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■そもそもレフェリー・ストップとは何か? - 揺らぐ存在意義と求められるクォリティ

Richard steele 1

温故知新とは良く言ったもので、思い出話ついでに、是正への動きがほとんど感じられないレフェリングとコーナーワークについて思うことを書き記し、本件に関する一連の章を閉じる。

誤解を招くといけないので念の為に記しておくが、JBCは毎月定例の会合を複数開いており、中にはレフェリングとスコアリングに関する検討会も含まれる。重大事故防止を目的にした取り組みを継続してはいるが、具体的な進捗はどうかという話になると、一筋縄でいかないから難しい。

向かっている理想と方向は同じでも、行動のベクトルが必ずしも一致しない,できないのが人の世のであり、特に我が国ではコンセンサスを得るまでに膨大な時間を必要とする。民間であったとしても、お役所的な性格を帯びる組織はなおさらだ。

前の記事で、辰吉 vs ラバナレス戦との相似について触れたが、あの試合を裁いたレフェリーとレフェリングに言及しておくべきではないかと考えた。

「早過ぎるストップ」が常に批判の対象となり、タイミングの是非について一度ならず議論を巻き起こし、ラスベガスを大いに賑わし盛り上げた名レフェリー、リチャード・スティールその人である。


「早過ぎるストップなど存在しない。有るのは遅過ぎるストップだけだ」

試合を止めるタイミングについて、散々文句を言われ続けたスティールは、事あるごとに必ず反論を繰り返し、自身の信念と哲学をけっして曲げなかった。

1970年代からカリフォルニアで公式審判員としての活動をスタート。80年代初頭、拠点をネバダへと移した後、現代ボクシングのメッカ,ラスベガスを代表する名レフェリーの1人として、30年を超える長きに渡って活躍する。

リング・コールの際に鳴り響く大きな「Boo!」は、ラスベガスの風物詩と表すべき光景であり、恒例行事と化していた。ご本人はニガ笑いを浮かべて我慢するしかなかったけれど、「良し。これで今日もリング上の進行は安泰だ」と、妙な安堵を覚えていたのは私だけではないと思う。

自らの後継者と認めて後を託し、実の親子のように接した愛弟子ミッチ・ハルパーン(次世代を担うエース候補として将来を嘱望されながら33歳自ら命を絶つ)の他界に大きなショックを受け、2001年に一度引退。

皆に請われて2004年の秋に再登場の運びとなり、トレードマークになっていた、現役選手も真っ青になりそうな華麗なフットワーク、一切弛緩することのないきびきびとした分かり易い動作と声がけを維持したまま、2006年の夏に今度こそ完全に身を引く。

◎Tribute to Richard Steele

※2006年12月29日に行われた引退式
サウス・ポイント・ホテル・&カジノ・スパで行われた、ラスベガス初のプロ・アマ混合によるMMAの興行(翌30日にはMGMグランドでUFC66を開催)だったにも関わらず、「待ってました」とばかりに大音量の「Boo !」が木霊する。若かったブルース・バッファーのリング・アナウンスに続いて感謝状を贈呈しているのは、髭を生やす前のキース・カイザー(当時のネバダ州アスレチック・コミッション事務局長)。


2014年度のインダクティーとして国際ボクシング殿堂に招かれ、キャナストゥータの縁台に立ち、感動的なスピーチで皆の涙を誘った。

あれからもう10年が経つ。年を取ると、後ろを振り返ることばかり増えて困る。気の持ちようも日常生活も、それ自体は若い頃と何も変わらない。ただ、明日だけを見つめては生きられない。健康で過ごすことが許される残り時間を、嫌でも考えざるを得なくなる。

◎Richard Steele Epic Emotional Speech
2014年6月9日/キャナストゥータ
□Part 1


□Part 2

◎Richard Steele(IBHOF:Internathional Boxing Hall of Fame/国際ボクシング殿堂公式サイト)
http://www.ibhof.com/pages/about/inductees/nonparticipant/steele.html

1944年1月の生まれなので、日本なら傘寿(80歳)のお祝いで黄金色のちゃんちゃんこと大黒頭巾を被って記念撮影をし、速攻で写真をインスタやXに上げるまくるところ・・・?。

冗談はさておき、自身の名前を冠したボクシング・ジムを立ち上げ、青少年をドラッグと犯罪から守る為に無料で開放して指導を行い、地域社会や警察と連携して、医療や教育の分野までを抱合する米英スタイルの慈善活動をライフワークにして来た。

数年前にネバダ州から受けていた財政的な支援を打ち切られた上、武漢ウィルスの猛威に見舞われ心配したが、提供するサービス&プログラムの拡充を図りながら寄付を募り、今も活動を続けている。

