記録の罠 - モンスターのワールド・レコードについて Part 4 -

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■数字は時に嘘をつく・・・ 世界戦通算勝利「22」

井上尚弥

■世界戦の通算KO勝利「22」- ”ブラウン・ボンバー”が拳を交えたホール・オブ・フェイマーたち

P4Pランクや殿堂入りへの道のりは、ただでさえ険しく遠い。軽量級で一家を成したトップ・ファイターにとって、その勾配はより一層厳しく斜度を急にし、切り立った岩壁から落石や雪崩が次々と襲い掛かる。地表を厚く覆った氷の裂け目にいつ足下をすくわれ、遥か奈落の底へ吸い込まれても不思議はない。

何連勝したのか、何連続KO勝ちしたのか。記録は戦果の是非を推し量る何よりの指標ではあるが、ことボクシングにおいては、「誰に勝ったのか」が極めて重要になる。あるいは誰に負けて、その勝ち方や負け方はどうだったのか。

プロ通算71戦の中で、”ブラウン・ボンバー”が雌雄を決したホール・オブ・フェイマーと、それに準ずる腕達者を振り返ってみる。

25度の防衛を含む27回の世界戦に、ノンタイトルを含めて対峙したホール・オブ・フェイマーは、以下に挙げる10名(対戦順/延べ13試合)。

<1>マックス・シュメリング(独)/元世界ヘビー級王者(※対戦時)
<2>マックス・ベア(米)/元世界ヘビー級王者(※)
<3>ジャック・シャーキー(米)/元世界ヘビー級王者(※)
<4>ジェームズ・ジム・ブラドック(米)/世界ヘビー級王者(※)
<5>ジョン・ヘンリー・ルイス(米)/世界L・ヘビー級王者(※)
<6>ビリー・コン(米)/前世界L・ヘビー級王者(※ルイスに挑戦する為返上)
<7>ジャージー・ジョー・ウォルコット(米)/コンテンダー(※後の世界ヘビー級王者)
<8>エザード・チャールズ(米)/世界ヘビー級王者(※)
<9>ジミー・ビヴィンズ(米)/L・ヘビー級及びヘビー級ランカー(※)
<10>ロッキー・マルシアノ(米)/気鋭のランカー(※後の世界ヘビー級王者)

近代ボクシングの歴史そのものと表すべき、いずれ劣らぬ錚々たる顔ぶれ。シュメリング,コン,ウォルコットとは2度づつ対戦している。

際立って有名なのが、「ヒトラー vs ルーズベルト」,「悪の枢軸(独裁) vs 自由主義」の代理戦争として全世界の注目を集めたシュメリングとの第2戦(第1戦はルイスのKO負け=プロ初黒星)であり、L・ヘビー級のベルトを投げ打ち、軽量の不利を押してブラウン・ボンバーに挑んだビリー・コンとの対決。

そして引退を撤回して挑んだ後継王者エザード・チャールズに完敗した後、顕在化するロートル化の兆候を承知の上でなおも戦い続けて、台頭著しい”ブロックトン・ブロックバスター”の豪腕に文字通り叩きのめされ、今度こそ息の根を止められたマルシアノとのラストファイト。

ブラウン・ボンバーと戦った11人のホール・オブ・フェイマー
※殿堂入りした11人の名選手たち(7名のヘビー級王者と3名のL・ヘビー級王者+L・ヘビー級&ヘビー級で活躍したトップ・ランカー)

25回連続防衛の偉業を成し遂げ、世界王者のまま引退しながら、経済観念の欠如に加えて、最終盤に稼いだギャランティを気前良く軍に寄付を続けたことが災い。納税に窮して現役復帰するしかなくなる。40歳を目前にしたカムバック・ロードが上手く行く筈もなく、多くの米国人チャンピオンが繰り返した破滅の構図に、ルイスもまた見事にハマり込む。

ブラウン・ボンバーと戦わずして王者にならざるを得ず、多くのファンから正統性に疑問符をつけられたチャールズは、ボクシング史に時折登場する、ベルトを持ったままリングを去った”偉大な王者”の直後を引き受ける後継王者の悩みと苦しみに直面した。

図らずもルイスは、チャールズが最も必要としていた正統性を与えただけでなく、シュガー・レイ・ロビンソンとともに50年代の王国を熱狂させ、シンボリックな存在として君臨したマルシアノの王座にも、紛うことなき重みと真正性を付与してキャリアを終えた。


「負けないで辞めるチャンピオンは卑怯だ。」

焦土と化した戦後間もない東京の復興を体現した後楽園球場で、ハワイからやって来た世界フライ級王者ダド・マリノ(米国籍を持つ比国系移民)を15回判定に下して、開祖渡辺勇次郎以来、日本ボクシング界の悲願だった世界王者第1号となった白井義男の言葉である。

勇躍ロサンゼルスに遠征して、戦勝国アメリカの大会で競泳自由形の世界記録を更新した”フジヤマのトビウオ”こと古橋広之進とともに、白井は敗戦に打ちひしがれる日本人に大きな希望の灯を点した。

フライ級のベルトを4度守り、後楽園球場と大阪球場に合計20万人を動員した白井は、アルゼンチンの”小さな巨人”パスカル・ペレスに敗れてリングに別れを告げ、戦前から国内のリングを見守り続け、ペンと言論で日本ボクシング界を鼓舞し続けた”生き証人”郡司信夫(この人こそが和製ナット・フライシャー)と肩を並べ、TBSの人気中継「東洋チャンピオン・スカウト」の解説席を長らく賑わせる。

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※昭和のボクシング中継を象徴するお二人,白井義男と郡司信夫(右:実況担当の岡部達アナウンサー)

果たして何時のことだったか、そして東洋と日本のどのチャンピオンが負けた時だったか、あるいは日本人世界王者の誰かだったか。記憶が曖昧となって判然とせず申し訳ないが、人気と実力を兼ね備えた王者だったのは間違いない。

その人気王者がトシを取り、すっかりピークアウトして次代を担う新進気鋭にその座を譲り、数日後に引退の会見を開くと、「次の王者に直接バトンを手渡す義務が、すべてのチャンピオンにあるんです、本来は・・・」と白井は続けた。

ペレスとのリマッチで5回KOに退き、自らの時世が終わったことを満天下に知らしめてリングを降りた、かつての自分の姿に思いを馳せているかのようでもあった。


負けた相手から直接王座を奪還した国内史上初の王者で、動画配信サイトのお陰で海外のファンから”ジャパニーズ・ロッキー”と呼ばれ、見直しの機運が高まった輪島功一もそっくり同じことを語っている。

「柳(斉斗/初戦で壮絶なKO負け=2度目の返り咲き)に勝った後、チャンピオンのまま辞めればいいじゃないかって、そう言ってくれる人もいた。でもそれじゃあ、俺の後でチャンピオンになる奴に失礼だって思った。」

「ちゃんと負けて辞めるのが、次の男に対する礼儀なんだよ。”輪島が引退したからチャンピオンになれた”って、そいつがずっと言われ続けたらかわいそうだろ?。ボクサーはみんな裸一貫でチャンピオンになる。最後も裸一貫で終わるのが筋だよ。」

