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■検察は控訴の断念を - Chapter 3

◎「袴田事件」は起こるべくして起こった・・・?

静岡県内で起きた重大事件における冤罪は、「島田事件」と「袴田事件」の2件に止まらない。以下の3件が、後に違法な捜査と取調べが発覚する県警の著名な刑事とともに、公の知るところとなった。

<1>幸浦事件(さちうらじけん/磐田郡幸浦村:現在の袋井市)
・1948(昭和23)年11月29日に起きた一家4人の失踪事件に端を発した強盗殺人事件
・翌1948(昭和23)年2月12日に2名の被疑者A・Bを逮捕/同14日に被疑者C,20日に被疑者Dの計4名を逮捕
・1950(昭和25)年4月27日;静岡地裁が4名全員に有罪判決/A~Cの3名:死刑,D:懲役1年+罰金1,000円
・1951(昭和26)年5月8日:東京高裁にて被告人4名の控訴棄却
・1957(昭和32)年2月14日:最高裁が高裁差し戻し(有罪事由に重大な疑義を指摘)
・1959(昭和34)年2月28日:東京高裁にて全員に無罪判決
・1963(昭和38)年7月9日:最高裁が検察の上告を棄却/4名の無罪確定
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■取調べ
恫喝と自白の強要はもとより、手や耳に焼火箸を押し付けるなどの拷問が発覚。自白を記した供述調書は捜査員の勝手な作文で、4名の被疑者に力尽くで認めさせた。
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■無罪の決め手となった警察による自白の捏造
「秘密の暴露」でなければならない遺体の遺棄場所に、あらかじめ印が付けられていたことが差し戻し審で判明
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■捏造を主導した捜査員:紅林麻雄(くればやし・あさお)警部補
紅林麻雄
※静岡県警の刑事(事件当時:国家地方警察静岡県本部刑事課:旧警察法時代)
※1954(昭和29)年:新警察法の公布により都道府県警察へと改組

現場偽装強盗殺人事件の研究―静岡県幸浦村一家四名強殺事件
※現場偽装強盗殺人事件の研究―静岡県幸浦村一家四名強殺事件 (1952年) (検察研究叢書〈第6〉/著者:野中光治)

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<2>二俣事件(ふたまたじけん/磐田郡二俣町:現在の浜松市天竜区二俣町)
・1950(昭和25)年1月6日に発生した一家4人強盗殺人事件
・1950(昭和25)年2月23日:被疑者として18歳の少年を別件逮捕(窃盗)
・1950(昭和25)年12月27日:静岡地裁にて死刑判決
・1951(昭和26)年9月29日:東京高裁にて被告側上告棄却
・1953(昭和28)年11月27日:最高裁が原判決破棄
・1956(昭和31)年9月20日:静岡地裁にて逆転無罪判決
・1957(昭和32)年10月26日:東京高裁にて検察の上告棄却
※検察が控訴断念/無罪確定
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■暴力的な取調べと供述調書の捏造
本事件の捜査にも紅林麻雄警部補が当たり、拷問と自白の強要、強引な供述調書の作成が行われた。紅林は自らは手を下さず、部下に命じて拷問を行わせて自白を強要していた。
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■違法な取調べを内部告発した刑事への徹底した弾圧
紅林と一緒に捜査に加わっていた県警の山崎兵八(やまざき・ひょうはち)刑事が、読売新聞に紅林の違法な捜査と取調べを告発。さらに山崎は弁護側の証人として出廷し、紅林の違法行為とそれを容認する県警の悪しき体質について証言した。
県警は山崎を偽証罪で逮捕。検察による精神鑑定が行われ、担当した名古屋大学の乾憲男教授が「妄想性痴呆症」と診断。県警と検察に都合のいい鑑定結果が出るよう、県警内部で違法な薬物を山崎に注射した疑いが持たれ、幸いにも偽証罪は不起訴となったが、県警により懲戒解雇処分を受ける。
山崎兵八(後列左)と家族
※山崎兵八刑事(後列左)とご家族

