今こそ求められるレフェリングとコーナーワークの是正 - ポスト・スティールの必要及び重要性 Part 2 -
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■そもそもレフェリー・ストップとは何か? - 揺らぐ存在意義と求められるクォリティ
■テーラーはチャベスに壊されたのか
これだけのダメージにもかかわらず、テーラーは5ヶ月後の90年8月、階級をウェルター級に上げて再起。「140ポンドの調整は不可能」と話し、無理な減量がチャベス戦の逆転TKO負けを誘発したとのニュアンスを匂わせた。
翌1991年1月には、アーロン・ディヴィスを12回3-0の判定に下してWBA王者となり、復帰2戦目で早くも2階級制覇を達成。ルイス・ガルシア(91年6月/12回2-1判定勝ち)とグレンウッド・ブラウン(92年1月/12回3-0判定勝ち)を破ったV2を含めて、首尾良く5連勝(1KO)を飾ったものの、以前の輝きが損なわれたとの印象を残す。
こうした評判を気にしたのか、チャベスへの対抗意識なのか、あるいはプロに転じた当初からの計画だったのか、3階級制覇を目指して、154ポンドのWBC王座を保持するテリー・ノリス(2005年殿堂入り)にラスベガスで挑戦する。
当時のノリスは、1990年3月にジョン・ムガビをショッキングな初回KOに屠ってベルトを奪取し、落日のシュガー・レイ・レナード、増量で輝きを失ったドン・カリー(元ウェルター級統一王者)、後にWBAのミドル級を獲り、後楽園ホールで竹原慎二に敗れるホルヘ・カストロを含む連続6回の防衛に成功(3KO)。秀逸なスピード&クィックネスに、抜群の切れ味を兼ね備えたパンチで我が世の春を謳歌していた。
リミットより若干軽めに仕上げることも少なくなかったノリスは、調整の難易度アップを承知の上で、151ポンド1/2(68.7キロ)の契約体重を快諾(前日計量は2人とも149ポンド)。ウェイトの譲歩だけでなく、150ポンドアンダーの公式計量に驚き、ノリスの状態を懸念する声も上がる中、両雄の体格差には数字以上の乖離があり、「無謀な挑戦」を不安視する者も少なくない。
※ノリス:公称177センチ/テーラー:公称171センチ
スタートからサイズの違いに戸惑いを見せるテーラーは、生命線のスピード&クィックネスでも遅れを取り、時折単発のヒットを決めるのが精一杯。小さなボクサーが大きく優れた選手より動きが遅く、たとえ僅かであったとしても、反応の素早さでも劣っていたら、余程戦い方を考え工夫しないと勝ち目はない。
しかし、ここでも正面突破にこだわる悪い癖が抜けないテーラー。チャベス戦と同様、まともに打ち合って勝とうと躍起になる。この時代のアメリカのトップボクサーは、簡単に退くことを良しとせず、1発があろうとなかろうと、とにかく強気で倒しに行くのが常だった。腕に覚えのある一流どころはなおさら。
ディフェンス・マスター型のウィルフレド・ベニテスやパーネル・ウィテカーですら、いざとなったら躊躇することなく猛然とラッシュをかける。それがプロに求められるスタンダード(80年代以前)であり、この時代に育ったボクサーは、例外なくオールド・スクールのスタンダードに殉じた。
ベニテスとウィテカーほどのボクサーが、引退後に後遺症に苦しむことになったのは、階級アップによる心身への負担(4階級制覇)に加えて、年齢を重ねて衰えが顕在化した後も、類稀な柔軟性とムーヴィング・センスへの依存、眼と反応でかわすスタイルを変えようとしなかったことに起因する。
今あらためて映像を見直すと、ベニテス,ウィテカー以上に後遺症への不安を掻き立てられてしまい、過去の録画だとわかっていながら、リアルタイムの視聴と錯覚して、思わず背筋が寒くなってしまう。
