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2025年02月

J・モロニー vs 天心 直前プレビュー  - 有明バンタム級フェス Part2 -

カテゴリ:
■2月24日/有明アリーナ/119ポンド契約10回戦
元WBOバンタム級王者/WBC・IBF5位 ジェイソン・モロニー(豪) vs WBA2位 那須川天心(帝拳)

会見で顔を合わせた天心(左)とモロニー

”日本キック史上最高の天才児”こと天心が、転向6戦目で早くも大きな勝負に出た。一時はどこやらの暫定王座戦になるとかならないとか、あらぬ風聞も出回ったが、発表されたのは119ポンド契約の10回戦。

お相手は、何とあのジェイソン・モロニー。昨年5月の東京ドーム興行に参戦して、武居由樹(大橋)に中差の0-3判定負け。プロ9年目にしてようやく掴んだWBOのベルトを手放すも、日本のファンにもすっかり打ち解けて、「いいヤツ」キャラが浸透定着してしまった。

キックで無敵を誇った者同士、近い将来の激突に注目が集まる武居を、これでもかと意識した分かり易いマッチメイク。武居の回復具合(右肩関節唇損傷)にもよるが、早ければ年末にも・・・?。


今現在の世界ランクは、何故か天心が上に行ってしまっているけど、実績と経験では明らかにモロニーが上回る。前王者が早速ジャブを放つ。”時期尚早”とのコメントにカチンときた天心が、上から目線を弾き返すべく応戦。

◎那須川天心、モロニーからの“挑戦早い”発言にアンサー「舐めてもらっちゃ困る」 『Prime Video Boxing 11』記者会見
2025/年2月22日/oricon



フィリピンのアシロに手を焼き、一度ならずヒヤっとする貰い方をした前戦について、経験不足を指摘されるのは致し方がない。アシロも想像以上にいい選手だったし、何より現代のボクサーがやらなくなって久しい、上体と頭を小刻みに柔らかく動かすウィービング=一昔前の定石=を使っていた。

これで天心は的を絞り切れなくなり、第9ラウンドのダウン(アシロはスリップを主張)も加味され、オフィシャル・スコアは大差(98-91×2,97-92)が付いてしまったが、実際の試合内容にそこまでの開きはない。

上半身のウィーブに、丁寧にリズムを刻む下半身のステップが連動すれば、オールド・スクール(20世紀)のセオリー完成となって言うことはないけれど、そこまで望むのは無いものねだりになる。

いずれにせよ、天心ほどのスピード&ムーヴィング・センスの持ち主にも、20世紀のセオリーが充分過ぎる有効性を示してくれたことだけで、拙ブログ管理人は十二分に満足した。

◎試合映像:天心 10回判定 アシロ
2024年10月14日/有明アリーナ
WBOアジア・パシフィックバンタム級王座決定戦
ttps://www.youtube.com/watch?v=rJaDXH2XZr0


一方、武居にかなりの点差を付けられて陥落した後、悔し涙にくれたモロニー。最終盤の猛攻が見る者の胸を打ち、「もう少し早くあれをやっていれば・・・」と惜しむ声も多かった。

以前からある「サウスポーは大の苦手」説を証明したとの伝聞が、ネット上を飛び交うことになる。真相は未だ藪の中ではあるが、得意にしていないだけで、たとえば小國以載のように、とにもかくにも不得手という程酷くはないというのが、拙ブログ管理人の現時点での見立て。

捲土重来を期して日本の地を踏む表情には、勝手を知る余裕が垣間見える。南半球のオーストラリアと季節が逆転する為、日本の寒さにはびっくりした様子も、「これまで培ってきた技術&経験値があれば大丈夫」との自信が、泰然自若とした佇まいに裏づけを与えているのは確かだろう。

その傍らには、長年マネージメントを任されてきたトニー・トルジが、巨体を揺らしながらぴったりと張り付く。

モロニーと長年のマネージャー,トニー・トルジ


公開された練習では、スパーリングまで披露した天心に比べると、型通りのシャドウで体裁を整えたモロニーにどうしても不満は残るが、これもまた駆け引きの1つだけに止むを得ない。

ただし、フルトンのように短時間であっという間に切り上げた訳ではなく、2ラウンド近くは動いてくれた。

◎公開練習
<1>那須川天心戦に臨むジェーソン・モロニー、丁寧なシャドーを披露!『Prime Video Boxing 11』公開練習
2025年2月18日/マイナビニュース


<2>『Prime Video Boxing 11』那須川天心公開練習|プライムビデオ
2025年2月12日/Prime Video JP - プライムビデオ


プロで味合わされた3度の黒星のうち、2度が日本人。達人の居合い切りで一刀両断されたかのごとく、右ショートのカウンターで沈んだラスベガスでのモンスター戦と、必死に食い下がりながらも反撃及ばす敗れた武居戦。そしてもう1人は、技も力も届かなかったIBF王者マニー・ロドリゲス(プエルトリコ)への初挑戦。負けた3試合はすべて世界戦で、それ以外にはすべて勝利を収めている。

安定した試合運びには定評があるけれど、日本のファンが忘れていけないのは、プロの裏技を容赦なく駆使する”マリーシア”を辞さないところ。記事の終わりに附記した、モンスター戦のプレビュー記事をご参照いただけると有難い。

正直に本音を言うと、今でも拙ブログ管理人はモロニーを信じる気にはなれず、好きか嫌いかと問われれば、「好きなタイプではない」との回答になる。以前は「嫌い」だったが、少しづつ「いいヤツ」キャラに毒されているようだ。


直前のオッズは天心を支持。判断の決め手になったのは、やはりスピードの違いだろうか。ロドリゲスを攻略してIBF王者となり、昨年末ようやく初防衛を終えた西田凌佑(六島)のスパーリング・パートナーを務めたアシロも、「技術は互角だと思うが、天心の方が速かった」と認めている。

□主要ブックメイカーのオッズ
<1>FanDuel
天心:-260(約1.38倍)
モロニー:+188(2.88倍)

<2>betway
天心:-250(1.4倍)
モロニー:+200(3倍)

<3>ウィリアム・ヒル
天心:2/5(1.4倍)
モロニー:19/10(2.9倍)
ドロー:16/1(17倍)

<4>Sky Sports
天心:4/9(約1.44倍)
モロニー:5/2(3.5倍)
ドロー:20/1(21倍)

個人的には、2人の地力はここまで離れていないというのが偽らざる実感で、武居との比較を気にし過ぎた天心が真正面から倒しにかかると、「サウスポーが大の苦手」な筈のモロニーにペースを握られてしまうのではないか。

毎回同じ繰言で恐縮だが、この際倒すことは全部忘れて、国際式デビュー戦の「かすらせないボクシング」に徹することが、勝利への最短距離という気がしてならず、誤解を恐れずに言い切ってしまうと、その思いは確信に近いとさえ言える。

豊富な運動量とフットワークを武器に戦うモロニーは、完璧にし止められたモンスター戦を含めて、「空転させられた」経験は無い筈で、3度の敗戦に限らず、そうした感覚を持っていない可能性が極めて高い。


だからこそ、モロニーに裏の顔(ラフ&ダーティ)を諦めさせる為にも、「マタドール天心」の全開を願っておく。散々苦しんだ挙句に、僅差の2-1判定勝ちだったとしても、今の天心に取っては快勝と評価すべき。

それぐらいモロニーは難敵だというのが、拙ブログ管理人が受ける強い印象であり、天心の判定負けも想定の範囲内。そうなったとしても、けっして驚くような結果ではないと、現時点では考えている。


もう1つのバンタム級フェス、堤聖也(角海老)と比嘉大吾(志成)のWBAタイトルマッチについては、誠に残念ながら記事を準備する時間的余裕がなく、断腸の思いで諦めるしかない。


◎モロニー(34歳)/前日計量:118.8ポンド(53.9キロ)
元WBOバンタム級王者(V1)
※現在の世界ランク:WBC・IBFバンタム級5位/WBO6位
戦績:30戦27勝(19KO)3敗
アマ通算:53勝19敗
2010年コモンウェルス・ゲームズ(デリー/インド)フライ級ベスト8
※マイケル・コンラン(2012年ロンドン五輪銅,2015年世界選手権金)に総合点(10-10)で僅差ポイント勝ち
身長:168センチ,リーチ:170センチ
※Boxrec記載の最新データ:身長,リーチとも165センチ
トレーナー:アンジェロ・ハイダー(Angelo Hyder)
マネージャー:トニー・トルジ(Tony Tolj)
プロモーター:リンデン・ホスキング(ホスキング・プロモーションズ/豪ビクトリア州)
右ボクサーファイター


◎那須川(26歳)/前日計量:118.8ポンド(53.9キロ)
現在の世界ランキング:WBA・WBC:3位/WBO11位
戦績:5戦全勝(2KO)
キック通算:42戦全勝(28KO)
※各種のキック世界タイトルを総ナメ
身長:165センチ,リーチ:176センチ
左ボクサーファイター

t計量をクリアした天心(左)とモロニー

◎前日計量


契約ウェイトがバンタム級リミット+1ポンドであることに、何だかんだと言う声も聞こえてくるが、こうした契約はプロボクシングでは当たり前の日常茶飯。何も問題はない。

そして、無駄なく引き締まった天心のボディの見事なこと。すっかりプロボクサーの身体になった。


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■オフィシャル

主審:中村勝彦(日/JBC)

副審:
染谷路朗(日/JBC)
メキン・スモン(タイ)
エドワルド・リガス(比)

ノンタイトルの10回戦だから、てっきり全員日本人かと思っていたが、タイとフィリピンから1人づつジャッジを呼んで、一応バランスに配慮した布陣。拮抗した僅差の判定勝負で天心の手が挙がった場合、オーストラリアから1人も呼ばれていない点が火種になる恐れはある。


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◎モロニーと天心に関する過去記事
<1>モロニー
(1)リアル・モンスター,遂にラスベガスへ /J・マロニー戦プレビュー Pert 3 - 2度目の米本土上陸で狙う快心のKO防衛 -
2020年11月1日
https://blog.goo.ne.jp/trazowolf2016/e/bbb1675c47ac556113d7f2493a1efe72

(2)リアル・モンスター,遂にラスベガスへ /J・マロニー戦プレビュー Pert 2 - 2度目の米本土上陸で狙う快心のKO防衛 -
2020年10月31日
https://blog.goo.ne.jp/trazowolf2016/e/9420b7e0cf16a9ee42eca9ab830f75fe

(3)リアル・モンスター,遂にラスベガスへ /J・マロニー戦プレビュー Pert 1 - 2度目の米本土上陸で狙う快心のKO防衛 -
2020年10月3日
https://blog.goo.ne.jp/trazowolf2016/e/5bf388a97121f7230e6d99c8f2c779a6


<2>天心
(1)”宇宙系(?)”で初載冠へ /「世界タイトル7連戦+1」- 天心 vs アシロ プレビュー -
2024年10月14日
https://keisbox.online/archives/27014059.html

(2)倒せないキックの天才児 /狂っているのはどちらの感覚・・・? - L・ロブレス vs 天心 プレビュー -
2024年1月23日
https://keisbox.online/archives/24440151.html

(3)有明4大決戦+α プレビュー 3 /キックの神童は国際式でも花開くのか? - 那須川天心 vs 与那覇勇気 -
2023年4月8日
https://keisbox.online/archives/20017399.html


”愛の拳士”あらため”ビッグ・バン(Big Bang)” 3度目の有明登場 - 中谷潤人 vs D・クェジャル 直前プレビュー 有明バンタム級フェス Part1 -

カテゴリ:
■2月24日/有明アリーナ/WBC世界バンタム級タイトルマッチ12回戦
王者 中谷潤人(M.T) vs WBC6位 ダヴィド・クェジャル(メキシコ)


会見で撮影用のポーズを取るクェジャル(左)と中谷(右)

■充実進境著しい中谷に死角無し・・・?

118ポンドで持てる潜在能力を開花進行中の中谷が、早くも3度目の防衛線を迎える。

栄えある3階級制覇の仲間入りを果たしたのが、丁度1年目の同じ日。会場は有明アリーナではなく両国の国技館だったが、モンスター返上後のWBC王座をノニト・ドネア(比)と争って、明白な3-0判定で新チャンピオンになったアレッサンドロ・サンティアゴ(メキシコ)に6回TKO勝ち。

第2ラウンドに左フックを貰ってヒヤリとしたが、出足のタイミングと間合いを掴んだ3ランド以降は、長いワンツーに得意のアッパーを混ぜて距離を制圧。公称159センチの勇敢なメキシカンに付け入る隙を与えず、第6ラウンドに強烈な左ストレートを決めてダウンを奪うと、ダメージが明らかなサンティアゴをロープに詰めて右フックを一閃。

サイズの違いが大きな追い風になったことも確かだが、無駄に打たせてくっつかれると煩いサンティアゴを着実にコントロールして、試合全般を通じて安定感が増した。


昨年7月の初防衛戦は、落日のリゴンドウを明白な3-0判定で下した後、やはりモンスター返上後のWBO王座決定戦に進み、ジェイソン・モロニー(豪)を相手に、0-2のマジョリティ・ディシジョンまで粘ったビンセント・アストロラビオ(比)との指名戦。

サンティアゴ以上に計量後のリバウンドを上手く利用するフィリピン人は、165センチの公称よりもずっと大きく見える。おそらくだが、15ポンド(6~7キロ)前後レベルを戻しているのではないか。

修行時代にマレーシアで組まれた8回戦で、六島ジムのストロング小林佑樹に2度のダウンを奪われ4回TKOに退いた頃は、幾ら加齢とブランクで錆付いていたとは言え、リゴンドウから大金星を挙げて、世界タイトル挑戦まで辿り着くなんて想像もできなかった。

一廉(ひとかど) のメイン・イベンターに成長したアストロラビオは、鍛え込んだ頑健なフィジカルを武器に、粘り強くしぶとくラウンドを持ち応えながら、重い左右で上下に揺さぶりをかけながら、手堅く流れを呼び込むタフなボクサーファイターへと変貌。

スタンスを適時拡縮させつつ、左の上下を軸に崩しと突破を仕掛けるアストロラビオは、右の拳をしっかり右頬に密着させ、中谷の左対策も万全。それでいて、全盛のドネアの左フックを警戒する余り、ほとんど右を出せなくなってしまった西岡利晃のような不自由さは感じさせない。


深めの半身とやや遠目のミドルレンジを堅持して、踏み込む時は思い切り良く、右ストレートを中谷のボディへ持って行く。右拳を元の位置に戻す引き手も素早く、無理に顔面を狙わない。

功を焦って深追いすれば、顎が上がりオフ・バランスを招く。中谷に対するこのミステイクは致命的で、そこで試合が終わりかねず、リスク回避への配慮を怠らない、しっかり練られた戦術と、キャンプで取り組んだ具体的な中谷対策を、本番のリングでちゃんと再現できるアストロラビオの戦術的ディシプリンに思わず感心する。

隙あらばいつでも,との緊張感がむしろ心地いい。中谷も強めにギアを上げた左で、わざと挑戦者が頬に密着させた右拳の上を繰り返し叩く。しかし、挑戦者もけっして怯まず、立ち向かう姿勢を見せ続ける。

ドネアをリスペクトし過ぎたことが、西岡が冒した最大の失敗だったけれど、アストロラビオにそうした心配は無用のようだ。


「世界戦はこうでなくちゃ。でも、長い勝負になるかもしれないな・・・」

なんて勝手な予想を思い浮かべた途端である。上に意識が傾き、ガラ空きになったアストロラビオのミゾオチ目掛けて、軽量級離れした重量感溢れる左ストレートを貫く。速い右のショートジャブでハイガードの上を1回タッチして、僅かながらでも重心を持ち上げさせ、ボディに開いた穴を閉じさせることなく、つなぎのスピードも十分な、教科書のような上→下のコンビネーション。

