命あるうちに - 静岡地裁が袴田さんに無罪判決 4 -
■検察は控訴の断念を - Chapter 4

※2014年5月19日「ボクシングの日」記念イベント/左から:袴田ひで子さん(支援活動のシンボル),釈放(仮)された無実の死刑囚 袴田巌さん(4月7日に贈呈されたWBC名誉チャンピオンベルトを巻いて),大橋秀行JPBA会長(当時)
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◎「袴田事件」とボクシング界の主な動き
最高裁が控訴を棄却(1980=昭和55年11月19日/弁護団による判決訂正申立の棄却=同年12月12日)して、袴田さんの死刑が確定してから、間もなく44年が経つ。
冤罪の可能性を感じたノンフィクション・ライターの高杉晋吾氏(以下敬称略)が、手弁当で事件を追い始めて、「現代の眼(現代評論社/廃刊)」という雑誌に最初の寄稿を行ったのが1979(昭和54)年。取材を始めたきっかけは、取調べを受ける袴田さんの様子を伝える新聞記事だったという。
「嘘つきの袴田が、実際には行ったことのないフィリピン遠征の話をして、捜査官が呆れている。」
気になった高杉が袴田さんのレコードを調べてみると、確かにフィリピンで戦っていた。デビュー3年目の1961(昭和36)年4月19日、120ポンドの契約ウェイトで、マルチン・ダヴィドという地元の選手に10回判定負け。
ダヴィドは袴田戦から5ヶ月後の同年9月、同胞のバンタム級トップ,ジョニー・ハミト(1963年5月エデル・ジョフレの世界王座に挑戦/11回終了TKO負け)を12回判定に破り、同級のフィリピン王者になっている。
翌1962年1月には、来日して米倉健司(健志)が保持していた東洋王座に挑み、負けはしたものの判定まで粘っているから、かなりの実力者だったと思われる。
開催地は首都マニラで、スペインに統治されていた19世紀後半、反植民地主義を掲げて独立運動を提起し、銃殺刑によって命を奪われた英雄ホセ・リサールの名前を冠した「リサール・メモリアル・スポーツ・コンプレックス」で行われた。
袴田さんが所属していた不二拳(渡辺勇次郎の高弟,岡本不二が愛弟子のピストン堀口を連れて日具を飛び出し設立したジム)の大先輩で、後に東洋J・ライト級王者となる勝又行雄をメイン(10回判定勝ち)に、帝拳ジムの福地竜吉(後の日本ランカー/ベテランの米国人選手との8回戦で初回KO負け)も出場している。