自信と過信は紙一重。頭では充分にわかっている筈なのに、理屈に合った賢い行動・行為に移すことができない。理性とは間逆な自滅・自爆へとまっしぐら・・・。飛んで火に入る夏の虫である。
脚をしっかり使って細かくポジション・チェンジを繰り返し、打ち気を誘ってはかわしながら、精度を意識したショートストレート中心の組み立てを崩さず、堅く守りつつ着実にヒットを奪ってポイントメイク。
時間をかけてノリスをできるだけ焦らし、攻め急いで粗くなるまのを待ち、顔面ががら開きになる瞬間を逃さず強い右カウンターを一閃。”テリブル・テリー(Terrible:ノリスの愛称)”の、打たれ脆く回復力に欠ける顎を正確に射抜く。
テーラーの身体能力とスピード,技術&スキルがあれば、やる気1つで十分に可能だった。最善の形で具現化できなかったとしても、一定程度ノリスを苦しめた上で、必要以上の被弾とダメージを蒙ることもなく、勝てないまでも大善戦には持って行けたと信じる。
少なくとも、ワンサイドの雪隠詰めは避けられたに違いない。だが現実は、遮二無二打ち合いを試みて墓穴を掘るだけ。有効な打開策を見出す間もなく、第4ラウンドに2度のダウンを喫してあえなくストップ負け。
「本当にテリブルですね。」
確かサイモン・ブラウンとの第1戦(1993年12月)だったと思うけれど(エキサイトマッチの中継/違っていたら御免なさい)、4回TKO負けで10回守ったベルトを失ったノリスの脆弱過ぎる顎について、ジョーさんがご自慢のジョーク交じりに発したコメントである。
既にジュリアン・ジャクソン(WBA J・ミドル級王者時代)の豪打によって、白日の満天下に晒されていた事実(1989年7月/ノリスの初挑戦:2回TKO負け)ではあるが、テーラーもノリスの致命的な打たれ脆さを何度か突こうとしてはいた。だが、効果的なヒットを決めるどころでは無く、立ち上がりから劣勢を強いられ撃沈。
70年代前半当時、今で言うところのP4P No.1と目されていた無敵のウェルター級王者ホセ・ナポレスが、同じく無敵を誇るミドルの番人カルロス・モンソンに蹂躙された一戦を思い出した私は、「やるべきではなかった」と嘆息するのみ。
◎試合映像:ノリス TKO4R M・テーラー
1992年5月/ミラージュ・ホテル&カジノ(ラスベガス)
WBC世界J・ミドル級タイトルマッチ12回戦
※HBOの番組フル映像(World Championship Boxing)
https://www.youtube.com/watch?v=5JCXWBQGAF0
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■大型スラッガーに運命の2連敗
そしてまた、5ヶ月のスパンで次戦がセットされる。モハメッド・アリのボディガードから身を興したムラド・モハメッド(パッキャオとの裁判は未だ記憶に新しい)がハンドリングするドノヴァン・レーザー・ラドック(カナダ)が、ソウル五輪S・ヘビー級金メダリストのレノックス・ルイスを相手に、WBC王座への挑戦権を懸けて戦うエリミネーターがまとまり、そのアンダーにテーラーの復帰戦(防衛戦)が組み込まれる。
ルイスを傘下に従えるフランク・マロニー(ケリー・マロニー:2014年に性別適合手術を受けたトランスジェンダー)が英国側の主要なプロモーターとして立ち、難しい交渉をまとめ上げた。
世界王者の試合間隔として、5ヶ月はけっして短かくはない。80年代以前、特に70年代半ば以前は、2~3ヶ月スパンで防衛戦とノンタイトルをこなす王者は当たり前にいたし、年間5~6回リングに上がるケースも普通に見受けられた。
米国内で防衛戦を消化し、合間に母国でキャッチウェイト(140ポンド+α)のノンタイトルを挟み、休み無く戦い続けた全盛のチャベスのスタイルは、ルーベン・オリバレスら70年代以前の大先達に倣ったもので、世界的にボクシング人気が下降線を辿る中にあってなお、トップスターのチャベスにはそれだけの需要があった。
