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■数字は時に嘘をつく ・・・ 世界戦通算勝利「22」

井上尚弥

■世界戦の通算KO勝利「22」-偉大なる”ブラウン・ボンバー”との比較

「彼は人種の誇りだ。人類という人種の・・・(Yes, Louis was a credit to his race - the human race.)」

ニューヨーク・ポストで健筆を振るったジミー・キャノン記者による、余りにも有名な一文。「褐色の爆撃機」がヘビー級の頂点に君臨したのは、映画「シンデレラ・マン」のモデルになったジェームズ・ジム・ブラドックをKOして王座に就いた1937年6月22日から、引退と返上を正式に表明した1949年3月1日まで、およそ11年9ヶ月余りに及ぶ。

この間、1942年1月14日~1945年10月1日までの約3年9ヶ月、ルイスは陸軍に従軍した。ルイスに限らず、そして期間の長短は別にして、米国人の世界チャンピオンやランカー、著名選手の多くが陸軍に従軍したが、実際に戦地に派遣されることは稀で、本人がよほど強く志願しない限り、兵士の慰問や募集活動への貢献が目的であり、NBA(現在のWBA)は従軍した王者の防衛義務を免除した。

各階級のトップコンテンダー、とりわけ「無冠の帝王」的存在として知られた真の実力者にとって実に手痛い待機期間となったが、第二次大戦による休止期間として知られている。


◎ジョー・ルイス(米)
ジョー・ルイス(1938年)
1914年5月13日~ 1981年4月12日(66歳没)
生涯戦績:71戦68勝(54KO)3敗
1990年国際ボクシング殿堂入り
※写真:1938年,24歳当時(史上に名高いマックス・シュメリングとの第2戦が行われた)


◎ルイスの世界戦:27戦26勝(22KO)1敗(25回連続防衛)
*:マディソン・スクウェア・ガーデン
**:旧ヤンキー・スタジアム
***ポログラウンド(1890年~1963年までN.Y.市内にあったベースボール・スタジアム)

■23歳1ヶ月~34歳10ヶ月
(1)1937年6月22日 ジェームズ・J・ブラドック(米)8回KO勝ち(王座獲得)
(2)1937年8月30日 トミー・ファー(英)15回3-0判定勝ち(V1)**
(3)1938年2月23日 ネイサン・マン(米)3回KO勝ち(V2)
(4)1938年4月4日 ハリー・トーマス(米)5回KO勝ち(V3)
(5)1938年6月22日 マックス・シュメリング(独)1回TKO勝ち(V4)**
(6)1939年1月25日 ジョン・ヘンリー・ルイス(米)1回KO勝ち(V5)*
※J・H・ルイス:現役世界L・ヘビー級王者
(7)1939年4月17日 ジャック・ロパー(米)1回KO勝ち(V6)
(8)1939年6月28日 トニー・ガレント(米)4回TKO勝ち(V7)**
(9)1939年9月20日 ボブ・パスター(米)11回KO勝ち(V8)
(10)1940年2月9日 アルトゥロ・ゴドイ(チリ)15回2-1判定勝ち(V9)*
(11)1940年3月29日 ジョニー・ペイチェク(V10)
(12)1940年6月20日 アルトゥロ・ゴドイ(チリ)8回TKO勝ち(V11)**
(13)1940年12月16日 アル・マッコイ(米)6回TKO勝ち(V12)
(14)1941年1月31日 レッド・バーマン(米)5回KO勝ち(V13)*
(15)1941年2月17日 ガス・ドラジオ(米)2回KO勝ち(V14)
(16)1941年3月21日 エイブ・サイモン(米)13回TKO勝ち(V15)
(17)1941年4月8日 トニー・マスト(米)9回TKO勝ち(V16)
(18)1941年5月23日 バディ・ベア(米)7回反則勝ち(V17)
(19)1941年6月18日 ビリー・コン(米)13回KO勝ち(V18)***
(20)1941年9月29日 ルゥ・ノヴァ(米)6回TKO勝ち(V19)***
(21)1942年1月9日 バディ・ベア(米)1回KO勝ち(V20)*
(22)1942年3月27日 エイブ・サイモン(米)6回TKO勝ち(V21)*
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※第二次大戦による休止期間
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(23)1946年6月19日 ビリー・コン(米)8回KO勝ち(V22)**
(24)1946年9月18日 タミー・マウリエロ(米)1回KO勝ち(V23)**
(25)1947年12月5日 ジャージー・ジョー・ウォルコット(米)15回2-1判定勝ち(V24)
(26)1948年6月25日 ジャージー・J・ウォルコット(米)11回KO勝ち(V25)
※1949年3月1日 引退表明/王座返上
(27)1950年9月27日 エザード・チャールズ(米)15回0-3判定負け(復帰/世界王座挑戦)


