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■2025年1月24日/有明アリーナ/4団体統一世界S・バンタム級タイトルマッチ12回戦
統一王者 井上尚弥(日/大橋) vs IBF・WBO1位 サム・グッドマン(豪)

左瞼のカットを示すアップ写真

■昭和から平成・令和へ - 国内プロボクシングの変化

ジムの会長1人に強大な権限が集中し、選手の生殺与奪に関わる権限のすべてを握っていた昭和の時代、もしもグッドマンが日本人だったとしたら、チャンピオン or チャレンジャーの立場に関わらず、試合は予定通り強行されていた可能性が極めて高い。

昭和のプロボクシングでは、試合の延期やキャンセルは基本的に有り得なかった。ちょっとぐらいの怪我や発熱は出場ありき。それは4回戦,6回戦,8回戦,ノンタイトル10回戦等の違いを問わない。タイトルマッチの中止など、考慮のうちにも入らないだろう。

ましてや当時の世界戦は、ゴールデンタイムの1~2時間枠を占有。全国ネットの地上波であまねく列島の隅々にまで中継される。プロボクシングは野球・相撲と並ぶ国民的人気スポーツであり、世界タイトルマッチは非日常の一大イベントだった。

数年分の利益を一気に稼ぎ出す、ジムにとっては二度とあるかないかの機会であり、自動車や家電メーカー等々、スポンサーにも大手有名企業の名前が並ぶ。延期や中止によるリスクは、単にチケットの払い戻しのみに止まらない。

ただし、選手の健康状態を一切顧みない、100%無視して興行の論理をゴリ押しするという意味ではなく、当たり前だが自力で歩いて喋れることが大前提で、いつぞやの宮崎亮のごとく、半失神状態でスタッフにおんぶされて計量に現れ、無理やり秤に乗せて貰うような無様は流石にない。


また、マッチメイクと試合間隔に対する考え方も、現代とは相当な隔たりがある。多くのチャンピオンは、防衛戦の合間にノンタイトルを挟んだ。年間5~7試合くらいは平気で戦う。

相手に選ばれるのは、通常は日本と東洋の下位ランカー(国内全12階級/ランキングは10位まで)であり、ギャランティとは別に貰う激励賞(スポンサーやファンが贔屓の選手に贈る金一封)を全額貯蓄に回して、都内に新築の一戸建てを購入する東洋チャンピオンもいたほど。
※東洋(OBF:1960年8月~/現在の東洋太平洋・OPBF)と日本国内(1964年8月~)はJ・フェザー級を認定

そうした中で、日本と東洋の王者や将来を嘱望されるホープたちは、現役世界ランカー(全11階級/10位まで)へのアタックを敢行。バックに付く地上波キー局はもとより、潤沢なスポンサーに恵まれ、海外遠征も日常的な光景と言っていい程頻繁に行われていた。


世界タイトルへのアタックが決まった日本王者やランカーが、タイトな日程を押して前哨戦を行うこともよくあり、そこで負ける場合も珍しくない。

1975(昭和)年10月、時のWBCバンタム級王者ロドルフォ・マルティネス(メキシコ)に挑戦(15回判定負け)した沼田久美(ぬまた・ひさみ/新日本木村)は、前哨戦を2回(75年6月と8月)やって連敗(!)しているが、世界戦は予定通り開催されている。

「中止しないのか!?」と驚きの声が上がり、当然批判にも晒されたが、開催地の仙台が木村七郎会長の郷里だった為、TV局とスポンサーに後援会、地元の様々な方々との込み入った事情も絡んで、引き返せなかったのだと思う。

世界チャンピオンのノンタイトルも、70年代前半までは普通に行われていた。エキジビションの需要もそれなりにあって、沼田義明(極東)との史上初となる日本人対決を劇的なKOで制し、分裂前のA・C統一世界J・ライト級王者となった小林弘(中村)は、同じ階級の現役日本王者や1階級上の世界ランカーらとの10回戦をこなしながら、6度の防衛(当時の最多記録)を果たしている。