ご興味のある方は、公式サイトやSNSに一度アクセスを。

◎The Richard Steele Foundation & Boxing Club
https://richardsteelefoundation.org/

◎公式X
https://x.com/steelechamps?lang=mr

◎公式インスタグラム
https://www.instagram.com/explore/locations/305989491/richard-steele-foundation-boxing-club/?locale=kk-KZ&hl=af

◎公式facebook
https://www.facebook.com/RichardSteeleFoundation/?locale=pt_BR&_rdr


80年代~90年代の20年間(30代半ば~50代前半)に、数多くの名勝負,メガ・ファイトにサードマン(主審の別称)として立会い、我が国とも浅からぬ縁を結ぶ。

渡辺二郎(大阪帝拳/WBA王者)とパヤオ・プーンタラト(タイ/WBC王者)による事実上のA・C統一戦を担当する為、1984年7月に初来日して以降、日本国内で行われた世界戦12試合に起用・招聘されている。

渡辺 vs パヤオ第1戦は、様々な経緯を経てWBCの単独タイトルマッチ(WBA王者渡辺がWBC王者パヤオに挑戦)として開催されたのだが、本旨から外れてしまうので詳細は割愛させていただく。

そしてこの12戦中、辰吉の世界戦は半数に近い5試合(辰吉自身の世界戦は11試合)を占める上、薬師寺戦後に、JBCと取り交わした「負けたら即引退(国内開催許可とのバーター)」の約束を反故にして、ラスベガスで強行した再起戦(タフなメキシカン,ノエ・サンティヤナに9回TKO勝ち)もスティールが裁いた。

エキサイトマッチの視聴者に限らず、日本のファンに強い印象を残したのもむべなるかな。それでも、頻繁に来日していた頃から四半世紀の時が過ぎ、公式戦のリングから退いて丸14年。日々侵食が進む記憶の希釈に抗うことは難しい。


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■スティールの名を不朽にした「最終回残り2秒のストップ」

ストップのタイミングを巡って大いに紛糾し、国際的な規模で議論を巻き起こした、スティールのレフェリングを象徴する大きな試合が2つある。

最終12ラウンド2分58秒。「残り2秒のストップ」として未だに語り継がれる、フリオ・セサール・チャベスとメルドリック・テーラーによるJ・ウェルター(S・ライト)級の王座統一戦と、第7ラウンドのストップ宣告後に乱闘が発生したマイク・タイソン vs ドノヴァン・”レーザー”・ラドックの第1戦だ。

まずは、チャベス vs テーラー(第1戦)。

Chavez_taylor2

◎WBC・IBF2団体統一世界J・ウェルター級タイトルマッチ12回戦
WBC王者 J・C・チャベス 最終12回TKO IBF王者 M・テーラー
1990年3月17日/ラスベガス・ヒルトン
※1990年度リング誌ファイト・オブ・ジ・イヤー

◎リング・オフィシャル(全員ネバダ州)
主審:リチャード・スティール

副審:
チャック・ジアンパ:105-104(C)
デイヴ・モレッティ:102-107(T)
ジェリー・ロス:101-108(T)
※第11ラウンド終了時点:1-2でテーラーを支持

立会人:
WBC:ロバート(ボビー)・リー(米/元ハワイ州コミッショナー/元WBA会長/2020年4月没)
※IBFを創設した初代会長ロバート(ボブ)・W・リーは同名異人
IBF:アルヴィン・グッドマン(米/元フロリダ州コミッショナー/2008年12月没)

◎試合映像(ハイライト)

※フルファイト
https://www.youtube.com/watch?v=M-Inq5r61ZY


向かうところ敵無しの68連勝(55KO!)をマークするチャベス(27歳)は、J・ライト(S・フェザー/WBC:V9),ライト(WBA・WBC統一/V2)と階級を上げ、ロジャー・メイウェザーとの再戦を制してWBC J・ウェルター級王座を奪取。2度の防衛に成功していた。

3階級制覇を達成して、こなした世界戦は実に16試合(全勝11KO)。1989年に再開されたリング誌のP4Pランクでは、マイク・タイソンに次ぐ2位の評価を受ける。”J・C・スーパースター”と称され、メキシコと米本土の両方で押しも押されもしない大看板に成長。

対するテーラー(23歳)も、J・ミドル級のテリー・ノリスに比肩し得るスピードスターとして台頭の真っ最中。史上最強の誉れも高い、1984年ロス五輪の米国代表チームに名を連ね、フェザー級の金メダルを手土産にプロ入り。