白井義男(左)と輪島功一(右)

活躍した時代は勿論、階級もファイトスタイルも、そしてパーソナリティも含めて何もかもが違う2人が、”王者の矜持”とも言うべき覚悟について、同じ意識を共有していることは実に感慨深い。

世界チャンピオンの称号とその象徴たるベルトは、リングの上のみで継承されるべき。理屈と正義はまったく仰せの通りなのだが、では我らがリアル・モンスターに対して、面と向かってそう言い切れる者がいるだろうか。

戦う相手と時期をじっくり吟味した上で、ライバル,強敵と目される同じ(近い)階級の候補たちの勢いが落ちるまで待ち、可能な限りのローリスク・ハイリターンを恥ずかしげもなく追い求める。

その結果、波乱と敗北のリスクが相応に残る場合は徹底回避・・・計算尽くのマッチメイクを批判され続けたキャリア初期のデラ・ホーヤ、そしてゴールデン・ボーイからPPVセールス・キングの座を受け継いだ”ダーティ込みのスーパー安全運転”メイウェザーには、何の遠慮もなくド真ん中の直球で言い切ってしまえるけれども・・・。


※Part 5 へ


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◎ブラウン・ボンバー vs ホール・オブ・フェイマー

<1>ジェームズ・ジム・ブラドック(米)/2001年殿堂入り
1937年6月22日/MSG,N.Y./8回KO勝ち(世界王座獲得)
※試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=s7uLzHZa56U
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生涯戦績:86戦46勝(27KO)23敗4分け11ND2NC
1-10のオッズをひっくり返して、無敵と思われていたマックス・ベア(米)に15回3-0判定勝ち。1926年に軽量のL・ヘビー(今ならミドルに近いS・ミドル)としてプロキャリアを始めたブラドックは、3年目の1929年頃からヘビー級に主戦場を移し、数多くの敗北を糧に経験を積みながら、キャリア最晩年に超特大の番狂わせを起こして世界王者となった。3度の3連敗に2連敗も4回あり、2敗+2引き分けで4試合連続白星無しの記録も残している。
ボクサーがこなす試合数が激減した現在の基準で見れば、とても世界王者に相応しい戦歴とは言い難い。しかし、ブラドックの奇跡は多くのファンに受け入れられ、2005年に製作された映画「シンデレラ・マン」は世界的なヒットを飛ばし、興収は1億ドルを超えると伝えられた。

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<2>マックス・シュメリング(独)/1992年殿堂入り
(1)第1戦
1936年6月19日/ヤンキー・スタジアム/12回KO負け(ヘビー級15回戦)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=igoidtPyy6g
※観客動員:60,000人(有料入場者数:39,875人)
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(2)第2戦
1938年6月22日/ヤンキー・スタジアム/1回KO勝ち(V4)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=Q9jk2IPvDG8
※観客動員:72,000人(有料入場者数:66,227人)
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生涯戦績:70戦56勝(39KO)10敗4分け
若きルイスにプロ初黒星を着けたシュメリングは、1930年6月12日、ヤンキー・スタジアムでジャック・シャーキー(米)に4回反則勝ちで世界王者となり、フライ級~ヘビー級まで300戦以上戦ったとされるヤング・ストリブリング(米)を15回TKOに退けてV1に成功するも、1932年6月21日の再戦(MSG)で15回1-2判定負け。シャーキーに雪辱を許して王座転落。欧州と米本土を往復しながら、ミッキー・ウォーカー(元ミドル級王者/ジャック・デンプシーと並ぶ20年代を代表するスター)やマックス・ベア、パウリノ・ウスクデン(スペイン)らの強豪と連戦。王者候補として台頭してきたルイスに胸を貸した。第2次対戦後に、ドイツ国内におけるコカ・コーラの販売権を獲得して実業家として大成功。経済観念に乏しく、現役時代に滞納した納税に追われるかつてのライバルに匿名で支援を行っていた。

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<3>ジョン・ヘンリー・ルイス(米)/1994年殿堂入り
1939年1月25日/MSG,N.Y./1回KO勝ち(V5)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=QZhsPWon24s
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生涯戦績:117戦103勝(60KO)8敗6分け
認定団体が承認した史上初の黒人世界王者とされるJ・H・ルイスは、現役の世界L・ヘビー級王者として挑戦(5度の連続防衛に成功)。L・ヘビー級リミット上限(175ポンド)を6ポンド上回る181ポンドで計量したが、ブラウン・ボンバーはジャスト200ポンド。1-8の掛け率が示す通り、圧倒的不利を承知の上でルイスに挑み玉砕した(キャリアで唯一のKO負け)。この試合は、1913年12月19日に行われたジャック・ジョンソン vs バトリング・ジム・ジョンソン戦以来となる、黒人同士による史上2回目の世界戦と位置づけられた。
2人のルイスは仲の良い友人で、ジョーはJ・Hの異変に気が付いていたとの説もある。対戦には当初消極的だったとも言われ、J・Hが退職金代わりとなる高額な報酬を得られることを交換受験にオファーを受け、余計なダメージを残さずに済むよう、初回からKOを狙っていたという。

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<4>ビリー・コン(米)/1990年殿堂入り
(1)第1戦
1941年6月18日ポログラウンド/13回KO勝ち(V18)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=q3UnRVEWfoM
※観客動員:54,487人
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(2)第2戦
1946年6月19日/ヤンキー・スタジアム/8回KO勝ち(V22)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=fvurqxGCSYE
※観客動員:45,266人
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生涯戦績:77戦64勝(15KO)12敗1分け
1934年に16歳でプロになったコンは、135ポンドのライト級だった。大人の身体が出来上がるに従い、短期間にウェルターからミドルへと階級をアップ。ミドル級を主戦場に戦っていたが、1939年7月にメリオ・ベッティーナを15回判定に下してL・ヘビー級の世界王座を獲得。167~170ポンド前後の間を推移する軽量(今ならS・ミドル級)のままでの載冠。ベッティーナとの再戦を15回3-0判定でクリアした後、ガス・レスネヴィッチとの2連戦をいずれも15回3-0判定で退け3度の防衛に成功すると、175ポンド前後のL・ヘビー級リミット上限まで増量して、180~190ポンド超のヘビー級の強豪を連破。ルイスへの挑戦が決まり、本番前月の1941年5月にL・ヘビー級王座を返上した。
持ち前のフットワークと正確なジャブ&ショートでリードした第1戦、12回を終えた時点でのスコアは2-0(7-5/7-4/6-6)でコンを支持。残り3ラウンズをアウトボックスで流せば勝利は確実だったが、敢えて勝負に出て逆転KO負け。「逃げまわって勝ったと言われたくなかった」と後に追懐している。
第二次対戦による中断を挟み、5年越しに実現した再戦では、ルイスが強力なプレッシャーをかけ続けてコンの健脚を封印。脚が止まると顕著な体格差は如何ともし難く、ほぼ一方的にルイスが試合を支配した。腕に自信のあるL・ヘビー級は、真の名誉と報酬を求めて例外なくヘビー級に挑み返り討ちに遭う。ヘビー級の歴史は、死屍累々たるL・ヘビー級トップたちの屍の上に築かれたと言っても間違いではない。

