記録の罠 - モンスターのワールド・レコードについて Part 4 -
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■数字は時に嘘をつく・・・ 世界戦通算勝利「22」

■世界戦の通算KO勝利「22」- ”ブラウン・ボンバー”が拳を交えたホール・オブ・フェイマーたち
P4Pランクや殿堂入りへの道のりは、ただでさえ険しく遠い。軽量級で一家を成したトップ・ファイターにとって、その勾配はより一層厳しく斜度を急にし、切り立った岩壁から落石や雪崩が次々と襲い掛かる。地表を厚く覆った氷の裂け目にいつ足下をすくわれ、遥か奈落の底へ吸い込まれても不思議はない。
何連勝したのか、何連続KO勝ちしたのか。記録は戦果の是非を推し量る何よりの指標ではあるが、ことボクシングにおいては、「誰に勝ったのか」が極めて重要になる。あるいは誰に負けて、その勝ち方や負け方はどうだったのか。
プロ通算71戦の中で、”ブラウン・ボンバー”が雌雄を決したホール・オブ・フェイマーと、それに準ずる腕達者を振り返ってみる。
25度の防衛を含む27回の世界戦に、ノンタイトルを含めて対峙したホール・オブ・フェイマーは、以下に挙げる10名(対戦順/延べ13試合)。
<1>マックス・シュメリング(独)/元世界ヘビー級王者(※対戦時)
<2>マックス・ベア(米)/元世界ヘビー級王者(※)
<3>ジャック・シャーキー(米)/元世界ヘビー級王者(※)
<4>ジェームズ・ジム・ブラドック(米)/世界ヘビー級王者(※)
<5>ジョン・ヘンリー・ルイス(米)/世界L・ヘビー級王者(※)
<6>ビリー・コン(米)/前世界L・ヘビー級王者(※ルイスに挑戦する為返上)
<7>ジャージー・ジョー・ウォルコット(米)/コンテンダー(※後の世界ヘビー級王者)
<8>エザード・チャールズ(米)/世界ヘビー級王者(※)
<9>ジミー・ビヴィンズ(米)/L・ヘビー級及びヘビー級ランカー(※)
<10>ロッキー・マルシアノ(米)/気鋭のランカー(※後の世界ヘビー級王者)
近代ボクシングの歴史そのものと表すべき、いずれ劣らぬ錚々たる顔ぶれ。シュメリング,コン,ウォルコットとは2度づつ対戦している。
際立って有名なのが、「ヒトラー vs ルーズベルト」,「悪の枢軸(独裁) vs 自由主義」の代理戦争として全世界の注目を集めたシュメリングとの第2戦(第1戦はルイスのKO負け=プロ初黒星)であり、L・ヘビー級のベルトを投げ打ち、軽量の不利を押してブラウン・ボンバーに挑んだビリー・コンとの対決。
そして引退を撤回して挑んだ後継王者エザード・チャールズに完敗した後、顕在化するロートル化の兆候を承知の上でなおも戦い続けて、台頭著しい”ブロックトン・ブロックバスター”の豪腕に文字通り叩きのめされ、今度こそ息の根を止められたマルシアノとのラストファイト。

※殿堂入りした11人の名選手たち(7名のヘビー級王者と3名のL・ヘビー級王者+L・ヘビー級&ヘビー級で活躍したトップ・ランカー)
25回連続防衛の偉業を成し遂げ、世界王者のまま引退しながら、経済観念の欠如に加えて、最終盤に稼いだギャランティを気前良く軍に寄付を続けたことが災い。納税に窮して現役復帰するしかなくなる。40歳を目前にしたカムバック・ロードが上手く行く筈もなく、多くの米国人チャンピオンが繰り返した破滅の構図に、ルイスもまた見事にハマり込む。
ブラウン・ボンバーと戦わずして王者にならざるを得ず、多くのファンから正統性に疑問符をつけられたチャールズは、ボクシング史に時折登場する、ベルトを持ったままリングを去った”偉大な王者”の直後を引き受ける後継王者の悩みと苦しみに直面した。
図らずもルイスは、チャールズが最も必要としていた正統性を与えただけでなく、シュガー・レイ・ロビンソンとともに50年代の王国を熱狂させ、シンボリックな存在として君臨したマルシアノの王座にも、紛うことなき重みと真正性を付与してキャリアを終えた。
「負けないで辞めるチャンピオンは卑怯だ。」
焦土と化した戦後間もない東京の復興を体現した後楽園球場で、ハワイからやって来た世界フライ級王者ダド・マリノ(米国籍を持つ比国系移民)を15回判定に下して、開祖渡辺勇次郎以来、日本ボクシング界の悲願だった世界王者第1号となった白井義男の言葉である。
勇躍ロサンゼルスに遠征して、戦勝国アメリカの大会で競泳自由形の世界記録を更新した”フジヤマのトビウオ”こと古橋広之進とともに、白井は敗戦に打ちひしがれる日本人に大きな希望の灯を点した。
