2026年春,東京ドーム開催決定!? - 年間表彰式で予期せぬビッグ・サプライズ Part 3 -
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■55年前に実現していた現役世界王者対決

■禁断の世界王者対決はいかにして陽の目を見たのか?
本来なら有り得ないドリーム・ファイトが流会にならずに済んだのは、ひとえに中村・金平両会長の決断があったから。「何を寝ぼけたことを・・・当たり前じゃないか」とお叱りを受けるだろうが、それ以外に理由はない。
根っからの興行師だった協栄の金平正紀会長は、昭和の日本ボクシング界を代表する最大のギャンブラーだった。野口ジムからプロ入りして、引退後に開いたとんかつ屋にアルバイトとして働き出した海老原博幸を見出し、店を畳んでジム(最初の名称は金平ジム)を起こすと、稀代の天才サウスポーを白井義男,ファイティング原田に続く3人目の世界チャンピオン(フライ級)にまで押し上げる。
度重なる左拳の骨折に左肩の脱臼癖が重なり、満身創痍の海老原が苦闘を強いられる中、鳴かず飛ばずのノーランカーだった西城をハワイの大物プロモーター,サッドサム一ノ瀬とスタンレー伊藤(サッドサムの懐刀で名トレーナー)に預け、西海岸で10ヶ月に及ぶ長期修行を敢行。
世界10位のメキシカン,ホセ・ルイス・ピメンテルと1勝1敗の星を残し、WBA単独認定の初代王者ラウル・ロハス(米)のチューンナップに抜擢され、大番狂わせの10回判定勝ち。本番の世界タイトルマッチでも、自慢の健脚を全開にしてロハスの強打を完封。第6ラウンドにはダウンも奪って文句無しの15回3-0判定勝ち。晴れの海外奪取第1号(しかも米本土)となった。
併せて、フェザー級の王座獲得も西城が第1号である。一覧は以下の通りとなるが、べネズエラ史上最高のアマ選手と称されたリナレスは、帝拳と契約して来日した後、17歳でJBCのプロテストを受験。150戦超のアマキャリアを認められてB級(6回戦)デビューしており、かつてのエロイ・ロハス&デヴィッド・グリマン・メンデス(ベネズエラ)に始まり、ローマン・ゴンサレス(ニカラグァ)やエドウィン・バレロ(ベネズエラ)ら、選手として完成された後に共同プロモート契約のみを結んだケースとは事情が異なる。
他の外国人選手たちが「帝拳プロモーション(ズ)の契約選手」のみであるのに対し、リナレスは「JBCライセンスを所有する帝拳ジム所属選手」でもある為、「日本のジムに所属する王者」として、JBCが公表している「世界チャンピオン一覧」にも名前が並ぶ。
米国籍の日系三世藤猛(ポール・タケシ・フジイ/リキジム所属)、協栄と契約して来日したペレストロイカ軍団の出世頭,ユーリ・アルバチャコフ(ロシア)とオルズベック・ナザロフ(キルギスタン),角海老宝石の所属選手としてWBCストロー級王座に2度就いたイーグル京和(タイ)も同様の扱いとなる。
未だ現役継続中のカルロス・クァドラス(メキシコ)も一覧に含まれているが、確かにデビュー間もない2008年~2009年にかけて6回戦を3試合、2010年と2011年,及び2013年に8回戦と6回戦を消化している他、2014年5月に母国でシーサケットを8回負傷判定に下し、WBC S・フライ級王者となった時も、JBCのライセンスを保有していたとのこと。
2015年11月には、杜の都仙台で江藤光喜(白井・具志堅)の挑戦を退けている。リナレスらのように、活動の拠点を東京に移した訳ではなく、JBCライセンスの取得有無のみを基準とすることには違和感を覚える。
◎日本人フェザー級王者(日本でライセンスを取得した外国人選手を含む)
<1>西城正三(協栄):WBA・V5(1968年9月27日~1971年9月2日)
<2>柴田国明(ヨネクラ):WBC・V2(1970年12月11日~1972年5月19日)
<3>越本隆志(FUKUOKA):WBC・V0(2006年1月29日~2006年7月30日)
<4>ホルヘ・リナレス(帝拳):WBC・V1(2007年7月21日~2008年8月12日/返上)