◎第1戦時のトレーニング映像(カラー化)
Joe Louis and Billy Conn - Training for their fight & Buildup - 1941 Colorized
Legends of Boxing in Color
https://www.youtube.com/@LegendsofBoxinginColor
https://www.youtube.com/watch?v=--spp3eX1OQ

衰える以前の若々しいルイス(26~27歳)と、全盛を迎えようとしていたコン(23歳)の短いインタビューが納められている。明瞭な滑舌でしっかり話すルイスの姿を、この機会にご覧いただけると有り難い。

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<5>ジャージー・ジョー・ウォルコット(米)/1990年殿堂入り
(1)第1戦
1947年12月5日/ヤンキー・スタジアム/15回2-1判定勝ち(V24)
オフィシャルスコア:9-6/8-6/6-7(オッズ:10-1でルイス)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=4zrF2c2KG7I
ハイライト(画質良好):https://www.youtube.com/watch?v=zacwwq_Wo3o
※観客動員:18,194人
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(2)第2戦
1948年6月25日/ヤンキー・スタジアム/11回KO勝ち(V25)
オフィシャルスコア(10回まで):5-2/3-6/4-5(2-1)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=3VYF7I6Fjjg
※観客動員:42,667人
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生涯戦績:71戦51勝(32KO)18敗2分け
25回連続防衛の末尾を飾る2連戦。1930年9月に165ポンドの”軽いL・ヘビー”としてデビューしたウォルコット(16歳)は、プロ3年目の途中でようやく175ポンドのリミット上限に達すると、1935年頃(20~21歳)にようやく180ポンド前後まで増量してヘビー級に参戦。並み入りランカーたちと勝ったり負けたりを繰り返しながら、1938年の終わり~39年(24~25歳)にかけて190ポンドに到達した。
そこからさらに8年余りをかけて、プロ17年目にして実現した世界タイトル初挑戦が、キャリア最晩年のブラウン・ボンバーだった。33歳11ヶ月での挑戦は当時の最高齢記録で、1-2の割れた判定で涙を呑むと、半年後にセットされた再戦では、10回まで3名中2名の副審がウォルコットを支持する展開に持ち込みながら、第11ラウンドにルイスの強打を浴びて逆転KO負け(最高齢挑戦記録を34歳5ヶ月に更新)。
ルイスの返上・引退を受けて、1年後の1949年6月22日、シカゴのコミスキーパークでエザート・チャールズとの決定戦に臨むも15回0-3判定に退く。チャールズとは最終的に4度戦うライバルとなったが、1951年7月18日に行われた3度目の対決(4度目の挑戦)を実らせ、プロ21年目(!)にして遂に世界の頂点に立つ。37歳5ヶ月での載冠は、1994年11月5日に45歳9ヶ月のビッグ・ジョージ・フォアマンに抜かれるまで、40年以上ヘビー級の最高齢記録として保持された。
チャールズとのリマッチ(4度目の対戦)を15回3-0判定で凌ぐと、ルイスを完全なる引退に追い込んだマルシアノの挑戦を受け、ダウンの応酬の末、13ラウンドにかの”スージーQ”を食らって失神KO負け(1952年9月23日)。翌1953年5月15日のリマッチでは、マッハの踏み込みもろとも叩きつけるマルシアノの右が一閃。初回2分余りで轟沈した。1年2ヶ月と短い在位に終わったが、不惑を眼前にキャリアの第4コーナーを回り切ってからの活躍は強烈な印象を残した。

◎史上に残るノックアウト2選
(1)マルシアノ 13回KO ウォルコット第1戦/第13ラウンド
”Suzy Q(スロー再生)”

※フルファイト(カラー化)
https://www.youtube.com/watch?v=TPKFt4Y7UaQ

(2)ウォルコット 7回TKO E・チャールズ第3戦/第7ラウンド

※フルファイト
https://www.youtube.com/watch?v=Paso9Isirg8

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<6>エザード・チャールズ(米)/1990年殿堂入り
1950年9月27日/ヤンキー・スタジアム/15回0-3判定負け(世界王座挑戦)
オフィシャル・スコア:5-10/2-13/3-12
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=Q4TG57JflxY
※観客動員:22,357人
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生涯戦績:115戦89勝(51KO)25敗1分け
1940年に16歳でデビューしたチャールズも、ミドル級からスタートして徐々にウェイトを増やし、プロ8年目頃まではL・ヘビー級の第一人者として活躍。ヘビー級の王座に就いた当初は180ポンド台前半~半ばの軽量で、そのまま防衛を続けた(通算V8)。
現役時代の後半から身体に麻痺を感じるようになっていたが、負けが込んでも経済的な理由で引退することができず、ダメージを深めてしまう。引退後に麻痺が進み、車椅子での生活を余儀なくされてパンチドランクを疑われたが、1968年に「ALS(筋萎縮性側索硬化症)」の診断を受ける。治療法の発見と確立を信じて闘病を続けるも、1975年5月28日、53歳の若さで永眠。

◎チャールズ 15回3-0判定勝ち ジョーイ・マキシム(米)
1951年5月30日/シカゴ・スタジアム
オフィシャル・スコア:85-65×2,78-72

元L・ヘビー級王者のマキシムは、175ポンド時代から合計4度対戦したライバル。結果はチャールズの全勝(すべて判定)となっているが、いずれも実力伯仲の好勝負と言われ、特にヘビー級王座を懸けた第4戦(V8)は、ニック・バロン(米)を11回KOで下したV5戦とともに、ベスト・パフォーマンスに挙げる識者が少なくない。

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◎ノンタイトル
<2>マックス・シュメリング(独)/1992年殿堂入り
(1)第1戦
1936年6月19日/ヤンキー・スタジアム/12回KO負け(ヘビー級15回戦)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=igoidtPyy6g
※観客動員:60,000人(有料入場者数:39,875人)

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<7>ジャック・シャーキー(米)/1994年殿堂入り
1936年8月18日/ヤンキー・スタジアム/3回KO勝ち(15回戦)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=DW-w6UqR4kw
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生涯戦績: 55戦38勝(14KO)13敗3分け1ND
1902年生まれのシャーキーは、19世紀末に生を受けたジャック・デンプシーやジーン・タニーと世代的には重複する。ローリング・トゥエンティ(1920年代)の後半~30年代の始め頃までがピークと考えてよく、デンプシーを連破したタニーが引退した後の王座をシュメリングと争い反則負け(1930年6月12日)。2年後の再戦でシュメリングを15回2-1判定にかわして王座に就いたが、翌1933年6月29日の初防衛戦で”動くアルプス”プリモ・カルネラ(伊)に6回KO負け。公称183センチは、20年代当時としては十分なサイズに分類され、1927年7月21日にヤンキー・スタジアムで行われたデンプシーとの15回戦(ノンタイトル)は、75,000人の大観衆を集めるなど人気を博した。
後にカルネラを巡る八百長疑惑の追及が始まり、ナット・フライシャーを始めとする記者たちは、シャーキーのKO負けにも容赦無く鋭い視線を向ける。「夫はお金を受け取っていた」と夫人が証言して苦境に立たされ、「神に誓って言う。真剣勝負だった。実力で負けたんだ」と、シャーキー自身は亡くなるまで一貫して潔白を主張し続けた。