フライ級のベルトを4度守り、後楽園球場と大阪球場に合計20万人を動員した白井は、アルゼンチンの”小さな巨人”パスカル・ペレスに敗れてリングに別れを告げ、戦前から国内のリングを見守り続け、ペンと言論で日本ボクシング界を鼓舞し続けた”生き証人”郡司信夫(この人こそが和製ナット・フライシャー)と肩を並べ、TBSの人気中継「東洋チャンピオン・スカウト」の解説席を長らく賑わせる。

※昭和のボクシング中継を象徴するお二人,白井義男と郡司信夫(右:実況担当の岡部達アナウンサー)
果たして何時のことだったか、そして東洋と日本のどのチャンピオンが負けた時だったか、あるいは日本人世界王者の誰かだったか。記憶が曖昧となって判然とせず申し訳ないが、人気と実力を兼ね備えた王者だったのは間違いない。
その人気王者がトシを取り、すっかりピークアウトして次代を担う新進気鋭にその座を譲り、数日後に引退の会見を開くと、「次の王者に直接バトンを手渡す義務が、すべてのチャンピオンにあるんです、本来は・・・」と白井は続けた。
ペレスとのリマッチで5回KOに退き、自らの時世が終わったことを満天下に知らしめてリングを降りた、かつての自分の姿に思いを馳せているかのようでもあった。
負けた相手から直接王座を奪還した国内史上初の王者で、動画配信サイトのお陰で海外のファンから”ジャパニーズ・ロッキー”と呼ばれ、見直しの機運が高まった輪島功一もそっくり同じことを語っている。
「柳(斉斗/初戦で壮絶なKO負け=2度目の返り咲き)に勝った後、チャンピオンのまま辞めればいいじゃないかって、そう言ってくれる人もいた。でもそれじゃあ、俺の後でチャンピオンになる奴に失礼だって思った。」
「ちゃんと負けて辞めるのが、次の男に対する礼儀なんだよ。”輪島が引退したからチャンピオンになれた”って、そいつがずっと言われ続けたらかわいそうだろ?。ボクサーはみんな裸一貫でチャンピオンになる。最後も裸一貫で終わるのが筋だよ。」

活躍した時代は勿論、階級もファイトスタイルも、そしてパーソナリティも含めて何もかもが違う2人が、”王者の矜持”とも言うべき覚悟について、同じ意識を共有していることは実に感慨深い。
世界チャンピオンの称号とその象徴たるベルトは、リングの上のみで継承されるべき。理屈と正義はまったく仰せの通りなのだが、では我らがリアル・モンスターに対して、面と向かってそう言い切れる者がいるだろうか。
戦う相手と時期をじっくり吟味した上で、ライバル,強敵と目される同じ(近い)階級の候補たちの勢いが落ちるまで待ち、可能な限りのローリスク・ハイリターンを恥ずかしげもなく追い求める。
その結果、波乱と敗北のリスクが相応に残る場合は徹底回避・・・計算尽くのマッチメイクを批判され続けたキャリア初期のデラ・ホーヤ、そしてゴールデン・ボーイからPPVセールス・キングの座を受け継いだ”ダーティ込みのスーパー安全運転”メイウェザーには、何の遠慮もなくド真ん中の直球で言い切ってしまえるけれども・・・。
※Part 5 へ
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◎ブラウン・ボンバー vs ホール・オブ・フェイマー
<1>ジェームズ・ジム・ブラドック(米)/2001年殿堂入り
1937年6月22日/MSG,N.Y./8回KO勝ち(世界王座獲得)
※試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=s7uLzHZa56U
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生涯戦績:86戦46勝(27KO)23敗4分け11ND2NC
1-10のオッズをひっくり返して、無敵と思われていたマックス・ベア(米)に15回3-0判定勝ち。1926年に軽量のL・ヘビー(今ならミドルに近いS・ミドル)としてプロキャリアを始めたブラドックは、3年目の1929年頃からヘビー級に主戦場を移し、数多くの敗北を糧に経験を積みながら、キャリア最晩年に超特大の番狂わせを起こして世界王者となった。3度の3連敗に2連敗も4回あり、2敗+2引き分けで4試合連続白星無しの記録も残している。
ボクサーがこなす試合数が激減した現在の基準で見れば、とても世界王者に相応しい戦歴とは言い難い。しかし、ブラドックの奇跡は多くのファンに受け入れられ、2005年に製作された映画「シンデレラ・マン」は世界的なヒットを飛ばし、興収は1億ドルを超えると伝えられた。
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<2>マックス・シュメリング(独)/1992年殿堂入り
(1)第1戦
1936年6月19日/ヤンキー・スタジアム/12回KO負け(ヘビー級15回戦)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=igoidtPyy6g