地方経済に活気があったお陰で、北は北海道から南は九州まで、それこそ野球や相撲.プロレスの地方巡業ではないが、プロボクシングのチャンピオンや人気選手たちの興行も地方都市で開催され、活躍の場は東京を中心とした大都市圏に止まらなかった。

要するに、プロボクシングにはそれだけ需要があったという事の裏返しでもあるが、日本と東洋のチャンピオンだけでなく、ランカーになればボクシング1本で十分に食えたのである。


海外の王者たちはもっと積極的と言うか、良くも悪くもビジネスライクに割り切り、王座を保持する階級の正規リミット+1~3ポンド程度の契約でノンタイトルを数多く消化。1試合当たりの報酬は安くとも、虎の子のベルトを最大限に利用して、安全確実に、稼げるうちに稼げるだけ稼ぐ。

短いスパンで実戦が続く為、一定のウェイトとコンディションをキープし続けることになり、心身にかかる負荷は上がるが、過度な増減量の繰り返しを回避でき、普通にやっていれば負けない相手とのチューンナップには、適度なリフレッシュの効果も期待できる。

また、次期防衛戦の挑戦者を想定した相応のレベルの対戦相手を用意して、対策の実効性や問題点を確認・把握する場としても使える上、必然的に階級アップの可能性を探るテストを兼ねる。

本格的な転級に備えて上の階級のランカークラスを招聘したり、同じ階級の現役ランカーやホープを敢えて選び、タイトルマッチと変わらないハードな試合も日常的に行われた。そしてそこで負けても一切気にしない。正規のウェイト(リミット範囲内)で負ければ、ノンタイトルでもベルトを失ってしまうが、リミットを半ポンドでも越える契約なら、はく奪される恐れはない。

負けた相手陣営が望めば、防衛戦のチャレンジャーに選んで地元に呼び、きっちり調整して雪辱すれば問題無し。世界ランキングに名を連ねる有力選手のリサーチを兼ねて、家族や恋人同伴の観光旅行を決め込む王者も少なくなかった。


試合間隔が短いが故のダメージに関わる悩み、とりわけ腫れとカットには神経を使う。ルールの網の目をくぐり抜けて(?)、現在では有り得ない「対策」も行われた。

完全に癒えていない裂傷や腫れにガーゼを当てて、その上から絆創膏を貼り付けてリングに登り、何とそのまま戦う。

あらためて断るまでも無いと思うが、当時の世界戦は15ラウンド制(計量も当日)である。ラウンドが進む過程で、発汗して自然に絆創膏が剥がれたり、少しづつずれ落ちて視界を遮る等の理由でセコンドが剥がす場合や、最終ラウンドまでそのまま(判定決着)ということもあった。

■西城正三(協栄)/WBAフェザー級王者
<1>ペドロ・ゴメス(ベネズエラ)戦/1969年2月9日/日本武道館
15回3-0判定勝ち(V1)
西城小
※写真左:開始前/写真中:第9ラウンド終了後のインターバル/写真右:終了直後

西城2小
※第10ラウンド終了直前の激しい攻防

○○○○○○○○○○○○○○○○○○
■柴田国明(ヨネクラ)/WBC J・ライト級王者
(WBCフェザー,WBA J・ライトに続く3度目の載冠)
柴田小
写真左から:R・アルレドンド戦/A・アマヤ戦(V1)/R・ボラニョス戦(V2)

<1>リカルド・アルレドンド(メキシコ)戦/1974年2月28日/日大講堂(旧両国国技館)
15回3-0判定勝ち(王座獲得)
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<2>アントニオ・アマヤ(コロンビア)戦/1974年6月27日/日大講堂
15回2-0判定勝ち(V1)
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<3>ラミロ・ボラニョス(エクアドル)戦/1974年10月3日/日大講堂
15回KO勝ち(V2)

○○○○○○○○○○○○○○○○○○
■ニコリノ・ローチェ(亜)/WBA J・ウェルター級1位(指名挑戦)
藤猛(リキ)戦/1968年12月12日/蔵前国技館
10回終了TKO勝ち(王座獲得/藤は2度目の防衛に失敗)
ローチェ.小jpg
※写真左:開始前/写真中:第3ラウンド/写真右:第4ラウンド


