で無関心だが、欧米を中心とした海外では、国や街を代表・象徴する芸術家と音楽家,アスリートの名前をストリートに付けたり、スタジアムや各種施設,グラウンド等に名前を冠したり、公共スペースや墓地に銅像(胸像)を建立することも、ごく当たり前に行われる。

我らがモンスターはどうだろう。生まれ故郷の神奈川県座間市は、L・フライ級のWBC王座獲得直後の2014年4月25日に、名誉市民栄誉賞を新たに創設して第1号の表彰を行ってくれたが、神奈川県が所管する「県民功労者表彰」もまだだったのでは。

またまた閑話休題。


勝ち負けを繰り返していたノーランカーの西城に、キラリと光る原石の魅力を見出した金平会長が長期渡米の賭けに打って出たのも、本田明先代帝拳会長と高山、そして関の活躍があったればこそ。

「世界に通用するのはフライ級のみ」

ベテランのスポーツ記者だけでなく、記者と業界関係者の中でも「日本人はフライ級限定」との考え方が根強く語られ続ける中、”黄金のバンタム”ことエデル・ジョフレを攻略して、初のバンタム級+2階級制覇に成功したファイティング原田の快挙(1965/昭和40年5月)に続き、沼田義明(1967/昭和42年6月)と小林弘(1967年12月)がJ・ライト級王者に就く。

そしてハワイと西海岸で眠れる素質を開花させた西城の載冠により、「フライ級限定」の誤った定説が根底から覆る。

◎試合映像:西城 15回3-0判定 R・ロハス
1968年9月27日/メモリアル・コロシアム(米/ロサンゼルス)
オフィシャル・スコア:13-3,11-5,10-5(採点:ラウンド制)
WBA世界フェザー級タイトルマッチ15回戦



映画俳優も顔負けのスマートでハンサムな青年を一目見ようと、ボクシング興行とは無縁なうら若き女性客が来場するようになり、「殺伐とした会場の空気が一変した」と話題になる。西城に魅せられた女性ファンには、打たれ脆い危うさも大層魅力的に映ったらしい。

シンデレラ・ボーイの成功にあやかろうと、大いに刺激を受けた有名・無名の邦人ボクサーがこぞってハワイと西海岸を目指すようになり、”海外遠征ブーム”が到来。カリフォルニアを取り仕切っていた大プロモーター,ジョージ・パーナサスも、勇敢でクリーンな日本人選手を気に入ったようで、まだ見ぬ才能を発掘しようとわざわざ来日。

WBAフライ級王者の大場政夫(帝拳)と、WBC王者エルビト・サラバリア(比)の統一戦をロサンゼルスでやろうとしたり、西城に続く2人目の海外奪取でフェザー級のWBC王者となる柴田国明(ヨネクラ)をロスに呼んで、体重苦から126ポンドに上げた”怪物”ルーベン・オリバレスのライバルにしようと目論んだ。


国内のボクシング人気は下降線を辿り出していたとは言え、世界戦は高い数字が確実に取れる目玉コンテンツであり続け、スポンサーも現在とは比較にならないほど潤沢。放送衛星の商用利用がようやく実用化したばかりで、マスコミも含めて「クローズド・サーキット?。いったいなにもの?」といった程度の理解が精一杯。

ケーブルTV網を利用したPPVは夢物語ですらなく、王国アメリカまで出かけたとて、ハイリスクに見合うだけの巨額の報酬は望むべくもなし。世界タイトルへの挑戦や、オプションを握られアウェイでリマッチに応じざるを得ないとかなら仕方がないけれど、大事な王者をわざわざ危険極まりない敵地へ送り出して防衛戦をやらせるなど、その頃の会長さんとバックの民放キー局の頭には微塵もない。