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<8>マックス・ベア(米)/1995年殿堂入り
1935年9月24日/ヤンキー・スタジアム/4回KO勝ち(15回戦)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=6n3YEN_Xe5I
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生涯戦績:84戦72勝(53KO)12敗
反則も辞さない荒々しいインファイトで時に物議を醸しながらも、多くのファンに支持されたベア(189センチ/209ポンド)は、デビュー5年目の1934年6月14日、大物プロモーター,テックス・リカードがロングアイランドにオープンしたMSGボウル(屋外施設)で、プリモ・カルネラ(197センチ/263ポンド)から合計12回(10回・11回・7回等諸説有り)に及ぶダウンを奪う圧勝で世界王座に就く。
当然のように安定政権を期待されたが、1年後の1935年6月13日に同じMSGボウルで迎えた初防衛戦で、伏兵ブラドックによもやの15回0-2判定負け。10-1の掛け率をひっくり返す超特大の番狂わせを許したベアは、「舐めていた。トレーニングキャンプも適当にこなすだけで、真剣さが足りなかった」と練習不足を認めるしかない。王座を獲得してからの1年間、ベアは完全にオフして心身をなまらせてしまっていた。
激しく攻撃的なファイトが原因で2度のリング禍を経験しており、最初のフランキー・キャンベル戦(1930年8月25日/5回TKO勝ち)では、揉み合いから倒れ込んだ後、キャンベルの頭を掴んで振り回して倒してしまう。試合後異変を訴えたキャンベルは救急搬送されたが、手当ての甲斐なくその日のうちに逝去。
2人目のアーニー・シャーフとは2度対戦があり、1勝1敗と星を分けている。1930年12月19日の初戦はシャーフが10回3-0判定勝ちを収めて、1932年8月31日の再戦はベアの10回2-0判定勝ち。最終10ラウンド、ベアに滅多打ちされたシャーフは終了ゴング直前に昏倒。10カウントは免れたが、意識を取り戻すまでに3分を要したとされる。
目を覚まして事無きを得たシャーフだが、頻繁に頭痛を訴えるようになり、そうした状況下で8月に続いて12月、翌1933年1月と3試合を消化(2勝1敗)。
そして1933年2月10日、運命のプリモ・カルネラ戦に臨み13回KO負け。フィニッシュされたシャーフは、そのまま意識を失い絶命。試合の直前インフルエンザに罹患したシャーフは、病理解剖の結果髄膜炎を発症していたことが判明するも、「2人ともベアに殴り殺された」との風聞が流布された。公の場では相変わらず傍若無人に振舞うベアだったが、2人の死亡事故による精神的なダメージは深く、毎晩のように悪夢にうなされていたと家族が証言している。

ルイス vs バディ・ベア第1戦(左)・第2戦(右)

6歳離れた弟のバディ・ベアもヘビー級で活躍した実力者で、兄弟ボクサーとしても有名。バディは挑戦者として2度ルイスにアタックしたが、初戦を7回反則で落とした後、2戦目はショッキングな初回KOに退き兄の敵討ちはならず。

◎ベア 11回TKO カルネラ
1934年6月14日/MSGボウル(N.Y.州ロングアイランド)
※観客動員:52,268人
https://www.youtube.com/watch?v=QoXFwJUszIw

◎ブラドック 15回2-0判定 ベア
1935年06月13日/MSGボウル(N.Y.州ロングアイランド)
オフィシャル・スコア:5-9/4-11/7-7
※観客動員:29,366人
https://www.youtube.com/watch?v=721t9npoB3U

◎ルイス 7回反則 バディ・ベア(V17)
1941年5月23日/グリフィス・スタジアム(ワシントンD.C.)
※観客動員:23,912人
https://www.youtube.com/watch?v=S9zaOdAr2jY

◎ルイス 1回KO バディ・ベア(V20)
1942年1月9日/MSG,N.Y.
※観客動員:16,689人
https://www.youtube.com/watch?v=WgpfTBWY1DA

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<9>ジミー・ビヴィンズ(米)/1999年殿堂入り
1951年8月15日/メモリアル・スタジアム(メリーランド州ボルティモア)
10回3-0判定勝ち(6-3×2/7-3)
参考映像:
(1)ショートドキュメント:https://www.youtube.com/watch?v=3Vq777nUPIk
(2)E・チャールズ第4戦:https://www.youtube.com/watch?v=QVJPgXWk7RM
(3)E・チャールズ第5戦:https://www.youtube.com/watch?v=4JKoxiJv1ZU
(4)アーチー・ムーア第5戦:https://www.youtube.com/watch?v=0Kqobp78uUA
※観客動員:18,215人
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生涯戦績:112戦86勝(31KO)25敗1分け
AAUナショナルズの決勝まで進んだ後、1940年の年明けにミドル級でプロのキャリアを始めたビヴィンズ(二十歳)は、翌1941年~1943年にかけてキャリアのピークを築いたとされる。
”史上最高の無冠の帝王”チャーリー・バーリー、後のL・ヘビー級王者アントン・クリストフォリディス、ミドル級コンテンダーのネイト・ボールデン、N.Y.公認ミドル級王者テディ・ヤローズ、後のミドル級王者ビリー・スース、同じくL・ヘビー級の頂点に立つガス・レスネヴィッチとジョーイ・マキシム、コンテンダーとして活躍するタミー・マウリエロにボブ・パスター、リー・サボルドといった面々を破り、クリーヴランドの新人はセンセーションを巻き起こす。
第二次大戦によるブランクも短期間で済だんが、強過ぎるが故に世界王座挑戦の機会には恵まれず、1953年10月のラストファイトまで、13年9ヶ月の間に、7名のホール・オブ・フェイマー(4名に勝利)と11人の世界王者(8名に勝利)と対戦したが、世界タイトルマッチのリングに上がる事なく、34歳で実戦のリングを去った。
上述したクリストフィリディスと3回(2勝1敗)、マキシムとも2回(1勝1敗)、メリオ・ベッティーナ(L・ヘビー級王者)と3回(1勝2敗)、マリーとは5回(3回勝利)、チャールズとは5回(1回勝利)、リー・Q・マリーとは5回(3勝2敗)、そして”オールド・マングース”ことアーチー・ムーアとも5回(1勝4敗)拳を交えていたビヴィンズについて、「チャーリー・バーリーとサム・ラングフォード以上に運が無かった。彼こそ”無冠の帝王”と呼ばれるべきだ」と評価する識者とマニアも多い。