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◎概要
<1>西城 vs ゴメス戦

西城正三

鳴かず飛ばずのノーランカーが、一念発起の長期渡米で千載一遇のチャンスを掴み、超特大の大番狂わせを起こして、史上初の海外奪取に成功する。

けっして一夜に達成した訳ではないが、漫画でもなかなか描けない夢物語を現実にやってのけた21歳の若者を、誰が名付け親かは知らねど、日本のマスコミは”シンデレラ・ボーイ”と呼んで拍手喝采。

同じく史上初となるフェザー級王座を米本土から持ち帰った西城は、歴代の邦人世界王者No.1と表して良いほど容姿の整ったハンサム・ガイ。脚が長くスタイルも抜群で、振って沸いたスターを一目見ようと、それまでボクシングに無縁だった独身の若い女性たちが会場に集まり、リングサイドの光景が一変したと言われる。

1967(昭和42)年の暮れに渡米を決行。ハワイの大物プロモーター,サッド・サム一ノ瀬の懐刀で、名トレーナーとして知られたスタンレー伊藤の指導を受けながら、翌1968(昭和)年の初めから秋にかけて、ロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムを舞台に連戦をこなし、奇跡的な載冠を果たした。

およそ10月に及ぶ海外遠征の戦果は以下の通り。

■1968(昭和43)年
(1)1月7日:イグナシオ・ピーニャ(メキシコ)
●10回判定負け/メキシコ シナロア州(契約ウェイト・スコア不明)
※ピーニャ:対戦時点で49勝(17KO)17敗4分け/ベテランの中堅メキシカン

(2)1月25日:トニー・アルバラード(米)
○4回KO勝ち/オリンピック・オーディトリアム(ロサンゼルス)
※アルバラード:対戦時点で15勝(4KO)5敗1分けのメキシコ系中堅選手

(3)2月15日:ホセ・ルイス・ピメンテル(メキシコ)第1戦
●10回1-2判定負け/オリンピック・オーディトリアム(ロサンゼルス)
公式スコア:4-5×2,6-4×1(ラウンド制:取ったラウンドの数をポイントとする)
※ピメンテル:世界(WBA)10位(契約ウェイト不明)

(4)3月21日:ホセ・ルイス・ピメンテル(メキシコ)第2戦
○10回3-0判定勝ち/オリンピック・オーディトリアム(ロサンゼルス)
※ピメンテルに雪辱して世界ランク入り(契約ウェイト不明・スコア不明)

(5)6月6日:ラウル・ロハス(米)第1戦
○10回2-0判定勝ち/オリンピック・オーディトリアム(ロサンゼルス)
公式スコア:8-2,5-4,5-5
※WBAフェザー級王者ロハスの調整試合に抜擢・大金星(130ポンド契約10回戦)

(6)9月27日:ラウル・ロハス(米)第2戦
○15回3-0判定勝ち/メモリアル・コロシアム(ロサンゼルス)
公式スコア:10-5,9-5,12-3
WBAフェザー級王座獲得

(7)11月18日:フラッシュ・ベサンテ(比)
○8回KO勝ち/後楽園ホール
※129ポンド契約10回戦

■1969(昭和44)年
(8)2月9日:ペドロ・ゴメスとの初防衛戦
○15回3-0判定勝ち/日本武道館

現代の日本国内ではまず有り得ない1ヶ月に2試合を含み、1月~9月までの8ヶ月間に6戦して4勝(1KO)2敗。うち2試合が世界ランカー,ピメンテル(1勝1敗)で、現役世界王者ロハスとも2試合(2勝)。今日の感覚と常識では、にわかに信じ難いウルトラ・スーパー強行軍である。

さらに、凱旋試合として11月18日に組まれたノンタイトルで、西城は初回に先制のダウンを奪いながら、その後4度も倒し返される大波乱。第8ラウンドに3度倒してKO決着(国内ルールも世界戦も3ノックダウン・ルール)させ、何とか事無きを得たが、小さからぬダメージを残したまま1969年2月のV1を迎える。