アストロラビオも気が付いて、お腹を引っ込め肘を内側に絞りながら、1歩半のステップバックで反応したが間に合わない。

後ろに下がりながらも保持していた半身&ハイガードの態勢が、一瞬遅れて腰から崩れ落ちる。典型的なディレイド・アクション。尻餅を着くように倒れたアストロラビオは、そのまま身体を反転させて両膝と両肘をキャンバスに着き、時折腹部を左右の片手で交互にさすりながら苦悶。

カウント9で何とか立ち上がったが、痛みに耐え切れずまたすぐに倒れて万事窮す。圧巻の初回KOで、モンスターが去った後のバンタム級最強をアピールした。

◎試合映像:中谷 KO1R アストロラビオ


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さらに10月14日、2度目の有明アリーナ登場は、前日の13日と合わせて、2日間で世界戦を7試合開催する日本ボクシング史上初の試み。

13日には、WBA3位堤駿聖也(角海老)の挑戦を受ける同王者の井上拓真(大橋)、WBCフライ級の王座決定戦に臨む寺地拳四朗(B.M.B.)、そしてそのフライ級で安定政権を築いたアルテム・ダラキアン(ウクライナ)を破り、WBAのベルトを巻いた”地方ジムの星”ユーリ阿久井政悟(倉敷守安)、108ポンドのWBO王座決定戦に己のすべてを懸ける岩田翔吉(帝拳)の4名が並ぶ。

そして中谷がオオトリを務める2日目は、井岡一翔(志成),モンスター井上尚弥(大橋)に続く国内3人目の4冠王,田中恒成(畑中)、中谷のステーブルメイトで、日本のファンにもすっかりお馴染みとなったアンソニー・オラスクアガ(米)が、昨年7月に獲得したWBOフライ級王座のV3戦。

なおかつ、倒しても倒せなくても話題になる那須川天心(帝拳)も、プロ5戦目で初のタイトルマッチにアタック。フィリピンの曲者ジェルウィン・アシロを相手に、WBOアジアパシフィック王座の決定戦が用意された。

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前日のメインを託された拓真が、堤が仕掛ける嵐のようなインファイトに巻き込まれて、0-3の明白な判定で陥落する大波乱にボクシング界隈は騒然となったが、他の5王者と那須川は無事白星をマーク。
※3月3日訂正
修正前の原稿を誤ってアップしてしまいました。
以下の通り訂正いたします。ごめんなさい。
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堤の激しいチャージを懸命に耐える拓真

前日のメインを託された拓真が、堤が仕掛ける嵐のようなインファイトに巻き込まれて、0-3の明白な判定で陥落する大波乱に続き、14日の第3試合(那須川 vs アシロにセミを譲った)でも、勝利を確実視されていた田中恒成が南アフリカの伏兵プメレレ・カフにダウンを奪われ、拮抗した勝負を引き寄せ損ねて落城。

恒成ほどのポテンシャルと実力を持ってしても、4つ目の階級ではこれまで通りには行かない。井岡一翔に喫した初黒星は、左フックのカウンターで待ち構える井岡に対して、何の工夫も変化もなく同じタイミングで真正面から突っ込んでしまう、コーナーワークも含めた無策による自滅と表するしかない。

しかし、カフ戦では細かいステップにボディワークを連動させ、適時出入いりとポジション・チェンジを繰り返しながらの切り崩しが出来ていたにもかかわらず、第5ラウンド、右アッパーをカチ上げたところに、左ではなく右フックを合わされ痛恨のダウン。

恒成 vs カフ 第5ラウンドのダウンシーン

深刻なダメージでこのままストップされるかと思ったが、井岡戦同様、驚異的なタフネスと回復力で持ち直した。オフィシャル・スコアは、三者全員が1ポイント差の1-2スプリット(113-114×2,114-113)。まさしく、5ラウンドのノックダウンが勝敗を分けた格好。

ミニマム級~フライ級までは、圧倒的なスピード&クィックネスのアドバンテージに加えて、体格差を利したフィジカルの強度で勝ち続けてきた恒成も、スピードを捨てて大幅なリバウンドを武器にした井岡に叩きのめされ、カフには黒人特有のナチュラルな身体能力(パワー&バネ,柔軟性)に遅れを取った。

あらためて打たれ強さを証明した恒成だが、115ポンドで2度目の復活を成功させ、さらに防衛ロードをサバイバルする為には、「倒して勝つ」ことへの徹底した割り切りが必要になる。

アマ時代に”スーパー高校生”と呼ばれて、熾烈なライバル争いを繰り広げた拓真と恒成の敗戦に、ボクシング界隈は騒然となったが、他の4王者と那須川は無事白星をマーク。
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モンスター vs ネリーの東京ドーム興行とは意味合が異なるけれど、ビッグイベントの〆を飾るべく、満を持してリングに上がった中谷のチャレンジャーは、タイの実力者ペッチ・CP・フレッシュマート。

ランキングはWBC1位で、2試合続けての指名戦。初回で沈んだアストロラビオに替わり、トップ・コンテンダーに浮上した。2019年6月のフィリピン人選手(19戦目:初回KO勝ち)以来、およそ5年半ぶりのサウスポー対決となった。

ムエタイから転向した1993年生まれの30歳は、二昔前ならロートルの扱いを受ける年齢。2011年3月から積み上げた国際式のレコードは、77戦76勝1敗。プロの試合数が激減した現在のトレンドに照らせば、途方もない戦績と言わねばならず、53ものノックアウトを量産している(KO率:68.8%)。


負ける心配がまずない無名の格下を選び、休み無くリングに上がり続けながら、タイに本部を置くABC(WBCが直轄するアジア地域タイトル)のベルトを利用してランキングを上げて行く。

パンチのあるムエタイ出身者を国際式で育成するタイならではの流儀であり、しかし同時に、修行時代の休み無い連戦(”無名ばかりをあてがう”点を除いて)は、20世紀のプロボクシングにおけるセオリーだった。

心身のタフネスが前提にはなるが、ディフェンスのベーシックをきちんと身に着けていないと、とてもこんな真似はできない。昭和の日本人ボクサーが、ディフェンスのできないサンドバッグのように思う若いファンを時々お見受けするが、それは大いなる誤解に基づく無理解である。


パンデミックの間もコンスタントに試合をこなし、13年を超える国際式のキャリアで唯一喫した黒星は、2018年12月30日の大田区総合体育館。ここまで記せば、ピンとくる方も多い筈。そう、井上拓真とのWBC暫定王座決定戦で、0-3の判定を失い無念の帰国を余儀なくされた。

序盤から拓真の出入りに苦しみ、あと数歩を追い詰め切れないままポイントを逃し続け、終盤にはボディを効かされて足が止まりかけたが、旺盛な回復力とメンタルの強さで12ラウンズを耐え切っている。

打たれても簡単に怯まず退くことを知らない気の強さと、ひたすら前進を繰り返すしつこさは、「ひょっとしたら化けるかも・・・?」と思わせるポテンシャルを垣間見せはしたけれど、この当時はまだまだ線が細く、どの距離でもパンチにウェイトが乗り切らない、未成熟な印象が優っていた。


今の中谷ならまあ大丈夫。早めのラウンドで倒すに違いないと、楽勝に近い雰囲気が充満しそうになる中、拓真戦後の6年近くで28戦(全勝20KO)を消化したペッチは、身体も大きくなって力強さを増す。計量後のリカバリーを含めた調整方法も確立したと思われ、気持ちの強さにしっかり身体が付いてくるようになり、パンチのキレと重さが格段にアップ。

かつて渡辺二郎と激闘を交わしたパヤオ・プーンタラトを、一~二回り大きくしたような当たりの強さ、身体全体のパワーが拓真戦の頃とはまるで違う。

ガンガン前に出て圧力をかけ続け、積極的に左右の強打を飛ばす。中谷の打ち終わりに合わせて、クロス気味に速いストレートを放ち、密着するとガードの上からボディ→上を重いパンチで連射。

アストロラビオに引けを取らないテンションの高さ。がしかし、ヒリヒリ感は過去8回の世界戦でおそらくNo.1。拓真との比較の上でも、下手な試合はできない。明確な差を付けた上で、倒し切って勝ちたいのは当然の成り行き。


めまぐるしい攻防の中でも、ペッチの動きとパンチの振り出しを非常に良く見て、反応の遅れや隙がほとんど無く、危険なクロスレンジでは、小さく頭と上体を動かすディフェンスを忘れない。

前半4ラウンズを終えて発表された最初のオープンスコアは、3-0(39-37,40-36,40-36)で中谷。ただし、はっきりペースを引き寄せ切った訳ではなく、ペッチの勢いもそう簡単にシフトダウンする気配は無し。被弾しても顔色1つ変えないペッチもまた、ディフェンスラインは相当頑丈。

どうなることかとハラハラしながら観ていたら、徐々に中谷の右が当たる確率を増し、それに比して左の精度も上がって来る。完全にペッチの間合いを把握したようだ。流石のペッチにも、バタつくシーンが見られ出す。

中谷の脚捌きがいよいよスムーズになり、意外に早く倒す時間帯に入ったなと驚いていると、第6ラウンドの1分半を過ぎたところで、ワンツーの連射にアッパーを混ぜた得意のコンビネーションが火を噴き見事なノックダウン。

ダメージは深刻で、スロー再生のように鈍い動きで立ち上がるペッチ。主審のローレンス・コール(米/テキサス州)が厳しい表情でペッチの表情を見つめ、中谷を見て臨戦態勢に戻ろうとするペッチを立ち止まらせ、自分の方へ歩けと指示。意識の状態を2度も確認する。

反応は明らかに鈍っていて、このまま止めるかと思ったが、ここまでのペッチの奮闘に配慮したのだろう。ワンチャンスを与えた。


ここでフィニッシュを急がないのが、中谷の余裕と上手さ。グラグラとヨロけながらも、まだパンチには相応のパワーを残している。右のリードからセットアップし直し、距離を詰めてボディを打ち直す。

アップアップのペッチが、強引に左をスウィングしてロープから飛び出しそうになる。下半身の支えも限界に近づいている。前に出た右腕を下げたヒットマン・スタイル、崩壊寸前の身体を意思の力だけで保つペッチに、また強烈なワンツー。そして間髪を入れずに左アッパー→右フック→左アッパーの連打がヒット。

ペッチはダッキング&ローリングで何とか対応しようとするが、もはやボビングと表した方がいいぐらい遅く大きい。ラウンドの残り時間が僅かとなり、「1分の休憩をあげたくないな。ここでし止めたい・・・」と余計な老婆心が頭をかすめたのは、きっと私だけではない。

そんなファン心理を見透かすかのごとく、止めのワンツーを炸裂させる中谷。前のめりに倒れ込み、そのまま仰向けになるペッチ。今度はコールも迷い無くストップの合図を出す。ただただ見惚れるしかない、完璧なノックアウト。

◎試合映像:中谷 6回TKO ペッチ
2024年10月14日/有明アリーナ


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近いところでは、山中慎介のゴッド・レフトと西岡のモンスター・レフト(この人がモンスターと呼ばれた日本人第1号)、そして昭和を代表する名選手,海老原博幸のカミソリ・パンチ&青木勝利のメガトン・パンチに、15連続KOの日本記録を塗り替えて、J・ウェルター級を撮った浜田剛史の豪腕・・・。

日本ボクシング史にその名を刻む、錚々たる左の豪打者たちの列に並ぶのは勿論、中谷の左(ワンツー)はその序列をグンと上げたように思う。


若き日の海老原&青木のレフティ2人は、ファイティング原田を加えて「三羽烏」と謡われ、世界チャンピオン候補として大いに持て囃されたが、練習嫌いと飲酒癖が直らなかった青木は、”黄金のバンタム”エデル・ジョフレに挑戦が叶うも3ラウンドで沈められ、原田とのライバル対決にも3回KO負け。1人だけ夢を掴み損ねて姿を消す。

もはや忘れ去られてしまったと評して間違いないけれど、青木の左は本当に凄かった。現代のトップボクサーは、すっかりアスリートになったと言っていいと思う。

そういえば、浜田代表に追い抜かれた前記録保持者(12連続KO)のムサシ中野も左だった。世界水準では最激戦区となるウェルター級で東洋王者となり、世界ランキングも3位まで上げたが、1967(昭和42)年8月8日、時の王者カーチス・コークスへの挑戦権を懸け、西海岸の人気者アーニー・”インディアン・レッド”・ロペス(米)と愛知県体育館で対戦。

あえなく3回KOに退き、中量級の分厚く高い壁を思い知らされることになったが、アーリー・アメリカンの血を引くスターボクサーを、名古屋に呼ぶことができたんだと思うと感慨深い。

閑話休題。話を元に戻そう。

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◎カネロ・ファミリー門下のチャレンジャー

28連勝(18KO)中の挑戦者は、中谷より5歳若い23歳。中身をよくよく吟味する必要はあるにせよ、勇ましくも立派な「El General(The General:将軍)」のニックネームに相応しい、立派なレコードではある。

アマ経験の有無を含めた詳しい経歴は不明。カネロ・アルバレスを生んだグァダラハラから、内陸に向けて400キロ程離れたクェレタロ(Queretaro)という、人口70万人規模の大きな地方都市の出身で、いつ頃カネロのチームに合流したのかも判然としない。

ちょうど中間地点に、メヒコ最大のアイドル,ルーベン・オリバレスのライバルとして名を馳せたチューチョ・カスティーヨ(元世界バンタム級王者)の故郷グァナファトもあるが、ボクシングでの成功を夢見るクェレタロの有望な若者なら、迷わずグァダラハラを目指すだろう。


公称174センチのタッパは、中谷を1センチ上回る超大型のバンタム。リーチは171センチで、安定感を増すばかりの王者より5センチ短いが、リアルなトップレベルであればことさら問題にはならない。

カネロのヘッドとして売れっ子になったエディ・レイノソではなく、少年カネロの才能を見出し、手塩にかけて育て上げたホセ・レイノソ(エディの実父)が、老体に鞭打って直接指導をしたという。

メンター兼トレーナーのチェポ・レイノソ(左)とクェジャル

”チェポ”の愛称で親しまれる老匠を、再び第一線へと押し戻すだけの素質の持ち主・・・ということになるのかどうか。実際にコーナーで実務をリードするのは、ジョナタン・レイジェスというチェポが信頼するコーチで、総勢20名に及ぶ大軍での来日は、”カネロのメンター”に対する最大の配慮と言うべきで、5~6名体制でやって来るのが平常運転だ。

並みのプロモーターでは容易に呑めない痛い出費も、本田会長と浜田代表にとっては必要経費。きっとそういう判断なのに違いない。


サイズのアドバンテージを頼りに、身体ごと押し込んでくるタフ・ファイター。適時ボクシングもこなすけれど、耐久力勝負の打ち合いに持ち込んで、相手をすり潰すのが本来の持ち味になる。

いわゆる出世試合に当たるのが、2023年10月のルイス・コンセプシオン戦。近年のパナマが輩出した数少ない人気王者コンセプシオン(フライ級&S・フライ級の2冠王)も、40歳(しじゅう)の不惑を目前にして、往時の面影はなし。

タイソン・マルケスに喫した2度のKO負け(2011年)による被害は甚大で、”肉を切らせて骨を絶つ”スタイルの代償が目に見えて顕在化。その後ウェイトをS・フライ級に上げて、中堅クラスを相手に連勝を続けると、2015年5月、カルロス・クァドラスに挑戦して12回判定負け。