パーナサスの計画は結局実を結ばなかったのだが、なかなかファンの想像が及びづらい、ダイナミックな交渉が行われていたことにあらためて驚く。


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◎渡米中の戦績:6戦4勝(1KO)2敗
※1967年12月ハワイ着
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<1>1968年1月7日/シナロア州シナロア・デ・レイバ(メキシコ)
●イグナシオ・ピーニャ 10回判定 西城
オフィシャル・スコア,契約ウェイト,当日計量結果不明10回戦
※ピーニャ:ベテラン・ローカルトップ/対戦時点の戦績46勝(15KO)16敗4分け
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<2>1968年1月25日/オリンピック・オーディトリアム(米/ロサンゼルス)
○西城 TKO4R トニー・アルバラード(米)
オフィシャルスコア(3回まで),契約ウェイト不明10回戦
当日公式計量:西城126ポンド1/4,アルバラード128ポンド1/4
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<3>1968年2月15日/オリンピック・オーディトリアム(米/ロサンゼルス)
●ホセ・ルイス・ピメンテル(メキシコ) 10回2-1判定 西城(第1戦)
オフィシャル・スコア:4-5×2(P),6-5(S)
契約ウェイト不明10回戦(おそらく127ポンド?)
当日公式計量:西城126ポンド1/4,ピメンテル125ポンド1/2
※ピメンテル:WBAフェザー級10位
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<4>1968年3月21日/オリンピック・オーディトリアム(米/ロサンゼルス)
○西城 10回3-0判定 ピメンテル(第2戦)
オフィシャル・スコア不明/契約ウェイト不明10回戦
当日公式計量:西城127ポンド,ピメンテル125ポンド
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<5>1968年6月6日/オリンピック・オーディトリアム(米/ロサンゼルス)
○西城 10回2-0判定 ラウル・ロハス(米)
オフィシャル・スコア:8-2(S),5-4(S),5-5
契約ウェイト不明10回戦(おそらく130ポンド)
当日公式計量:西城128ポンド,ロハス130ポンド
※現役世界王者ロハスに殊勲の判定勝ち
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<6>1968年9月27日/メモリアル・コロシアム(米/ロサンゼルス)
○西城 15回3-0判定 ラウル・ロハス(米)
オフィシャル・スコア:13-3,11-5,10-5
WBA世界フェザー級タイトルマッチ15回戦
当日公式計量:西城125ポンド,ロハス126ポンド
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<7>1968年11月18日/後楽園ホール
○西城 8回KO フラッシュ・ベサンテ(比)
オフィシャル・スコア(7回まで):非公開/129ポンド契約10回戦
当日公式計量;西城126ポンド3/4,ベサンテ128ポンド3/4
※凱旋試合/ベサンテ:比国ナショナル王者
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ベサンテ戦を含む1968年の戦績:7戦5勝(2KO)2敗
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■1969年月8日/日本武道館(初防衛戦)
西城 15回3-0判定 WBA1位 ペドロ・ゴメス(ベネズエラ)
オフィシャル・スコア:遠山74-68(主),羽後74-69(副),N・ポップ74-71(副)
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およそ10ヶ月の間に6試合。スタートの1月に2試合をこなし、2月・3月は世界ランカーとの連戦。そして3ヶ月開けて、現役世界王者との腕試し。今なら絶対に考えられないスケジュールだが、この当時は頻繁に目にすることができた。

3度目(にして初の国内開催)の挑戦を実らせ、日本は勿論東洋のボクサーには不可能と考えられていたライト級で天下を獲った”100年に1人の男”ガッツ石松も、名王者イスマエル・ラグナへの初挑戦(敵地パナマへの遠征)が実現した1970年、1月~10月までの9ヶ月間に、ラグナとの世界戦を含めて5試合を戦っている。

まずは1月25日、西海岸のスター王者マンド・ラモスへの挑戦が決まっていた東洋王者ジャガー柿沢(中村)に大番狂わせの10回3-0判定勝ち。石松は5ヶ月後の6月6日、3月にラモスを9回KOに退けたラグナ(4年ぶり2度目の載冠)に挑戦して13回TKO負け。12回までのスコアは、ほぼフルマークの0-3だったが、終盤まで粘って「5回まで持てば上出来」の前評判を覆す。


現代ならここから丸1年休んでも不思議はないけれど、昭和のランカーは試合が組まれたら嫌とは言えない。一息つく間もない8月26日、後楽園ホールで韓国人選手に10回判定勝ちを収めて早々と実戦復帰。

そして10月。米倉会長がとんでもないマッチメイクを石松に課した。10日にハワイでライオネル・ローズ(豪)に10回0-3判定負けすると、29日にはマニラへ飛んで、レネ・バリエントスに10回0-2判定負け。

ファイティング原田から19歳でバンタム級王座を奪取した天才ローズは、怪物オリバレスに敗れて無冠となった後、フェザー級~J・ライト級へと階級を上げて世界ランク入り。小林弘(WBA)と沼田義明(WBC)への挑戦機会を探っていた。


WBC単独認定による初代J・ライト級王者バリエントスは、半年前に沼田の挑戦を受けて15回1-2判定負け。小林との世界戦日本人対決(史上初)で、伝説的な右クロスを浴びて鮮烈なKO負けを喫した沼田の復活をアシスト。

虎の子をベルトを奪還すべく、6月に地元マニラでライト級国内トップの1人,門田新一(三迫)を10回判定に下して再起すると、8月にはやはりマニラでタイのサリマン・イチアヌチットに12回判定勝ちして東洋王座を獲得。

さらに9月、ホノルルへ渡航。フィリピン人コミュニティのバックアップを受けて、140ポンドのフランス国内王者(元欧州王者・世界ランカー)ロジェ・ザミに7回TKO勝ち。沼田とのリマッチ(1971年1月/15回1-2判定負け)に向けて、調子を上げていた。

「1ヶ月に2試合」自体は珍しいことでは無いにしても、元・前の世界王者で、なおかつ現役世界ランカーとのアウェイでの連戦は幾ら何でも厳し過ぎる。しかも初めての世界挑戦でTKO負けしてから、4ヶ月しか経っていない。

流石の石松もこの後5ヶ月休むことになるのだが、ハードコアなマッチメイクに驚くばかり。


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