※観客動員:60,000人(有料入場者数:39,875人)
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(2)第2戦
1938年6月22日/ヤンキー・スタジアム/1回KO勝ち(V4)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=Q9jk2IPvDG8
※観客動員:72,000人(有料入場者数:66,227人)
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生涯戦績:70戦56勝(39KO)10敗4分け
若きルイスにプロ初黒星を着けたシュメリングは、1930年6月12日、ヤンキー・スタジアムでジャック・シャーキー(米)に4回反則勝ちで世界王者となり、フライ級~ヘビー級まで300戦以上戦ったとされるヤング・ストリブリング(米)を15回TKOに退けてV1に成功するも、1932年6月21日の再戦(MSG)で15回1-2判定負け。シャーキーに雪辱を許して王座転落。欧州と米本土を往復しながら、ミッキー・ウォーカー(元ミドル級王者/ジャック・デンプシーと並ぶ20年代を代表するスター)やマックス・ベア、パウリノ・ウスクデン(スペイン)らの強豪と連戦。王者候補として台頭してきたルイスに胸を貸した。第2次対戦後に、ドイツ国内におけるコカ・コーラの販売権を獲得して実業家として大成功。経済観念に乏しく、現役時代に滞納した納税に追われるかつてのライバルに匿名で支援を行っていた。
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<3>ジョン・ヘンリー・ルイス(米)/1994年殿堂入り
1939年1月25日/MSG,N.Y./1回KO勝ち(V5)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=QZhsPWon24s
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生涯戦績:117戦103勝(60KO)8敗6分け
認定団体が承認した史上初の黒人世界王者とされるJ・H・ルイスは、現役の世界L・ヘビー級王者として挑戦(5度の連続防衛に成功)。L・ヘビー級リミット上限(175ポンド)を6ポンド上回る181ポンドで計量したが、ブラウン・ボンバーはジャスト200ポンド。1-8の掛け率が示す通り、圧倒的不利を承知の上でルイスに挑み玉砕した(キャリアで唯一のKO負け)。この試合は、1913年12月19日に行われたジャック・ジョンソン vs バトリング・ジム・ジョンソン戦以来となる、黒人同士による史上2回目の世界戦と位置づけられた。
2人のルイスは仲の良い友人で、ジョーはJ・Hの異変に気が付いていたとの説もある。対戦には当初消極的だったとも言われ、J・Hが退職金代わりとなる高額な報酬を得られることを交換受験にオファーを受け、余計なダメージを残さずに済むよう、初回からKOを狙っていたという。
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<4>ビリー・コン(米)/1990年殿堂入り
(1)第1戦
1941年6月18日ポログラウンド/13回KO勝ち(V18)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=q3UnRVEWfoM
※観客動員:54,487人
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(2)第2戦
1946年6月19日/ヤンキー・スタジアム/8回KO勝ち(V22)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=fvurqxGCSYE
※観客動員:45,266人
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生涯戦績:77戦64勝(15KO)12敗1分け
1934年に16歳でプロになったコンは、135ポンドのライト級だった。大人の身体が出来上がるに従い、短期間にウェルターからミドルへと階級をアップ。ミドル級を主戦場に戦っていたが、1939年7月にメリオ・ベッティーナを15回判定に下してL・ヘビー級の世界王座を獲得。167~170ポンド前後の間を推移する軽量(今ならS・ミドル級)のままでの載冠。ベッティーナとの再戦を15回3-0判定でクリアした後、ガス・レスネヴィッチとの2連戦をいずれも15回3-0判定で退け3度の防衛に成功すると、175ポンド前後のL・ヘビー級リミット上限まで増量して、180~190ポンド超のヘビー級の強豪を連破。ルイスへの挑戦が決まり、本番前月の1941年5月にL・ヘビー級王座を返上した。