昇り調子だったカル・ヤファイ(英)やアンドリュー・モロニー(豪)にも敗れて、流石にこれまでかと思われたが、2020年2月にWBAのフライ級暫定王座に返り咲いたと聞いた時は、「まだ戦っていたのか?」と本当に驚いた。


戦った相手はコロンビアのベテラン中堅ロベール・バレラで、それでも11回にTKOしたというから、パンチング・パワーと強靭なメンタルは健在なのかと感心。パンデミックによる休止を挟み、翌2021年12月に行われた正規×暫定の統一戦で、アルテム・ダラキアンにほとんどいいところはなく9回TKO負け。

今度こそキャリアを終えるものと思いきや、2022年に復帰して無名選手に勝った後、因縁のタイソン・マルケスと3度目の対決。2人合わせて70歳超えロートル対決(失礼)は、メキシコ国内の開催ということもあり、マルケスに2-1判定が与えられて、10年越しの雪辱はならなかった。

マルケスとの第3戦からジャスト1年経った2023年10月、慣れ親しんだメキシコからまたお呼びがかかり、若くて活きのいいクェジャルの踏み台にされたという次第。

そして昨年5月、何かとお騒がせのムロジョン・アフマダリエフに挑戦(2021年11月)して判定まで粘り、2023年9月には岡山で和氣慎吾と8ラウンズをフルに渡り合った小兵のベテラン,ホセ・ベラスケス(チリ)に大差の10回判定勝ち。

◎試合映像
<1>クェジャル 8回TKO コンセプシオン
2023年10月13日/カンクン


<2>クェジャル 10回3-0判定 J・ベラスケス


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また、クェジャルのキャリアでもう1つ印象深い試合が、2021年10月16日にカンクンで行われたモイセス・フェンテスとの10回戦。ここでも打ちつ打たれつの白兵戦になったが、若さと体力にモノを言わせたクェジャルが6回TKOで勝ち名乗りを受ける。

フェンテスを悲劇が襲ったのはこの直後で、意識を失い救急搬送されて開頭手術を受けたが、ご家族の献身的な介護にもかかわらず、1年後の2022年11月24日に回復しないまま息を引き取った。

105ポンドと108ポンド(暫定)でWBOの王者となり、田中恒成(畑中)との決定戦を得て2016年の大晦日に初来日した時には、歴戦のダメージによる消耗疲弊が顕著で、勢いに乗っていた恒成の敵ではなく、5回TKOで役割を終え帰国。

王座復帰を諦めずに戦い続けたフェンテスは、WBCフライ級王者となった比嘉大吾(白井・具志堅:当時)の挑戦者に選ばれ、2018年2月に再来日。初回2分30秒余りで比嘉の強打に捕まり、呆気ない結末となったが、下手に長引いて打たれ続けるよりは良かったと本気でそう思う。

さらに7ヶ月後の同年9月、シーサケットに連敗して急降下したローマン・ゴンサレスの復帰戦に呼ばれたフェンテスは、ラスベガスのT-モバイル・アリーナで5回KO負け。長い休養にパンデミックが加わり、風光明媚なビーチで知られるカンクンを訪れ、クェジャルに打ちのめされた10回戦は、実に3年ぶりのリング復帰だった。

「ボクシングを辞めるのは難しい。こっぴどく負けてもう駄目だと思い知らされた筈なのに、少し時間が経ってダメージが抜けると、まだやれると考えてしまうんだ。」

「もう戦うべきじゃないとエディ(ファッチ:ローチの面倒も見ていた)に忠告された時、素直に辞めていたらと思うことはある。こんなに苦しむことにならずに済んでいたかもしれない。でもそれもこれもひっくるめて、自分自身で選択した私の人生だからね。受け入れているよ。」

現役時代最終盤に喫した敗戦の影響(ご本人が明言)で、外傷性のパーキンソン病を発症したフレディ・ローチが、パッキャオの引退について問われた時、自らの経験を踏まえてそう述べていた。

田中に負けた後すぐに辞めていればと、今になって言うのは簡単なのだが・・・。

◎試合映像:クェジャル 6回KO フェンテス
2021年10月16日/カンクン
https://www.youtube.com/watch?v=GFjt61iPDM4

またまた、閑話休題。


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そんな挑戦者の実力はいかほどのものなのか。直前のオッズを見てみると、思いの外接近している。クェジャルの戦績がいいからだと考える他ないが、オーバー・レイテッドの気配が濃厚に漂う。

□主要ブックメイカーのオッズ
<1>FanDuel
中谷:-950(約1.11倍)
クェジャル:+540(6.4倍)

<2>betway
中谷:-1000(1.1倍)
クェジャル:+600(7倍)

<3>ウィリアム・ヒル
中谷:1/7(約1.14倍)
クェジャル:9/2(5.5倍)
ドロー:16/1(17倍)

<4>Sky Sports
中谷:3/19(約1.16倍)
クェジャル:13/2(5.5倍)
ドロー:25/1(26倍)

個人的な思いとしては、1-8ぐらいが妥当なセンではないかと。クジャルの武器で怖いのは、唯一左フックのみ。中途半端な間合いに留まって、打つかどうかの判断を躊躇する僅かな隙を突かれる恐れはある。

軽めの右のリードを待たれて、引き手の戻りに合わせた左をカウンターで食う可能性も皆無ではない。左ほどではないけれど、一定の距離が取れた時の右は、それなりのタイミングと切れ味が伴っていて侮れない。ないけれども、9割方王者の防衛は堅いと見るのが常道。

率直に申し上げて、ランク6位の現在地はメキシカン優遇のお家芸、「WBCあるある」の典型例にしか見えない。

総勢20名の大名行列(?)は、載冠への確信と手応えの現れだと、そう捉えても不思議はないけれど、チェポ・レイノソほどの海千山千が愛弟子の力量を見誤るとも思えず、「負けても失うものはない。無敗のレコードが途切れても、P4Pトップ10相手なら大きな傷にはならないし、善戦できればそれだけでも大成功」と


クェジャルはフィジカルの強度に恵まれているし、ハートの強さにも目立った不足はなく、経験もまずまず。ただし、頭と上体を振らない現代のボクサーに特有の傾向が明白で、打たれ(せ)ながら打つ耐久・消耗戦になりがち。

想定を超える苦闘を強いられた2人のメキシカン、フランシスコ・ロドリゲス・Jr.とアルヒ・コルテスの成功(?)は、チェポとクェジャルにとって大いに参考になっている筈。ガシャガシャの混戦に持ち込めたら、今をときめく中谷も無敵ではなくなると、陣営なりに突破口が見えたと考えているに違いない。

それこそが、逆に中谷にとって攻め込む糸口になると、確信に近い勝機を感じさせてくれる。注意して欲しいのは、アストロラビオ戦のように距離をはっきりさせること。

切った張ったのカウンター合戦になっても、ペッチに比べればリスクは低く、距離&間合いに関する判断(ケアレス)ミスと油断さえ無ければ、中盤までには倒し切れるし、倒し切って貰わないとトゥルキ長官と御大アラムが困ってしまう(?)。


◎中谷(27歳)/前日計量:117.5ポンド(53.3キロ)
WBCバンタム級(V2),WBO J・バンタム級(V1/返上).WBOフライ級(V2/返上),元日本フライ級(V0/返上),元日本フライ級ユース(V0/返上)王者
2016年度全日本新人王(フライ級/東日本新人王・MVP)
戦績:29戦全勝(22KO)
世界戦通算:8戦全勝(7KO)
アマ戦績:14勝2敗
身長:173センチ,リーチ:176センチ
左ボクサーパンチャー


◎クェジャル(23歳)/前日計量:117.3ポンド(53.2キロ)
戦績:28戦全勝(18KO)
アマ経歴:不明
身長:174センチ,リーチ:171センチ
右ボクサーファイター

公開計量を1発クリアしてポージングする両雄
※公開計量を1発クリアしてポージングする両雄/左端は中谷を今日に導いた功労者でチーフとして支えるルディ・エルナンデス

◎前日軽量


体温の低さと脈拍が多少気になるぐらいで、調子は悪くなさそう。クェジャルは中谷以上に減量がキツそうで、ここから何キロ戻す予定なのか・・・。

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■オフィシャル

主審:マイケル・グリフィン(カナダ)

副審:
スティーブ・モロウ(米/カリフォルニア州州)
デヴィッド・サザーランド(米/オクラホマ州)
リー・エブリィ(英/イングランド)

立会人(スーパーバイザー):ドゥウェイン・フォード(米/ネバダ州/NABF会長)

記録の罠 - モンスターのワールド・レコードについて Part5  -

カテゴリ:
■数字は時に嘘をつく・・・ 世界戦通算勝利「22」

井上尚弥

■時代によって異なる世界タイトルの権威と重み

現代のボクサーが抱える永遠の課題と言うべき最大の相違点、すべての矛盾と欺瞞の出発点と言い換えた方が相応しい、階級と認定団体の増加。ざっくりまとめると次のようになるが、まずは階級。

◎階級の推移
■1740年代:2階級
(1)ヘビー級:160ポンド(72.7キロ/11ストーン4ポンド)超
(2)ライト級:160ポンド未満
18世紀のイングランドに、古代ローマのパンクラチオンに源流を持つボクシングを蘇らせた創始者ジェームズ・フィグの高弟、ジャック・ブロートンが著した史上初のルールブック、「ブロートン・コード(ルール)」により規定。

ジャック・ブロートン
※ジャック・ブロートン(1703年もしくは1704年7月5日~1789年1月8日)

ブロートン・コード(ブロートン・ルール)
◎ブロートン・コード(ブロートン・ルール)について
<1>Broughton’s Rules - Boxrec
https://boxrec.com/media/index.php/Broughton%E2%80%99s_Rules
<2>初期ボクシングのルール(ブロートンズ・ルール)に関する研究(大阪体育学会)
https://www.osaka-taiikugakkai.jp/journal/vol48/48_Umegaki_187-195.pdf

■1740~1860年代:4階級
(1)ヘビー級:160ポンド(72.7キロ/11ストーン4ポンド)超
(2)ライト級:160ポンド未満(130~150ポンド説有り)
(3)ウェルター級:142~145ポンド(目安)
(4)ミドル級:160ポンド(目安)
1838年に「ロンドン・プライズリング・ルールズ(London Prize Ring rules)」が発表され、1853年の改訂版策定公表(ベアナックル・ルールの完成)を経て、ベアナックル・ルールが確立する18世紀後半~19世紀初頭にかけて、142~145ポンドを目安にしたウェルター級、160ポンドを上限(あくまで目安)としたミドル級が定められたとされるが、明確な時期やリミットについては判然としない。

ロンドン・プライズリング・ルールズ(1頁)

「ブロートン・コード(ルール)」と「ロンドン・プライズリング・ルールズ」のいずれにも、階級(ウェイト・クラス)について明文化はされておらず、最軽量のライト級は当然142ポンド未満となる筈だが、各階級のリミットは必ずしも厳格に運用されていた訳ではなく、馴染みの無い新しい階級が定着するまでには相応の時間も必要で、下の階級ほど軽く扱われる傾向も影響して、ライト級について130~150ポンド程度を目安にしていたの説もある。

■1880~1890年代:3・4階級
<1>1867年:3階級/クィーンズベリー・アマチュア選手権(1867~1885年)
(1)ヘビー級
(2)ミドル級
(3)ライト級
明確なリミットの規定は不明だが、おそらく以下のABA選手権に同様と思われる(ABA選手権がクィーンズベリー選手権に倣った)。

<2>1881年:4階級/ABA選手権
(1)ヘビー級:168ポンド超(上限なし)※1889年に「無制限(下限も無し)」に改訂
(2)ミドル級:11ストーン4ポンド(160ポンド=72.7キロ)
(3)ライト級:10ストーン(140ポンド=63.5キロ)
(4)フェザー級:9ストーン(126ポンド=57.15キロ)

1865年にクィーンズベリー・ルール(Marquess of Queensberry rules/2オンスグローブ着用)が施行され、グローブ着用に否定的なプロのプライズ・ファイターの様子を見て、アマチュアの必要性を痛感したクィーンズベリー侯爵が、自らの名前を冠した大会を主催。プロにも参加を呼びかけ、いわゆるオープン選手権の体裁を取った。

クィーンズベリー侯
※クィーンズベリー侯/ジョン・ショルト・ダグラス侯爵
(1844年7月20日~1900年1月31日)

クィーンズベリー侯の活動が継続する間に、イングランドには史上初のアマチュア統括機関が誕生する。現在も英国のアマチュアを管理運営する「ABA:イングランド・アマチュアボクシング協会/Amateur Boxing Association 」で、1880年に12のクラブが参加して創設された。ABAは新大陸アメリカの選手たちにも参加を認めていた為、1903年のセントルイス五輪でボクシングが正式競技として採用されるまで、史上初にして唯一の国際大会と見なされる。

■1909~10年:8階級
(1)ヘビー級:175ポンド超(上限なし)
(2)L・ヘビー級:12ストーン7ポンド(175ポンド=79.5キロ)
(3)ミドル級:11ストーン4ポンド(160ポンド=72.7キロ)
(4)ウェルター級:10ストーン7ポンド(147ポンド=66.8キロ)
(5)ライト級:9ストーン9ポンド(135ポンド=61.4キロ)
(6)フェザー級:9ストーン(126ポンド=57.15キロ)
(7)バンタム級:8ストーン6ポンド(118ポンド=53.5キロ)
(8)フライ級:8ストーン以下(112ポンド=50.9キロ)

1891年にロンドンで設立された「ナショナル・スポーティング・クラブ(ナショナル・スポーツ・クラブ:The National Sporting Club /NSC)」が1909年~10年にかけて定めた階級で、これが現在に続く「正統8階級(Original 8・Traditional 8)」である。

歴史上最古の統括機関(の1つ)と位置づけられる「NSC」は、クィーンズベリー・ルールの改訂に着手した他、試合役員(Ring Officials:レフェリー,タイムキーパー,立会人他)の役割を整理するとともに、初めて採点基準を規定し、勝利者を決定する権限をレフェリーのみに与え、判定に疑義が生じないようラウンドごとのポイントを明確にした。

「NSC」の積極的な活動によって、グローブ着用と階級制への理解と関心が深まり、より安全でフェアな戦いを実現する為、階級とリミットの規定を厳格化しようという機運が高まって行く。

1913年(1911年説有り)に、パリ(ブリュッセル説有り)で発足した最古の世界タイトル認定団体IBU(International Boxing Union/国際ボクシング連合)も、当然のようにNSCの8階級を継承する。

NSCは発祥の地英国を統括する機関として活動を続けるが、フランス革命とウィーン体制崩壊(1848年)に端を発した「特権階級(王侯貴族) VS 下層階級(一般市民)」の対立の構図は、瞬く間に欧州全域に波及拡大。NSCが承認する英国タイトルマッチは、そのまま世界タイトルの権威を無言のうちに主張した。

様々な曲折を経て、第一次大戦(1914年7月~1918年11月)の終結後、王制を敷いていた欧州諸国多くが民主制へと移行。英国も民主化のうねりと無縁ではいられず、19世紀の選挙権拡大に始まった改革の機運に、20世紀に入って以降の税制改正が相まって、巨額の相続税(財産税)に直撃された貴族階級が急速に弱体化。

貴族とその周辺にいる政治経済の権力層を軸にした、NSC会員限定でボクシングの公式戦が催されることに、一般の市民から明確な抗議の声が上がるようになり、特権階級による支配から、一般市民と地域社会が取って代わる時代へと移り行く中、NSCもその役割を終える時がやって来る。

1929年にコヴェントガーデンに構えた立派な居城を閉鎖したNSCは、英国ボクシング管理委員会(BBBofC:British Boxing Board of Control)へとその姿を変え、発展的解消という形で幕を閉じた。


