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■数字は時に嘘をつく・・・ 世界戦通算勝利「22」

井上尚弥

■時代によって異なる世界タイトルの権威と重み

現代のボクサーが抱える永遠の課題と言うべき最大の相違点、すべての矛盾と欺瞞の出発点と言い換えた方が相応しい、階級と認定団体の増加。ざっくりまとめると次のようになるが、まずは階級。

◎階級の推移
■1740年代:2階級
(1)ヘビー級:160ポンド(72.7キロ/11ストーン4ポンド)超
(2)ライト級:160ポンド未満
18世紀のイングランドに、古代ローマのパンクラチオンに源流を持つボクシングを蘇らせた創始者ジェームズ・フィグの高弟、ジャック・ブロートンが著した史上初のルールブック、「ブロートン・コード(ルール)」により規定。

ジャック・ブロートン
※ジャック・ブロートン(1703年もしくは1704年7月5日~1789年1月8日)

ブロートン・コード(ブロートン・ルール)
◎ブロートン・コード(ブロートン・ルール)について
<1>Broughton’s Rules - Boxrec
https://boxrec.com/media/index.php/Broughton%E2%80%99s_Rules
<2>初期ボクシングのルール(ブロートンズ・ルール)に関する研究(大阪体育学会)
https://www.osaka-taiikugakkai.jp/journal/vol48/48_Umegaki_187-195.pdf

■1740~1860年代:4階級
(1)ヘビー級:160ポンド(72.7キロ/11ストーン4ポンド)超
(2)ライト級:160ポンド未満(130~150ポンド説有り)
(3)ウェルター級:142~145ポンド(目安)
(4)ミドル級:160ポンド(目安)
1838年に「ロンドン・プライズリング・ルールズ(London Prize Ring rules)」が発表され、1853年の改訂版策定公表(ベアナックル・ルールの完成)を経て、ベアナックル・ルールが確立する18世紀後半~19世紀初頭にかけて、142~145ポンドを目安にしたウェルター級、160ポンドを上限(あくまで目安)としたミドル級が定められたとされるが、明確な時期やリミットについては判然としない。

ロンドン・プライズリング・ルールズ(1頁)

「ブロートン・コード(ルール)」と「ロンドン・プライズリング・ルールズ」のいずれにも、階級(ウェイト・クラス)について明文化はされておらず、最軽量のライト級は当然142ポンド未満となる筈だが、各階級のリミットは必ずしも厳格に運用されていた訳ではなく、馴染みの無い新しい階級が定着するまでには相応の時間も必要で、下の階級ほど軽く扱われる傾向も影響して、ライト級について130~150ポンド程度を目安にしていたの説もある。

■1880~1890年代:3・4階級
<1>1867年:3階級/クィーンズベリー・アマチュア選手権(1867~1885年)
(1)ヘビー級
(2)ミドル級
(3)ライト級
明確なリミットの規定は不明だが、おそらく以下のABA選手権に同様と思われる(ABA選手権がクィーンズベリー選手権に倣った)。

<2>1881年:4階級/ABA選手権
(1)ヘビー級:168ポンド超(上限なし)※1889年に「無制限(下限も無し)」に改訂
(2)ミドル級:11ストーン4ポンド(160ポンド=72.7キロ)
(3)ライト級:10ストーン(140ポンド=63.5キロ)
(4)フェザー級:9ストーン(126ポンド=57.15キロ)

1865年にクィーンズベリー・ルール(Marquess of Queensberry rules/2オンスグローブ着用)が施行され、グローブ着用に否定的なプロのプライズ・ファイターの様子を見て、アマチュアの必要性を痛感したクィーンズベリー侯爵が、自らの名前を冠した大会を主催。プロにも参加を呼びかけ、いわゆるオープン選手権の体裁を取った。

クィーンズベリー侯
※クィーンズベリー侯/ジョン・ショルト・ダグラス侯爵
(1844年7月20日~1900年1月31日)

クィーンズベリー侯の活動が継続する間に、イングランドには史上初のアマチュア統括機関が誕生する。現在も英国のアマチュアを管理運営する「ABA:イングランド・アマチュアボクシング協会/Amateur Boxing Association 」で、1880年に12のクラブが参加して創設された。ABAは新大陸アメリカの選手たちにも参加を認めていた為、1903年のセントルイス五輪でボクシングが正式競技として採用されるまで、史上初にして唯一の国際大会と見なされる。