1984 DREAM TEAM
写真左:表彰台で国旗掲揚・国歌演奏に臨むテーラー
※写真右(左から):タイレル・ビッグス(S・ヘビー級金),テーラー(フェザー級金),マーク・ブリーランド(ウェルター級金),パーネル・ウィテカー(ライト級金),イヴェンダー・ホリフィールド(L・ヘビー級銅)
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※1984年ロス五輪ボクシング代表ドリーム・チーム
以下の通り、全12階級中9階級で金メダル,銀メダルと銅メダルを各1階級づつ獲得。メダル無しに終わったのは、ロバート・シャノンが3回戦で敗退したバンタム級のみ。
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タイレル・ビッグス:ヘビー級金(※)
ヘンリー・ティルマン:ヘビー級金(※)
イヴェンダー・ホリフィールド:L・ヘビー級銅
ヴァージル・ヒル:ミドル級銀
フランク・テイト:L・ミドル級金
マーク・ブリーランド:ウェルター級金
ジェリー・ペイジ:L・ウェルター級金(※)
パーネル・ウィテカー:ライト級金
メルドリック・テーラー:フェザー級金
スティーブ・マクローリー:フライ級金(※)
ポール・ゴンザレス:L・フライ級金(※)
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メダリスト11名全員がプロに進み、世界王者になれなかったのは上記リスト(※)の5名。世界タイトル挑戦が叶わなかったのは、L・ウェルター級のJ・ペイジのみ。
バンタム級代表のロバート・シャノンもプロ入りしたが、地域王座を突破できずローカルクラスのままキャリアを終了した。
第3の団体IBFが1983年にスタートして(第4団体WBOの発足はソウル五輪が行われた88年)、階級もミニマム級(1987年新設)を除く16階級(84年当時S・ミドル級はIBFのみ認定)に増えてはいたものの、プロの現実は想像以上に厳しい。
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1979年の旧ソ連によるアフガニスタンへの軍事侵攻を理由に、米・西独・仏・伊・日等を筆頭に、60ヶ国がボイコットした1980年モスクワ大会への報復措置として、ソ連・東独・ポーランド・チェコ・
ハンガリー・ブルガリア・ベトナム・モンゴル・親ソ連のアフリカ諸国に加えて、米ソと覇権を競うボクシング強国キューバが不参加。モスクワとロサンゼルスの2大会は、東西冷戦を象徴するオリンピックとなった。
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「ドリームチーム」と言えば、マイケル・ジョーダン,マジック・ジョンソン,スコッティ・ピッペン,チャールズ・バークレー,ラリー・バードらのNBAを代表するスター選手が揃った92年バルセロナ大会男子バスケットボールチームの専売特許だが、ボクシングにおいては紛れも無く84年のナショナル・チームを指す。
最年少の17歳で召集されたテーラーは、チームのマスコット的存在として可愛がられたらしい。ボクシング青年男子(シニア/エリート)の五輪出場資格は、2016年のリオ大会に合わせてヘッドギアが廃止され、これに伴い19歳以上に引き上げられたが、2012年ロンドン大会以前のルールは17歳以上だった。史上最年少の五輪ボクシング出場者は、1924年パリ大会のフェザー級金メダリスト,ジャッキー・フィールズ(米)と、1928年アムステルダム大会のベン・ブリル(オランダ/フライ級代表)の16歳。
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王国アメリカのアマチュアボクシングは、モハメッド・アリの出現がもたらしたスポーツにおけるビジネス・モデルの革命的大転換と、優れた黒人の若者たちのメジャースポーツ進出拡大(70年代)による人材難が顕在(常態)化。この大会をピークにして、以降一気に地盤沈下。プロボクシングの衰退を加速させた。
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一介のトレーナーから身を起こし、粉骨砕身働き続けて作り上げた興行会社を息子たちに任せ、自らの生涯を現場に捧げたルー・デュバと契約。毎日のトレーニングと本番のコーナーから、マネージメント&プロモーションまで一括管理が可能な環境に身を置く。

デビューしてから丁度4年目の1988年9月、名うての試合巧者として知られるジェームズ・バディ・マクガート(2019年殿堂入り/引退後トレーナーとして成功)を破り、140ポンドのIBF王座に就いてV2を果たし、24勝(13KO)1分けの無敗をキープ。

唯一の引き分けは、すっかりベテランになったハワード・ディヴィス・Jr.(1976年モントリオール五輪ライト級金メダル)との10回戦(プロ3度目)で、三者三様のスプリット・ドロー(6-4,4-6,5-5/ラウンド制)に泣いたもの。リング誌P4Pランクの6位に入り、次期スーパースター候補の1人と目されていた。