従軍後の1942年3月と6月、かさむ一方の戦費調達と戦意高揚の為、ルイスはチャリティ・イベントとして防衛戦とエキジビションを行う(ルイスは自身のギャランティを全額軍に寄付)。

3月27日にニューヨークの殿堂マディソン・スクウェア・ガーデン(MSG)で、エイブ・サイモンとの再戦に13回TKO勝ち(V21)。6月5日には旧ヤンキー・スタジアムで3ラウンドのエキジビションを行い、1年後の1944年11月にエキジビションを再開(戦費調達のチャリティ興行)するまでリングから離れている。

1945年10月1日に除隊したルイスは、同年11月~12月にかけて計9回のエキジビションをこなすと、翌1946年6月19日、旧ヤンキー・スタジアムでL・ヘビー級王座を返上したビリー・コン(米)との防衛戦(5年越しの再戦:V22)で実戦に復帰。

公式戦だけで見ると、ルイスのブランクは1942年3月27日~1946年6月19日までの約4年3ヶ月ということになる。


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◎ルイスの防衛記録は25ではなく26?

そして1944年11月のチャリティ・エキジビションは、ミシガン,メリーランド,ワシントンDC,ニューヨークといった東部で計8回開催されているが、11月14日にニューヨーク州バッファローで行われたジョニー・ディヴィス戦について、世界戦か否かに関する議論があり、今に至るまで完全決着できていない。

ニューヨーク州アスレチック・コミッション(NYSAC)の余計な(?)配慮と決定が、厄介な揉め事の発端になった。4回戦のエキジビションとして組まれたこの試合を、NYSACが世界タイトルマッチとして承認したというのだ。

結果はルイスの初回KO勝ち。205ポンドで計量したルイスが、190ポンドのディヴィスを問題にせず一蹴(クルーザー級は影も形も無く190ポンドは立派なヘビー級ではあったが)。

◎ルイス vs ディヴィス戦を報じる新聞記事
<1>「Brooklyn Eagle」1944年11月16日(15ページ)
1944年11月16日「Brooklyn Eagle」

<2>United Press 1944年11月15日
One Punch By Louis Puts Davis Away
https://news.google.com/newspapers?nid=1129&dat=19441115&id=85BRAAAAIBAJ&sjid=0mkDAAAAIBAJ&pg=4847,573012&hl=en

もしもこの勝利が世界戦に含まれた場合、ルイスの通算KO勝利は23になり、我らがモンスターは、5月ラスベガスで内定(?)したアラン・ピカソ(メキシコ)との次戦で、大方の目論見通りKO防衛を果たしても記録更新とはならず、9月のアフマダリエフ戦(?)までお預けを食らう。


もっとも、ルイスの通算防衛回数が25から26(世界戦通算勝利も26から27)に、そして通算のKO勝ちが22から23に増える可能性は、ただ今の時点ではほとんどゼロに近い、茶飲み話にすらならない世迷言の類に過ぎないと申し上げていいだろう。