持ち前のフットワークと正確なジャブ&ショートでリードした第1戦、12回を終えた時点でのスコアは2-0(7-5/7-4/6-6)でコンを支持。残り3ラウンズをアウトボックスで流せば勝利は確実だったが、敢えて勝負に出て逆転KO負け。「逃げまわって勝ったと言われたくなかった」と後に追懐している。
第二次対戦による中断を挟み、5年越しに実現した再戦では、ルイスが強力なプレッシャーをかけ続けてコンの健脚を封印。脚が止まると顕著な体格差は如何ともし難く、ほぼ一方的にルイスが試合を支配した。腕に自信のあるL・ヘビー級は、真の名誉と報酬を求めて例外なくヘビー級に挑み返り討ちに遭う。ヘビー級の歴史は、死屍累々たるL・ヘビー級トップたちの屍の上に築かれたと言っても間違いではない。
◎第1戦時のトレーニング映像(カラー化)
Joe Louis and Billy Conn - Training for their fight & Buildup - 1941 Colorized
Legends of Boxing in Color
https://www.youtube.com/@LegendsofBoxinginColor
https://www.youtube.com/watch?v=--spp3eX1OQ
衰える以前の若々しいルイス(26~27歳)と、全盛を迎えようとしていたコン(23歳)の短いインタビューが納められている。明瞭な滑舌でしっかり話すルイスの姿を、この機会にご覧いただけると有り難い。
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<5>ジャージー・ジョー・ウォルコット(米)/1990年殿堂入り
(1)第1戦
1947年12月5日/ヤンキー・スタジアム/15回2-1判定勝ち(V24)
オフィシャルスコア:9-6/8-6/6-7(オッズ:10-1でルイス)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=4zrF2c2KG7I
ハイライト(画質良好):https://www.youtube.com/watch?v=zacwwq_Wo3o
※観客動員:18,194人
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(2)第2戦
1948年6月25日/ヤンキー・スタジアム/11回KO勝ち(V25)
オフィシャルスコア(10回まで):5-2/3-6/4-5(2-1)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=3VYF7I6Fjjg
※観客動員:42,667人
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生涯戦績:71戦51勝(32KO)18敗2分け
25回連続防衛の末尾を飾る2連戦。1930年9月に165ポンドの”軽いL・ヘビー”としてデビューしたウォルコット(16歳)は、プロ3年目の途中でようやく175ポンドのリミット上限に達すると、1935年頃(20~21歳)にようやく180ポンド前後まで増量してヘビー級に参戦。並み入りランカーたちと勝ったり負けたりを繰り返しながら、1938年の終わり~39年(24~25歳)にかけて190ポンドに到達した。
そこからさらに8年余りをかけて、プロ17年目にして実現した世界タイトル初挑戦が、キャリア最晩年のブラウン・ボンバーだった。33歳11ヶ月での挑戦は当時の最高齢記録で、1-2の割れた判定で涙を呑むと、半年後にセットされた再戦では、10回まで3名中2名の副審がウォルコットを支持する展開に持ち込みながら、第11ラウンドにルイスの強打を浴びて逆転KO負け(最高齢挑戦記録を34歳5ヶ月に更新)。
ルイスの返上・引退を受けて、1年後の1949年6月22日、シカゴのコミスキーパークでエザート・チャールズとの決定戦に臨むも15回0-3判定に退く。チャールズとは最終的に4度戦うライバルとなったが、1951年7月18日に行われた3度目の対決(4度目の挑戦)を実らせ、プロ21年目(!)にして遂に世界の頂点に立つ。37歳5ヶ月での載冠は、1994年11月5日に45歳9ヶ月のビッグ・ジョージ・フォアマンに抜かれるまで、40年以上ヘビー級の最高齢記録として保持された。