◎A・ムーア 9回終了TKO ビヴィンズ
1951年2月21日/セント・ニコラス・アリーナ(リンク)
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=AZMaR2o4TeE

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<10>ロッキー・マルシアノ(米)/1990年殿堂入り
1951年10月26日/MSG,N.Y./8回TKO負け
オフィシャルスコア(7回まで):2-4/3-4/2-5
試合映像:https://www.youtube.com/watch?v=Inv30LbuZkU
※観客動員:17,241人
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生涯戦績:49戦49勝(43KO)
一~二昔前、強いボクサーと言えばアイリッシュかイタリア系と相場は決まっていた。イタリア系のスター王者や人気のコンテンダーは数多く、主役の座を優れた黒人の若者たちに譲った後も枚挙に暇はないけれど、イの一番に名前が挙がるとすればこの人しかいない。”ブロックトン・ブロックバスター”ことロッキー・マルシアノである。
黒人特有の下からアッパー気味に振り上げる、凄まじい左フック1発でチャールズをし止めて王座に就いた老練ウォルコットに挑戦したマルシアノは、豊富な経験と巧まざるセンスに裏づけされた駆け引きに苦しみながらも、終盤13ラウンドに必殺の”スージーQ(Suzy Q)”が炸裂。衰えを知らないジャージー・ジョーを完璧に眠らせて、悲願の世界一を射止めた。
ウォルコットとのリマッチを瞬殺で終えると、復活の執念を燃やすエザード・チャールズとの2連戦を含む6連続防衛に成功。判定決着となったのは、チャールズとの初戦のみ。そして1956年4月、引き分けとノー・コンテスト(ディシジョン)が1つもない、49戦全勝(43KO)のパーフェクト・レコードとベルトを持ったまま引退を表明。最後の挑戦者は、最後の最後までヘビー級制覇に挑み続けたL・ヘビーの帝王アーチー・ムーアだった。
子供の頃は大のベースボール・ファンで、第一の夢はメジャーリーガーだった。プロボクサーとしてデビューする1947年(23歳)、シカゴ・カブスのマイナー球団(クラスD~E)のキャンプに参加してテストを受けたが、3週間でクビになっている。中途半端に続けるよりも、スパっと切られたことでボクシング1本に絞る決断ができた。災い転じて福となすとはよく言ったものである。
マルシアノはお金に厳しく、金銭の出入りを巡って家庭内の摩擦を繰り返したとされるが、引退後に納税や生活に困窮することなく、一度も復帰せずに済んだ点は素直に評価されていい。1969年8月31日、乗っていたセスナが墜落。46歳の若さで天に召された。

◎マルシアノ 9回KO A・ムーア
1955年9月21日/ヤンキー・スタジアム
※観客動員:61,574人
https://www.youtube.com/watch?v=_pPfPUQopfg


殿堂入りした名選手との対戦の多寡について、中~重量級と軽量級を単純比較できないことは前章で示した通り。家庭用のTVが普及する以前、ラジオの時代へと遡れば遡るほど、こなす試合数の違いも影響して、年代が古い選手ほど名選手同士の対戦機会が増える。

そうした事情を前提にした上で、全試合中に占める構成比を記しておく。

こうやって数字をまとめると、ルイスの凄さがより一層明確になる。リマッチをやったコン,ウォルコットの4戦を含んで、26回ある世界戦のうち、4割近い8戦がホール・オブ・フェイマーで、判定まで持ち込んだのはウォルコットのみ。再起した後のビヴィンズ(10回戦)を加えても、フルラウンズ持ち応えたのはこの2人だけ。

そしてコンとウォルコットだけでなく、初戦でミソを付けられたアルトゥロ・ゴドイ(チリ)とエイブ・サイモン(米)の両者とも再戦に応じて、しっかり決着を着けている。1930年代のヘビー級を語る上で欠かすことのできないマックス・ベア、ジャック・シャーキー,プリモ・カルネラ(伊),パウリノ・ウスクデン(スペイン)の4人を倒している点も、画竜点睛を欠かずに済んでいる重要なポイント。

闘うべき相手と時期を逸し過ぎることなく闘い、スーパースターに求められる結果をしっかり残した。一度引退する前の敗北はシュメリングに喫した初黒星だけで、ピークを迎える前夜でもあり、若さ(トップレベルにおける経験の浅さ)を露呈した感は否めない。

世界戦での1敗は、引退を撤回して挑んだチャールズ戦。従軍(第二次大戦)による中断と加齢による衰えが明白で、ラストファイトのマルシアノ戦は痛々しくて見ていられない。ラリー・ホームズのパンチに反応できず、思わず恐怖を浮かべる老いたモハメッド・アリの顔が二重写しになる。


余りにも鈍くて重いアリを弱肉強食のリングから救い出す為、デビュー以来チーフとしてコーナーを率いたアンジェロ・ダンディが10ラウンド終了後に棄権を決めると、強硬に継続を主張する名物セコンドのバンディニ・ブラウンを大声で一喝。

「チーフはこの俺だ!(引っ込んでろ!)」

あれは歴史に残る名シーンだったと、今でも信じて疑わない。

「(パンチが飛んで)来るのがわかっているのによけられない。あんな経験は、後にも先にもあの時だけだ。恐ろしかったよ・・・」

今にして思えば、ホームズ戦の準備に入ったアリは滑舌が悪くなって、呂律が回っていない時があり、宿痾となるパーキンソン病の初期症状が顕在化し始めていた。長くアリの健康面をサポートしたチームドクターのファーディ・パチェコは、アリの復帰に反対を貫きチームを追われている。

アリが戦える状態に無いことは、トレーナーのダンディにもわかっていたと思う。だからこそのストップだった筈。「アリが戦うと決めた以上、コーナーに立つのは私だ。他の誰にも任せる訳にはいかない」と、90年代の中頃~後半だったと記憶するが、何かのインタビュー記事で読んだ。

残念なことに、ブラウン・ボンバーのコーナーにダンディはいない。マルシアノの豪打に晒され、止めの一撃をまともに受けてしまった。

14年8ヶ月(1934年7月~1949年3月/戦時下の中断含む)のプロキャリアで許した3敗は、すべてホール・オブ・フェイマーとの対戦になる。

※Part 5 へ


記録の罠 - モンスターのワールド・レコードについて Part 3 -

カテゴリ:
■数字は時に嘘をつく・・・ 世界戦通算勝利「22」

井上尚弥

■世界戦の通算KO勝利「22」- 偉大なる”ブラウン・ボンバー”との比較

前章で触れたせんない繰言が、ひょっとして現実になったとしよう。ジョー・ルイスの通算記録「22」の息を少しでも長らえさせるべく、4ラウンズのエキジビションに過ぎないジョニー・デイヴィス戦を、強引に世界タイトルマッチとしてカウントしてしまった。

仮にそうなってしまい、ルイスの通算KO勝利が「23」に増えたところで、次のピカソ戦でモンスターはすぐに追いつく。もしも9月にアフマダリエフが判定まで粘ったとしても、年末のリヤドでニック・ボール(英)と相まみえさえすれば、9割方の確率で5階級制覇と新記録を同時に達成できる。