■1909~10年:8階級
(1)ヘビー級:175ポンド超(上限なし)
(2)L・ヘビー級:12ストーン7ポンド(175ポンド=79.5キロ)
(3)ミドル級:11ストーン4ポンド(160ポンド=72.7キロ)
(4)ウェルター級:10ストーン7ポンド(147ポンド=66.8キロ)
(5)ライト級:9ストーン9ポンド(135ポンド=61.4キロ)
(6)フェザー級:9ストーン(126ポンド=57.15キロ)
(7)バンタム級:8ストーン6ポンド(118ポンド=53.5キロ)
(8)フライ級:8ストーン以下(112ポンド=50.9キロ)

1891年にロンドンで設立された「ナショナル・スポーティング・クラブ(ナショナル・スポーツ・クラブ:The National Sporting Club /NSC)」が1909年~10年にかけて定めた階級で、これが現在に続く「正統8階級(Original 8・Traditional 8)」である。

歴史上最古の統括機関(の1つ)と位置づけられる「NSC」は、クィーンズベリー・ルールの改訂に着手した他、試合役員(Ring Officials:レフェリー,タイムキーパー,立会人他)の役割を整理するとともに、初めて採点基準を規定し、勝利者を決定する権限をレフェリーのみに与え、判定に疑義が生じないようラウンドごとのポイントを明確にした。

「NSC」の積極的な活動によって、グローブ着用と階級制への理解と関心が深まり、より安全でフェアな戦いを実現する為、階級とリミットの規定を厳格化しようという機運が高まって行く。

1913年(1911年説有り)に、パリ(ブリュッセル説有り)で発足した最古の世界タイトル認定団体IBU(International Boxing Union/国際ボクシング連合)も、当然のようにNSCの8階級を継承する。

NSCは発祥の地英国を統括する機関として活動を続けるが、フランス革命とウィーン体制崩壊(1848年)に端を発した「特権階級(王侯貴族) VS 下層階級(一般市民)」の対立の構図は、瞬く間に欧州全域に波及拡大。NSCが承認する英国タイトルマッチは、そのまま世界タイトルの権威を無言のうちに主張した。

様々な曲折を経て、第一次大戦(1914年7月~1918年11月)の終結後、王制を敷いていた欧州諸国多くが民主制へと移行。英国も民主化のうねりと無縁ではいられず、19世紀の選挙権拡大に始まった改革の機運に、20世紀に入って以降の税制改正が相まって、巨額の相続税(財産税)に直撃された貴族階級が急速に弱体化。

貴族とその周辺にいる政治経済の権力層を軸にした、NSC会員限定でボクシングの公式戦が催されることに、一般の市民から明確な抗議の声が上がるようになり、特権階級による支配から、一般市民と地域社会が取って代わる時代へと移り行く中、NSCもその役割を終える時がやって来る。

1929年にコヴェントガーデンに構えた立派な居城を閉鎖したNSCは、英国ボクシング管理委員会(BBBofC:British Boxing Board of Control)へとその姿を変え、発展的解消という形で幕を閉じた。


そしてナチスが政権を掌握したドイツが、オーストリアを併合。きな臭さを増す1938年4月、IBUの総会がミラノで開催された数日後、ローマで画期的な出来事が起きる。ボクシングが盛んな国の統括機関から、総勢63名もの代表者が集まり、おそらく史上初にして唯一の国際会議が開かれた。

BBBofC(英国のコミッション)はもとより、NYSACとNBAも出席し、世界タイトルマッチの15ラウンド制が国際的に合意形成された他、各階級の世界チャンピオンについて確認と合意が行われている。

新大陸(NYSAC,NBA)との覇権争いで大きくリードを許したIBUも、第二次大戦の深刻な戦禍により、1940年代以降IBUは活動停止に追い込まれる。そして大戦終結後の1946年、現在のEBU:European Boxing Union)に名称を変更。自主的に欧州王座認定機関へと転換した。

盟主の座をアメリカに奪われ、発祥国としてのプライドを傷付けられた英国と旧IBU残党の反発と抵抗は根強く、英・仏を中心に時折出現する特定の人気選手を世界王者として承認するケースが散見された。