そしてナチスが政権を掌握したドイツが、オーストリアを併合。きな臭さを増す1938年4月、IBUの総会がミラノで開催された数日後、ローマで画期的な出来事が起きる。ボクシングが盛んな国の統括機関から、総勢63名もの代表者が集まり、おそらく史上初にして唯一の国際会議が開かれた。

BBBofC(英国のコミッション)はもとより、NYSACとNBAも出席し、世界タイトルマッチの15ラウンド制が国際的に合意形成された他、各階級の世界チャンピオンについて確認と合意が行われている。

新大陸(NYSAC,NBA)との覇権争いで大きくリードを許したIBUも、第二次大戦の深刻な戦禍により、1940年代以降IBUは活動停止に追い込まれる。そして大戦終結後の1946年、現在のEBU:European Boxing Union)に名称を変更。自主的に欧州王座認定機関へと転換した。

盟主の座をアメリカに奪われ、発祥国としてのプライドを傷付けられた英国と旧IBU残党の反発と抵抗は根強く、英・仏を中心に時折出現する特定の人気選手を世界王者として承認するケースが散見された。


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◎王国アメリカの動き

■1920年~21年:11・13階級
<1>ニューヨーク州アスレチック・コミッション
(1)ヘビー級:175ポンド超
(2)L・ヘビー級:175ポンド以下
(3)ミドル級:160ポンド以下
(4)ウェルター級:147ポンド以下
(5)J・ウェルター級:147ポンド以下
(6)ライト級:135ポンド以下
(7)J・ライト級:130ポンド以下
(8)フェザー級:126ポンド以下
(9)J・フェザー級:122ポンド以下
(10)バンタム級:118ポンド以下
(11)J・バンタム級:115ポンド以下
(12)フライ級:112ポンド以下
(13)J・フライ級:109ポンド以下

<2>NBA(現在のWBA)
(1)ヘビー級:175ポンド超
(2)L・ヘビー級:175ポンド以下
(3)ミドル級:160ポンド以下
(4)ウェルター級:147ポンド以下
(5)J・ウェルター級:140ポンド以下
(6)ライト級:135ポンド以下
(7)J・ライト級:130ポンド以下
(8)フェザー級:126ポンド以下
(9)バンタム級:118ポンド以下
(10)フライ級:112ポンド以下
(11)J・フライ級:109ポンド以下

ニューヨーク州でボクシングの合法化を定めた「ウォーカー法」の成立と同時に、管理運営を担保するコミッション制度が1920年に正式スタート。「ニューヨーク州アスレチック・コミッション(NYSAC:New York State Athletic Commission)」と命名され、プロ・ライセンスの管理を開始するとともに上記の13階級を規定した。

さらに翌1921年、東部を中心とした17州が集まり、世界タイトルを認定する団体「NBA(National Boxing Association:全米ボクシング協会)」を組織する。IBU(音頭を取った英国)の発足から、8(10)年遅れての発進。

J・ウェルター級とJ・ライト級だけでなく、軽量級にも狭間のジュニア・クラスを設けたNYSACの決定にまず驚く。流石に多過ぎると感じたのかどうか、NBAはJ・フェザー級とJ・バンタム級を削って全11階級としたが、フライ級の下にJ・フライ級を設けているのは意外ですらある。

ただし、J・ウェルター級とJ・ライト級は参入する有力選手が皆無に等しく、バーニー・ロスとトニー・カンゾネリのライバル争い等の僅かな例外を除いて開店休業の状態が続き、J・フライ級もこのウェイトで戦う選手がおらず、発足直後に廃止されたらしい。

NYSACの13階級に、J・ミドル(154ポンド以下),ミニマム(105ポンド),S・ミドル(168ポンド以下),クルーザー(190ポンド以下/2003年~2004年に200ポンドに引き上げ)の4つを加えて、J・フライの109ポンドを108ポンドにすれば、現在の17階級と完全に同一となる。

この流れは現実のチャンピオンシップにも影響を及ぼす。現代に継承される世界チャンピオンは、1880年代~90年代にかけてヘビー級,ミドル級,ライト級,バンタム級,フェザー級,ウェルター級の順に次々と登場するが、「正統8階級」を構成するL・ヘビー級は1903年、フライ級は1913年まで待たねばならない。

そしてJ・ライト級は、1921年11月18日にNYSACが承認する決定戦がMSGで行われ、ジョージ・チェイニーに5回反則勝ちを収めたジョニー・ダンディ(米/イタリア系移民)が初代王者となり、NBAも1925年3月に追承認を公表する。

やや遅れて、J・ウェルター級も1923年1月30日、ミルウォーキーでバド・ローガンを10回判定に下したピンキー・ミッチェルを、NBAが初代王者として認定(NYSACは1959年まで未承認/140ポンドに関与せず)。

初代J・ライト級王者ダンディ(左)と初代J・ウェルター級王者ミッチェル
※左:初代J・ライト級王者ジョニー・ダンディ/生涯戦績:335戦90勝(22KO)31敗19分け194ND・1NC/NYSAC J・ライト級王座V3/NYSACフェザー級王座V1
(1991年殿堂入り/戦績:国際ボクシング殿堂)
※右:初代J・ウェルター級王者ピンキー・ミッチェル/生涯戦績:83戦44勝(10KO)23敗6分け/NBA J・ウェルター級王座V2


しかしながら、ジュニア・クラスは容易にファンと識者の支持を得られず、「要するに、ウェルターとライトで王者になれない連中の集まり。お助け階級に過ぎない」と口さがない評価を下す人たちが大勢を占めた。

こうしてJ・ライト級は1933年、J・ウェルター級も1935年を最後に王者が不在となり、1940年代のティッピー・ラーキン(J・W)とサンディ・サドラー(J・L)をごく瞬間的な例外として、MSGを舞台に大活躍するカルロス・オルティス(カーロス・オーティズ/J・ウェルター級とライト級を奪取/殿堂入り)とフラッシュ・エロルデ(比/分裂前のJ・ライト級をV10/殿堂入り)が登場する1959年の正式な復活まで休眠する。

また、NYSACとNBAは設立当初から折り合いが悪く、何かにつけて反目対立したが、ニューヨークを主戦場に活躍する人気選手を手厚くバックアップするNYSACの基本的な姿勢は、MSGがボクシング興行に情熱を失う1970年代後半まで続く。

140ポンドと130ポンドの復活に華を添えたオルティス(左)とエロルデ(右)
※左:カルロス・オルティス(米/プエルトリコ)/生涯戦績:70戦61勝(30KO)7敗1分け
(NBA・NYSAC J・ウェルター級王座V2/NBA・NYSACライト級王座V4/WBA・WBCライト級王座V5=通算V9)
※右:フラッシュ・エロルデ(比)/生涯戦績:117戦88勝(33KO)27敗2分け(NBA J・ライト級王座V10)
※戦績:国際ボクシング殿堂


日本人選手と43戦(29勝12KO13敗1分)もやったエロルデは、日本で育ったとの評価もある異例中の異例にしても、オルティスとサドラーにも来日経験があり、1962年の冬に東京を訪れたオルティスは、11月7日に後楽園ホールでフェザー級の第一人者,高山一夫(帝拳)似10回判定勝ち。

「高山が強いのか、オルチス(日本国内でのカナ表記)がさほどでもないのか?」と不穏な空気が流れるも、翌12月3日の本番では、日本人初のライト級王座挑戦を果たした帝拳の小坂照男(エロルデとは5戦したライバル:1勝4敗)を問題にせず、圧巻の右強打で5回KO勝ち。余りの強さに、国技館を埋めた満員の観客は言葉を失った。

◎オルティス vs 小坂戦を伝えるニュース映像


◎エロルデ 12回TKO 小坂(第4戦)のニュース映像
1964年7月27日/蔵前国技館



オルティスより7年早い1955年8月8日、後楽園球場(!)で当時の国内フェザー級No.1,金子繁治(笹崎)を6回TKOに屠ると、2週間も経たない8月20日、マニラに飛んでフラッシュ・エロルデにまさかの10回判定負け。

5ヶ月後の1956年1月18日、サンラフランシスコのカウ・パレスで再びエロルデと対峙したサドラーは、得意の裏技(レフェリーの眼を盗んで仕掛ける様々な反則)も容赦なく繰り出し、エロルデの瞼を切り裂いて13回TKO勝ち。フェザー級のベルトを三度び守っている。

Sandy Saddler
※サンディ・サドラー(米)/生涯戦績:162戦144勝(103KO)16敗2分け
NBA・NYSACフェザー級王座V4(2度獲得)/NBA J・ライト級王座V1(返上)
戦績:国際ボクシング殿堂
時のフェザー級で頂点を争ったウィリー・ペップとの3戦(2勝2KO1敗)は、歴史に残る数多のライバル対決のベスト10に数えられる。

◎サドラー vs 金子戦を報じるショート・ドキュメント
SANDY SADLER IN JAPAN
https://www.dailymotion.com/video/x8q34by

この頃の世界王者は防衛戦の合間に数多くのノンタイトルをこなし、各国の偵察を兼ねて稼ぐのが当たり前で、アウェイでの判定負け(キャッチウェイト+地元判定)も珍しいことではなく、タイトルマッチで負けなければいいと割り切るチャンプも少なくなかった。

この時サドラーのスパーリング・パートナーに呼ばれたのが、ウェルター級のプロボクサーだった作家の安部譲二。フェザー級とは思えないパワーと攻防の高度な技術を前に、「何もさせて貰えない。唖然とした」と後に著作の中で追懐。

「フェザーにしちゃサドラーはデカいし(公称174センチ)、俺は駆け出しの三下で比べものにならない。でもさ、4階級も重いんだぜ。なのに赤子の手を捻るどころじゃなくて、子供扱いにもならない。バケモノかって思うよ。こんな強いのとやらされる金子はたまったもんじゃない」と同情さえ覚えたという。


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◎1960年代:11階級(J・ミドル級の新設)
(1)ヘビー級:175ポンド超
(2)L・ヘビー級:175ポンド以下
(3)ミドル級:160ポンド以下
(4)J・ミドル級:154ポンド以下(※)
(5)ウェルター級:147ポンド以下
(6)J・ウェルター級:140ポンド以下
(7)ライト級:135ポンド以下
(8)J・ライト級:130ポンド以下
(9)フェザー級:126ポンド以下
(10)バンタム級:118ポンド以下
(11)フライ級:112ポンド以下

腕に覚えのあるL・ヘビー級の猛者たちが、ほぼ例外なくヘビー級に挑み続けたように、人気と実力を併せ持つウェルター級のベスト・オブ・ベストたちも、真の中量級No.1を目指して時のミドル級トップにぶつかって行くのが、20世紀中頃までの王国アメリカにおける伝統だった。

がしかし、175ポンド上限のL・ヘビー級と、190~200ポンド超のヘビー級との間にある15~20ポンドを超える重量の違いは、致命的とも言えるパワー&耐久性の差となって立ちはだかり、同様にウェルター級(147ポンド上限)とミドル級(160ポンド上限)を分ける「13ポンドの壁」もまた、高く切り立つ断崖絶壁として軽量の男たちの行く手を阻む。

そんな状況に手を打つべく、147ポンドと160ポンドの間に設けられたのが、154ポンドを上限とするJ・ミドル級で、1962年10月20日にデニー・モイヤーとジョーイ・ジャンブラによる初代王者決定戦が行われ、WBA(World Boxing Association)に改称したばかりのNBAは、15回3-0判定勝ちを収めたモイヤーを王者として承認。

AAUトーナメント優勝を手土産に、1957年に18歳でプロ入りしたモイヤーは、僅か2年後の1959年8月、弱冠二十歳でウェルター級王者ドン・ジョーダンに挑戦して15回0-3版手負け。ウェルター級で3度王者(通算V7に成功して返上)になり、ミドル級に上げて2階級を制する名王者エミール・グリフィス(殿堂入り)との1勝1敗を含む連戦で巻き返しを図り、新たな階級でチャンスを掴んだ。

Denny Moyer1
※J・ミドル級初代王者デニー・モイヤー/生涯戦績:141戦98勝(25KO)38敗4分け1NC

2度目の防衛戦で、同じくウェルター級のコンテンダーだったラルフ・デュパスに敗れてしまい、リマッチも落としたモイヤーは、ルイス・ロドリゲス(殿堂入り)やフレディ・リトル(J・ミドル級王者として来日)、ニノ・ベンベヌチ(ローマ五輪金メダル/J・ミドルとミドルを制覇して殿堂入り)ら、自らと同じくウェルター~ミドルを股にかけて戦う実力者たちと顔を合わせ、1965年頃にはミドル級に定住。

初載冠から10年を経た1972年3月、無敵の王としてミドル級を支配するカルロス・モンソンに挑戦したが、5回TKOで一蹴されている。

ヘビー級とともに、近代ボクシングの歴史を切り拓いてきたミドル級とウェルター級に挟まれたJ・ミドル級は、出来たばかりという最大のマイナスを差し引いても、地味で目立たないという点でJ・ウェルター級とJ・ライト級を上回っていた。正当性を疑われるのも、スーパースターや人気選手が敬遠するのも、であるからこそ東洋圏の選手に割り込む隙があったこともまったく同じ。


1969年9月9日、時のJ・ミドル級王者フレディ・リトル(米)が来日。大阪府立体育会館で、東洋王座の2階級(ウェルターとミドル)を制した第一人者の南久雄(中外)を、鮮やかな右ショートストレート1発で2回にノックアウト。

公称170センチの小兵リトルは腕が長く、5センチの身長差(南:175センチ)をものともせず、初回から長身の南に正確なジャブをヒット。もともと南はディフェンスが甘く、特にジャブを貰い過ぎる傾向が目立ったが、やはり世界基準のジャブを面白いように貰って雲行きの悪さを実感させた直後のフィニッシュに、府立を埋めたファンは絶句するしかなかった。

◎試合映像:リトル 2回KO 南


1971年10月31日、日大講堂(旧両国国技館)で五輪銀メダリストのカルメロ・ボッシ(伊)を破り、日本のボクサーとして最重量級の王座に辿り着いた”炎の男”輪島功一(三迫/小林弘に並ぶ6回防衛の国際最多タイ記録)に続き、工藤政志(熊谷),三原正(三迫)と3人の王者を輩出したJ・ミドル級は、昭和のファンにとってはお馴染みの階級でもある。

初期の輪島を象徴する「カエル飛び」や「余所見パンチ」、意表を突く様々なフェイント等々、セオリーから大きく外れる変則スタイルは、オリンピアンのボッシには思いのほか功を奏した。

ところが、郡司信夫を始めとする識者と一部ベテラン記者には甚だウケが悪く、「頭脳的ではあった」と一定の評価をした郡司は、返す刀で「ボクシングに非ず」と一刀両断。ト

世界タイトルマッチの試合会場が、観客の笑い声でどよめく。想像もできなかった光景に、思わず苦虫を噛み潰し、眉をひそめる会長さんもおられた。トリッキーに過ぎる「カエル飛び」等の陽動戦術は、専門家には好まれていなかったと記憶する。

引退後に出演したドキュメンタリー作品で、輪島自身「カエルなんて、本当はやっちゃいけないの」と真顔で話しているが、同時に「背が低くて腕も短い俺は、まともにやっていたら勝てない。真っ正直に飛び込んだってカウンターを食うだけだから、人一倍頭を使って考えるんだよ」とも言っていた。