勿論、強烈なKO負けや深いカット、拳の骨折を含む大きな怪我を負った場合は別で、主治医の指示を仰ぎつつ、回復に必要な時間を取るのが常識。特に心身へのダメージが明白なKO負けの場合、試合内容とダメージに加えて、年齢やそれまでのキャリア次第で判断は異なるが、1年以上の間隔を開ける場合も出て来る。
けれども、テーラーはWBAから指名戦の履行を義務付けられていた。挑戦権を持つロジカル・コンテンダー(1位)のクリサント・エスパーニャは、北アイルランドのベルファストに拠点を置くベネズエラ人(極めて特殊な事例)で、27戦全勝23KOのパーフェクト・レコードを更新中。
ただし、倒しまくった相手の中にビッグネームはいない。数年後にテリー・ノリスから反則勝ちを拾う僥倖に恵まれ、世界王者の列に並んでしまったルイス・サンタナに判定勝ちしているが、実力はローカルランクの上位止まり。
54勝10敗のアマ・レコードを持ち、短期間(1979年6月~80年3月)だが、IBFライト級王座に就いたエルネスト・エスパーニャは、10歳も年長の実兄である。そして何とも間の悪いことに、アイリッシュの声援を受けるベネズエラ人もまた、180センチ近い大型のウェルター級だった。2試合続けて、テーラーは体格差のハンディを背負う破目に・・・。
3位グレンウッド・ブラウンとのV2戦(92年1月/判定勝ち)から9ヶ月が経過して、待った無しの状況ではあったのだが、履行の延期は交渉次第で何とかなった筈。けれども、ラドックとの抱き合わせによるオン・ザ・ロードは、それなりの好条件をメイン・イベンツにもたらしたに違いなく、エスパーニャも戦績は凄いが国際的な認知には程遠く、「まず問題はないだろう」と値踏みしても止むを得ない状況ではあり、デュバ親子にとって具合が良かったのだと思う。
こうしてテーラー一行は、ラドックのチームとともに英国の首都ロンドンまでひとっ飛び(1992年10月31日/伝統あるアールズ・コートでの開催)。
キャリア晩年を迎えた兄エルネストの負けが込み出す、1984年3月に母国でデビューした挑戦者は、85年9月までに5試合しかできず、その後は1年を超えるレイオフが続き、87年2月にパナマでようやく実戦復帰が叶ったと思いきや、またしても試合枯れ。
私生活のトラブル(大怪我や病気・逮捕収監等)などではなく、マネージメントに問題を抱えていたと思われるが詳細は不明。そしてこれもまた詳しい経緯(仲介者も含めて)はわからないけれど、突然北アイルランドの政庁所在地ベルファストに移る。
80年代を代表するアイリッシュのスター,バリー・マクギガン(WBAフェザー級王者/モスクワ五輪代表)、マルコス・ビジャサナとの激闘が忘れ難いポール・ホドキンソン(WBCフェザー級王者)、WBOのミドルとS・ミドルを獲ったスティーブ・コリンズ、フランスを拠点に活躍したスペイン人,ファブリス・ベニシュ(IBF J・フェザー,フェザー級王者)らを手掛けたバーニー・イーストウッドのプロモートで本格的なキャリアを歩む。
※バーニー・イーストウッドとエスパーニャ(コーナーに入りアドバイスも行っていた為トレーナーと紹介されることもあった)
何だかんだ言っても、強打者はファンの関心を惹く。ロンドン(イングランド)開催ではあったが、異邦人のハンディを背負いながらもベルファストで認知を得たエスパーニャに、一応ホーム・アドバンテージが有るとの設定。
遂にリング上で向かい合う両雄。エスパーニャがとにかくデカい。J・ミドル級のノリスより、さらに大きく感じる。サイズとシルエットだけなら、後に同じ階級で暴れまくるメキシカン・トルネードこと、トニー・マルガリートの若い頃,まだ充分に動けてセルヒオ・マルティネスに判定勝ちした頃に瓜二つ。