戦前のオッズは、11-5でチャベスを支持。テーラー自慢の健脚とキレのあるパンチに前半は苦しむだろうが、メキシコ伝統の左ボディを基軸にしたコンビネーションと重厚なプレスで徐々に削り、無限に続くのではないかと錯覚する連打でし止めるというのが、当時の大方の予想だった。

ところが、テーラーのシャープネス&クィックネスをチャベスが追い切れない。強気のテーラーは接近戦にも応じたが、チャベスが得意にするクロスレンジでも簡単に打ち負けたりせず、消耗戦への適性と耐性をあらためて実証する。

見応えのある一進一退のタフ・ファイトが延々続き、後半~終盤にかけて流石にテーラーもスローダウン。スピードとキレが落ちて被弾の確率も増したが、完全なガス欠・息切れまでには至らず、懸命に手数を振るってチャベスの前進を阻む。

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いよいよチャンピオンシップ・ラウンドに入り、ようやくチャベスの攻勢が上回る。テーラーの我慢に決壊の兆しが見え出すも、全体的な流れは「時既に遅し」の感が漂う。どう贔屓目に見ても、ポイントはテーラーが押さえている。

敗色濃厚なチャベスだが、最終ラウンドも瞳に闘志をたぎらせ前進。まったく諦めていない。どんな苦境においても望みを捨てず、最後の最後まで勝利を希求し前に出る。完成度の高い攻防の技術もさることながら、衰えることを知らない旺盛なファイティング・スピリット、メヒコの男たちが信奉して止まない、伝統のマチズモを体現する驚異的な心身のタフネスこそがチャベスの真骨頂。

どんな名選手でも必ずペースが落ちる後半~終盤に突入した後も、変に力むことなく適度な脱力を保ったまま、同じリズムとテンポ,同じパワーで精度(質)の高いパンチを放ち続ける。メキシコ史上最高のアイドル、ルーベン・オリバレスから直接受け継いだとしか思えない圧倒的なボクシング。


メキシコシティのルピータ・ジムでオリバレスやZボーイズ、リカルド・ロペスらを教えた伝説的なトレーナー,クーヨ・エルナンデス(1911年11月2日~1990年11月20日)と、グァダラハラに生まれてティファナで指導者になり、チャベスを少年時代から育てたロムロ・キラルテ(1946年2月10日~)の間に、直接的な師弟関係などは無いと承知している。

軽量級離れした1発の破壊力も併せ持つオリバレスに対して、間断なく続ける手数とプレスで根負けに追い込む連打型のチャベス。天から授かった才能は、誰がどう見てもオリバレスに軍配が上がる。

がしかし、念願のチャンピオンになるや否や、ナイトライフの誘惑にあっさり負けて、練習不足と減量苦であっという間にコンディションを失い、苦労して掴んだバンタムとフェザーのベルトを手放したオリバレスに対して、鉄壁のディシプリンを片時も崩さず、休み無く戦い続けて3階級を獲り、3つ目の140ポンドで大輪の花を咲かせたチャベス。

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※写真左:オリバレスとサラテ(エデル・ジョフレとともにバンタム級オールタイムTOP3を常に争う2大巨頭)を両サイドに従えるクーヨ(70年代後半)
※写真右:105ポンドに9年間君臨した”エル・フィニート(最高・最強)”ことリカルド・ロペスとクーヨ(80年代半ば頃)

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※ロムロ・キラルテとチャベス
写真左:最初のWBC J・ライト級王座を獲得した80年代前半~半ば頃
写真右:2010年前後と思われる

何から何まで好対照な2人のメキシカン・レジェンドが、30年の時を超えて、相通ずるストロング・ポイントを武器に快進撃を続けた。これを歴史の偶然と呼ぶか、あるいは必然と見るべきか。


最終盤を迎えて抜き差しならないピンチに陥り、本心ではクリンチ&ホールドで逃げ切りたいテーラーだが、意地になって打ち返してスタミナをロス。思い切り左フックを空振りすると、その勢いで前のめりに倒れてしまうなど、焦りと余裕の無さを露呈。

チャベスも十分に疲れてはいるが、ここぞとばかりにパンチの回転と強度をアップ。残された精神力を振り絞って食い下がるテーラーをニュートラル・コーナーに引き込み、瞬時に態勢を入れ替えざま、軽いアッパーを3発散らして前屈みになったテーラーの身体を起こし、無防備の顎を目がけて渾身の右を叩き込んだ。