両瞼の絆創膏は、金平会長のアイディアによる苦肉の策だったとされるが、被弾の影響で腫れ出した右瞼にケアの必要が生じた為、おそらく第6~第7ラウンド辺りでセコンドが外し、第10ラウンド終了間際のデッドヒートが原因で左側も自然に取れてしまった。

「回復を待たずに初防衛戦を組むなんて・・・」

若いファンの方々は呆れるかもしれないが、年を越したところで王座獲得から4ヶ月を経過しており、これ以上期間を空ければ、命の次に大事なベルトをはく奪されるかもしれない。そうなれば元も子もなく、なるべく北中米(カリフォルニアかメキシコ)にベルトを置いておきたいWBAに、むざむざはく奪の理由を差し出すことはできなかった。


ゴメス戦を無事に終えた西城は、4月と6月にメキシコの中堅選手を2人呼んでチューンナップを済ませ、ロスで因縁を結んだピメンテルを招聘(9月7日)。万全の状態でラバーマッチに臨んだ西城は、想定外の2回KOで決着を着ける(2勝1敗で勝ち越し)。

◎西城 vs ピメンテル第3戦(ニュースリール/フィルタリング有)


小林弘との現役世界王者対決(1970年12月3日/132ポンド契約10回戦)は、日本中のボクシング・ファンが固唾を呑んでTV画面に食いついた。2-1の割れた判定で敗れた西城だが、フェザー級リミット+6ポンドの不利を押しての奮闘で、人気と評価はむしろアップしている。

モハメッド・アリの復活、「衛星中継+クローズド・サーキット」の新たなビジネスモデルが登場する前夜、ヘビー級を再統一してアリとの激突を熱望するスモーキン・ジョー・フレイジャーが、ニューヨークの殿堂マディソン・スクエア・ガーデンをホームにして、およそ5千万円のギャランティ(当時のレート)で防衛戦を戦っていた時、西城は1回のタイトルマッチで3千万円(推定)を得ていた。


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<2>天才スラッガー,柴田の3試合
(1)1974年2月28日:リカルド・アルレドンド(メキシコ)
○15回3-0判定勝ち/日大講堂
※WBC J・ライト級王座獲得

(2)1974年6月27日:アントニオ・アマヤ(コロンビア)
○15回2-0判定勝ち/日大講堂(V1)

(3)1974年10月3日:ラミロ・ボラニョス(エクアドル)
○15回KO勝ち/日大講堂(V2)

柴田国明とエディ・タウンゼント
※写真左:柴田国明(日本王者時代:1970年)/写真右:柴田とエディ・タウンゼント

身長・リーチともに163センチ。サイズだけならフライ~バンタム級の小兵をものともせず、日本で唯1人、海外奪取による2階級制覇を成し遂げた。

最初のWBCフェザー級は、1970(昭和45)年12月11日、メキシコのティファナに遠征。引退を撤回してWBC単独認定の王座に復帰した英雄サルディバルを12回終了後の棄権に追い込み、WBCフェザー級のベルトを持って帰国。西城に次ぐ快挙に、日本国内のファンと関係者は快哉を叫ぶ。

日本中が期待したWBA王者西城との統一戦は、バックに付くTV局(西城:日テレ/柴田:フジ)の調整が難しく実現には至らず、3度目の防衛戦でクレメンテ・サンチェスの物凄い右強打を浴び、序盤3ラウンドで撃沈。メキシコに奪還を許す。

階級をJ・ライトに上げた柴田は、流浪の名伯楽エディさんのサポートを得て再始動。1973(昭和48)年3月12日、ハワイをベースに戦うフィリピン・コミュニティのヒーローで、強打のレフティ,ベン・ビラフロアを巧みな出入りと右の好打で完封。

海外奪取による2階級制覇により、再び脚光を浴びたのも束の間、2度目の防衛戦で再度ホノルルを訪れベンと再戦(73年10月17日)。柴田のイン&アウトに応じたらまずいと、ぐいぐい圧力を掛けるベン。その勢いを押し返そうと、強振で応酬したのがまずかった。狙い済ましたベンの豪打が、カウンターとなって柴田を襲う。悪夢の初回KO負けでまたもや無冠に。