ピカソ,アフマダリエフ,ボールとの3試合が、万が一にもすべて判定決着に終わったとしても、デッドラインの35歳まであと3年。そのうち2年間×3試合、ラスト・イヤーを2試合とすれば、残りの試合数は8。

大きな故障や病気などのアクシデントさえ無ければ、ブラウン・ボンバーの記録更新は決まったも同然であり、時間の問題ということになる。だがしかし、事はそう簡単に運びそうにない。

モンスターが23度目のKO勝ちを収めて、米英の主要なボクシング・メディアのSNSで報じられるや否や、あれやこれやと注文が付くだろう。どんな文句なのか、その内容もおおよその見当はつく。

では、その見当を羅列する前に、我らがモンスターの世界戦を再確認しておこう。

◎モンスターの世界戦:24戦24勝(22KO)
※通算戦績:29戦29勝(26KO)
*東京ドーム×1
**さいたまスーパーアリーナ×2
***有明アリーナ×5
****横浜アリーナ×2
#米/ラスベガス MGMグランド/ザ・バブル(無観客専用特設会場)
##米/ラスベガス ヴァージン・ホテルズ
###米/カリフォルニア ディグニティ・ヘルス・スポーツパーク
*#英/スコットランド SSEハイドロ

■L・フライ級(108ポンド/48.97キロ上限)/20歳11ヶ月~21歳7ヶ月
※呼称の違い:IBFとWBO=J・フライ級(旧来通り)
(1)2014年4月6日 アドリアン・エルナンデス(メキシコ)6回TKO勝ち
(WBC L・フライ級獲得/WBC4位として挑戦)
(2)2014年9月5日 サマートレック・ゴーキャットジム(タイ/WBC13位)11回TKO勝ち
(WBC L・フライ V1)
※2014年11月6日返上
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■S・フライ級(115ポンド/52.16キロ上限)/21歳8ヶ月~24歳11ヶ月
※呼称の違い:IBFとWBO=J・バンタム級(旧来通り)
(3)2014年12月30日 オマール・ナルバエス(亜)2回TKO勝ち
(WBO J・バンタム級獲得/2階級制覇/WBO8位として挑戦)
(4)2015年12月29日 ワルリト・パレナス(比/WBO1位)2回TKO勝ち
(WBO J・バンタム V1)
(5)2016年5月8日 デヴィッド・カルモナ(メキシコ/WBO1位)12回3-0判定勝ち
(WBO J・バンタム V2)
(6)2016年9月4日 ペッチバンボーン・ゴーキャットジム(タイ/WBO1位)10回KO勝ち
(WBO J・バンタム V3)
(7)2016年12月30日 河野公平(ワタナベ/元WBA王者・WBO10位)6回TKO勝ち
(WBO J・バンタム V4)
(8)2017年5月21日 リカルド・ロドリゲス(米/WBO2位)3回KO勝ち
(WBO J・バンタム V5)
(9)2017年9月9日 アントニオ・ニエベス(米/WBO7位)6回終了TKO勝ち
(WBO J・バンタム V6)###
(10)2017年12月30日 ヨアン・ボワイヨ(仏/WBO6位)3回TKO勝ち
(WBO J・バンタム V7)****
※2018年3月6日返上
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■バンタム級(118ポンド/53.52キロ上限)/25歳1ヶ月~29歳9ヶ月
(11)2018年5月25日 ジェイミー・マクドネル(英)1回TKO勝ち
(WBAバンタム級獲得/3階級制覇/WBA2位として挑戦)
(12)2018年10月7日 ファン・C・パジャーノ(ドミニカ/元WBA SP王者/4位)1回KO勝ち
(WBAバンタム V1/WBSS初戦)****
(13)2019年5月18日 エマヌエル・ロドリゲス(プエルトリコ/IBF王者)2回TKO勝ち
(IBFバンタム級獲得・WBAバンタムV2・2団体統一/WBSS準決勝)*#
(14)2019年11月7日 ノニト・ドネア(比/WBA SP王者)12回3-0判定勝ち
(WBA:V3/IBF:V1)**
(15)2020年10月31日 ジェイソン・モロニー(豪/WBO1位)7回KO勝ち
(WBA:V4/IBF:V2)#
(16)2021年6月19日 マイケル・ダスマリナス(比/IBF1位)3回TKO勝ち
(WBA:V5/IBF:V3)##
(17)2021年12月14日 アラン・ディパエン(タイ/IBF5位)8回TKO勝ち
(WBA:V6/IBF:V4)
(18)2022年6月7日 ノニト・ドネア(比/WBC王者)2回TKO勝ち
(WBCバンタム級獲得 WBA:V7/IBF:V5/3団体統一)**
(19)2022年12月13日 ポール・バトラー(英/WBO王者)11回KO勝ち
(WBOバンタム級獲得 WBA:V6/IBF;V4/WBC:V1/4団体統一)***
※2023年1月13日返上
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■S・バンタム級(122ポンド/55.34キロ上限)/30歳3ヶ月~在位中
※呼称の違い:IBFとWBO=J・フェザー級(旧来通り)
(20)2023年7月25日 スティーブン・フルトン(米)8回TKO勝ち
(WBC・WBO S・バンタム級獲得/4階級制覇/WBC・WBO1位として挑戦)***
(21)2023年12月26日 マーロン・タパレス(比)10回KO勝ち
(WBA・IBF S・バンタム級獲得 WBC・WBO:V1/4団体統一)***
(22)2024年5月6日 ルイス・ネリー(メキシコ/WBC1位)6回TKO勝ち
(WBA・IBF:V1/WBC・WBO:V2)*
(23)2024年9月3日 T・J・ドヘニー(アイルランド/WBO2位)7回TKO勝ち
(WBA・IBF:V2/WBC・WBO:V3)***
(24)2025年1月24日 キム・イェジョン(韓/WBO11位)4回KO勝ち
(WBA・IBF:V3/WBC・WBO:V4)***
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(25)2025年6月14日 アラン・ピカソ(メキシコ/WBC1位):米/ラスベガス
(26)2025年9月 ムロジョン・アフマダリエフ(ウズベキスタン/WBA暫定王者):開催地未定
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■フェザー級(126ポンド/57.15キロ上限)?
(27)2025年12月 ニック・ボール(英):リヤド/WBA世界フェザー級タイトル挑戦
※ボール戦が正式決定した場合:S・バンタム級王座を保持したまま挑戦。フェザー級王座は獲得後即返上して、S・バンタムに戻るとの意向を明らかにしている(中谷潤人戦に備えて?)。

◎Monster Milestones: Naoya Inoue | FULL EPISODE
2024年8月26日/Top Rank公式


◎Naoya Inoue's Destructive Knockout Power
2024年4月24日/Top Rank公式


では、今をときめくモンスターに対して、在米記者と識者,年季の入ったマニアたちは、どんな注文(難癖?)を付けてくるのか。想定できる幾つかを記すと・・・。

「認定団体は事実上NBAただ1つ。そして正統8階級しかない時代に、10年以上に渡ってヘビー級を完全に統治した偉大なブラウン・ボンバーと、階級が倍増(3→7)した軽量級のナオヤを同列に語るのは難しい。4つに分裂したベルトをまとめたことは評価に値するが・・・」