チャールズとのリマッチ(4度目の対戦)を15回3-0判定で凌ぐと、ルイスを完全なる引退に追い込んだマルシアノの挑戦を受け、ダウンの応酬の末、13ラウンドにかの”スージーQ”を食らって失神KO負け(1952年9月23日)。翌1953年5月15日のリマッチでは、マッハの踏み込みもろとも叩きつけるマルシアノの右が一閃。初回2分余りで轟沈した。1年2ヶ月と短い在位に終わったが、不惑を眼前にキャリアの第4コーナーを回り切ってからの活躍は強烈な印象を残した。
◎史上に残るノックアウト2選
(1)マルシアノ 13回KO ウォルコット第1戦/第13ラウンド
”Suzy Q(スロー再生)”
※フルファイト(カラー化)
https://www.youtube.com/watch?v=TPKFt4Y7UaQ
(2)ウォルコット 7回TKO E・チャールズ第3戦/第7ラウンド
※フルファイト
https://www.youtube.com/watch?v=Paso9Isirg8
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<6>エザード・チャールズ(米)/1990年殿堂入り
1950年9月27日/ヤンキー・スタジアム/15回0-3判定負け(世界王座挑戦)
オフィシャル・スコア:5-10/2-13/3-12
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=Q4TG57JflxY
※観客動員:22,357人
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生涯戦績:115戦89勝(51KO)25敗1分け
1940年に16歳でデビューしたチャールズも、ミドル級からスタートして徐々にウェイトを増やし、プロ8年目頃まではL・ヘビー級の第一人者として活躍。ヘビー級の王座に就いた当初は180ポンド台前半~半ばの軽量で、そのまま防衛を続けた(通算V8)。
現役時代の後半から身体に麻痺を感じるようになっていたが、負けが込んでも経済的な理由で引退することができず、ダメージを深めてしまう。引退後に麻痺が進み、車椅子での生活を余儀なくされてパンチドランクを疑われたが、1968年に「ALS(筋萎縮性側索硬化症)」の診断を受ける。治療法の発見と確立を信じて闘病を続けるも、1975年5月28日、53歳の若さで永眠。
◎チャールズ 15回3-0判定勝ち ジョーイ・マキシム(米)
1951年5月30日/シカゴ・スタジアム
オフィシャル・スコア:85-65×2,78-72
元L・ヘビー級王者のマキシムは、175ポンド時代から合計4度対戦したライバル。結果はチャールズの全勝(すべて判定)となっているが、いずれも実力伯仲の好勝負と言われ、特にヘビー級王座を懸けた第4戦(V8)は、ニック・バロン(米)を11回KOで下したV5戦とともに、ベスト・パフォーマンスに挙げる識者が少なくない。
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◎ノンタイトル
<2>マックス・シュメリング(独)/1992年殿堂入り
(1)第1戦
1936年6月19日/ヤンキー・スタジアム/12回KO負け(ヘビー級15回戦)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=igoidtPyy6g
※観客動員:60,000人(有料入場者数:39,875人)
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<7>ジャック・シャーキー(米)/1994年殿堂入り
1936年8月18日/ヤンキー・スタジアム/3回KO勝ち(15回戦)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=DW-w6UqR4kw
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生涯戦績: 55戦38勝(14KO)13敗3分け1ND
1902年生まれのシャーキーは、19世紀末に生を受けたジャック・デンプシーやジーン・タニーと世代的には重複する。ローリング・トゥエンティ(1920年代)の後半~30年代の始め頃までがピークと考えてよく、デンプシーを連破したタニーが引退した後の王座をシュメリングと争い反則負け(1930年6月12日)。2年後の再戦でシュメリングを15回2-1判定にかわして王座に就いたが、翌1933年6月29日の初防衛戦で”動くアルプス”プリモ・カルネラ(伊)に6回KO負け。公称183センチは、20年代当時としては十分なサイズに分類され、1927年7月21日にヤンキー・スタジアムで行われたデンプシーとの15回戦(ノンタイトル)は、75,000人の大観衆を集めるなど人気を博した。