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◎王国アメリカの動き

■1920年~21年:11・13階級
<1>ニューヨーク州アスレチック・コミッション
(1)ヘビー級:175ポンド超
(2)L・ヘビー級:175ポンド以下
(3)ミドル級:160ポンド以下
(4)ウェルター級:147ポンド以下
(5)J・ウェルター級:147ポンド以下
(6)ライト級:135ポンド以下
(7)J・ライト級:130ポンド以下
(8)フェザー級:126ポンド以下
(9)J・フェザー級:122ポンド以下
(10)バンタム級:118ポンド以下
(11)J・バンタム級:115ポンド以下
(12)フライ級:112ポンド以下
(13)J・フライ級:109ポンド以下

<2>NBA(現在のWBA)
(1)ヘビー級:175ポンド超
(2)L・ヘビー級:175ポンド以下
(3)ミドル級:160ポンド以下
(4)ウェルター級:147ポンド以下
(5)J・ウェルター級:140ポンド以下
(6)ライト級:135ポンド以下
(7)J・ライト級:130ポンド以下
(8)フェザー級:126ポンド以下
(9)バンタム級:118ポンド以下
(10)フライ級:112ポンド以下
(11)J・フライ級:109ポンド以下

ニューヨーク州でボクシングの合法化を定めた「ウォーカー法」の成立と同時に、管理運営を担保するコミッション制度が1920年に正式スタート。「ニューヨーク州アスレチック・コミッション(NYSAC:New York State Athletic Commission)」と命名され、プロ・ライセンスの管理を開始するとともに上記の13階級を規定した。

さらに翌1921年、東部を中心とした17州が集まり、世界タイトルを認定する団体「NBA(National Boxing Association:全米ボクシング協会)」を組織する。IBU(音頭を取った英国)の発足から、8(10)年遅れての発進。

J・ウェルター級とJ・ライト級だけでなく、軽量級にも狭間のジュニア・クラスを設けたNYSACの決定にまず驚く。流石に多過ぎると感じたのかどうか、NBAはJ・フェザー級とJ・バンタム級を削って全11階級としたが、フライ級の下にJ・フライ級を設けているのは意外ですらある。

ただし、J・ウェルター級とJ・ライト級は参入する有力選手が皆無に等しく、バーニー・ロスとトニー・カンゾネリのライバル争い等の僅かな例外を除いて開店休業の状態が続き、J・フライ級もこのウェイトで戦う選手がおらず、発足直後に廃止されたらしい。

NYSACの13階級に、J・ミドル(154ポンド以下),ミニマム(105ポンド),S・ミドル(168ポンド以下),クルーザー(190ポンド以下/2003年~2004年に200ポンドに引き上げ)の4つを加えて、J・フライの109ポンドを108ポンドにすれば、現在の17階級と完全に同一となる。

この流れは現実のチャンピオンシップにも影響を及ぼす。現代に継承される世界チャンピオンは、1880年代~90年代にかけてヘビー級,ミドル級,ライト級,バンタム級,フェザー級,ウェルター級の順に次々と登場するが、「正統8階級」を構成するL・ヘビー級は1903年、フライ級は1913年まで待たねばならない。

そしてJ・ライト級は、1921年11月18日にNYSACが承認する決定戦がMSGで行われ、ジョージ・チェイニーに5回反則勝ちを収めたジョニー・ダンディ(米/イタリア系移民)が初代王者となり、NBAも1925年3月に追承認を公表する。

やや遅れて、J・ウェルター級も1923年1月30日、ミルウォーキーでバド・ローガンを10回判定に下したピンキー・ミッチェルを、NBAが初代王者として認定(NYSACは1959年まで未承認/140ポンドに関与せず)。

初代J・ライト級王者ダンディ(左)と初代J・ウェルター級王者ミッチェル
※左:初代J・ライト級王者ジョニー・ダンディ/生涯戦績:335戦90勝(22KO)31敗19分け194ND・1NC/NYSAC J・ライト級王座V3/NYSACフェザー級王座V1
(1991年殿堂入り/戦績:国際ボクシング殿堂)
※右:初代J・ウェルター級王者ピンキー・ミッチェル/生涯戦績:83戦44勝(10KO)23敗6分け/NBA J・ウェルター級王座V2