引退の風聞を打ち消し立ち上がると、1974(昭和49)年2月28日、WBA王者小林弘に善戦した後、WBC単独王者第1号の沼田義明を破り、その後も3人の日本人挑戦者を含むV5で「日本人キラー」と呼ばれていたアルレドンドを攻略。ファンの溜飲を大いに下げた。

◎柴田のベストKO(ラウル・クルス戦/WBCフェザー級V1)


◎苦手にした痩躯のボクサータイプとの防衛戦(ニュースリール/フィルタリング有)
※ビクトル・エチェガライ戦/WBA J・ライト級V1


「倒すか倒されるか。紙一重の勝負を挑まないと、背が低くて手も短い僕は絶対に勝てない。危険を承知の上で、自分から距離を詰めて行くしかないの。」

露骨な地元判定との批判(怒号に近い)が殺到し、会見で記者たちに詰められた柴田が、「こんなに強い挑戦者から世界タイトルを守ったんだから、少しは褒めてくれてもいいじゃないですか」と思わずこぼした、フェザー級時代のV2戦で引き分けたエルネスト・マルセル(パナマの若き超絶技巧派)、WBA J・ライト級のV1で当たったビクトル・エチェガライ(亜)、小林を2度追い詰めたパナマの老練アントニオ・アマヤ(V2)。

手足の長い痩身のアウトボクサーを苦手にした柴田は、同タイプのアルレドンドに通じないと散々不利を喧伝されたが、エディが授けた下から突き上げる左(ジャブ,ショートフック)を効果的に使い、アルレドンドの減量疲れにも助けられて3度目の復活に成功した。

左構えのサルディバルとベンを廃位させたことで、「サウスポー・キラー」の呼称が定着浸透していたが、「右(オーソドックス)とやるのも巧いのよ」とチャーミングな笑顔を見せる。世界に進んで以降、判定決着が増えたことに加えて、J・ライト級では毎試合のように瞼を腫らし、苦しそうに勝ち名乗りを受ける姿が目立った。


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<3>ハンマー・パンチをなぶりものにした”ジ・アンタッチャブル”
「勝ってもかぶってもオブヒモよ(勝って兜の緒を締めよ)。」「オカヤマのお婆ちゃん」「ヤマトダマシイで勝った」

藤猛とエディ・タウンゼント
※写真左:藤猛/写真右:エディ・タウンゼントと藤

見た目は完全な日本人。ハワイ生まれの日系3世で米国籍のポール・フジイは、海兵隊で鳴らしたトップクラスのアマチュア出身者。和製ヘビー級王者の輩出を夢見てボクシング界に進出した力道山が、大好きなハワイを何度も訪れるうちにエディ・タウンゼントの存在を知り、会って話して練習を見てすっかり惚れ込み、サッド・サム一ノ瀬に頼み込んで無理やり日本に連れ帰る。

力道山が渋谷の一等地に建てた「リキ・スポーツ・パレス」の1階に設営したリキ・ジムで教えるようになったエディは、ホノルルにある同じジムで汗を流したポールとステーブルメイトだった。

そのポールが、海兵隊を除隊して横須賀でブラブラしていると聞きつけ、力道山の了承を取り付けて直ちにスカウト。エディと再会したポールは、丸々と肥え太って200ポンドのヘビー級だったらしい。

エディは容赦ないのハードワークを課して、147ポンドのウェルター級まで絞ってプロ・デビュー。アマで培った技術を封印したポールは、荒ぶるスウィングを振り回して倒しまくり、”ハンマー・パンチ”のキャッチフレーズがTVと新聞を賑わし、たちまち高い人気と指示を得る。

”カミソリ・パンチ”の海老原博幸(フライ級)、”メガトン・パンチ”の青木勝利(バンタム級)とともに、圧倒的な豪打で後楽園ホールを席巻した藤は、さらに階級を140ポンドに落として日本と東洋のベルトを巻くと、1967年4月30日、蔵前国技館でイタリアのサンドロ・ロポポロ(1960年ローマ五輪ライト級銀メダル)を僅か2ラウンドで戦闘不能に落し入れ、分裂前の世界J・ウェルター級王座を獲得。