「ナオヤは素晴らしいボクサーだ。プロで12年以上戦って未だに無敗であり、異なる4つの階級で王者となり、そのうち2つで4団体を統一した。(男性では)クロフォード,ウシク,ナオヤの3人しかいない。ただ、戦績の中身が違う。」

「ルイスは多くのホール・オブ・フェイマーと激闘を繰り広げて勝ち残り、近代ボクシングの歴史そのものと表すべきヘビー級で、10年以上もベルトを守り続けた。ナオヤのレコードに載る真のビッグネームは、ドネアただ1人。初戦の彼は本当によくやったが、ピークを過ぎて久しく、スピード&反応も落ちていた。」

「王者の乱立と、水増しされたランカーの爆増。ナオヤが倒したチャレンジャーの中に、11位以下の実質ノーランカーは2~3人だけだが、現在のS・バンタムには、かつてのウィルフレド・ゴメス、ジェフ・フェネックにタイのサーマート、エリック・モラレスとマルコ・A・バレラ、イスラエル・バスケスにラファエル・マルケスのような本物がいない。」

「バンタムも同じだ。エデル・ジョフレとマサヒコ・ファイティング・ハラダ(原田)、ルーベン・オリバレスにサラテとサモラのZボーイズ、ルペ・ピントール,ジェフ・チャンドラー,ヒバロ・ペレス,オーランド・カニザレス。彼らに匹敵する実力者は見当たらない。」

「ジョニー・タピアが蘇って118~122で闘ったら、勝敗はともかく、モンスターを無事には済まさないだろう。現代のボクシングの相対的なレベルは、明らかに低下している。だからこそ、モンスターの強さが一層際立つ。彼らとモンスターが真正面からぶつかったら・・・誰だってワクワクせずにはいられないだろう!?」


悔しいけれど、いちいちごもっとも。ただし、4団体の分裂も15位まで居並ぶランカーの数も、現代を生きる選手たちに一切責任はない。だって、モンスターが座間で産声を上げた1993年、ミニマム級とS・ミドル級を除く15の階級は既に世界王座の価値と権威を認められて定着していた。

4つに分かれた認定団体も、新参のIBFが設立から10年目を迎えて認知を確立。5年目のWBOはまだまだ認知が進んでおらず、ナジーム・ハメドとバレラ、デラ・ホーヤらの快進撃がスタートする前夜。世界タイトルとは名ばかりのマイナー団体として、扱われ方は設立当初のIBF以下。ただひたすら、じっと耐えるのみ。

数多の非難と拒絶反応にめげることなく、12~15位への拡大が認知され出した世界ランキングと、それ以上に批判の多かった暫定王座制度も、「常に独断先行するWBC・始めは否定的でも必ず後追いするWBA(とIBF)」の基本的な構図に変わりはない。

経済原則(承認料収入の確保)には抗えず、後発のIBFとWBOが勝手にやり出した実体無き地域王座の乱発(陣取り合戦)にストップをかけるどころか、老舗の2団体まで同じ手口で対抗する始末。有力プロモーターとの呉越同舟にも拍車がかかる。


小さな日本人が中量級と重量級のスターを凌駕することに、大層ご不満で承服できないのはわかるが、鬱憤をぶつける相手が違う。空前絶後のミラクル・フィストを持ってしても、この壁だけはぶち破ることができない。

強力なライバル不在もまた、モンスターが責任を問われる課題ではまったく無く、各国各地域の統括組織と関係者たちが知恵を絞り、競技人口の減少スピードを少しでも緩やかに減速させるしかないと思う。


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◎ホール・オブ・フェイマーとP4P・・・軽量級の選出を阻む開かずの扉

そして、「ホール・オブ・フェイマーとの激闘」云々は、これこそ本当に勘弁して貰いたい。もともと米英は中~重量級中心にマーケットが形成されていて、軽量級の需要が少なく扱いも低かった歴史的経緯がある。

100年の歴史を持つリング誌の「ファイター・オブ・ジ・イヤー」は、「選出=将来の殿堂入り」との印象が強い。1922年から102回の選出(1933年:該当者無し)を毎年行ってきたが、ヘビー級を文字通りの大黒柱として、ウェルター級とミドル級を軸にした中~重量級が大勢を占めている上、そのほとんどが殿堂入りしているからだ。

フェザー級以下の階級から選ばれた精鋭は、以下に列挙した通り僅か7名に過ぎず、投票権を持つ記者が相当数重複するBWAA(Boxing Writers Association of America:1938年から選出開始)はさらに少なく、リング誌と同時受賞のフランプトン,モンスターと、BWAA単独選出となったドネアの3名しかいない。

リング誌とBWAAで判断が分かれた2012年のドネアを含めても、王国アメリカが認めたフェザー級以下の年間MVPは、1世紀に渡る歴史の中で8名ということになる。

◎リング誌ファイター・オブ・ジ・イヤー:フェザー級以下
<1>1945年:ウィリー・ペップ(フェザー級/1990年殿堂入り)
<2>1977年:カルロス・サラテ(バンタム級/1994年殿堂入り)
<3>1981年:サルバドル・サンチェス(フェザー級/1991年殿堂入り)
<4>1993年:マイケル・カルバハル(J・フライ級/2006年殿堂入り)
<5>1999年:ポーリー・アヤラ(バンタム級)
<6>2016年:カール・フランプトン(S・バンタム~フェザー級)
<7>2023年:井上尚弥(S・バンタム級)
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※ペップ:元王者フィル・テラノヴァとの防衛戦(N.Y.公認/MSG/V2)を含む年間7戦6勝(1KO)1分け
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※サラテ:世界中の注目を集めた「Zボーイズ」の片割れアルフォンソ・サモラ(WBA王者)との無敗対決に4回TKO勝ち(10回戦)=事実上の統一戦=を含む年間4試合(V3)
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※サンチェス:無敵のJ・フェザー級王者ウィルフレド・ゴメスに8回KO勝ち(V6)=を含む年間5試合(全勝/V4)/シュガー・レイ・レナード(ファイト・オブ・ジ・イヤーをW受賞したハーンズとの統一戦に劇的な逆転勝ち)との2人受賞
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※カルバハル:伝説となった「vs チキータ三部作(最軽量ゾーン史上初の100万ドルファイト)」の初戦における7回KO勝ちを含む年間3度の防衛(ファイト・オブ・ジ・イヤーとの同時受賞)
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※アヤラ:WBA王座を獲得したジョニー・タピア戦がファイト・オブ・ジ・イヤーをW受賞
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※フランプトン:レオ・サンタクルスを破ってWBAフェザー級スーパー王座獲得(2階級制覇)