90年代の始め頃ということは、ようやく前日計量が定着浸透した頃で、この試合も公開計量は前日に行われている(我が国では1995年1月10日に正式施行)。大幅なリバウンド込みの調整がトレンドになるのはまだまだ先の話だが、減量が厳しいに違いないエスパーニャも、それなりに戻していたと考えるべき。
両拳を下げたオープン・ガード(左右に開き気味)で楽に構えるテーラーは、両方のガードが下がる隙を右のクロスやオーバーハンド、反対側を左フックでよく狙われたが、長身のエスパーニャも例外ではなく、射程の長い右を繰り返し上から打ち下ろす。
そしてエキサイトマッチの解説で浜田代表も指摘していた筈(これも記憶が曖昧/違っているかも)だが、ワンツーから返す左もストレートを多用してテーラーを突き放し、簡単に懐に飛び込ませない。それでも100%接近戦を回避するのは無理で、危険なクロスレンジに入ると、メキシカンに近いカマのようなフックとアッパーを鋭角的に振るう。
第3ラウンドにその右を貰ったテーラーが前方につんのめり、右の拳をキャンバスに着いたが、すぐ目の前で見ていたイングランド選出の主審ジョン・コイルは、何故かダウンを取らずに流してしまう。
ぎゃあぎゃあ喚き散らして抗議したりせず、黙ってリスタートに応じたエスパーニャと陣営はお見事。ペースを掌握したとの手応えを掴み、無駄に騒ぎを起こしてテーラーに回復の時間を与えたくないのと、いたずらに流れを乱したくなかったのだと推察。
サイズのディス・アドバンテージを克服できず、徐々に余裕とペースを失ったテーラーは、第6ラウンドに挑戦者のローブローで膝を着き、暫しの休憩と1発減点(最初のチェックでいきなりマイナス1ポイント)を得る。
しかし、一息ついて回復・・・とはならず、終了間際に痛烈な左フックから間髪入れずに返すエスパーニャの右ストレートを浴びて棒立ちになり、さらにワンツーを2回追撃されてダウン寸前に追い込まれた。
続く第7ラウンド、前がかりに圧を強めるエスパーニャの攻防のキメが粗く雑になり、単発のヒットを何度か奪い返したテーラーがやや持ち直すも、鼻と口から出血して、眼の下も小さくカット。傷だらけになっていた。
第8ラウンドのフィニッシュは、やはりロングの右(ワンツー)から。連射を食らってグラついたテーラーの顎を、見えない角度で下(死角)から突き上げるアッパーが直撃。前のめりに倒れたテーラーが必死に立ち上がったところを、エスパーニャが詰めのパンチで襲いかかる。大きく後方にたたらを踏むテーラー。ニュートラルコーナー近くのロープを背負ったところで、主審コイルが飛び込み試合を終わらせた。
なかなかのボンクラぶりを発揮していたコイルだが、ストップの判断と割って入る瞬間のスピード&タイミングは、自他ともに一流と認めるベテランの評価に恥じないものではあった。第7ラウンドまでの採点は、スペイン,カナダ,コロンビアから呼ばれジャッジ三者とも挑戦者を支持(64-68・65-67・64-69)。
前(1991)年に喫した鉄人タイソンによる2連敗から立ち上がり、グレッグ・ペイジ(元WBA王者)とフィル・ジャクソン(後にホリフィールドに挑戦)を倒してエリミネーターに漕ぎ着けたラドックは、若くて積極果敢に打ち合っていたレノックス・ルイスに僅か2ラウンドで瞬殺されてしまい、テーラーも無念の討ち死に。
「もう戦うべきじゃない」
悄然として帰国の途に着いたテーラーに、なんと御大ルー・デュバが引退勧告。まだ26歳のテーラーが納得する筈もなく、デュバ親子との関係を清算しなければならなくなる。
◎試合映像:エスパーニャ TKO8R M・テーラー
1992年10月31日/アールズ・コート(ロンドン・英国)
WBA世界ウェルター級タイトルマッチ12回戦
※フルファイト
https://www.youtube.com/watch?v=x8yljHBof2Y
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