<5>粟生隆寛(帝拳):WBC・V0(2009年3月12日~2009年7月14日)
<6>長谷川穂積(真正):WBC・V0(2010年11月26日~2011年4月8日)
柴田から越本まで34年間も空白が続き、越本,粟生,長谷川の3王者はいずれも初防衛戦で陥落。防衛できた日本人王者は、第1号の西城と第2号の柴田のみ。126ポンド(約57.1キロ上限)は、日本のボクサーにとって極めて難しい階級だと言い切れる。
もう少し言及すると、フェザー級からいきなり難関になっている訳ではなく、奪取と防衛の難易度が高くなるのは、井上尚弥が4団体をまとめ上げたS・バンタム級(122ポンド:約55.3キロ上限)から。
◎日本人S・バンタム(J・フェザー)級王者
<1>ロイヤル小林(国際):WBC・V0(1976年10月9日~1976年11月24日)
<2>畑中清詞(松田):WBC・V0(1991年2月3日~1991年6月14日)
<3>佐藤修(協栄):WBA・V0(2002年5月18日~2002年10月9日)
<4>西岡利晃(帝拳):WBC・V7(2008年9月15日~2012年3月15日/名誉王者認定)
<5>李冽理(横浜光):WBA・V0(2010年10月2日~2011年1月31日)
<6>下田昭文(帝拳):WBA・V0(2011年1月31日~2011年7月9日)
<7>長谷川穂積:WBC・V0(2016年9月16日~2016年12月/返上)
<8>小國以載(角海老):IBF・V0(2016年12月31日~2017年9月13日)
<9>久保隼(真正):WBA・V0(2017年4月9日~2017年9月3日)
<10>岩佐亮佑(セレス):IBF・V1(2017年9月13日~2018年8月16日)
<11>岩佐亮佑(セレス):IBF暫定・V0(2019年12月7日~2021年4月3日)
<12>井上尚弥(大橋):4団体統一・V4(2023年7月25日~在位中)
※参考
亀田和毅(TMK):WBC暫定・V0(2018年11月12日~2019年7月13日)
頭数こそフェザー級の倍近い11名を輩出しているが、第1号の小林から第2号の畑中まで25年かかり、さらに3人目の佐藤まで11年を要した。2010年代に入ると相次いで日本人王者が登場するが、返上・引退した長谷川を含めて防衛できていないのは同じ。変わりはない。
これをもって「日本のレベルアップ」を証明する実績の1つだと、自信満々に言い出す人もいそうだが然にあらず。
ルーベン・オリバレスとサラテ,サモラのZボーイズ,マヌエル・オルティス,ラウル・ラトン・マシアスを筆頭に,ルペ・ピントール,ラウル・ヒバロ・ペレス,オーランド・カニザレス(メキシコ系),マルコ・A・バレラ,エリック・モラレスといった、118~126ポンドを支配し続けてきた真に天才的なメキシカンが、イスラエル・バスケスとラファエル・マルケスを最後に払底してしまったことが、何にも増して大きな要因。
何となれば、モンスター以前にこの階級でまともに防衛できた王者は、V7を達成して最も勢いのあったドネア戦を引き当てた西岡ただ1人。そういう意味では、正規と暫定の2度IBF王座に就き、なおかつ正規を1度防衛した岩佐の軌跡は、防衛戦の内容と出来に関する是非はともかく、正当な評価を受けているとは言い難い。
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◎シンデレラ・ボーイ誕生前夜の国内フェザー級
難関のフェザー級挑戦第1号は、日本タイトルを連続8回防衛した帝拳の高山一夫で、1960年と61(昭和36)年に2回挑んで玉砕している。来日した王者は、1963年3月の防衛戦でリング禍に見舞われ、29歳の若さでこの世を去るデビー・ムーア(米/2021年殿堂入り)。

左:高山一夫/右:デビー・ムーア
前評判は散々なもので、「ルノーがダンプカーに衝突するようなもの」だとの絶望的なまでに自虐的な比喩が流布された。