◎現地で貼り出されたポスター(右)/袴田さんと勝又を含むフィリピン遠征団一行
※画像:1992年2月3日放送/NNNドキュメント「プロボクサーは本当に四人を殺したのか ~袴田事件の謎を追う~」より
◎Boxrec - events
https://boxrec.com/en/event/167955
時は1970年代、一般向けのインターネット回線やBoxrecなどのWEBサービスは夢物語の世界で、その頃はまだ存続していた不二拳(ふじけん・不二拳闘クラブ:2010年閉鎖/創立者の岡本不二は1984年に逝去)や、引退後に独立して不二勝又ボクシングジムを開いた勝又行雄だけでなく、JBC(日本ボクシング・コミッション)の事務局にも直接問い合わせたか、「ボクシング年鑑(JBCが毎年発行する公式レコードブック)」で調べたのだろう。
「妙だな・・・」
逮捕した被疑者がとんでもないホラ吹きだと、取材に来た地元紙の記者(おそらくは顔見知りの)に吹聴して、よろしくない印象操作を狙った記事を書かせている。「何かウラがあるぞ」と、筋金の入ったルポライターの第六感が鋭く反応した。
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そして高杉の労作を偶然手に取ったのが、”リングサイドの母”と呼ばれたボクシング記者の松永喜久(まつなが・きく)である。
第二次大戦後に日本ボクシング界初の女性プロモーターとして活動した後、ベースボール・マガジンの記者に転身。最盛期を過ぎて久しいとは言え、野球と大相撲に肩を並べる人気を辛うじて維持していた当時においても、ボクシングを専門に取材する女性記者は松永1人しかいない。
帝拳ジムを切り盛りする名物マネージャー,長野ハルとともに、2大女傑として知られていた松永が、「何かできることはないか」と相談を持ちかけたのが郡司信夫(ぐんじ・のぶお)だった。
日本ボクシング界の歴史の生き証人,生き字引にして、我が国唯一のヒストリアン(ボクシング史家)であり、取材を通じて現役時代の袴田さんを良く覚えていた郡司は、理不尽かつ無慈悲な最高裁の特別抗告棄却が下るや否や、高杉を中心にして「無実のプロボクサー袴田巌を救う会」を設立して支援に乗り出す(1980年11月19日)。
※後に改称:「無実の死刑囚・元プロボクサー袴田巌を救う会」
熱狂的なボクシング・ファンでもあった寺山修司が協力を名乗り出て、マスコミへの広報活動を引き受けると、川上林成(しげまさ),関光徳,金平正紀の現役会長3名(当時)が、あくまで個人的な有志としてではあったが、郡司と松永の呼びかけに応じてボクシング界から馳せ参じた。
◎「救う会」創設メンバー
<1>高杉晋吾(1933年3月18日~現在91歳)/ノンフィクション・ライター
<2>郡司信夫(1908年10月1日~1999年2月11日)/ボクシング史家,評論家,元記者,元解説者
<3>松永喜久(1912年8月5日~1998年11月1日)/ボクシング記者,スポーツ・ライター
<4>寺山修司(1935年12月10日~1983年5月4日)/歌人.劇作家(劇団「天井桟敷」主宰)

※左から:高杉晋吾,郡司信夫,松永喜久(いずれも1991~92年頃)

※寺山修司(1979年頃)
<5>金平正紀(1934年2月10日~1999年3月26日)/協栄ジム会長(元プロボクサー),海老原博幸,西城正三,具志堅用高を始めとする世界王者8名(当時の国内最多)を輩出
<6>関光徳(1941年1月4日~2008年6月6日)/セキジム会長,元東洋フェザー級王者(元同級世界1位)
<7>川上林成(しげまさ:1939年8月29日~2016年6月30日)/新和川上ジム会長,元東洋J・ミドル級王者(元世界J・ウェルター級1位),元アマ全日本王者

※左から:金平正紀(90年代前半),関光徳(2000年代前半),川上林成(写真は現役時代:1960年代前半)
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1982(昭和56)年4月、弁護団が第1次再審請求を申し立て。そして翌1983(昭和58年)7月15日、遠く離れた九州で一筋の光明が射す。実に6度目の請求で開始された「免田事件」の再審で、熊本地裁が無罪を判決。期限前日の7月28日、検察が控訴を断念。事件発生から34年6ヶ月を経て、死刑が確定していた免田栄元受刑者が無罪を勝ち取る。
最大の誤算だったのは、支援組織を立ち上げた直後の1983(昭和58)年に、「救う会」のシンボルでもあった寺山が急逝したことだろう。宿痾となった肝硬変が再発して、入院療養を余儀なくされた寺山は、回復することなく腹膜炎を併発。47歳の若さで返らぬ人となった。
支援に積極的とは言えなかったボクシング界も、郡司らの再三の声掛けに折れる形で、JPBA(日本プロボクシング協会/ジムの会長が参集した業界内組織)が重い腰を上げたのが、1991(平成3)年11月11日。
「A級トーナメント(旧称)」が行われた後楽園ホールのリング上で、当時のファイティング原田協会長が、用意された原稿を読みながらではあったが、観戦に訪れたファンに応援を呼びかけている。「救う会」の結成から、既に丸10年を経過していた。