豪快過ぎる左フックを空振りした後、右のカウンターを狙うロポポロの顔面に、返しの右フックがドンピシャのタイミングで炸裂。エディとともに鍛え上げた「デンプシー・ロール」がものの見事に奏功。ロポポロも王者の意地で何とか立ち上がったが、糸の切れた操り人形のように打たれまくり、程なくしてストップ。最初の一撃で勝負は着いていた。

◎貴重なインタビュー映像


◎クァルトーアとの初防衛戦(ニュースリール/フィルタリング有)


カタコトの日本語が妙に受けて全国区の人気者となり、TVCMに起用されるほど売れっ子になったが、転落も早かった。西独(時は東西冷戦真っ只中)のウィリー・クアルトーアをねじ伏せてV1に成功すると、ノンタイトルを3試合消化。


その後交通事故を起こしてブランクに入り、分派独立したWBCが藤のタイトルをはく奪。WBAも藤に対してはく奪の警告を発した上で、ホセ・ナポレスかニコリノ・ローチェの挑戦を受けるよう通告。

究極の二択を迫られたリキ・ジムは仕方なくローチェを選び、想像を遥かに超える一方的な展開で敗れ去る。10ラウンド終了後のコーナーで、「続けるんだ!」と発破をかけるセコンドに、顔を左右に振ってイヤイヤをする藤。黙ってその様子を見つめるしかない、エディさんの哀しそうな瞳が忘れ難い。

◎ローチェ戦(ニュースリール/フィルタリング有)


ウィリー・ペップ,パーネル・ウィテカー,ウィルフレド・ベニテス,アーチー・ムーア,ジョージ・ベントン,ジェームズ・トニー等々、歴史的な名手・名人たちとともに稀代のディフェンス・マスターと称され、2003年に殿堂入りも果たしたローチェは、並外れた反射神経と達人の域に達したボディワークを自在に操り、ウィテカー以上にアクロバティックなディフェンスワークの使い手として、ボクシングの歴史にその名を刻む。

中でも有名なのが、危険なミドルレンジで真正面に立ち止まり、ノーガードのまま顎を突き出すパフォーマンス。挑発された相手が懸命に打ち込むパンチを、何の苦も無くヒョイヒョイ外し、機を見て正確なショートで反撃する。

”エル・イントカブレ(El Intocable:The Untouchable)”の二つ名は伊達ではなく、ロイ・ジョーンズと我らがモンスターが披露した「後ろ組み手」も、ローチェの「余所見スリップ」には数歩及ばない。

後に”戦うチャンピオン”と呼ばれ、国内中量級を代表する2人の実力者、ライオン古山,門田新一(恭明)を弾き返すアントニオ・セルバンテス(コロンビア)との第1戦(V5)では、ロープを背にお馴染みの態勢に入り、自慢の「余所見スリップ」でセルバンテスを空振りさせる離れ業をやってのけた。

◎ローチェのトリビュート映像


実働18年で136戦(117勝14KO4敗14分け)をこなしたローチェは、藤に挑戦した1968年も活発で、4月~10月までの半年間に、母国アルゼンチンで9戦(8勝1分け/すべて判定)を消化している。

この間ローチェは毎月リングに上がっているが、4月と8月には2試合をこなし、正式に挑戦が決まった10月に8回戦をやって引き分けており、瞼に不安を抱えていたようだ。

第3ラウンド終了後のインターバル中、主審のニッキー・ポップ(日本で活動していた米国人審判)が注意したらしく、丁寧に細工された「瞼の防護」を外している。

明確な記録や文献が残っていない為、確たることは言えないけれど、「瞼の防護」を日本国内のリングに持ち込んだのは、この時のローチェが初めてなのではないか。ローチェのコーナーを率いていた、フランシスコ・”パコ”・ベルムデスというベテラン・トレーナーが発案したとも考えられるが、あくまで憶測に過ぎず確証は無い。

会場か否かは別にして、金平会長も「藤 vs ローチェ」を観戦していた筈だから、年明けの2月にペドロ・ゴメスとの防衛戦を控える西城に使えそうだと、この試合からヒントを得たとも考えられる。

階級アップ後の柴田を支えたエディ・タウンゼントは、藤のチーフでもあった。キャリア最終盤の柴田に同じ策を用いたと、これもまた勝手に推測してしまうことをお許し願う。


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◎モンスターにも海外奪取による2階級制覇を!