しかしながら、ジュニア・クラスは容易にファンと識者の支持を得られず、「要するに、ウェルターとライトで王者になれない連中の集まり。お助け階級に過ぎない」と口さがない評価を下す人たちが大勢を占めた。

こうしてJ・ライト級は1933年、J・ウェルター級も1935年を最後に王者が不在となり、1940年代のティッピー・ラーキン(J・W)とサンディ・サドラー(J・L)をごく瞬間的な例外として、MSGを舞台に大活躍するカルロス・オルティス(カーロス・オーティズ/J・ウェルター級とライト級を奪取/殿堂入り)とフラッシュ・エロルデ(比/分裂前のJ・ライト級をV10/殿堂入り)が登場する1959年の正式な復活まで休眠する。

また、NYSACとNBAは設立当初から折り合いが悪く、何かにつけて反目対立したが、ニューヨークを主戦場に活躍する人気選手を手厚くバックアップするNYSACの基本的な姿勢は、MSGがボクシング興行に情熱を失う1970年代後半まで続く。

140ポンドと130ポンドの復活に華を添えたオルティス(左)とエロルデ(右)
※左:カルロス・オルティス(米/プエルトリコ)/生涯戦績:70戦61勝(30KO)7敗1分け
(NBA・NYSAC J・ウェルター級王座V2/NBA・NYSACライト級王座V4/WBA・WBCライト級王座V5=通算V9)
※右:フラッシュ・エロルデ(比)/生涯戦績:117戦88勝(33KO)27敗2分け(NBA J・ライト級王座V10)
※戦績:国際ボクシング殿堂


日本人選手と43戦(29勝12KO13敗1分)もやったエロルデは、日本で育ったとの評価もある異例中の異例にしても、オルティスとサドラーにも来日経験があり、1962年の冬に東京を訪れたオルティスは、11月7日に後楽園ホールでフェザー級の第一人者,高山一夫(帝拳)似10回判定勝ち。

「高山が強いのか、オルチス(日本国内でのカナ表記)がさほどでもないのか?」と不穏な空気が流れるも、翌12月3日の本番では、日本人初のライト級王座挑戦を果たした帝拳の小坂照男(エロルデとは5戦したライバル:1勝4敗)を問題にせず、圧巻の右強打で5回KO勝ち。余りの強さに、国技館を埋めた満員の観客は言葉を失った。

◎オルティス vs 小坂戦を伝えるニュース映像


◎エロルデ 12回TKO 小坂(第4戦)のニュース映像
1964年7月27日/蔵前国技館



オルティスより7年早い1955年8月8日、後楽園球場(!)で当時の国内フェザー級No.1,金子繁治(笹崎)を6回TKOに屠ると、2週間も経たない8月20日、マニラに飛んでフラッシュ・エロルデにまさかの10回判定負け。

5ヶ月後の1956年1月18日、サンラフランシスコのカウ・パレスで再びエロルデと対峙したサドラーは、得意の裏技(レフェリーの眼を盗んで仕掛ける様々な反則)も容赦なく繰り出し、エロルデの瞼を切り裂いて13回TKO勝ち。フェザー級のベルトを三度び守っている。

Sandy Saddler
※サンディ・サドラー(米)/生涯戦績:162戦144勝(103KO)16敗2分け
NBA・NYSACフェザー級王座V4(2度獲得)/NBA J・ライト級王座V1(返上)
戦績:国際ボクシング殿堂
時のフェザー級で頂点を争ったウィリー・ペップとの3戦(2勝2KO1敗)は、歴史に残る数多のライバル対決のベスト10に数えられる。

◎サドラー vs 金子戦を報じるショート・ドキュメント
SANDY SADLER IN JAPAN
https://www.dailymotion.com/video/x8q34by

この頃の世界王者は防衛戦の合間に数多くのノンタイトルをこなし、各国の偵察を兼ねて稼ぐのが当たり前で、アウェイでの判定負け(キャッチウェイト+地元判定)も珍しいことではなく、タイトルマッチで負けなければいいと割り切るチャンプも少なくなかった。

この時サドラーのスパーリング・パートナーに呼ばれたのが、ウェルター級のプロボクサーだった作家の安部譲二。フェザー級とは思えないパワーと攻防の高度な技術を前に、「何もさせて貰えない。唖然とした」と後に著作の中で追懐。