そもそも論として、4ラウンズのエキジビションを世界戦として承認することの非常識と非合理を指摘しなければならない。限度を超えた欺瞞、嘘偽りでしかない上、世界戦を15ラウンド制と規定したNYSACのルールに自ら反していることが挙げられる。

さらに問題なのが、ディヴィスの実力。単にノーランカーだったというだけでなく、世界タイトルの挑戦者に相応しい実績の持ち主とは口が裂けても言えない(Boxrecが網羅している戦績:5勝20敗)。

コミッション制度が未だ確立への途上にあった1930~40年代までの在米プロボクサーのレコードは、100%正しいとまでは言い切れない。特に無名選手であればある程、信頼性は薄れて行く。

実はディヴィスにも、記録から漏れている実戦がまだ他にあった可能性は残る。とは言え、プロ25戦で20%の勝率が、奇跡的に埋もれていた記録が掘り起こされたとしても、70~80%に大逆転する確率がどのくらいあるのかと・・・。

だからこそ、ナット・フライシャーを始めとする著名なヒストリアンと識者たちは、防衛戦には含まない,含むべきではないと至極当たり前の主張を続け、ほとんど総ての在米ファンと関係者たちは、疑問を差し挟む余地のない事実として支持してきた。

◎デイヴィス戦に関するBoxrecの解説とコミュニティページ
<1>Joe Louis vs. Johnny Davis
https://boxrec.com/wiki/index.php/Joe_Louis_vs._Johnny_Davis#:~:text=Sergeant%20Joe%20Louis%2C%20world%27s%20heavyweight,fans%20at%20Memorial%20Auditorium%20here.

<2>Joe Louis vrs Johnny Davis(1944)-A Title fight for the Heavyweight Championship of the World?
https://boxrec.com/forum/viewtopic.php?t=195280


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◎いかようにも解釈&変更可能? - 記録に対する評価の基準と条件

「ベースボールこそ、良き隣人としてのアメリカを世界に向けてアピールできる最良最高のツール。」

拙ブログ管理人はそう信じて疑わない。昭和の男の子にとって必須欠くべからざる遊びだった「三角ベース」を簡単にルール整備した上で、軟球をより柔らかくしたゴム製のボールと人を傷けないプラスティック・バットをたくさん用意して、女子のソフトボールと一緒に世界中の子供たちに普及したらいいのにと、無責任に夢想することがある。

競技人口の裾野が少しでも拡大して、野球とソフトに親しむ国と地域が増えれば、やがてMLBとNPBに進む優れた才能も出てくるだろうし、IOCも面と向かっての冷遇はしづらくなる筈。

MLB機構に協力を打診して、日米が手を携えて息の長い活動に成長させることができたら、アメリカに対するネガティブな印象を変えることも夢ではない。「America First !!」のトランプ大統領なら、号令をかけてくれそうな気もするのだが・・・。


1人の無名の若者として海を渡り、年俸800万円のマイナー契約から始めて才能を花開かせた野茂英雄の成功に続き、数多くの日本人プレイヤーがMLBの公式戦を戦う時代になった。

NPBのFA資格を取得した新庄剛志が、シブちんで知られる阪神タイガースが提示した「5年契約・総額12億円(推定)」を蹴って、年俸20万ドル(当時のレートで約2,200万円/契約金30万ドル)でニューヨークへ飛んだ時は本当にびっくりしたが、日本国内では破格といっていい好条件を棒に振り、最高峰のメジャーを目指す蛮勇(チャレンジ精神と心意気)を、アメリカのファンと記者たちは想像を超える好評価で迎え入れてくれた。

しかし、自身の世界記録(4,256安打)を遂に抜かれた後、「日米通算なんて絶対に認めない。メジャーで打ったヒットだけを対象にすべきだ」と、イチローの4,367本(メジャー通算3,089本)のギネス認定を否定し、「世界一は俺だ!」と言い張り続けたピート・ローズのように、ものの道理を解しないわからず屋はどこにでも居る。

ピート・ローズ:引退後(左)と現役時代(右)