「いつ引退してもいい(悔いは残らない)。そう言えるだけの結果は出したと思う」

何時のインタビューだったか(多分フルトン戦の後?)はっきりしないが、けっして奢り高ぶることなく、勤めて控え目にご本人が述べた通り、リング誌とBWAAのファイター・オブ・ジ・イヤーにも選ばれ、正式に引退を表明した場合、最短(ラストファイトから5年経過後)での殿堂入りは間違いなし。

フェザー級を獲ることができれば、日本の男子ボクサーとして初の5階級制覇になり、栄光の輝きはいや増すばかり(女子では藤岡奈穂子が2017年12月に達成済み)。

体格を考慮すると、S・フェザー級まで行くのは流石に厳しく、フェザー級が終の棲家になりそうな気配が濃厚だが、後に続く邦人王者はおいそれと見当たらない。フライ~バンタムを制した中谷潤人も、モンスター返上後のS・バンタムはともかく、フェザーまで行けるかどうか。


科学的なフィジカル・トレーニングと食事を含めた減量法の改善は、複数(多)階級制覇への可能性を大きく拡げた。限界に達した階級の大幅増を抜きに語れないにしても、それでもなお、ボクシングにおける階級アップは困難を極め、ボクサーの心身に過大な負荷を与える。

井上尚弥が歩む道は、それ自体が前人未到の道なき道であるという点で、野球のイチロー(日米殿堂入りを実現),大谷翔平と同じ高みにあると言っていい。国民栄誉賞を3回貰ってもまだ足りないと思うのは、拙ブログ管理人だけではない筈。

そのモンスターが成し遂げていない邦人王者の記録が、「海外奪取による2階級制覇」である。柴田国明が1973年に成功して以来、半世紀を経過してもいまだに並ぶ者が現れない。

◎柴田国明
<1>1970(昭和45)年12月11日/ティファナ(メキシコ)
ビセンテ・サルディバル(メキシコ)に12回終了TKO勝ち
WBCフェザー級王座獲得

<2>1973(昭和48)年3月12日/ホノルル(米ハワイ州)
ベン・ビラフロア(比)に15回3-0判定勝ち
WBA J・ライト級王座獲得

<3>1974(昭和49)年2月28日/日大講堂(旧両国国技館)
リカルド・アルレドンド(メキシコ)に15回3-0判定勝ち
WBC J・ライト級王座獲得


◎井上尚弥
<1>2014年4月6日/大田区総合体育館
アドリアン・エルナンデス(メキシコ)に6回KO勝ち
WBC L・フライ級王座獲得

<2>2014年12月30日/東京都体育館
オマール・ナルバエス(亜)に2回KO勝ち
WBO J・バンタム級王座獲得/2階級制覇

<3>2018年5月25日/大田区総合体育館
ジェイミー・マクドネル(英)に1回TKO勝ち
WBAバンタム級王座獲得/3階級制覇

<4>2019年5月18/SSEハイドロ(グラスゴー/英スコットランド)
エマニュエル・ロドリゲス(プエルトリコ)に2回TKO勝ち
IBFバンタム級王座獲得(WBA・IBF2団体統一)
※リング誌王者認定

<5>2022年6月7日/さいたまスーパーアリーナ
ノニト・ドネア(比)に2回TKO勝ち(再戦)
WBCバンタム級王座獲得(WBA・WBC・IBF3団体統一)

<6>2022年12月13日/有明アリーナ
ポール・バトラー(英)に11回KO勝ち
WBOバンタム級王座獲得(WBA・WBC・IBF・WBO4団体統一)

<7>2023年7月25日/有明アリーナ
スティーブン・フルトン(米)に8回TKO勝ち
WBC・WBO S・バンタム級王座獲得/4階級制覇

<8>2023年12月26日/有明アリーナ
マーロン・タパレス(比)に10回KO勝ち
WBA・IBF S・バンタム級王座獲得(WBA・WBC・IBF・WBO4団体統一)
※2階級+4団体統一達成(テレンス・クロフォードに次いで2人目))

<9>2025年9~12月(10月)/リヤド(サウジアラビア)
ニック・ボール(英)
WBAフェザー級王座挑戦?