輪島の代名詞となったカエル飛び

その後防衛を重ねて行く過程で、輪島のボクシングは驚くほど洗練の度合いを増し、熟練した正攻法のボクサーファイターへと変貌する。

キックボクシングの解説もやった作家で僧侶の寺内大吉は、ミゲル・デ・オリベイラ(ブラジル)との再戦を完勝で締め括り、地元判定の批判を免れないドロー防衛で厳しい批判を受けた初戦の因縁に決着を着ける快勝を目撃して、「世界王者としては二流だった輪島が、気が付けば一流の技術と正統の駆け引きを身に付けていた」と、最大限の賛辞を贈り輪島を労った。

どんな時でも頭と腰を低くして、人の悪口と大言壮語を誰よりも嫌った輪島が、幾許かの含羞を浮かべつつ、うっすら涙声で「私の誉れです」と述べる姿が今も脳裏に焼き付いて離れない。


輪島と言えば、何はなくとも「奇跡の復活」。

こっぴどいKO負けを喫したオスカー・アルバラード(米)と柳斉斗(韓)の2人からベルトを獲り戻し、日本人の世界王者で初めて敗れた相手からの奪還に成功した2試合が有名になり過ぎて、すっかり影が薄くなってしまったけれど、生涯のベストバウトは多くのファンが推す柳とのリマッチではなく、オリベイラとの第2戦かもしれないと、時々そんな風に思うことがある。

◎参考映像
<1>奇跡のチャンプ “炎の男”輪島功一 復活伝説
ttps://www.youtube.com/watch?v=lAaYvFsFAOs
<1>炎のチャンピオン 輪島功一
ttps://www.youtube.com/watch?v=0mc2rWOkXDc


80年代以降、シュガー・レイ・レナード&トーマス・ハーンズ、驚愕の増量を繰り返す”石の拳”デュラン、最年少王者ウィルフレド・ベニテスらのスーパースターが相次いで154ポンドに参入。

日本と東洋圏のトップクラスがおいそれと近づけない、正統8階級のウェルター,ミドルと変わらない高みへと昇り、縁遠いクラスとなってしまう。

輪島が成し遂げた連続6回の防衛は、小林弘に並ぶ当時の国内最多記録であり、競技人口が縮小する一方の現状を振り返らずとも、輪島の記録に迫り、塗り替えるような邦人J・ミドル(S・ウェルター)級王者が出現する可能性は限りなくセロに近い。


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記録の罠 - モンスターのワールド・レコードについて Part 4 -

カテゴリ:
■数字は時に嘘をつく・・・ 世界戦通算勝利「22」

井上尚弥

■世界戦の通算KO勝利「22」- ”ブラウン・ボンバー”が拳を交えたホール・オブ・フェイマーたち

P4Pランクや殿堂入りへの道のりは、ただでさえ険しく遠い。軽量級で一家を成したトップ・ファイターにとって、その勾配はより一層厳しく斜度を急にし、切り立った岩壁から落石や雪崩が次々と襲い掛かる。地表を厚く覆った氷の裂け目にいつ足下をすくわれ、遥か奈落の底へ吸い込まれても不思議はない。

何連勝したのか、何連続KO勝ちしたのか。記録は戦果の是非を推し量る何よりの指標ではあるが、ことボクシングにおいては、「誰に勝ったのか」が極めて重要になる。あるいは誰に負けて、その勝ち方や負け方はどうだったのか。

プロ通算71戦の中で、”ブラウン・ボンバー”が雌雄を決したホール・オブ・フェイマーと、それに準ずる腕達者を振り返ってみる。

25度の防衛を含む27回の世界戦に、ノンタイトルを含めて対峙したホール・オブ・フェイマーは、以下に挙げる10名(対戦順/延べ13試合)。

<1>マックス・シュメリング(独)/元世界ヘビー級王者(※対戦時)
<2>マックス・ベア(米)/元世界ヘビー級王者(※)
<3>ジャック・シャーキー(米)/元世界ヘビー級王者(※)
<4>ジェームズ・ジム・ブラドック(米)/世界ヘビー級王者(※)
<5>ジョン・ヘンリー・ルイス(米)/世界L・ヘビー級王者(※)
<6>ビリー・コン(米)/前世界L・ヘビー級王者(※ルイスに挑戦する為返上)
<7>ジャージー・ジョー・ウォルコット(米)/コンテンダー(※後の世界ヘビー級王者)
<8>エザード・チャールズ(米)/世界ヘビー級王者(※)
<9>ジミー・ビヴィンズ(米)/L・ヘビー級及びヘビー級ランカー(※)
<10>ロッキー・マルシアノ(米)/気鋭のランカー(※後の世界ヘビー級王者)

近代ボクシングの歴史そのものと表すべき、いずれ劣らぬ錚々たる顔ぶれ。シュメリング,コン,ウォルコットとは2度づつ対戦している。

際立って有名なのが、「ヒトラー vs ルーズベルト」,「悪の枢軸(独裁) vs 自由主義」の代理戦争として全世界の注目を集めたシュメリングとの第2戦(第1戦はルイスのKO負け=プロ初黒星)であり、L・ヘビー級のベルトを投げ打ち、軽量の不利を押してブラウン・ボンバーに挑んだビリー・コンとの対決。

そして引退を撤回して挑んだ後継王者エザード・チャールズに完敗した後、顕在化するロートル化の兆候を承知の上でなおも戦い続けて、台頭著しい”ブロックトン・ブロックバスター”の豪腕に文字通り叩きのめされ、今度こそ息の根を止められたマルシアノとのラストファイト。

ブラウン・ボンバーと戦った11人のホール・オブ・フェイマー
※殿堂入りした11人の名選手たち(7名のヘビー級王者と3名のL・ヘビー級王者+L・ヘビー級&ヘビー級で活躍したトップ・ランカー)

25回連続防衛の偉業を成し遂げ、世界王者のまま引退しながら、経済観念の欠如に加えて、最終盤に稼いだギャランティを気前良く軍に寄付を続けたことが災い。納税に窮して現役復帰するしかなくなる。40歳を目前にしたカムバック・ロードが上手く行く筈もなく、多くの米国人チャンピオンが繰り返した破滅の構図に、ルイスもまた見事にハマり込む。

ブラウン・ボンバーと戦わずして王者にならざるを得ず、多くのファンから正統性に疑問符をつけられたチャールズは、ボクシング史に時折登場する、ベルトを持ったままリングを去った”偉大な王者”の直後を引き受ける後継王者の悩みと苦しみに直面した。

図らずもルイスは、チャールズが最も必要としていた正統性を与えただけでなく、シュガー・レイ・ロビンソンとともに50年代の王国を熱狂させ、シンボリックな存在として君臨したマルシアノの王座にも、紛うことなき重みと真正性を付与してキャリアを終えた。


「負けないで辞めるチャンピオンは卑怯だ。」

焦土と化した戦後間もない東京の復興を体現した後楽園球場で、ハワイからやって来た世界フライ級王者ダド・マリノ(米国籍を持つ比国系移民)を15回判定に下して、開祖渡辺勇次郎以来、日本ボクシング界の悲願だった世界王者第1号となった白井義男の言葉である。

勇躍ロサンゼルスに遠征して、戦勝国アメリカの大会で競泳自由形の世界記録を更新した”フジヤマのトビウオ”こと古橋広之進とともに、白井は敗戦に打ちひしがれる日本人に大きな希望の灯を点した。

フライ級のベルトを4度守り、後楽園球場と大阪球場に合計20万人を動員した白井は、アルゼンチンの”小さな巨人”パスカル・ペレスに敗れてリングに別れを告げ、戦前から国内のリングを見守り続け、ペンと言論で日本ボクシング界を鼓舞し続けた”生き証人”郡司信夫(この人こそが和製ナット・フライシャー)と肩を並べ、TBSの人気中継「東洋チャンピオン・スカウト」の解説席を長らく賑わせる。

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※昭和のボクシング中継を象徴するお二人,白井義男と郡司信夫(右:実況担当の岡部達アナウンサー)

果たして何時のことだったか、そして東洋と日本のどのチャンピオンが負けた時だったか、あるいは日本人世界王者の誰かだったか。記憶が曖昧となって判然とせず申し訳ないが、人気と実力を兼ね備えた王者だったのは間違いない。

その人気王者がトシを取り、すっかりピークアウトして次代を担う新進気鋭にその座を譲り、数日後に引退の会見を開くと、「次の王者に直接バトンを手渡す義務が、すべてのチャンピオンにあるんです、本来は・・・」と白井は続けた。

ペレスとのリマッチで5回KOに退き、自らの時世が終わったことを満天下に知らしめてリングを降りた、かつての自分の姿に思いを馳せているかのようでもあった。


負けた相手から直接王座を奪還した国内史上初の王者で、動画配信サイトのお陰で海外のファンから”ジャパニーズ・ロッキー”と呼ばれ、見直しの機運が高まった輪島功一もそっくり同じことを語っている。

「柳(斉斗/初戦で壮絶なKO負け=2度目の返り咲き)に勝った後、チャンピオンのまま辞めればいいじゃないかって、そう言ってくれる人もいた。でもそれじゃあ、俺の後でチャンピオンになる奴に失礼だって思った。」

「ちゃんと負けて辞めるのが、次の男に対する礼儀なんだよ。”輪島が引退したからチャンピオンになれた”って、そいつがずっと言われ続けたらかわいそうだろ?。ボクサーはみんな裸一貫でチャンピオンになる。最後も裸一貫で終わるのが筋だよ。」

白井義男(左)と輪島功一(右)
※左:白井義男/生涯戦績:58戦48勝(20KO)8敗2分け/NBAフライ級王座V4
(BGジム→フリー/カーン博士の個人マネージメント)
※右:輪島功一(三迫)/生涯戦績:38戦31勝(25KO)6敗1分け/WBA・WBC統一J・ミドル級王座V6(2度の王座奪還に成功)

活躍した時代は勿論、階級もファイトスタイルも、そしてパーソナリティも含めて何もかもが違う2人が、”王者の矜持”とも言うべき覚悟について、”勝ち逃げ”を良しとしない同じ意識を共有していることは実に感慨深い。

世界チャンピオンの称号とその象徴たるベルトは、リングの上のみで継承されるべき。理屈と正義はまったく仰せの通りなのだが、では我らがリアル・モンスターに対して、面と向かって「勝ち逃げ」だと言い切れる者が果たしているだろうか。

戦う相手と時期をじっくり吟味した上で、ライバル,強敵と目される同じ(近い)階級の候補たちの勢いが落ちるまで待ち、可能な限りのローリスク・ハイリターンを恥ずかしげもなく追い求める。

その結果、波乱と敗北のリスクが相応に残る場合は徹底回避・・・計算尽くのマッチメイクを批判され続けたキャリア初期のデラ・ホーヤ、そしてゴールデン・ボーイからPPVセールス・キングの座を受け継いだ”ダーティ込みのスーパー安全運転”メイウェザーには、何の遠慮もなくド真ん中の直球で言い切ってしまえるけれども・・・。


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◎ブラウン・ボンバー vs ホール・オブ・フェイマー

<1>ジェームズ・ジム・ブラドック(米)/2001年殿堂入り
1937年6月22日/MSG,N.Y./8回KO勝ち(世界王座獲得)
※試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=s7uLzHZa56U
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生涯戦績:86戦46勝(27KO)23敗4分け11ND2NC
1-10のオッズをひっくり返して、無敵と思われていたマックス・ベア(米)に15回3-0判定勝ち。1926年に軽量のL・ヘビー(今ならミドルに近いS・ミドル)としてプロキャリアを始めたブラドックは、3年目の1929年頃からヘビー級に主戦場を移し、数多くの敗北を糧に経験を積みながら、キャリア最晩年に超特大の番狂わせを起こして世界王者となった。3度の3連敗に2連敗も4回あり、2敗+2引き分けで4試合連続白星無しの記録も残している。
ボクサーがこなす試合数が激減した現在の基準で見れば、とても世界王者に相応しい戦歴とは言い難い。しかし、ブラドックの奇跡は多くのファンに受け入れられ、2005年に製作された映画「シンデレラ・マン」は世界的なヒットを飛ばし、興収は1億ドルを超えると伝えられた。

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<2>マックス・シュメリング(独)/1992年殿堂入り
(1)第1戦
1936年6月19日/ヤンキー・スタジアム/12回KO負け(ヘビー級15回戦)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=igoidtPyy6g
※観客動員:60,000人(有料入場者数:39,875人)
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(2)第2戦
1938年6月22日/ヤンキー・スタジアム/1回KO勝ち(V4)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=Q9jk2IPvDG8
※観客動員:72,000人(有料入場者数:66,227人)
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生涯戦績:70戦56勝(39KO)10敗4分け
若きルイスにプロ初黒星を着けたシュメリングは、1930年6月12日、ヤンキー・スタジアムでジャック・シャーキー(米)に4回反則勝ちで世界王者となり、フライ級~ヘビー級まで300戦以上戦ったとされるヤング・ストリブリング(米)を15回TKOに退けてV1に成功するも、1932年6月21日の再戦(MSG)で15回1-2判定負け。シャーキーに雪辱を許して王座転落。欧州と米本土を往復しながら、ミッキー・ウォーカー(元ミドル級王者/ジャック・デンプシーと並ぶ20年代を代表するスター)やマックス・ベア、パウリノ・ウスクデン(スペイン)らの強豪と連戦。王者候補として台頭してきたルイスに胸を貸した。第2次対戦後に、ドイツ国内におけるコカ・コーラの販売権を獲得して実業家として大成功。経済観念に乏しく、現役時代に滞納した納税に追われるかつてのライバルに匿名で支援を行っていた。

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<3>ジョン・ヘンリー・ルイス(米)/1994年殿堂入り
1939年1月25日/MSG,N.Y./1回KO勝ち(V5)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=QZhsPWon24s
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生涯戦績:117戦103勝(60KO)8敗6分け
認定団体が承認した史上初の黒人世界王者とされるJ・H・ルイスは、現役の世界L・ヘビー級王者として挑戦(5度の連続防衛に成功)。L・ヘビー級リミット上限(175ポンド)を6ポンド上回る181ポンドで計量したが、ブラウン・ボンバーはジャスト200ポンド。1-8の掛け率が示す通り、圧倒的不利を承知の上でルイスに挑み玉砕した(キャリアで唯一のKO負け)。この試合は、1913年12月19日に行われたジャック・ジョンソン vs バトリング・ジム・ジョンソン戦以来となる、黒人同士による史上2回目の世界戦と位置づけられた。
2人のルイスは仲の良い友人で、ジョーはJ・Hの異変に気が付いていたとの説もある。対戦には当初消極的だったとも言われ、J・Hが退職金代わりとなる高額な報酬を得られることを交換受験にオファーを受け、余計なダメージを残さずに済むよう、初回からKOを狙っていたという。

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<4>ビリー・コン(米)/1990年殿堂入り
(1)第1戦
1941年6月18日ポログラウンド/13回KO勝ち(V18)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=q3UnRVEWfoM
※観客動員:54,487人
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(2)第2戦
1946年6月19日/ヤンキー・スタジアム/8回KO勝ち(V22)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=fvurqxGCSYE
※観客動員:45,266人
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生涯戦績:77戦64勝(15KO)12敗1分け
1934年に16歳でプロになったコンは、135ポンドのライト級だった。大人の身体が出来上がるに従い、短期間にウェルターからミドルへと階級をアップ。ミドル級を主戦場に戦っていたが、1939年7月にメリオ・ベッティーナを15回判定に下してL・ヘビー級の世界王座を獲得。167~170ポンド前後の間を推移する軽量(今ならS・ミドル級)のままでの載冠。ベッティーナとの再戦を15回3-0判定でクリアした後、ガス・レスネヴィッチとの2連戦をいずれも15回3-0判定で退け3度の防衛に成功すると、175ポンド前後のL・ヘビー級リミット上限まで増量して、180~190ポンド超のヘビー級の強豪を連破。ルイスへの挑戦が決まり、本番前月の1941年5月にL・ヘビー級王座を返上した。
持ち前のフットワークと正確なジャブ&ショートでリードした第1戦、12回を終えた時点でのスコアは2-0(7-5/7-4/6-6)でコンを支持。残り3ラウンズをアウトボックスで流せば勝利は確実だったが、敢えて勝負に出て逆転KO負け。「逃げまわって勝ったと言われたくなかった」と後に追懐している。
第二次対戦による中断を挟み、5年越しに実現した再戦では、ルイスが強力なプレッシャーをかけ続けてコンの健脚を封印。脚が止まると顕著な体格差は如何ともし難く、ほぼ一方的にルイスが試合を支配した。腕に自信のあるL・ヘビー級は、真の名誉と報酬を求めて例外なくヘビー級に挑み返り討ちに遭う。ヘビー級の歴史は、死屍累々たるL・ヘビー級トップたちの屍の上に築かれたと言っても間違いではない。