※支援呼びかけの声明文を読み上げるファイティング原田(1991年11月11日/後楽園ホール)
「救う会」では、1984年に獄中で洗礼を受けた袴田さんの要望を受け、キリスト教関係者(カトリック)への支援の働きかけが始まり、徐々に拡がって行く間に、一家4人でアマチュアのコーラスグループを作り、80年代半ば頃から世界各地で催される人権集会で歌い続ける門間正輝(もんま・まさき)が、高杉に替わって代表に就任(1992年1月)。
72歳になる今も門間はその任に留まり、副代表となった幸枝(さちえ)夫人とともに、支援活動を継続している。
■門間正輝:1992年1月~「救う会」代表
■門間幸枝:同じく副代表

※左:門間正輝(2023年)/右:門間幸枝(2020年)
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◎再審に向けた過酷な闘いは続く
同年10月、「免田事件」の弁護人を務めて、再審開始に貢献した安倍治夫弁護士が、袴田さんの弁護団(日弁連)に加わる。安倍と連絡を取り続けて弁護団に仲介したのが、「救う会」の創設に加わった金平正紀(協栄ジム会長:当時)だった。
”ヤメ検”の安倍は、法務省で刑事局の参事官を務めていた時、「昭和の岩窟王事件(大正2年に名古屋で起きた強盗殺人事件)」で冤罪を訴え続けた死刑囚,吉田石松に、後に再審の弁護を行う日弁連を紹介(吉田の仮出所後)しただけでなく、検事を辞した後の第6次再審請求に自らも乗り込み、吉田の逆転無罪を決定付けるアリバイ証人の居場所を突き止め、吉田を救った人権派弁護士としてしても名を上げる。
吉田は1963年2月、名古屋高裁で無罪判決を勝ち取り、確定後の同年12月1日に肺炎で亡くなった(享年84歳)。常識に囚われない言動で「赤い検事」と呼ばれた安倍は、「白鳥事件(1952年に札幌市内で発生した警察官射殺事件/日本共産党の暴力革命を象徴する事件の1つ)」でも、関係者の1人から重要な証言を引き出している。
70年代に勃発した「欠陥車問題」にも深く関わり、自動車メーカーに勤務していた松田文雄(「欠陥車」を造語したとされる)と一緒に、「日本自動車ユーザーユニオン」なる組織を立ち上げ、消費者運動の旗を振り上げた。
国内自動車メーカー各社の欠陥を指摘するだけでは済まず、なんと本田宗一郎を殺人罪(未必の故意)で告訴してまたもや勇名を馳せたが、ホンダ(本田技研工業)との交渉の過程で、16億円の損害賠償金を要求。これが恐喝に当たると、ホンダから逆告訴され、執行猶予付きの有罪判決が確定。弁護士資格を一度はく奪されている。
昭和天皇の崩御にともなう恩赦(1990年)のおかげで、失くした資格を回復する僥倖に恵まれ、70歳を超えてから、金平に請われて袴田さんの支援活動に力を貸すことになった。
常識と旧弊に囚われない大胆な言動と、冤罪事件で数々の実績を上げた安倍の手腕と経験に「救う会」は大きな期待を寄せたが、再審の是非を検討する三者協議(静岡地裁・静岡地検・弁護団)に列席した際、新たな証拠を提出しようとして、弁護団の小倉博事務局長と対立。
1991年10月23日に行われた協議で、新証拠とともに「5つの新しい争点」を持ち出し、その中には「5点の衣類」に付着した血痕のDNA鑑定も含まれていた。当初より検察と裁判所はDNA鑑定には否定的で、仮にDNAを上手く検出できたとしても、経年劣化で正確な鑑定が難しいとの立場を取る。
日弁連の弁護団は、科学的根拠が不確かとされかねない証拠の提出に待ったをかけた。みすみす検察に付け入る隙を与えることになり、裁判所の心証も悪くしかねないとの懸念が付きまとう。しっかり裏付けの取れる証拠と検証で、堅実かつ慎重に戦うべきとの主張が弁護団の大勢で、事務局長の小倉らは、安倍の考えについて、再審請求にはむしろマイナスに働くと考えた。
「救う会」は、金平の肝いりで弁護団入りを承諾した安倍をサポート。「新証拠提出」に協力しつつ、門間夫妻とカトリック教会のツテを活かし、国連の人権小委員会を中心にしたロビー活動を開始する。
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