「フェザーにしちゃサドラーはデカいし(公称174センチ)、俺は駆け出しの三下で比べものにならない。でもさ、4階級も重いんだぜ。なのに赤子の手を捻るどころじゃなくて、子供扱いにもならない。バケモノかって思うよ。こんな強いのとやらされる金子はたまったもんじゃない」と同情さえ覚えたという。


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◎1960年代:11階級(J・ミドル級の新設)
(1)ヘビー級:175ポンド超
(2)L・ヘビー級:175ポンド以下
(3)ミドル級:160ポンド以下
(4)J・ミドル級:154ポンド以下(※)
(5)ウェルター級:147ポンド以下
(6)J・ウェルター級:140ポンド以下
(7)ライト級:135ポンド以下
(8)J・ライト級:130ポンド以下
(9)フェザー級:126ポンド以下
(10)バンタム級:118ポンド以下
(11)フライ級:112ポンド以下

腕に覚えのあるL・ヘビー級の猛者たちが、ほぼ例外なくヘビー級に挑み続けたように、人気と実力を併せ持つウェルター級のベスト・オブ・ベストたちも、真の中量級No.1を目指して時のミドル級トップにぶつかって行くのが、20世紀中頃までの王国アメリカにおける伝統だった。

がしかし、175ポンド上限のL・ヘビー級と、190~200ポンド超のヘビー級との間にある15~20ポンドを超える重量の違いは、致命的とも言えるパワー&耐久性の差となって立ちはだかり、同様にウェルター級(147ポンド上限)とミドル級(160ポンド上限)を分ける「13ポンドの壁」もまた、高く切り立つ断崖絶壁として軽量の男たちの行く手を阻む。

そんな状況に手を打つべく、147ポンドと160ポンドの間に設けられたのが、154ポンドを上限とするJ・ミドル級で、1962年10月20日にデニー・モイヤーとジョーイ・ジャンブラによる初代王者決定戦が行われ、WBA(World Boxing Association)に改称したばかりのNBAは、15回3-0判定勝ちを収めたモイヤーを王者として承認。

AAUトーナメント優勝を手土産に、1957年に18歳でプロ入りしたモイヤーは、僅か2年後の1959年8月、弱冠二十歳でウェルター級王者ドン・ジョーダンに挑戦して15回0-3版手負け。ウェルター級で3度王者(通算V7に成功して返上)になり、ミドル級に上げて2階級を制する名王者エミール・グリフィス(殿堂入り)との1勝1敗を含む連戦で巻き返しを図り、新たな階級でチャンスを掴んだ。

Denny Moyer1
※J・ミドル級初代王者デニー・モイヤー/生涯戦績:141戦98勝(25KO)38敗4分け1NC

2度目の防衛戦で、同じくウェルター級のコンテンダーだったラルフ・デュパスに敗れてしまい、リマッチも落としたモイヤーは、ルイス・ロドリゲス(殿堂入り)やフレディ・リトル(J・ミドル級王者として来日)、ニノ・ベンベヌチ(ローマ五輪金メダル/J・ミドルとミドルを制覇して殿堂入り)ら、自らと同じくウェルター~ミドルを股にかけて戦う実力者たちと顔を合わせ、1965年頃にはミドル級に定住。

初載冠から10年を経た1972年3月、無敵の王としてミドル級を支配するカルロス・モンソンに挑戦したが、5回TKOで一蹴されている。

ヘビー級とともに、近代ボクシングの歴史を切り拓いてきたミドル級とウェルター級に挟まれたJ・ミドル級は、出来たばかりという最大のマイナスを差し引いても、地味で目立たないという点でJ・ウェルター級とJ・ライト級を上回っていた。正当性を疑われるのも、スーパースターや人気選手が敬遠するのも、であるからこそ東洋圏の選手に割り込む隙があったこともまったく同じ。


1969年9月9日、時のJ・ミドル級王者フレディ・リトル(米)が来日。大阪府立体育会館で、東洋王座の2階級(ウェルターとミドル)を制した第一人者の南久雄(中外)を、鮮やかな右ショートストレート1発で2回にノックアウト。