◎第1戦時のトレーニング映像(カラー化)
Joe Louis and Billy Conn - Training for their fight & Buildup - 1941 Colorized
Legends of Boxing in Color
https://www.youtube.com/@LegendsofBoxinginColor
https://www.youtube.com/watch?v=--spp3eX1OQ

衰える以前の若々しいルイス(26~27歳)と、全盛を迎えようとしていたコン(23歳)の短いインタビューが納められている。明瞭な滑舌でしっかり話すルイスの姿を、この機会にご覧いただけると有り難い。

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<5>ジャージー・ジョー・ウォルコット(米)/1990年殿堂入り
(1)第1戦
1947年12月5日/ヤンキー・スタジアム/15回2-1判定勝ち(V24)
オフィシャルスコア:9-6/8-6/6-7(オッズ:10-1でルイス)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=4zrF2c2KG7I
ハイライト(画質良好):https://www.youtube.com/watch?v=zacwwq_Wo3o
※観客動員:18,194人
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(2)第2戦
1948年6月25日/ヤンキー・スタジアム/11回KO勝ち(V25)
オフィシャルスコア(10回まで):5-2/3-6/4-5(2-1)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=3VYF7I6Fjjg
※観客動員:42,667人
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生涯戦績:71戦51勝(32KO)18敗2分け
25回連続防衛の末尾を飾る2連戦。1930年9月に165ポンドの”軽いL・ヘビー”としてデビューしたウォルコット(16歳)は、プロ3年目の途中でようやく175ポンドのリミット上限に達すると、1935年頃(20~21歳)にようやく180ポンド前後まで増量してヘビー級に参戦。並み入りランカーたちと勝ったり負けたりを繰り返しながら、1938年の終わり~39年(24~25歳)にかけて190ポンドに到達した。
そこからさらに8年余りをかけて、プロ17年目にして実現した世界タイトル初挑戦が、キャリア最晩年のブラウン・ボンバーだった。33歳11ヶ月での挑戦は当時の最高齢記録で、1-2の割れた判定で涙を呑むと、半年後にセットされた再戦では、10回まで3名中2名の副審がウォルコットを支持する展開に持ち込みながら、第11ラウンドにルイスの強打を浴びて逆転KO負け(最高齢挑戦記録を34歳5ヶ月に更新)。
ルイスの返上・引退を受けて、1年後の1949年6月22日、シカゴのコミスキーパークでエザート・チャールズとの決定戦に臨むも15回0-3判定に退く。チャールズとは最終的に4度戦うライバルとなったが、1951年7月18日に行われた3度目の対決(4度目の挑戦)を実らせ、プロ21年目(!)にして遂に世界の頂点に立つ。37歳5ヶ月での載冠は、1994年11月5日に45歳9ヶ月のビッグ・ジョージ・フォアマンに抜かれるまで、40年以上ヘビー級の最高齢記録として保持された。
チャールズとのリマッチ(4度目の対戦)を15回3-0判定で凌ぐと、ルイスを完全なる引退に追い込んだマルシアノの挑戦を受け、ダウンの応酬の末、13ラウンドにかの”スージーQ”を食らって失神KO負け(1952年9月23日)。翌1953年5月15日のリマッチでは、マッハの踏み込みもろとも叩きつけるマルシアノの右が一閃。初回2分余りで轟沈した。1年2ヶ月と短い在位に終わったが、不惑を眼前にキャリアの第4コーナーを回り切ってからの活躍は強烈な印象を残した。

◎史上に残るノックアウト2選
(1)マルシアノ 13回KO ウォルコット第1戦/第13ラウンド
”Suzy Q(スロー再生)”

※フルファイト(カラー化)
https://www.youtube.com/watch?v=TPKFt4Y7UaQ

(2)ウォルコット 7回TKO E・チャールズ第3戦/第7ラウンド

※フルファイト
https://www.youtube.com/watch?v=Paso9Isirg8

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<6>エザード・チャールズ(米)/1990年殿堂入り
1950年9月27日/ヤンキー・スタジアム/15回0-3判定負け(世界王座挑戦)
オフィシャル・スコア:5-10/2-13/3-12
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=Q4TG57JflxY
※観客動員:22,357人
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生涯戦績:115戦89勝(51KO)25敗1分け
1940年に16歳でデビューしたチャールズも、ミドル級からスタートして徐々にウェイトを増やし、プロ8年目頃まではL・ヘビー級の第一人者として活躍。ヘビー級の王座に就いた当初は180ポンド台前半~半ばの軽量で、そのまま防衛を続けた(通算V8)。
現役時代の後半から身体に麻痺を感じるようになっていたが、負けが込んでも経済的な理由で引退することができず、ダメージを深めてしまう。引退後に麻痺が進み、車椅子での生活を余儀なくされてパンチドランクを疑われたが、1968年に「ALS(筋萎縮性側索硬化症)」の診断を受ける。治療法の発見と確立を信じて闘病を続けるも、1975年5月28日、53歳の若さで永眠。

◎チャールズ 15回3-0判定勝ち ジョーイ・マキシム(米)
1951年5月30日/シカゴ・スタジアム
オフィシャル・スコア:85-65×2,78-72

元L・ヘビー級王者のマキシムは、175ポンド時代から合計4度対戦したライバル。結果はチャールズの全勝(すべて判定)となっているが、いずれも実力伯仲の好勝負と言われ、特にヘビー級王座を懸けた第4戦(V8)は、ニック・バロン(米)を11回KOで下したV5戦とともに、ベスト・パフォーマンスに挙げる識者が少なくない。

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◎ノンタイトル
<2>マックス・シュメリング(独)/1992年殿堂入り
(1)第1戦
1936年6月19日/ヤンキー・スタジアム/12回KO負け(ヘビー級15回戦)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=igoidtPyy6g
※観客動員:60,000人(有料入場者数:39,875人)

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<7>ジャック・シャーキー(米)/1994年殿堂入り
1936年8月18日/ヤンキー・スタジアム/3回KO勝ち(15回戦)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=DW-w6UqR4kw
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生涯戦績: 55戦38勝(14KO)13敗3分け1ND
1902年生まれのシャーキーは、19世紀末に生を受けたジャック・デンプシーやジーン・タニーと世代的には重複する。ローリング・トゥエンティ(1920年代)の後半~30年代の始め頃までがピークと考えてよく、デンプシーを連破したタニーが引退した後の王座をシュメリングと争い反則負け(1930年6月12日)。2年後の再戦でシュメリングを15回2-1判定にかわして王座に就いたが、翌1933年6月29日の初防衛戦で”動くアルプス”プリモ・カルネラ(伊)に6回KO負け。公称183センチは、20年代当時としては十分なサイズに分類され、1927年7月21日にヤンキー・スタジアムで行われたデンプシーとの15回戦(ノンタイトル)は、75,000人の大観衆を集めるなど人気を博した。
後にカルネラを巡る八百長疑惑の追及が始まり、ナット・フライシャーを始めとする記者たちは、シャーキーのKO負けにも容赦無く鋭い視線を向ける。「夫はお金を受け取っていた」と夫人が証言して苦境に立たされ、「神に誓って言う。真剣勝負だった。実力で負けたんだ」と、シャーキー自身は亡くなるまで一貫して潔白を主張し続けた。

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<8>マックス・ベア(米)/1995年殿堂入り
1935年9月24日/ヤンキー・スタジアム/4回KO勝ち(15回戦)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=6n3YEN_Xe5I
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生涯戦績:84戦72勝(53KO)12敗
反則も辞さない荒々しいインファイトで時に物議を醸しながらも、多くのファンに支持されたベア(189センチ/209ポンド)は、デビュー5年目の1934年6月14日、大物プロモーター,テックス・リカードがロングアイランドにオープンしたMSGボウル(屋外施設)で、プリモ・カルネラ(197センチ/263ポンド)から合計12回(10回・11回・7回等諸説有り)に及ぶダウンを奪う圧勝で世界王座に就く。
当然のように安定政権を期待されたが、1年後の1935年6月13日に同じMSGボウルで迎えた初防衛戦で、伏兵ブラドックによもやの15回0-2判定負け。10-1の掛け率をひっくり返す超特大の番狂わせを許したベアは、「舐めていた。トレーニングキャンプも適当にこなすだけで、真剣さが足りなかった」と練習不足を認めるしかない。王座を獲得してからの1年間、ベアは完全にオフして心身をなまらせてしまっていた。
激しく攻撃的なファイトが原因で2度のリング禍を経験しており、最初のフランキー・キャンベル戦(1930年8月25日/5回TKO勝ち)では、揉み合いから倒れ込んだ後、キャンベルの頭を掴んで振り回して倒してしまう。試合後異変を訴えたキャンベルは救急搬送されたが、手当ての甲斐なくその日のうちに逝去。
2人目のアーニー・シャーフとは2度対戦があり、1勝1敗と星を分けている。1930年12月19日の初戦はシャーフが10回3-0判定勝ちを収めて、1932年8月31日の再戦はベアの10回2-0判定勝ち。最終10ラウンド、ベアに滅多打ちされたシャーフは終了ゴング直前に昏倒。10カウントは免れたが、意識を取り戻すまでに3分を要したとされる。
目を覚まして事無きを得たシャーフだが、頻繁に頭痛を訴えるようになり、そうした状況下で8月に続いて12月、翌1933年1月と3試合を消化(2勝1敗)。
そして1933年2月10日、運命のプリモ・カルネラ戦に臨み13回KO負け。フィニッシュされたシャーフは、そのまま意識を失い絶命。試合の直前インフルエンザに罹患したシャーフは、病理解剖の結果髄膜炎を発症していたことが判明するも、「2人ともベアに殴り殺された」との風聞が流布された。公の場では相変わらず傍若無人に振舞うベアだったが、2人の死亡事故による精神的なダメージは深く、毎晩のように悪夢にうなされていたと家族が証言している。

ルイス vs バディ・ベア第1戦(左)・第2戦(右)

6歳離れた弟のバディ・ベアもヘビー級で活躍した実力者で、兄弟ボクサーとしても有名。バディは挑戦者として2度ルイスにアタックしたが、初戦を7回反則で落とした後、2戦目はショッキングな初回KOに退き兄の敵討ちはならず。

◎ベア 11回TKO カルネラ
1934年6月14日/MSGボウル(N.Y.州ロングアイランド)
※観客動員:52,268人
https://www.youtube.com/watch?v=QoXFwJUszIw

◎ブラドック 15回2-0判定 ベア
1935年06月13日/MSGボウル(N.Y.州ロングアイランド)
オフィシャル・スコア:5-9/4-11/7-7
※観客動員:29,366人
https://www.youtube.com/watch?v=721t9npoB3U

◎ルイス 7回反則 バディ・ベア(V17)
1941年5月23日/グリフィス・スタジアム(ワシントンD.C.)
※観客動員:23,912人
https://www.youtube.com/watch?v=S9zaOdAr2jY

◎ルイス 1回KO バディ・ベア(V20)
1942年1月9日/MSG,N.Y.
※観客動員:16,689人
https://www.youtube.com/watch?v=WgpfTBWY1DA

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<9>ジミー・ビヴィンズ(米)/1999年殿堂入り
1951年8月15日/メモリアル・スタジアム(メリーランド州ボルティモア)
10回3-0判定勝ち(6-3×2/7-3)
参考映像:
(1)ショートドキュメント:https://www.youtube.com/watch?v=3Vq777nUPIk
(2)E・チャールズ第4戦:https://www.youtube.com/watch?v=QVJPgXWk7RM
(3)E・チャールズ第5戦:https://www.youtube.com/watch?v=4JKoxiJv1ZU
(4)アーチー・ムーア第5戦:https://www.youtube.com/watch?v=0Kqobp78uUA
※観客動員:18,215人
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生涯戦績:112戦86勝(31KO)25敗1分け
AAUナショナルズの決勝まで進んだ後、1940年の年明けにミドル級でプロのキャリアを始めたビヴィンズ(二十歳)は、翌1941年~1943年にかけてキャリアのピークを築いたとされる。
”史上最高の無冠の帝王”チャーリー・バーリー、後のL・ヘビー級王者アントン・クリストフォリディス、ミドル級コンテンダーのネイト・ボールデン、N.Y.公認ミドル級王者テディ・ヤローズ、後のミドル級王者ビリー・スース、同じくL・ヘビー級の頂点に立つガス・レスネヴィッチとジョーイ・マキシム、コンテンダーとして活躍するタミー・マウリエロにボブ・パスター、リー・サボルドといった面々を破り、クリーヴランドの新人はセンセーションを巻き起こす。
第二次大戦によるブランクも短期間で済だんが、強過ぎるが故に世界王座挑戦の機会には恵まれず、1953年10月のラストファイトまで、13年9ヶ月の間に、7名のホール・オブ・フェイマー(4名に勝利)と11人の世界王者(8名に勝利)と対戦したが、世界タイトルマッチのリングに上がる事なく、34歳で実戦のリングを去った。
上述したクリストフィリディスと3回(2勝1敗)、マキシムとも2回(1勝1敗)、メリオ・ベッティーナ(L・ヘビー級王者)と3回(1勝2敗)、マリーとは5回(3回勝利)、チャールズとは5回(1回勝利)、リー・Q・マリーとは5回(3勝2敗)、そして”オールド・マングース”ことアーチー・ムーアとも5回(1勝4敗)拳を交えていたビヴィンズについて、「チャーリー・バーリーとサム・ラングフォード以上に運が無かった。彼こそ”無冠の帝王”と呼ばれるべきだ」と評価する識者とマニアも多い。

◎A・ムーア 9回終了TKO ビヴィンズ
1951年2月21日/セント・ニコラス・アリーナ(リンク)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=AZMaR2o4TeE