確認し易いように一覧にしたが、13年目に入ったプロキャリアで、モンスターが世界王座を獲得した9試合中、海外で行われたのはマニー・ロドリゲス戦のみ(WBSS準決勝)。

渦中の人物トゥルキ・アルシャイフ長官が、「見たいカード」として敢えてこのタイミングで語った。

来日した御大ボブ・アラムが「春にラスベガス」と明言している為、次戦はWBC1位のピカソ(メキシコ)か有力視されているが、何かと騒々しいアフマダリエフになりそうな気配も漂う。いずれにしても、サウジグ初参戦はリヤドシーズン開幕後になる筈なので、火の玉小僧とのマッチアップ実現は拙ブログ管理人としても大歓迎。

交渉が上手くまとまりますように・・・。



◎関連記事
<1>NICK BALL VERY OPEN TO SAUDI FIGHT REQUEST FROM TURKI ALALSHIKH
2024年12月24日/リング誌公式
https://ringmagazine.com/en/news/nick-ball-very-open-to-saudi-fight-request-from-turki-alalshikh

<2>Naoya Inoue’s Next Fight Sees The Undisputed Super-Bantamweight King Face Ye Joon Kim On January 24th In Tokyo
2024年1月14日/Sports Casting
https://www.sportscasting.com/uk/news/naoya-inoue-next-fight/


◎井上(31歳)
戦績:28戦全勝(25KO)
WBA(V2)・WBC(V3)・IBF(V2)・WBO(V3)4団体統一王者
前4団体=WBA(V7)・IBF(V6)・WBC(V1)・WBO(V0)統一バンタム級王者.元WBO J・バンタム級(V7),元WBC L・フライ級(V1)王者
元OPBF(V0),元日本L・フライ級(V0)王者
世界戦通算:23戦全勝(21KO)
アマ通算:81戦75勝(48KO・RSC) 6敗
2012年アジア選手権(アスタナ/ロンドン五輪予選)銀メダル
2011年全日本選手権優勝
2011年世界選手権(バクー)3回戦敗退
2011年インドネシア大統領杯金メダル
2010年全日本選手権準優勝
2010年世界ユース選手権(バクー)ベスト16
2010年アジアユース選手権(テヘラン)銅メダル
身長:164.5センチ,リーチ:171センチ
※ドネア第1戦の予備検診データ
右ボクサーパンチャー(スイッチヒッター)


◎グッドマン(26歳)
世界ランク:IBF・WBO1位/WBA・WBC6位
戦績:19戦全勝(8KO)
アマ戦績:約100戦(詳細不明)
2016年ユース世界選手権(サンクトペテルスブルグ/ロシア)銅メダル(バンタム級/56キロ)
※ベスト8で柔道や総合格闘技で活躍するラマザン・アブドゥラエフ(ロシア/タジキスタン)対戦して5-0のポイント勝ち。準決勝でカザフスタンのサマタリ・トルタイェフに0-5でポイント負け
※トルタイェフを破って優勝したのが、今月7日にプエルトリコでまさかのプロ初黒星を喫したS・フェザー級のプロスペクト,マーク・カストロ(25歳/13勝8KO1敗)。キャリア最重量(137.25ポンド:S・ライト級)のウェイトが災いしたか。
2017年オセアニア選手権(ゴールドコースト/豪州)金メダル(バンタム級/56キロ)
2014年国内選手権(ジュニア):準優勝(フライ級/52キロ)
2013年国内選手権(ジュニア):準優勝(L・フライ級/48キロ)
身長,リーチ:169センチ
右ボクサーファイター