公称170センチの小兵リトルは腕が長く、5センチの身長差(南:175センチ)をものともせず、初回から長身の南に正確なジャブをヒット。もともと南はディフェンスが甘く、特にジャブを貰い過ぎる傾向が目立ったが、やはり世界基準のジャブを面白いように貰って雲行きの悪さを実感させた直後のフィニッシュに、府立を埋めたファンは絶句するしかなかった。

◎試合映像:リトル 2回KO 南


1971年10月31日、日大講堂(旧両国国技館)で五輪銀メダリストのカルメロ・ボッシ(伊)を破り、日本のボクサーとして最重量級の王座に辿り着いた”炎の男”輪島功一(三迫/小林弘に並ぶ6回防衛の国際最多タイ記録)に続き、工藤政志(熊谷),三原正(三迫)と3人の王者を輩出したJ・ミドル級は、昭和のファンにとってはお馴染みの階級でもある。

初期の輪島を象徴する「カエル飛び」や「余所見パンチ」、意表を突く様々なフェイント等々、セオリーから大きく外れる変則スタイルは、オリンピアンのボッシには思いのほか功を奏した。

ところが、郡司信夫を始めとする識者と一部ベテラン記者には甚だウケが悪く、「頭脳的ではあった」と一定の評価をした郡司は、返す刀で「ボクシングに非ず」と一刀両断。ト

世界タイトルマッチの試合会場が、観客の笑い声でどよめく。想像もできなかった光景に、思わず苦虫を噛み潰し、眉をひそめる会長さんもおられた。トリッキーに過ぎる「カエル飛び」等の陽動戦術は、専門家には好まれていなかったと記憶する。

引退後に出演したドキュメンタリー作品で、輪島自身「カエルなんて、本当はやっちゃいけないの」と真顔で話しているが、同時に「背が低くて腕も短い俺は、まともにやっていたら勝てない。真っ正直に飛び込んだってカウンターを食うだけだから、人一倍頭を使って考えるんだよ」とも言っていた。

輪島の代名詞となったカエル飛び

その後防衛を重ねて行く過程で、輪島のボクシングは驚くほど洗練の度合いを増し、熟練した正攻法のボクサーファイターへと変貌する。

キックボクシングの解説もやった作家で僧侶の寺内大吉は、ミゲル・デ・オリベイラ(ブラジル)との再戦を完勝で締め括り、地元判定の批判を免れないドロー防衛で厳しい批判を受けた初戦の因縁に決着を着ける快勝を目撃して、「世界王者としては二流だった輪島が、気が付けば一流の技術と正統の駆け引きを身に付けていた」と、最大限の賛辞を贈り輪島を労った。

どんな時でも頭と腰を低くして、人の悪口と大言壮語を誰よりも嫌った輪島が、幾許かの含羞を浮かべつつ、うっすら涙声で「私の誉れです」と述べる姿が今も脳裏に焼き付いて離れない。


輪島と言えば、何はなくとも「奇跡の復活」。

こっぴどいKO負けを喫したオスカー・アルバラード(米)と柳斉斗(韓)の2人からベルトを獲り戻し、日本人の世界王者で初めて敗れた相手からの奪還に成功した2試合が有名になり過ぎて、すっかり影が薄くなってしまったけれど、生涯のベストバウトは多くのファンが推す柳とのリマッチではなく、オリベイラとの第2戦かもしれないと、時々そんな風に思うことがある。

◎参考映像
<1>奇跡のチャンプ “炎の男”輪島功一 復活伝説
ttps://www.youtube.com/watch?v=lAaYvFsFAOs
<1>炎のチャンピオン 輪島功一
ttps://www.youtube.com/watch?v=0mc2rWOkXDc


80年代以降、シュガー・レイ・レナード&トーマス・ハーンズ、驚愕の増量を繰り返す”石の拳”デュラン、最年少王者ウィルフレド・ベニテスらのスーパースターが相次いで154ポンドに参入。

日本と東洋圏のトップクラスがおいそれと近づけない、正統8階級のウェルター,ミドルと変わらない高みへと昇り、縁遠いクラスとなってしまう。

輪島が成し遂げた連続6回の防衛は、小林弘に並ぶ当時の国内最多記録であり、競技人口が縮小する一方の現状を振り返らずとも、輪島の記録に迫り、塗り替えるような邦人J・ミドル(S・ウェルター)級王者が出現する可能性は限りなくセロに近い。


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