比喩に使われた「ルノー」は、昭和20年代末~30年代後半にかけて、日野自動車との提携により日本国内で販売された「4CV」という型式の4ドア小型車。「ビートル」の愛称で親しまれたフォルクス・ワーゲン(タイプ1)に良く似たデザインで、主にタクシーとして使用され、国内で最もポピュラーになった外車の1つ。
「あっという間にKOされる」「勝負にならない」「そもそも日本人にフェザー級は無理」等々、散々な前評判だったにも関わらず、後楽園球場で行われた第1戦(1960年8月29日)、蔵前国技館での第2戦(1961年11月13日)とも、高山は15ラウンズをフルに渡り合う。
◎試合映像:ムーア 15回判定(3-0) 高山第1戦(ニュースリール)
1960(昭和35)年8月29日/後楽園球場
オフィシャルスコア:74-62,73-64,73-66
NBA世界フェザー級タイトルマッチ15回戦
◎試合映像:ムーア 15回判定(3-0) 高山第2戦(ニュースリール)
1961(昭和36)年11月13日/蔵前国技館
オフィシャルスコア:73-59,72-64,74-67
NBA世界フェザー級タイトルマッチ15回戦
国内スポーツメディアがこぞって「無謀な挑戦」と喧伝した第1戦では、掌を返す大善戦の高評価が新聞紙面を賑わせ、高山の株はむしろアップする。1926(大正15)年の開闢以来、帝拳の宿願だった世界チャンピオン輩出への期待がいよいよ膨らんだ再戦でも、初戦同様の奮闘で15ラウンズを耐え抜いたが、結果も同じ大差の3-0で返り討ち。
あらためて力量の違いを見せ付けられた高山だが、殿堂入りの名王者を相手に証明してくれた日本人の可能性=フェザー級でも世界と伍して戦って行ける=が示す意義は小さくない。
そして高山の後を託された関光徳(新和)は、戦後最大のボクシング・ヒーロー,原田と同様フライ級から階級を上げた増量組み。いつも眠たそうな表情と、サウスポースタイルから放つ切れ味鋭い左の一撃で大変な人気を博し、”眠狂四郎(柴田錬三郎の人気剣豪小説の主人公/市川雷蔵主演の映画も大成功)”と称された。
東京でアジア初のオリンピックが開催され、いよいよテレビ時代の幕が開く1964(昭和34)年、ムーアを13回KOに下した亡命キューバ人王者,シュガー・ラモスに挑戦して6回TKO負け。
ノックアウトされたムーアが試合後死亡する悲劇に加えて、プロ2年目の1958年にも死亡事故の当事者となったラモスの紹介記事を掲載する国内メディアは、今ならけっして許されない”殺人パンチャー”の呼称を使っていた。
◎試合映像:ラモス 6回TKO 関(ニュースリール)
1964(昭和39)年3月1日/蔵前国技館
WBA世界フェザー級タイトルマッチ15回戦(分裂前の統一王座)
ラモス vs 関戦のアンダーには、ライト級でトップランカーの1人に名を連ねていた”マンテキーヤ”・ホセ・ナポレス(23歳11ヶ月)も登場しており、WBA10位に付けていたリキジムの吉本武輝と対戦。初回3分3秒で難なくKOしている。
「振り返ったら倒れてたの。」
チーフ・セコンドとして吉本のコーナーに入っていたエディ・タウンゼントが、ナポレスの印象について聞かれた際にそう答えていた。KOタイムは3分3秒だから、実際に倒されたのは第1ラウンドの終了間際だから、ラウンドの終了に備えてコ為席を立ち、スタッフの誰かと二言・三言交わしたか何かて一旦リングから視線を離し、「振り返ってリング上を見たら・・・」と言っていたのかもしれない。
エディさん独特の「カタコト・ジャパニーズ」は、ところどころ助詞を間違えたり、必要な接続詞を省略したりする為、慣れないと正確に聴き取ることが難しく、記者が勘違いしたのか、あるいはナポレスの桁外れの凄さを強調したいがゆえに、分かった上であえて誇張した表現を使ったのか。
あくまでお人柄によるものだが、エディさんの日本語はとてもチャーミングで愛らしく、教え子たちがエディさんの思い出話に花を咲かせると、みな一様にエディさんの口調を真似てしまうのがおかしかった。代表格は柴田国明だと思うけれど、真似をしなかったのはガッツ石松と”ラスト・ボーイ”の井岡弘樹。