たまらず崩れ落ちるIBF王者。残り時間は16秒。

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朦朧とした己が意識と肉体を引きずり上げるようにして立つテーラー。タイムキーパーからカウントを引き継いたスティールが、対角線上の後ろにいるチャベスの位置を気にしながら、規定の8つを数え終えると、大きく眼(まなこ)を見開き、噛み付かんばかりの勢いでテーラーの眼を覗き込む。

「大丈夫(やれる)か!?」と大きな声を飛ばして反応を伺う。

続いて一瞬間を置いたスティールが、大きく自分の顔を左右に振り、両手を高く掲げて交差。まともに反応していないと判断した。「いや待て。俺はまだやれる」とテーラーは抗議を始めるも、瞳の焦点がしっかり定まっていないようにも見える。試合終了が合図された時、時計は残り4秒~3秒へとカウントダウンしていた。

テーラーのコーナーを守るルー・デュバがリングに飛び込み、猛然とスティールに抗議する。何をどう逆らったところで、主審が下した裁定が覆ることはない(近頃は少し様子が違うけれど)。タイムキーパーの報告に基づくネバダ州の公式記録は、最終ラウンド2分58秒のレフェリーストップ。

11ラウンドまでのオフィシャル・スコアは、1-2のスプリットでテーラーを支持していた。もしもスティールが温情を示し、再開の合図と同時に脱兎のごとくチャベスが駆け出したところで、12ラウンド終了のゴング・・・ということになっていれば、最終回は10-8でチャベス。だが、仮にそうなっていたとしてもテーラーの勝ちは覆らない。ジャッジ3名中2名が付けたスコアは、それだけの点差が開いていた。

Stop-1

Stop-2

Stop-3

奇跡と呼ばれた「残り2秒の大逆転劇」の顛末だが、「何でもかんでも止めたがる間抜けなレフェリーの誤審」,「チャベスへの過ぎた忖度」,「東海岸でやるべきだった(テーラーはフィラデルフィア出身)」等はまだマシな方で、主催プロモーターがドン・キングだったことから、八百長(スティールへの買収工作)を疑う者までいた。

在米マニアによる苛烈かつ辛らつな批判は続き、多くの関係者も巻き込み大きな騒動に発展。ストップの場面を見ていただければ、八百長(買収)など有り得ないとすぐにお分かりいただけると思う。「百聞は一見にしかず」の諺は、この時のスティールの為にこそある。あれが迫真の演技だったとしたら、スティールはデ・ニーロを超える名優にもなれただろう。

リアルタイムで状況を把握し、やや遅れて試合映像を確認した私も、その瞬間は「わざわざ余計な疑念を持たれるようなタイミングで止めなくても・・・」と思った。スティールのレフェリングを全面的に肯定する気になれず、気の毒なテーラーに一旦は同情を寄せてしまう。

「いや、待て。納得の行くまで、ちゃんと見直さないと。」

録画映像をフルで2回、11~12の2ラウンズを通して3回か4回、そしてストップの場面をスローも混ぜて5~6回見直した。テーラーがギリギリに近いところまで消耗していたのは、WOWOWの中継を見た時にわかってはいたが、蓄積したダメージは想像していた以上に深刻で、スティールの裁定は正しいと考えを改めた。

さらに、テーラーを診察した医師の所見を報じる外電も遅れて確認。顔面(眼窩底と報じる記事も有り)の骨折に唇の裂傷と失血、血尿等を確認し、必要な治療に加えて輸血も行ったという。テーラーが負った甚大な被害がわかってもなお、スティールへの批判は収まらなかったらしく、「スティール=早過ぎるストップ」の評判が完全に定着する。

テーラーの状況を知ったスティールは、我が意を得たりと得意になったりすることもなく、「もっと早く止めるべきだったかもしれない。」と自省。取りようによっては、さらなる燃料投下になりかねない恐れもあったが、SNSが影も形も無い時代で本当に良かったと、つくづく痛感せずにおれない。

この試合でチャベスは140万ドル、テーラーは100万ドルの報酬を手にした。PPVが動かす桁違いの巨額にすっかり慣れてしまった現在の常識からすると、「えっ?そんなものなの?」と拍子抜けする人も多いと思う。

鉄人タイソンからデラ・ホーヤ、そしてメイウェザー&パッキャオへと引き継がれたPPVセールス・キングの座は、人材の枯渇とスーパースター不在に喘ぐヘビー級に替わって、ウェルター級を中心とした中量級を最も稼げる階級に押し上げた。

全盛を過ぎたとは言え、レナード.ハーンズ,デュラン,ハグラーの中量級BIG4が切り拓いたPPVのビジネスモデルを完成させ、世界的な規模で普及定着させたタイソンが健在だった当時と、長い低迷から脱出する機運がまったく見えない現在との単純比較は意味を為さない。


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