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<10>ロッキー・マルシアノ(米)/1990年殿堂入り
1951年10月26日/MSG,N.Y./8回TKO負け
オフィシャルスコア(7回まで):2-4/3-4/2-5
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=Inv30LbuZkU
※観客動員:17,241人
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生涯戦績:49戦49勝(43KO)
一~二昔前、強いボクサーと言えばアイリッシュかイタリア系と相場は決まっていた。イタリア系のスター王者や人気のコンテンダーは数多く、主役の座を優れた黒人の若者たちに譲った後も枚挙に暇はないけれど、イの一番に名前が挙がるとすればこの人しかいない。”ブロックトン・ブロックバスター”ことロッキー・マルシアノである。
黒人特有の下からアッパー気味に振り上げる、凄まじい左フック1発でチャールズをし止めて王座に就いた老練ウォルコットに挑戦したマルシアノは、豊富な経験と巧まざるセンスに裏づけされた駆け引きに苦しみながらも、終盤13ラウンドに必殺の”スージーQ(Suzy Q)”が炸裂。衰えを知らないジャージー・ジョーを完璧に眠らせて、悲願の世界一を射止めた。
ウォルコットとのリマッチを瞬殺で終えると、復活の執念を燃やすエザード・チャールズとの2連戦を含む6連続防衛に成功。判定決着となったのは、チャールズとの初戦のみ。そして1956年4月、引き分けとノー・コンテスト(ディシジョン)が1つもない、49戦全勝(43KO)のパーフェクト・レコードとベルトを持ったまま引退を表明。最後の挑戦者は、最後の最後までヘビー級制覇に挑み続けたL・ヘビーの帝王アーチー・ムーアだった。
子供の頃は大のベースボール・ファンで、第一の夢はメジャーリーガーだった。プロボクサーとしてデビューする1947年(23歳)、シカゴ・カブスのマイナー球団(クラスD~E)のキャンプに参加してテストを受けたが、3週間でクビになっている。中途半端に続けるよりも、スパっと切られたことでボクシング1本に絞る決断ができた。災い転じて福となすとはよく言ったものである。
マルシアノはお金に厳しく、金銭の出入りを巡って家庭内の摩擦を繰り返したとされるが、引退後に納税や生活に困窮することなく、一度も復帰せずに済んだ点は素直に評価されていい。1969年8月31日、乗っていたセスナが墜落。46歳の若さで天に召された。

◎マルシアノ 9回KO A・ムーア
1955年9月21日/ヤンキー・スタジアム
※観客動員:61,574人
https://www.youtube.com/watch?v=_pPfPUQopfg


殿堂入りした名選手との対戦の多寡について、中~重量級と軽量級を単純比較できないことは前章で示した通り。家庭用のTVが普及する以前、ラジオの時代へと遡れば遡るほど、こなす試合数の違いも影響して、年代が古い選手ほど名選手同士の対戦機会が増える。

そうした事情を前提にした上で、全試合中に占める構成比を記しておく。

こうやって数字をまとめると、ルイスの凄さがより一層明確になる。リマッチをやったコン,ウォルコットの4戦を含んで、26回ある世界戦のうち、4割近い8戦がホール・オブ・フェイマーで、判定まで持ち込んだのはウォルコットのみ。再起した後のビヴィンズ(10回戦)を加えても、フルラウンズ持ち応えたのはこの2人だけ。

そしてコンとウォルコットだけでなく、初戦でミソを付けられたアルトゥロ・ゴドイ(チリ)とエイブ・サイモン(米)の両者とも再戦に応じて、しっかり決着を着けている。1930年代のヘビー級を語る上で欠かすことのできないマックス・ベア、ジャック・シャーキー,プリモ・カルネラ(伊),パウリノ・ウスクデン(スペイン)の4人を倒している点も、画竜点睛を欠かずに済んでいる重要なポイント。

闘うべき相手と時期を逸し過ぎることなく闘い、スーパースターに求められる結果をしっかり残した。一度引退する前の敗北はシュメリングに喫した初黒星だけで、ピークを迎える前夜でもあり、若さ(トップレベルにおける経験の浅さ)を露呈した感は否めない。

世界戦での1敗は、引退を撤回して挑んだチャールズ戦。従軍(第二次大戦)による中断と加齢による衰えが明白で、ラストファイトのマルシアノ戦は痛々しくて見ていられない。ラリー・ホームズのパンチに反応できず、思わず恐怖を浮かべる老いたモハメッド・アリの顔が二重写しになる。


余りにも鈍くて重いアリを弱肉強食のリングから救い出す為、デビュー以来チーフとしてコーナーを率いたアンジェロ・ダンディが10ラウンド終了後に棄権を決めると、強硬に継続を主張する名物セコンドのバンディニ・ブラウンを大声で一喝。

「チーフはこの俺だ!(引っ込んでろ!)」

あれは歴史に残る名シーンだったと、今でも信じて疑わない。

「(パンチが飛んで)来るのがわかっているのによけられない。あんな経験は、後にも先にもあの時だけだ。恐ろしかったよ・・・」

今にして思えば、ホームズ戦の準備に入ったアリは滑舌が悪くなって、呂律が回っていない時があり、宿痾となるパーキンソン病の初期症状が顕在化し始めていた。長くアリの健康面をサポートしたチームドクターのファーディ・パチェコは、アリの復帰に反対を貫きチームを追われている。

アリが戦える状態に無いことは、トレーナーのダンディにもわかっていたと思う。だからこそのストップだった筈。「アリが戦うと決めた以上、コーナーに立つのは私だ。他の誰にも任せる訳にはいかない」と、90年代の中頃~後半だったと記憶するが、何かのインタビュー記事で読んだ。

残念なことに、ブラウン・ボンバーのコーナーにダンディはいない。マルシアノの豪打に晒され、止めの一撃をまともに受けてしまった。

14年8ヶ月(1934年7月~1949年3月/戦時下の中断含む)のプロキャリアで許した3敗は、すべてホール・オブ・フェイマーとの対戦になる。

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記録の罠 - モンスターのワールド・レコードについて Part 3 -

カテゴリ:
■数字は時に嘘をつく・・・ 世界戦通算勝利「22」

井上尚弥

■世界戦の通算KO勝利「22」- 偉大なる”ブラウン・ボンバー”との比較

前章で触れたせんない繰言が、ひょっとして現実になったとしよう。ジョー・ルイスの通算記録「22」の息を少しでも長らえさせるべく、4ラウンズのエキジビションに過ぎないジョニー・デイヴィス戦を、強引に世界タイトルマッチとしてカウントしてしまった。

仮にそうなってしまい、ルイスの通算KO勝利が「23」に増えたところで、次のピカソ戦でモンスターはすぐに追いつく。もしも9月にアフマダリエフが判定まで粘ったとしても、年末のリヤドでニック・ボール(英)と相まみえさえすれば、9割方の確率で5階級制覇と新記録を同時に達成できる。

ピカソ,アフマダリエフ,ボールとの3試合が、万が一にもすべて判定決着に終わったとしても、デッドラインの35歳まであと3年。そのうち2年間×3試合、ラスト・イヤーを2試合とすれば、残りの試合数は8。

大きな故障や病気などのアクシデントさえ無ければ、ブラウン・ボンバーの記録更新は決まったも同然であり、時間の問題ということになる。だがしかし、事はそう簡単に運びそうにない。

モンスターが23度目のKO勝ちを収めて、米英の主要なボクシング・メディアのSNSで報じられるや否や、あれやこれやと注文が付くだろう。どんな文句なのか、その内容もおおよその見当はつく。

では、その見当を羅列する前に、我らがモンスターの世界戦を再確認しておこう。

◎モンスターの世界戦:24戦24勝(22KO)
※通算戦績:29戦29勝(26KO)
*東京ドーム×1
**さいたまスーパーアリーナ×2
***有明アリーナ×5
****横浜アリーナ×2
#米/ラスベガス MGMグランド/ザ・バブル(無観客専用特設会場)
##米/ラスベガス ヴァージン・ホテルズ
###米/カリフォルニア ディグニティ・ヘルス・スポーツパーク
*#英/スコットランド SSEハイドロ

■L・フライ級(108ポンド/48.97キロ上限)/20歳11ヶ月~21歳7ヶ月
※呼称の違い:IBFとWBO=J・フライ級(旧来通り)
(1)2014年4月6日 アドリアン・エルナンデス(メキシコ)6回TKO勝ち
(WBC L・フライ級獲得/WBC4位として挑戦)
(2)2014年9月5日 サマートレック・ゴーキャットジム(タイ/WBC13位)11回TKO勝ち
(WBC L・フライ V1)
※2014年11月6日返上
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■S・フライ級(115ポンド/52.16キロ上限)/21歳8ヶ月~24歳11ヶ月
※呼称の違い:IBFとWBO=J・バンタム級(旧来通り)
(3)2014年12月30日 オマール・ナルバエス(亜)2回TKO勝ち
(WBO J・バンタム級獲得/2階級制覇/WBO8位として挑戦)
(4)2015年12月29日 ワルリト・パレナス(比/WBO1位)2回TKO勝ち
(WBO J・バンタム V1)
(5)2016年5月8日 デヴィッド・カルモナ(メキシコ/WBO1位)12回3-0判定勝ち
(WBO J・バンタム V2)
(6)2016年9月4日 ペッチバンボーン・ゴーキャットジム(タイ/WBO1位)10回KO勝ち
(WBO J・バンタム V3)
(7)2016年12月30日 河野公平(ワタナベ/元WBA王者・WBO10位)6回TKO勝ち
(WBO J・バンタム V4)
(8)2017年5月21日 リカルド・ロドリゲス(米/WBO2位)3回KO勝ち
(WBO J・バンタム V5)
(9)2017年9月9日 アントニオ・ニエベス(米/WBO7位)6回終了TKO勝ち
(WBO J・バンタム V6)###
(10)2017年12月30日 ヨアン・ボワイヨ(仏/WBO6位)3回TKO勝ち
(WBO J・バンタム V7)****
※2018年3月6日返上
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■バンタム級(118ポンド/53.52キロ上限)/25歳1ヶ月~29歳9ヶ月
(11)2018年5月25日 ジェイミー・マクドネル(英)1回TKO勝ち
(WBAバンタム級獲得/3階級制覇/WBA2位として挑戦)
(12)2018年10月7日 ファン・C・パジャーノ(ドミニカ/元WBA SP王者/4位)1回KO勝ち
(WBAバンタム V1/WBSS初戦)****
(13)2019年5月18日 エマヌエル・ロドリゲス(プエルトリコ/IBF王者)2回TKO勝ち
(IBFバンタム級獲得・WBAバンタムV2・2団体統一/WBSS準決勝)*#
(14)2019年11月7日 ノニト・ドネア(比/WBA SP王者)12回3-0判定勝ち
(WBA:V3/IBF:V1)**
(15)2020年10月31日 ジェイソン・モロニー(豪/WBO1位)7回KO勝ち
(WBA:V4/IBF:V2)#
(16)2021年6月19日 マイケル・ダスマリナス(比/IBF1位)3回TKO勝ち
(WBA:V5/IBF:V3)##
(17)2021年12月14日 アラン・ディパエン(タイ/IBF5位)8回TKO勝ち
(WBA:V6/IBF:V4)
(18)2022年6月7日 ノニト・ドネア(比/WBC王者)2回TKO勝ち
(WBCバンタム級獲得 WBA:V7/IBF:V5/3団体統一)**
(19)2022年12月13日 ポール・バトラー(英/WBO王者)11回KO勝ち
(WBOバンタム級獲得 WBA:V6/IBF;V4/WBC:V1/4団体統一)***
※2023年1月13日返上
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■S・バンタム級(122ポンド/55.34キロ上限)/30歳3ヶ月~在位中
※呼称の違い:IBFとWBO=J・フェザー級(旧来通り)
(20)2023年7月25日 スティーブン・フルトン(米)8回TKO勝ち
(WBC・WBO S・バンタム級獲得/4階級制覇/WBC・WBO1位として挑戦)***
(21)2023年12月26日 マーロン・タパレス(比)10回KO勝ち
(WBA・IBF S・バンタム級獲得 WBC・WBO:V1/4団体統一)***
(22)2024年5月6日 ルイス・ネリー(メキシコ/WBC1位)6回TKO勝ち
(WBA・IBF:V1/WBC・WBO:V2)*
(23)2024年9月3日 T・J・ドヘニー(アイルランド/WBO2位)7回TKO勝ち
(WBA・IBF:V2/WBC・WBO:V3)***
(24)2025年1月24日 キム・イェジョン(韓/WBO11位)4回KO勝ち
(WBA・IBF:V3/WBC・WBO:V4)***
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(25)2025年6月14日 アラン・ピカソ(メキシコ/WBC1位):米/ラスベガス
(26)2025年9月 ムロジョン・アフマダリエフ(ウズベキスタン/WBA暫定王者):開催地未定
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■フェザー級(126ポンド/57.15キロ上限)?
(27)2025年12月 ニック・ボール(英):リヤド/WBA世界フェザー級タイトル挑戦
※ボール戦が正式決定した場合:S・バンタム級王座を保持したまま挑戦。フェザー級王座は獲得後即返上して、S・バンタムに戻るとの意向を明らかにしている(中谷潤人戦に備えて?)。


壮観。

こうやって振り返ってみると、この二文字以外の言葉が出て来ない。見当たらない。「フーっ」と深いため息をつく。

2014年4月6日にデビュー6戦目でL・フライ級のWBC王座を獲って以来、10年10ヶ月という、スポーツ選手にとっては途方もなく長い年月の間、23試合もの世界タイトルマッチを延々戦い続けている。

これほどのレコードを、井上尚弥以外にどこの誰が達成できると言うのか。前章でジョー・ルイスの27試合を書き出した時、同じように「とんでもないな・・・」と深いため息をついてしまったが、モンスターの凄さもけっして引けを取らない。

日ごろ私たちは、唯一無二と良く言ったり書いたりするけれど、比類のない飛び抜けて優れた価値を表す「唯一」と「無二」を、わざわざ重ねて記す強調語の意味と希少性について、今一度考え直す必要があると、半ば本気で思ったりしてしまう。

◎Monster Milestones: Naoya Inoue | FULL EPISODE
2024年8月26日/Top Rank公式


◎Naoya Inoue's Destructive Knockout Power
2024年4月24日/Top Rank公式



では、今をときめくモンスターに対して、在米記者と識者,年季の入ったマニアたちは、どんな注文(難癖?)を付けてくるのか。想定できる幾つかを記すと・・・。

「認定団体は事実上NBAただ1つ。そして正統8階級しかない時代に、10年以上に渡ってヘビー級を完全に統治した偉大なブラウン・ボンバーと、階級が倍増(3→7)した軽量級のナオヤを同列に語るのは難しい。4つに分裂したベルトをまとめたことは評価に値するが・・・」

「ナオヤは素晴らしいボクサーだ。プロで12年以上戦って未だに無敗であり、異なる4つの階級で王者となり、そのうち2つで4団体を統一した。(男性では)クロフォード,ウシク,ナオヤの3人しかいない。ただ、戦績の中身が違う。」

「ルイスは多くのホール・オブ・フェイマーと激闘を繰り広げて勝ち残り、近代ボクシングの歴史そのものと表すべきヘビー級で、10年以上もベルトを守り続けた。ナオヤのレコードに載る真のビッグネームは、ドネアただ1人。初戦の彼は本当によくやったが、ピークを過ぎて久しく、スピード&反応も落ちていた。」

「王者の乱立と、水増しされたランカーの爆増。ナオヤが倒したチャレンジャーの中に、11位以下の実質ノーランカーは2~3人だけだが、現在のS・バンタムには、かつてのウィルフレド・ゴメス、ジェフ・フェネックにタイのサーマート、エリック・モラレスとマルコ・A・バレラ、イスラエル・バスケスにラファエル・マルケスのような本物がいない。」

「バンタムも同じだ。エデル・ジョフレとマサヒコ・ファイティング・ハラダ(原田)、ルーベン・オリバレスにサラテとサモラのZボーイズ、ルペ・ピントール,ジェフ・チャンドラー,ヒバロ・ペレス,オーランド・カニザレス。彼らに匹敵する実力者は見当たらない。」

「ジョニー・タピアが蘇って118~122で闘ったら、勝敗はともかく、モンスターを無事には済まさないだろう。現代のボクシングの相対的なレベルは、明らかに低下している。だからこそ、モンスターの強さが一層際立つ。彼らとモンスターが真正面からぶつかったら・・・誰だってワクワクせずにはいられないだろう!?」


悔しいけれど、いちいちごもっとも。ただし、4団体の分裂も15位まで居並ぶランカーの数も、現代を生きる選手たちに一切責任はない。だって、モンスターが座間で産声を上げた1993年、ミニマム級とS・ミドル級を除く15の階級は既に世界王座の価値と権威を認められて定着していた。