フィデル・カストロとチェ・ゲバラの革命成功により、プロスポーツが禁止されたキューバから脱出すべく、小さなボートに乗ってカリブ海を渡り、命からがらメキシコに辿り着いたラモスを頼り後を追ったナポレス。命の危険を伴う小さなボートに身重の妻を一緒に乗せる訳には行かず、様々な意味合いで覚悟の渡航だった。
135ポンドに続いて140ポンドでも世界1位にランクされながら、135ポンドに君臨するカルロス・オルティス(米),140ポンドのベルトを継承したデュリオ・ロイ(伊),エディ・パーキンス(米)、サンドロ・ロポポロ(伊)といったそうそうたる面々に敬遠されて挑戦の機会を得られず、ベストウェイトよりもかなり重いウェルター級まで増量。
ライト級で世界ランク入りしてから6年近く経った1969年4月18日、ロサンゼルス近郊のイングルウッド・フォーラムでカーティス・コークス(米)を13回終了TKOに退け、29歳にしてようやく世界王座に就く。
世界に通用する和製ヘビー級育成を目標に掲げ、ボクシング界に参入したプロレスの開祖にして国民的大スターの力道山が、渋谷の一等地に立てたリキ・スポーツパレスの1階に設けたジムに、ハワイから三顧の礼を持って迎えられたエディは、同郷の幼馴染みだった日系三世ポール・フジイ(海兵隊員として来日・除隊)を横須賀でスカウトすると、ヘビー級まで肥えた身体をハードワークで絞りに絞り、稀有な豪打を頼りにJ・ウェルター級の世界チャンピオンにまで育て上げる。

「藤猛」のリングネームで当たるを幸い倒しまくり、”ハンマーパンチ”の異名で人注目を集め、ナポレスを避けたロポポロを粉砕して王座に就く。エディさん以上に癖の強いカタコトであっと言う間にお茶の間の人気者になったものの、初防衛に成功した後交通事故を起こして長期のブランク入り。減量苦からウェルター級への階級アップを直訴して拒否されるなど、ジムとのトラブルも表面化。
防衛戦の履行期限を過ぎたポールから、独立宣言のWBCがベルトのはく奪を通告。議長国フィリピンの強打者ペドロ・アディグを王者にするべく、今で言うところの指名挑戦権を付与。防衛戦の履行が困難な藤とリキジムの足元を見た所業と言わざるを得ず、マニラでの決定戦を認めて首尾良くアディグを単独認定の初代王者にすると、今度はWBAが究極の二択を迫った。
「ニコリノ・ローチェかナポレス。どちらかの挑戦を受けろ。さもないとはく奪だ・・・」

リキジムは吉本を瞬殺されたナポレスではなく、ローチェを招聘。エディさんも助言を求められたに違いない。しかし、”イントカブレ(ジ・アンタッチャブル)”の二つ名は伊達ではなく、史上最高レベルのディフェンス・マスターを前に藤のハンマーパンチは空振りを繰り返し、思うがままに翻弄され惨敗。世界王者第1号の白井を引退に追い込んだパスカル・ペレスに続き、またもやベルトはアルゼンチンへ。
話を元に戻して・・・
さらに関は、ラモスを12回終了TKOに退けて後継王者となったメキシコの英雄ビセンテ・サルディバルに、完全アウェイのメキシコシティで2度挑戦。第4ラウンドに先制のノックダウンを奪いながら、詰め切れずに15回0-3の判定を失った第1戦は、「日本でやっていたら関の勝ち」との意見(日本人の身贔屓も含めて)も多く、初のフェザー級奪取に望みをつなぐ。
第1戦から5ヶ月、リマッチが組まれて再びメキシコへ飛んだ関。「もうヘマは許されない」と気合十分のサルディバル。ベスト・シェイプの王者は手の付けられない強さを発揮し、関は7回TKOに退いた。
◎試合映像:サルディバル 7回TKO 関第2戦
1967(昭和42)年1月29日/エル・トレオ闘牛場,メキシコシティ
WBA世界フェザー級タイトル挑戦(A・C分裂前の統一王座)
ttps://www.youtube.com/watch?v=HGIdh31bcxA
足掛け3年(1964年9月~1967年10月)に渡って126ポンドに君臨したサルディバルは、連続9回ベルトを守って王者のまま引退(35戦34勝26KO1敗)。WBAからの完全な独立を加速させるWBCは、サルディバルに3度挑戦して敗れたハワード・ウィンストン(英)と、同じく2敗の関に王座決定戦を承認。