「日本で打った1,278本をプラスするなら、ローズがマイナーで叩き出した316本も上乗せしろ(通算4.683本)」と声高に叫ぶ在米記者とファンも同様で、援軍を得たローズはこれ幸いと尻馬に乗って同じことを言い出し、「俺の記録にマイナーのヒット数が足されたら、日本人はイチローのハイスクールの数字を持ち出すんだろ?」と悪態を吐(つ)く。

NPBの一軍をマイナーリーグ(AAA~AA)扱いされるのは、昭和を生きた野球小僧なら甘んじて受け入れるに違いない。

野球賭博の醜聞に塗れてMLBを追放処分となり、殿堂入りの栄誉に浴することなくこの世を去ったローズは、意図的にヒールを演じていたとの説もある。これだけの実績と名声を残しながら、身から出た錆とは言え、MLBを石持て追われたことで耐え難い傷を心に負い、人として最も大切なものの何かが歪んでしまったとしてもわからなくはないけれども。


「世界一?。僕の場合は日米通算ですから・・・」と述べるに止めたイチローに、「いやいや、彼のような選手に追い抜かれて光栄だよ」と、わだかまりなく笑顔でエールを贈ることこそ、1つの分野で頂点を極めた超一流の振る舞いではないのか。

メジャー契約を結んだ野手第1号として、日本人の大いなる期待を双肩に担いシアトル・マリナーズに入団したイチローは、ルーキーイヤーの2001年にいきなり3割5分の高打率で首位打者となり、盗塁王(56)と併せてMVPも獲得(8本塁打・69打点)。圧倒的な打撃技術と走力(スピード)、守備範囲の広さ、”レーザー・ビーム”と呼ばれた鉄砲肩でメジャーを席巻。

”魔球”と称されたフォークボールと、独特の投球フォームでトルネード旋風を吹き荒して、ストライキ騒動による深刻なファン離れを食い止めた1995年の野茂を超えるセンセーショナルなデビューを飾った後、2004年にシーズン262本の最多安打をマーク。世界記録を更新した。


それまでの世界チャンピオンは、神代の時代にシーズン4割を打ったジョージ・シスラーが1920年に放った257本で、同じ年に.407を達成している。84年振りの世界記録更新に、日本のファンは2度目のMVP選出への願いを膨らませる。

拙ブログ管理人もアメリカ人のフェアネスに期待を寄せたが、ア・リーグはシアトルと同じ西地区のアナハイム・エンゼルスを優勝に導いた主砲ゲレーロ(打率.337・39本塁打・126打点)が選ばれ、ナ・リーグもサンフランシスコの絶対王者バリー・ボンズ(打率.362・45本塁打・101打点)が獲得(ジャイアンツは地区2位)。

イチローは率でも.372を残して、見事2度目(にして最後の)首位打者に輝いたものの、シアトルは63勝99敗と大きく負け越し。悲惨な数字で西地区の最下位(12年ぶり/監督も解任)に甘んじたことが、選考に大きな影響を与えたとされるが、イチローを7位とした投票について、異論を唱える記者と識者が居てくれたのがせめてもの救いだった。

シーズン最多262安打の新記録を達成したイチロー:2004年10月3日・セーフコ・フィールド
※写真左:記録更新の歴史的快挙に沸くホームスタジアムで大声援に応えるイチロー
※写真右:セーフコ・フィールドに招かれたシスラーのご家族に挨拶をするイチロー


また安打数世界一に関して、「試合数の違い」を理由にケチをつける人たちもいる(未だに)。

「シスラーの頃はシーズン154試合。今は162試合(1996年以降/パンデミックの為2020年は60試合)だ。」

「しかも、262本に到達したのは最終戦(258本は10月1日:160試合目)。162試合目だ。154試合で257本を超えていないのだから、新記録とは呼べない。」


確かに、2004年のイチローは出足が遅かった。ノーヒットに終わる試合が目立ち、4月末時点でのアベレージは.255(102打数26安打)。信じられない低さである。5月に入ってようやくペースが上がり始めて、5月22日に日米通算2000本を記録。2度目の月間50安打で、ピート・ローズに並ぶ(8月も56安打)。