4つに分かれた認定団体も、新参のIBFが設立から10年目を迎えて認知を確立。5年目のWBOはまだまだ認知が進んでおらず、ナジーム・ハメドとバレラ、デラ・ホーヤらの快進撃がスタートする前夜。世界タイトルとは名ばかりのマイナー団体として、扱われ方は設立当初のIBF以下。ただひたすら、じっと耐えるのみ。

数多の非難と拒絶反応にめげることなく、12~15位への拡大が認知され出した世界ランキングと、それ以上に批判の多かった暫定王座制度も、「常に独断先行するWBC・始めは否定的でも必ず後追いするWBA(とIBF)」の基本的な構図に変わりはない。

経済原則(承認料収入の確保)には抗えず、後発のIBFとWBOが勝手にやり出した実体無き地域王座の乱発(陣取り合戦)にストップをかけるどころか、老舗の2団体まで同じ手口で対抗する始末。有力プロモーターとの呉越同舟にも拍車がかかる。


小さな日本人が中量級と重量級のスターを凌駕することに、大層ご不満で承服できないのはわかるが、鬱憤をぶつける相手が違う。空前絶後のミラクル・フィストを持ってしても、この壁だけはぶち破ることができない。

強力なライバル不在もまた、モンスターが責任を問われる課題ではまったく無く、各国各地域の統括組織と関係者たちが知恵を絞り、競技人口の減少スピードを少しでも緩やかに減速させるしかないと思う。


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◎ホール・オブ・フェイマーとP4P・・・軽量級の選出を阻む開かずの扉

そして、「ホール・オブ・フェイマーとの激闘」云々は、これこそ本当に勘弁して貰いたい。もともと米英は中~重量級中心にマーケットが形成されていて、軽量級の需要が少なく扱いも低かった歴史的経緯がある。

100年の歴史を持つリング誌の「ファイター・オブ・ジ・イヤー」は、「選出=将来の殿堂入り」との印象が強い。1922年から102回の選出(1933年:該当者無し)を毎年行ってきたが、ヘビー級を文字通りの大黒柱として、ウェルター級とミドル級を軸にした中~重量級が大勢を占めている上、そのほとんどが殿堂入りしているからだ。

フェザー級以下の階級から選ばれた精鋭は、以下に列挙した通り僅か7名に過ぎず、投票権を持つ記者が相当数重複するBWAA(Boxing Writers Association of America:1938年から選出開始)はさらに少なく、リング誌と同時受賞のフランプトン,モンスターと、BWAA単独選出となったドネアの3名しかいない。

リング誌とBWAAで判断が分かれた2012年のドネアを含めても、王国アメリカが認めたフェザー級以下の年間MVPは、1世紀に渡る歴史の中で8名ということになる。

◎リング誌ファイター・オブ・ジ・イヤー:フェザー級以下
<1>1945年:ウィリー・ペップ(フェザー級/1990年殿堂入り)
<2>1977年:カルロス・サラテ(バンタム級/1994年殿堂入り)
<3>1981年:サルバドル・サンチェス(フェザー級/1991年殿堂入り)
<4>1993年:マイケル・カルバハル(J・フライ級/2006年殿堂入り)
<5>1999年:ポーリー・アヤラ(バンタム級)
<6>2016年:カール・フランプトン(S・バンタム~フェザー級)
<7>2023年:井上尚弥(S・バンタム級)
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※ペップ:元王者フィル・テラノヴァとの防衛戦(N.Y.公認/MSG/V2)を含む年間7戦6勝(1KO)1分け
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※サラテ:世界中の注目を集めた「Zボーイズ」の片割れアルフォンソ・サモラ(WBA王者)との無敗対決に4回TKO勝ち(10回戦)=事実上の統一戦=を含む年間4試合(V3)
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※サンチェス:無敵のJ・フェザー級王者ウィルフレド・ゴメスに8回KO勝ち(V6)=を含む年間5試合(全勝/V4)/シュガー・レイ・レナード(ファイト・オブ・ジ・イヤーをW受賞したハーンズとの統一戦に劇的な逆転勝ち)との2人受賞
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※カルバハル:伝説となった「vs チキータ三部作(最軽量ゾーン史上初の100万ドルファイト)」の初戦における7回KO勝ちを含む年間3度の防衛(ファイト・オブ・ジ・イヤーとの同時受賞)
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※アヤラ:WBA王座を獲得したジョニー・タピア戦がファイト・オブ・ジ・イヤーをW受賞
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※フランプトン:レオ・サンタクルスを破ってWBAフェザー級スーパー王座獲得(2階級制覇)


◎BWAAファイター・オブ・ジ・イヤー(シュガー・レイ・ロビンソン賞):フェザー級以下
<1>2012年:ノニト・ドネア(S・バンタム級)
<2>2016年:カール・フランプトン(リング誌とのW受賞)
<3>2023年:井上尚弥(リング誌とのW受賞)
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※2012年のリング誌:ファン・M・マルケス(パッキャオ第4戦で歴史に残るKO勝ち)
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※2017年に両方ともFOYに選ばれたロマチェンコは、130ポンドのWBO王者としてリゴンドウ戦を含む年間3度の防衛に成功。
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※BWAAは1976年度にモントリオール五輪で金メダルを獲得した5名を同時に選出・表彰。レオン(L・ヘビー)とマイケル(ミドル)のスピンクス兄弟,レイ・レナード(L・ウェルター),ハワード・ディヴィス(ライト)とともに、フライ級のレオ・ランドルフも栄誉に浴しているが極めて稀な例外的表彰。


ご覧いただいて分かる通り、最も権威を認められたリング誌とBWAAの年間MVPは、概ねライト級が対象範囲の下限と見ても間違いではなく、フェザー級以下の軽量級からの選出は異例中の異例と表していい。

フェザー級以下のファイター・オブ・ジ・イヤー
写真上左から:W・ペップ,C・サラテ,S・サンチェス,M・カルバハル
写真下左から:P・アヤラ,C・フランプトン,N・ドネア(BWAA表彰),井上尚弥


栄えある年間MVPに選出されたにも拘らず、ラストファイトから5年経過(資格条件)した後も、国際ボクシング殿堂から招待状が届いていない選手は、ただ今のところは以下の5名しかいない。

◎有資格・未選出
<1>1947年ガス・レスネヴィッチ(米/世界L・ヘビー級王者)Last:1949年8月
<2>1999年:ポーリー・アヤラ(バンタム級)
<3>2002年ヴァーノン・フォレスト(米/元2階級制覇王者/ウェルター,S・ウェルター)Last:2008年9月
<4>2004年グレン・ジョンソン(ジャマイカ/元IBF L・ヘビー級王者)Last:2015年8月
<5>2013年アドニス・スティーブンソン(カナダ/元WBC L・ヘビー級王者)Last:2018年1月

殿堂未選出の年間MVPたち
※左から:レスネヴィッチ,フォレスト,ジョンソン,スティーブンソン


セルヒオ・マルティネス
”マラヴィーリャ”・マルティネス

有資格となる2020年に45歳でカムバックしてしまったセルヒオ・マルティネス(亜)は、ポール・ウィリアムズを狙い済ました左の一撃で沈めた2010年の選出。カっと目を見開いたまま失神するウィリアムズの姿を思い出すたび、全身を襲った戦慄が確かな実感を伴って蘇る。

ドネア vs モンティエル,R・ジョーンズ vs A・ターヴァー第1戦,パッキャオ vs ハットン,パッキャオ vs マルケス4,モンスター vs ドネア2,中谷潤人 vs A・モロニー戦等々をも凌駕する、ボクシングの怖さと魅力のすべてが集約・凝縮された瞬間だった。

完全アウェイのオン・ザ・ロードを生き残り、「リング誌FOY+P4P1位(ベスト3)」を達成したマラヴィーリャは、殿堂入り当確と考えるのがセオリー。大人しくしていれば、速攻でキャナストゥータに招かれていた筈。

余計なお世話と怒られるかもしれないが、”ポーリーの再来”になりそうな予感が漂うフランプトン。来(2026)年4月、最後の試合から5年を経過する。2010年年代半ば~後半の122~126ポンドを大いに盛り上げた小柄なアイリッシュに、狭き門の扉は開いてくれるのだろうか?。


2017年のロマチェンコ以降、ウシク(2018年),カネロ(2019年),フューリー(2回目)&テオフィモ(2020年),カネロ(2021年/2回目),ビヴォル(2021年),モンスター(2023年)と続き、昨年度はウシクが2度目の栄冠を射止めた。

ロマ,ウシク,カネロの3名と、年間MVPには縁が無いクロフォードは、現時点で既に殿堂入り当確で間違いなし。余程のスキャンダルに見舞われたとしても、多少の前後はあってもきっと招かれる。

同居の女性(3人目)を2階から投げ落として命を奪ったカルロス・モンソンと、レイプで実刑判決を受けたマイク・タイソンも無事キャナストゥータに召喚の運びとなった。八百長が発覚したり、米国内での第1級殺人で有罪が確定するような事態になれば話は別だが、この人たちに限ってそうした心配は無用だろう。

勿論、我らがモンスターも昨年当確を打った。驚くべき異能・難敵の出現や、モンスター自身増量の限界に達して誰かに名をなさしめることがあっても、キャリアトータルの評価が揺らぐことはおそらくない。

当落線上のラインぎりぎりにいる可能性が高いフューリーは、恒例行事の引退声明を出したばかり(何度目?)。ジュシュア戦の条件闘争と見る向きが大勢で、まともに信じるファンは少数派になる。仮にジョシュア戦が行われて勝ったとしても、A・Jがバリューを大きく落としてしまった後だけに、殿堂入りの決め手になるかどうかは微妙。

今月22日に再びリヤド開催でセットされた、ベテルビエフとのリマッチが迫るビヴォル。まずはリベンジの成功が第一の関門になるが、テオフィモともども、今後どこまで巻き返せるのかにすべてが懸かる。


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モンスターが戦ってきた29名(延べ)の対戦相手の中で、近い将来(最短で)の殿堂入りが確約されているのはドネアだけであり、他に可能性があるとすれば、今のところはオマール・ナルバエスただ1人。

”エル・ウラカン(ザ・ハリケーン)”の異名を欲しいままにした技巧派サウスポーも、寄る年波には勝てない、43歳の誕生日まで3ヶ月と迫った2018年4月、ベルファストで長身痩躯のゾラニ・テテ(南ア/WBOバンタム級)に挑戦して判定負けした後、2019年5月に同胞の無名選手に10回判定勝ちを収めたが、12月21日にやはり無名の中堅選手に10回判定負け(1-2)して以降、実戦のリングに戻っていない。

正式に引退のアナウンスがあったのかどうかは判然としないが、既にアマチュアの指導者(ジュニア・ユース世代)として第二の人生をスタートしたと報じられており、49歳という年齢を考えても復帰はまず無いと思われる。

昨年5月の時点で、最後の敗北から丸5年を経過。殿堂入りの基準を満たしているが、パッキャオ,ビニー・パジエンザ,マイケル・ナンらが選ばれた2025年度インダクティーズのリストに、ナルバエスの名前は無かった。

◎Class of 2025 Announced In Canastota!
2024年12月5日/IBHOF
http://www.ibhof.com/pages/inductionweekend/2025/announce_25.html


2大会連続で五輪出場(1996年アトランタ,2000年シドニー:いずれも2回戦敗退)を果たし、世界選手権でも2大会でメダルを獲得(1997年銅/1999年銀:いずれもフライ級)したトップ・エリートで、プロに転じてWBOのフライ級とJ・バンタム級の2階級を制覇。

フライ級は連続16回の防衛に成功して、70年代のミドル級に君臨したカルロス・モンソンの14回を抜き、アルゼンチンの国内最多記録を樹立(歴史的な評価でモンソンを抜くことはまず無いけれど)。続くJ・バンタム級も連続11回守り、通算の防衛回数は27回に上る。

オマール・ナルバエス(2014年)
■生涯戦績:55戦49勝(25KO)4敗2分け(KO率:51%)
◎世界戦通算:31戦29勝(12KO)3敗1分け
※在位期間:通算11年10ヶ月
<1>WBOフライ級:7年3ヶ月/2002年7月~2009年10月
<2>WBO J・バンタム級:4年7ヶ月/2010年5月~2014年12月

◎33歳当時の試合映像:ラヨンタ・ホイットフィールド(米)戦
2009年2月7日/プエルト・マドリン(亜)
10回TKO勝ち(WBOフライ級V15)
五輪代表候補の長身黒人アマ・エリート(公称170センチ)を一蹴。モンソンの記録(V14)を抜く。
※9回までのスコア:90-79×2,88-81)


殿堂入りの資格は十二分に有していると思うけれど、最短での選出は叶わなかった。投票権を持つ記者たちには、何が不足と映ったのだろうか。そこは幾ら詮索してみたところでせんないことではあるが、以下の諸要素がマイナスに響いたように思う。

<1>渡米は1回のみ(2011年10月のドネア戦:WBC・WBO統一バンタム級王座挑戦)
<2>統一戦をやっていない
<3>ビッグネームとの対戦が少ない(ドネアと井上の2名)
<4>世界王者経験者との対戦:8戦5勝3敗(KO勝ちゼロ)
<5>J・バンタムに上げて以降KO勝ちが目にみえて減った
<6>J・バンタム級でのV11中半数の5名が11位以下の実質ノーランカー+1名がバンタム級のローカル王者(正真正銘のノーランカー)
※フライ級:V16中11位以下は4名
<7>唯一の渡米となったドネア戦での守備的かつ消極的な姿勢

◎試合映像:ドネア戦
2011年10月22日/MSGシアター,N.Y.
12回0-3判定負け(120-108×3)
ttps://www.youtube.com/watch?v=04q1ASURchk

何だかんだと言いながら、アメリカのスポーツ界はアメリカに来ることを要求する。そしてアメリカで認められる為には、アメリカで記憶に残る結果を繰り返し残すことが不可欠。

ドネア戦のディフェンス一辺倒は、「勝つ気があるのか?」と謗られても止むを得ないものではあった。モンスターを目の前に、ひたすら延命に撤するだけだったポール・バトラー,アラン・ディパエン,T・J・ドヘニーに匹敵すると言ったら、きっとナルバエスはプライドを傷つけられて気分を害するだろうが、それぐらい打たれないことに専念していた。

ただしバトラーたちと違うのは、得意の脚を使ってドネアの間合いを外しながら、少ないながらも見映えのいいパンチを当てていたこと。正確なジャブ&ショートで、ドネアの顔を腫らすことには成功した。

もしも母国アルゼンチンで開催されていたら、中差程度のマージンでナルバエスの手が挙がっていたかもしれないと、妄想に近い想像を巡らせたことを思い出す。


※当たり前だが21歳のモンスターが細い

160センチに満たないサイズの不利を考慮せずとも、最軽量ゾーンでのKO率5割超えは充分過ぎる数値。フライ級時代には7連続KO防衛も記録していて、数字だけで判断すれば強打者に分類されるが、ナルバエスの場合は技術&タイミングをベースに,手数でストップに追い込む「倒すこともできる技巧派」。

(1)フライ級:7戦5勝(2KO)2敗
(2)J・バンタム級:16戦14勝(4KO)1敗
(2)フライ級:32戦30勝(19KO)2分け

モンスターのP4P1位と年間MVPは、米本土で3回(ラスベガス2回+カリフォルニア1回)戦い、ジェイソン・モロニーとダスマリナスを印象的なKOでフィニッシュしたことに加えて、英国スコットランドに遠征して、IBF王者だったマニー・ロドリゲスを僅か2ラウンドで破壊した、戦慄的なKOが強い追い風になったのは確かだと思う。


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