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■無実の根拠となった証拠
(1)被害者宅に残された犯人の指紋(とされる)と被疑者少年の指紋が不一致
(2)逮捕された少年の着衣・所持品と衣服から被害者一家の血痕未検出
(3)犯人の靴跡と推測された靴跡痕(27センチ)と少年の靴サイズ(24センチ)が不一致
(4)凶器(鋭利な刃物)の不所持,入手について不証明
(5)被害者の死亡推定時刻(23時),少年は父親が経営する中華そば店を手伝っていた(出前先のマージャン店主による証言有り)
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■真犯人の推定と紅林警部補の関与(犯人隠匿の可能性)
1997(平成9)年に事件の回想録(※)を出版した山崎元刑事は、著作の中で真犯人の可能性が高い人物を特定している(再捜査は行われず公訴時効成立)。この人物は、被害者一家が亡くなることで相応の利益を得ることができ、山崎の捜査に対して「犯人しか知り得ない事実(行方が確認できていなかった幼児について母親の下敷きになっていたと漏らす)」を話した他、紅林が当該人物から金銭を受け取っていたとの伝聞(情報源:紅林の部下)もあった。
※「現場刑事の告発-二俣事件の真相」:ふくろう書房/1997年12月

少年の無罪判決が出た後も、山崎元刑事は真犯人ではないかと疑った人物の監視を続けたという。7~8年にも及んだ監視について、地域住民が誰も気付かない筈がなく、この人物自身も疑われていることを承知していたとされる。


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<3>小島事件(おじまじけん/庵原郡小島村:現在の静岡市清水区=旧清水市)
・1950(昭和25)年5月10日に起きた強盗殺人事件(27歳の女性を斧で撲殺)
・1950(昭和25)年6月19日:27歳の男性を被疑者として逮捕
・1952(昭和27)年2月18日:静岡地裁にて無期懲役判決
・1956(昭和31)年9月13日:東京高裁にて被告側控訴棄却
・1958(昭和33)年6月13日:最高裁が高裁差し戻し(取調べと自白に重大な疑義を指摘)
・1959(昭和34)年12月2日:東京高裁にて逆転無罪判決
※検察が控訴断念/無罪確定
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■繰り返される紅林警部補の違法行為
この事件にも、主任の紅林を筆頭に県警本部から刑事が派遣され、確たる物証を得られないまま、自白に頼る粗暴拙速な捜査と拷問を前提とした取調べが行われた。12回に及ぶ公判と2度の現場検が行われた差し戻し審(裁判長が3名交代)で、東京高裁は上告審で認めた自白を含む供述調書の証拠採用をすべて取り消し、無期懲役の判決を破棄した。
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「幸浦事件」と「二俣事件」に続いて、三度び違法な手法を指摘された紅林は、「島田事件」でも同様の捜査手法を繰り返した。マスコミは紅林を「昭和の拷問王,冤罪王」と呼び、一斉に批判・糾弾する。流石の県警も放置する訳にはいかなくなり、所定の監察を行い二階級降格に該当する処分を下す。解雇されなかったことにむしろ驚くが、県警は手の内に置いておきたかったのかもしれない。
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■その後の紅林
大変な数の表彰を受け、県警本部のエースと自他共に認めていた紅林は、一転派出所勤務を命じられる。名刑事の評判も遅ればせながら地に落ち、監察官の詰問に対して、最後まで自分の非を認めなかった紅林も精神的に追い詰められ、1963(昭和38)年7月に警察を辞職。「幸浦事件」の無罪判決確定(7月9日付け)がきっかけになったとされるが、自宅にこもってアルコールに依存するようになり、2ヶ月後の9月16日に脳溢血でこの世を去る。まだ55歳の若さだった。

紅林の死から3年後に起きた「袴田事件」でも、紅林の部下だった県警の刑事が捜査の指揮に当たっている。分かり易す過ぎる証拠品の捏造や、冷房も無く窓に目張りをした代用監獄内で、長時間に及ぶ連日の取り調べを行い、精神的にも肉体的にも追い詰める拷問に等しい自白の強要など、紅林の手法がそのまま踏襲されていることに慄然とする。


冤罪事件のもう1つの大きな問題点として指摘されるのが、真犯人の捜査である。面子に固執する警察と検察は、有罪判決を受けた受刑者を犯人と主張して譲らず再捜査を行わない。再審請求には膨大な時間を要する為、冤罪の高い可能性が明らかになったとしても、時効が成立した後で再捜査は不可能。

「袴田事件」と先例4件も例外ではなく、公訴時効が成立済み。いわゆる未解決事件として迷宮入り。真犯人は特定されず、野放しのままとなった。一部で取り沙汰された、被害者一家の長女(2014年3月28日自宅で死亡/享年67歳)を犯人とする説にも証拠がある訳ではなく、類推の域を出ない。


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◎検察による控訴阻止を目的としたWEB署名:Change.org
【再審 冤罪袴田事件】検察は有罪立証方針を撤回して速やかな無罪判決のために審理に協力してください!!

※ご興味のある方は「袴田事件 web署名 change.org 」でWeb検索を。
署名ページにアクセスできます。