火が着いたようにヒットを量産するイチローに対して、他球団投手陣の投球が厳しさを増す。8月17日のカンザスシティ戦で後頭部に死球を受けヒヤリとさせられ(20日に復帰)、9月以降は敬遠も増えて記録の更新が危ぶまれたが、103試合目以降の60試合を.421(259打数109安打)と打ちまくった。

2004年には驚嘆すべきもう1つの「60試合」があり、それは7月1日~9月5日までの約2ヶ月。この間59試合に出場したイチローのアベレージは、.458(260打数119安打)という驚異的な領域に達して、「奇跡の60日」と称する記者がいたほど。


試合数の問題は、メジャーリーグの記録更新には半ば付きものと言ってよく、ロジャー・マリスがヤンキースに在籍していた1961年、ベーブ・ルースのシーズン60本を超える61本を打った時も、「154 vs 162」の論争が起きている(ヤンキースのア・リーグは162試合/ナ・リーグ:154試合)。

54本塁打を打ったチームメイト,ミッキー・マントル(MM砲と呼ばれた)との「ルース超え争い」は、「60本」を絶対視して崇め奉る保守的なファンと識者を中心にヒートアップ。コンスタントに3割を打ち続けたマントル(通算打率.298)に比べて、率が低いマリス(通算打率.260)への風当たりは特に強かった。

いつも笑顔を絶やさない陽のマントルに対して、口数の少ないマリスは陰。ステレオタイプにヒールの烙印を押されたマリスは、本拠地のヤンキー・スタジアムでも本塁打を打つとブーイングを浴びたという。

122ポンドの最強と目された黒人技巧派フルトンが、パワーだけでなく、スピード,テクニック&スキル,リングIQと戦術等々、あらゆる面でモンスターに遅れを取り、8回KOに屠られたことを受け入れられず、「アメリカへ来てドラッグテストを受けろ」だとか、「アメリカで一流に勝たないうちは認めない」などと、みっともない八つ当たりに終始したメイウェザー然り。


在位11年、25回連続防衛の大記録以上に、「独裁(枢軸国) vs 自由(連合国)」の代理戦争と位置づけられ、世界中の注目を集めたマックス・シュメリング第2戦での衝撃的な初回KO勝ち(初戦はシュメリングの12回KO勝ち)で西側最大のスポーツ・ヒーローとなったルイスは、19世紀末から20世紀末までのおよそ100年間、地上最強の証したるヘビー級王座を独占し続けたアメリカの近代ボクシング史において、モハメッド・アリやロッキー・マルシアノでさえ半歩も1歩も譲る象徴、アイコンであることは疑う余地がない。

すなわち、「聖域」。

◎試合映像
<1>ジョー・ルイス KO1R マックス・シュメリング第2戦
1938年6月22日/ヤンキー・スタジアム/世界ヘビー級タイトルマッチ15回戦
※観客動員:72,000人(有料入場者数:66,227人)


<2>シュメリング KO12R ルイス 第1戦
1936年6月19日/ヤンキー・スタジアム
※観客動員:60,000人(有料入場者数:39,875人)


◎シュメリング第2戦のポスター(左)と新聞記事(右)
シュメリング第2戦のポスターと新聞記事
※新聞記事:1938年6月23日付けデイリー・ミラー(英国の日刊紙)

そのルイスの記録を、小さな日本人が追い抜こうとしている。そんな愚かな真似はしないと信じつつ、在米ヒストリアンと識者たちが突然態度を翻し、「MYSACが承認した事実は無視できない。ディヴィス戦を防衛戦に含めるべし」と言い出すのではないか。

流石に考え過ぎだと自分自身に呆れつつ、しょうもないあれこれが頭の中をグルグルと駆け巡る。


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