後にカルネラを巡る八百長疑惑の追及が始まり、ナット・フライシャーを始めとする記者たちは、シャーキーのKO負けにも容赦無く鋭い視線を向ける。「夫はお金を受け取っていた」と夫人が証言して苦境に立たされ、「神に誓って言う。真剣勝負だった。実力で負けたんだ」と、シャーキー自身は亡くなるまで一貫して潔白を主張し続けた。
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<8>マックス・ベア(米)/1995年殿堂入り
1935年9月24日/ヤンキー・スタジアム/4回KO勝ち(15回戦)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=6n3YEN_Xe5I
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生涯戦績:84戦72勝(53KO)12敗
反則も辞さない荒々しいインファイトで時に物議を醸しながらも、多くのファンに支持されたベア(189センチ/209ポンド)は、デビュー5年目の1934年6月14日、大物プロモーター,テックス・リカードがロングアイランドにオープンしたMSGボウル(屋外施設)で、プリモ・カルネラ(197センチ/263ポンド)から合計12回(10回・11回・7回等諸説有り)に及ぶダウンを奪う圧勝で世界王座に就く。
当然のように安定政権を期待されたが、1年後の1935年6月13日に同じMSGボウルで迎えた初防衛戦で、伏兵ブラドックによもやの15回0-2判定負け。10-1の掛け率をひっくり返す超特大の番狂わせを許したベアは、「舐めていた。トレーニングキャンプも適当にこなすだけで、真剣さが足りなかった」と練習不足を認めるしかない。王座を獲得してからの1年間、ベアは完全にオフして心身をなまらせてしまっていた。
激しく攻撃的なファイトが原因で2度のリング禍を経験しており、最初のフランキー・キャンベル戦(1930年8月25日/5回TKO勝ち)では、揉み合いから倒れ込んだ後、キャンベルの頭を掴んで振り回して倒してしまう。試合後異変を訴えたキャンベルは救急搬送されたが、手当ての甲斐なくその日のうちに逝去。
2人目のアーニー・シャーフとは2度対戦があり、1勝1敗と星を分けている。1930年12月19日の初戦はシャーフが10回3-0判定勝ちを収めて、1932年8月31日の再戦はベアの10回2-0判定勝ち。最終10ラウンド、ベアに滅多打ちされたシャーフは終了ゴング直前に昏倒。10カウントは免れたが、意識を取り戻すまでに3分を要したとされる。
目を覚まして事無きを得たシャーフだが、頻繁に頭痛を訴えるようになり、そうした状況下で8月に続いて12月、翌1933年1月と3試合を消化(2勝1敗)。
そして1933年2月10日、運命のプリモ・カルネラ戦に臨み13回KO負け。フィニッシュされたシャーフは、そのまま意識を失い絶命。試合の直前インフルエンザに罹患したシャーフは、病理解剖の結果髄膜炎を発症していたことが判明するも、「2人ともベアに殴り殺された」との風聞が流布された。公の場では相変わらず傍若無人に振舞うベアだったが、2人の死亡事故による精神的なダメージは深く、毎晩のように悪夢にうなされていたと家族が証言している。

6歳離れた弟のバディ・ベアもヘビー級で活躍した実力者で、兄弟ボクサーとしても有名。バディは挑戦者として2度ルイスにアタックしたが、初戦を7回反則で落とした後、2戦目はショッキングな初回KOに退き兄の敵討ちはならず。
◎ベア 11回TKO カルネラ
1934年6月14日/MSGボウル(N.Y.州ロングアイランド)
※観客動員:52,268人
https://www.youtube.com/watch?v=QoXFwJUszIw
◎ブラドック 15回2-0判定 ベア
1935年06月13日/MSGボウル(N.Y.州ロングアイランド)
オフィシャル・スコア:5-9/4-11/7-7
※観客動員:29,366人
https://www.youtube.com/watch?v=721t9npoB3U
◎ルイス 7回反則 バディ・ベア(V17)
1941年5月23日/グリフィス・スタジアム(ワシントンD.C.)
※観客動員:23,912人
https://www.youtube.com/watch?v=S9zaOdAr2jY
◎ルイス 1回KO バディ・ベア(V20)
1942年1月9日/MSG,N.Y.