左:関光徳/右:シュガー・ラモス

左:ビセンテ・サルディバル/右:ハワード・ウィンストン
当時のJBCと協会(JPBA)は、WBC単独認定による世界戦の国内開催を認めておらず、1968年1月、関はウィンストンが待つ首都ロンドンへと旅立ち、ロイヤル・アルバート・ホール(1871年開場の由緒ある演劇及びコンサート・ホール)で無念の9回TKO負け。
◎試合映像:ウィンストン 9回TKO 関
1968年1月23日/ロイヤル・アルバート・ホール(英/ロンドン)
WBC世界フェザー級王座決定15回戦
カットを理由にしたレフェリー・ストップについて、日本国内では「大した傷ではない。止める必要などまったく無かった」との見方が大勢を占める。試合が続いていれば、判定にせよKOにせよ関の勝利は確実で、劣勢のウィンストンを勝たせる為、形振り構わぬ露骨なホーム・タウン・ディシジョンを発動したとの批判が渦巻いた。
現存する試合映像を見ると、レフェリーが関の傷を確認して(はっきりとわかる出・流血はない)ストップを宣告して、関がコーナーに戻ってからドクターと思しき人物がチェックを行っている。
現在とは順序が逆だが、これだけを持って不正行為と即断するのは間違い。試合を途中終了する決定はレフェリーとチーフセコンド(マネージャー)にのみ認められた権限であり、ドクターを呼ぶのか呼ばないのかは、タイミングを含めてレフェリーの判断に委ねられる。

写真左:試合を中断して関のカットをチェックするデーキン主審
写真右:TKO負けの裁定に呆然自失の関
先月行われたA・アヤラ vs 矢吹正道戦でも、早い時間帯に発生したバッティングで、右眼の下(頬)をカットした矢吹の傷は大きく深く(直後は夥しく流血)、なかなかドクターチェックを要請しない中村勝彦主審に疑問の声が上がっていた。
その後矢吹の止血がうまく行き、最終12回にダメ押しのダウンを追加して、文句の付けようがない内容でTKO勝ちしてくれたから良かったものの、1歩間違えれば、ホームタウン・ディシジョンの疑義を生じかねない状況が生じる。
初回と2回に見事なカウンターでダウンを奪った矢吹の為に、ノーコンテストを回避してまずは試合を成立させたのではないかと、あらぬ憶測が飛ぶのも致し方がない。ただ、そうだとしてもなお、ドクターの要請はレフェリーの専権事項に違いない。
もう1つ、この試合には指摘しておかなければならない問題がある。それはオフィシャルの選定と運営。ウィンストン vs 関戦は、主審1人のみが採点を兼務して、副審を置かない英国式のローカル・ルールで運用されていた。
開催地の地元コミッションからリング・オフィシャル全員を選抜するのは、英国のみならず各国共通の慣例であり、70年代半ば頃までアメリカや日本で行われた世界戦も同じ。「敵地ではKOしないと勝てない」との有名な格言(?)も、直接的にはこの慣例に起因する。
何となれば、アメリカ国内で開催される世界戦のオフィシャルは、今でも全員アメリカ人が大原則だ。相当に落ちぶれたとは言え、世界最大規模のボクシング・マーケットを維持するアメリカだけは、各州×1コミッションの特例措置が許され続け、治外法権的な特権を盾に(?)、大前提として外国人審判を受け入れしない。
腕に覚えのある世界中のボクサーが、ほとんど例外なくアメリカを目指す。マニー・パッキャオの8階級制覇と未曾有のアメリカン・ドリームを目の当たりしてからは、その傾向にさらなる拍車がかった。
アラム,デラ・ホーヤ,アル・ヘイモンらの大物ハンドラーと契約がまとまれば、同胞の大きなコミュニティがある州に活動拠点を置き、そこを第二のホームタウンにするから、審判が全員アメリカ人でもさしたる問題にはならない。米国生まれ,及び米本土を主戦場にする黒人,白人,ヒスパニック系のトップ・スターたちと戦う時以外は・・・。
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