※観客動員:16,689人
https://www.youtube.com/watch?v=WgpfTBWY1DA
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<9>ジミー・ビヴィンズ(米)/1999年殿堂入り
1951年8月15日/メモリアル・スタジアム(メリーランド州ボルティモア)
10回3-0判定勝ち(6-3×2/7-3)
参考映像:
(1)ショートドキュメント:https://www.youtube.com/watch?v=3Vq777nUPIk
(2)E・チャールズ第4戦:https://www.youtube.com/watch?v=QVJPgXWk7RM
(3)E・チャールズ第5戦:https://www.youtube.com/watch?v=4JKoxiJv1ZU
(4)アーチー・ムーア第5戦:https://www.youtube.com/watch?v=0Kqobp78uUA
※観客動員:18,215人
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生涯戦績:112戦86勝(31KO)25敗1分け
AAUナショナルズの決勝まで進んだ後、1940年の年明けにミドル級でプロのキャリアを始めたビヴィンズ(二十歳)は、翌1941年~1943年にかけてキャリアのピークを築いたとされる。
”史上最高の無冠の帝王”チャーリー・バーリー、後のL・ヘビー級王者アントン・クリストフォリディス、ミドル級コンテンダーのネイト・ボールデン、N.Y.公認ミドル級王者テディ・ヤローズ、後のミドル級王者ビリー・スース、同じくL・ヘビー級の頂点に立つガス・レスネヴィッチとジョーイ・マキシム、コンテンダーとして活躍するタミー・マウリエロにボブ・パスター、リー・サボルドといった面々を破り、クリーヴランドの新人はセンセーションを巻き起こす。
第二次大戦によるブランクも短期間で済だんが、強過ぎるが故に世界王座挑戦の機会には恵まれず、1953年10月のラストファイトまで、13年9ヶ月の間に、7名のホール・オブ・フェイマー(4名に勝利)と11人の世界王者(8名に勝利)と対戦したが、世界タイトルマッチのリングに上がる事なく、34歳で実戦のリングを去った。
上述したクリストフィリディスと3回(2勝1敗)、マキシムとも2回(1勝1敗)、メリオ・ベッティーナ(L・ヘビー級王者)と3回(1勝2敗)、マリーとは5回(3回勝利)、チャールズとは5回(1回勝利)、リー・Q・マリーとは5回(3勝2敗)、そして”オールド・マングース”ことアーチー・ムーアとも5回(1勝4敗)拳を交えていたビヴィンズについて、「チャーリー・バーリーとサム・ラングフォード以上に運が無かった。彼こそ”無冠の帝王”と呼ばれるべきだ」と評価する識者とマニアも多い。
◎A・ムーア 9回終了TKO ビヴィンズ
1951年2月21日/セント・ニコラス・アリーナ(リンク)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=AZMaR2o4TeE
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<10>ロッキー・マルシアノ(米)/1990年殿堂入り
1951年10月26日/MSG,N.Y./8回TKO負け
オフィシャルスコア(7回まで):2-4/3-4/2-5
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=Inv30LbuZkU
※観客動員:17,241人
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生涯戦績:49戦49勝(43KO)
一~二昔前、強いボクサーと言えばアイリッシュかイタリア系と相場は決まっていた。イタリア系のスター王者や人気のコンテンダーは数多く、主役の座を優れた黒人の若者たちに譲った後も枚挙に暇はないけれど、イの一番に名前が挙がるとすればこの人しかいない。”ブロックトン・ブロックバスター”ことロッキー・マルシアノである。
黒人特有の下からアッパー気味に振り上げる、凄まじい左フック1発でチャールズをし止めて王座に就いた老練ウォルコットに挑戦したマルシアノは、豊富な経験と巧まざるセンスに裏づけされた駆け引きに苦しみながらも、終盤13ラウンドに必殺の”スージーQ(Suzy Q)”が炸裂。衰えを知らないジャージー・ジョーを完璧に眠らせて、悲願の世界一を射止めた。
ウォルコットとのリマッチを瞬殺で終えると、復活の執念を燃やすエザード・チャールズとの2連戦を含む6連続防衛に成功。判定決着となったのは、チャールズとの初戦のみ。そして1956年4月、引き分けとノー・コンテスト(ディシジョン)が1つもない、49戦全勝(43KO)のパーフェクト・レコードとベルトを持ったまま引退を表明。最後の挑戦者は、最後の最後までヘビー級制覇に挑み続けたL・ヘビーの帝王アーチー・ムーアだった。
子供の頃は大のベースボール・ファンで、第一の夢はメジャーリーガーだった。プロボクサーとしてデビューする1947年(23歳)、シカゴ・カブスのマイナー球団(クラスD~E)のキャンプに参加してテストを受けたが、3週間でクビになっている。中途半端に続けるよりも、スパっと切られたことでボクシング1本に絞る決断ができた。災い転じて福となすとはよく言ったものである。
マルシアノはお金に厳しく、金銭の出入りを巡って家庭内の摩擦を繰り返したとされるが、引退後に納税や生活に困窮することなく、一度も復帰せずに済んだ点は素直に評価されていい。1969年8月31日、乗っていたセスナが墜落。46歳の若さで天に召された。
◎マルシアノ 9回KO A・ムーア
1955年9月21日/ヤンキー・スタジアム
※観客動員:61,574人
https://www.youtube.com/watch?v=_pPfPUQopfg
殿堂入りした名選手との対戦の多寡について、中~重量級と軽量級を単純比較できないことは前章で示した通り。家庭用のTVが普及する以前、ラジオの時代へと遡れば遡るほど、こなす試合数の違いも影響して、年代が古い選手ほど名選手同士の対戦機会が増える。
そうした事情を前提にした上で、全試合中に占める構成比を記しておく。
こうやって数字をまとめると、ルイスの凄さがより一層明確になる。リマッチをやったコン,ウォルコットの4戦を含んで、26回ある世界戦のうち、4割近い8戦がホール・オブ・フェイマーで、判定まで持ち込んだのはウォルコットのみ。再起した後のビヴィンズ(10回戦)を加えても、フルラウンズ持ち応えたのはこの2人だけ。
そしてコンとウォルコットだけでなく、初戦でミソを付けられたアルトゥロ・ゴドイ(チリ)とエイブ・サイモン(米)の両者とも再戦に応じて、しっかり決着を着けている。1930年代のヘビー級を語る上で欠かすことのできないマックス・ベア、ジャック・シャーキー,プリモ・カルネラ(伊),パウリノ・ウスクデン(スペイン)の4人を倒している点も、画竜点睛を欠かずに済んでいる重要なポイント。
闘うべき相手と時期を逸し過ぎることなく闘い、スーパースターに求められる結果をしっかり残した。一度引退する前の敗北はシュメリングに喫した初黒星だけで、ピークを迎える前夜でもあり、若さ(トップレベルにおける経験の浅さ)を露呈した感は否めない。
世界戦での1敗は、引退を撤回して挑んだチャールズ戦。従軍(第二次大戦)による中断と加齢による衰えが明白で、ラストファイトのマルシアノ戦は痛々しくて見ていられない。ラリー・ホームズのパンチに反応できず、思わず恐怖を浮かべる老いたモハメッド・アリの顔が二重写しになる。
余りにも鈍くて重いアリを弱肉強食のリングから救い出す為、デビュー以来チーフとしてコーナーを率いたアンジェロ・ダンディが10ラウンド終了後に棄権を決めると、強硬に継続を主張する名物セコンドのバンディニ・ブラウンを大声で一喝。
「チーフはこの俺だ!(引っ込んでろ!)」
あれは歴史に残る名シーンだったと、今でも信じて疑わない。
「(パンチが飛んで)来るのがわかっているのによけられない。あんな経験は、後にも先にもあの時だけだ。恐ろしかったよ・・・」
今にして思えば、ホームズ戦の準備に入ったアリは滑舌が悪くなって、呂律が回っていない時があり、宿痾となるパーキンソン病の初期症状が顕在化し始めていた。長くアリの健康面をサポートしたチームドクターのファーディ・パチェコは、アリの復帰に反対を貫きチームを追われている。
アリが戦える状態に無いことは、トレーナーのダンディにもわかっていたと思う。だからこそのストップだった筈。「アリが戦うと決めた以上、コーナーに立つのは私だ。他の誰にも任せる訳にはいかない」と、90年代の中頃~後半だったと記憶するが、何かのインタビュー記事で読んだ。
残念なことに、ブラウン・ボンバーのコーナーにダンディはいない。マルシアノの豪打に晒され、止めの一撃をまともに受けてしまった。
14年8ヶ月(1934年7月~1949年3月/戦時下の中断含む)のプロキャリアで許した3敗は、すべてホール・オブ・フェイマーとの対戦になる。
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