◎BWAAファイター・オブ・ジ・イヤー(シュガー・レイ・ロビンソン賞):フェザー級以下
<1>2012年:ノニト・ドネア(S・バンタム級)
<2>2016年:カール・フランプトン(リング誌とのW受賞)
<3>2023年:井上尚弥(リング誌とのW受賞)
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※2012年のリング誌:ファン・M・マルケス(パッキャオ第4戦で歴史に残るKO勝ち)
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※2017年に両方ともFOYに選ばれたロマチェンコは、130ポンドのWBO王者としてリゴンドウ戦を含む年間3度の防衛に成功。
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※BWAAは1976年度にモントリオール五輪で金メダルを獲得した5名を同時に選出・表彰。レオン(L・ヘビー)とマイケル(ミドル)のスピンクス兄弟,レイ・レナード(L・ウェルター),ハワード・ディヴィス(ライト)とともに、フライ級のレオ・ランドルフも栄誉に浴しているが極めて稀な例外的表彰。


ご覧いただいて分かる通り、最も権威を認められたリング誌とBWAAの年間MVPは、概ねライト級が対象範囲の下限と見ても間違いではなく、フェザー級以下の軽量級からの選出は異例中の異例と表していい。

フェザー級以下のファイター・オブ・ジ・イヤー
写真上左から:W・ペップ,C・サラテ,S・サンチェス,M・カルバハル
写真下左から:P・アヤラ,C・フランプトン,N・ドネア(BWAA表彰),井上尚弥


栄えある年間MVPに選出されたにも拘らず、ラストファイトから5年経過(資格条件)した後も、国際ボクシング殿堂から招待状が届いていない選手は、ただ今のところは以下の5名しかいない。

◎有資格・未選出
<1>1947年ガス・レスネヴィッチ(米/世界L・ヘビー級王者)Last:1949年8月
<2>1999年:ポーリー・アヤラ(バンタム級)
<3>2002年ヴァーノン・フォレスト(米/元2階級制覇王者/ウェルター,S・ウェルター)Last:2008年9月
<4>2004年グレン・ジョンソン(ジャマイカ/元IBF L・ヘビー級王者)Last:2015年8月
<5>2013年アドニス・スティーブンソン(カナダ/元WBC L・ヘビー級王者)Last:2018年1月

殿堂未選出の年間MVPたち
※左から:レスネヴィッチ,フォレスト,ジョンソン,スティーブンソン


セルヒオ・マルティネス

有資格となる2020年に45歳でカムバックしてしまったセルヒオ・マルティネス(亜)は、ポール・ウィリアムズを狙い済ました左の一撃で沈めた2010年の選出。カっと目を見開いたまま失神するウィリアムズの姿を思い出すたび、全身を襲った戦慄が確かな実感を伴って蘇る。

ドネア vs モンティエル,R・ジョーンズ vs A・ターヴァー第1戦,パッキャオ vs ハットン,パッキャオ vs マルケス4,モンスター vs ドネア2,中谷潤人 vs A・モロニー戦等々をも凌駕する、ボクシングの怖さと魅力のすべてが集約・凝縮された瞬間だった。

完全アウェイのオン・ザ・ロードを生き残り、「リング誌FOY+P4P1位(ベスト3)」を達成したマラヴィーリャは、殿堂入り当確と考えるのがセオリー。大人しくしていれば、速攻でキャナストゥータに招かれていた筈。

余計なお世話と怒られるかもしれないが、”ポーリーの再来”になりそうな予感が漂うフランプトン。来(2026)年4月、最後の試合から5年を経過する。2010年年代半ば~後半の122~126ポンドを大いに盛り上げた小柄なアイリッシュに、狭き門の扉は開いてくれるのだろうか?。


2017年のロマチェンコ以降、ウシク(2018年),カネロ(2019年),フューリー(2回目)&テオフィモ(2020年),カネロ(2021年/2回目),ビヴォル(2021年),モンスター(2023年)と続き、昨年度はウシクが2度目の栄冠を射止めた。

ロマ,ウシク,カネロの3名と、年間MVPには縁が無いクロフォードは、現時点で既に殿堂入り当確で間違いなし。余程のスキャンダルに見舞われたとしても、多少の前後はあってもきっと招かれる。八百長の発覚や米国内での第1級殺人(有罪確定)とかになれば話は別だが、同居の女性(3人目)を2階から投げ落として命を奪ったカルロス・モンソンと、レイプで実刑判決を受けたマイク・タイソンも無事キャナストゥータに召喚されているし、この人たちに限ってそうした心配は無用だろう。

勿論、我らがモンスターも昨年当確を打った。驚くべき異能・難敵の出現や、モンスター自身増量の限界に達して誰かに名をなさしめることがあっても、キャリアトータルの評価が揺らぐことはおそらくない。

当落線上のラインぎりぎりにいる可能性が高いフューリーは、恒例行事の引退声明を出したばかり(何度目?)。ジュシュア戦の条件闘争と見る向きが大勢で、まともに信じるファンは少数派になる。仮にジョシュア戦が行われて勝ったとしても、A・Jがバリューを大きく落としてしまった後だけに、殿堂入りの決め手になるかどうかは微妙。

今月22日に再びリヤド開催でセットされた、ベテルビエフとのリマッチが迫るビヴォル。まずはリベンジの成功が第一の関門になるが、テオフィモともども、今後どこまで巻き返せるのかにすべてが懸かる。


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モンスターが戦ってきた29名の対戦相手の中で、近い将来(最短で)の殿堂入りが確約されているのはドネアだけであり、他に可能性があるとすればナルバエスということになるが、2018年4月にベルファストでゾラニ・テテ(南ア/WBOバンタム級)に挑戦して判定負けした後、2019年5月に同胞の無名選手に10回判定勝ちを収めたが、12月21日にやはり無名の中堅選手に10回判定負け(1-2)して以降、実戦のリングに戻っていない。

正式に引退のアナウンスがあったのかどうかは判然としないが、既にアマチュアの指導者(ジュニア・ユース世代)として第二の人生をスタートしたと報じられており、49歳という年齢を考えても復帰はまず無いと思われる。


昨年5月の時点で、最後の敗北から丸5年を経過。殿堂入りの基準を満たしているが、パッキャオ,ビニー・パジエンザ,マイケル・ナンらが選ばれた2025年度インダクティーズのリストに、ナルバエスの名前は無かった。

◎Class of 2025 Announced In Canastota!
2024年12月5日/IBHOF
http://www.ibhof.com/pages/inductionweekend/2025/announce_25.html


2大会連続で五輪出場(1996年アトランタ,2000年シドニー:いずれも2回戦敗退)を果たし、世界選手権でも2大会でメダルを獲得(1997年銅/1999年銀:いずれもフライ級)したトップ・エリートで、プロに転じてWBOのフライ級とJ・バンタム級の2階級を制覇。

フライ級は連続16回の防衛に成功して、70年代のミドル級に君臨したカルロス・モンソンの14回を抜き、アルゼンチンの国内最多記録を樹立(歴史的な評価でモンソンを抜くことはまず無いけれど)。続くJ・バンタム級も連続11回守り、通算の防衛回数は27回に上る。

オマール・ナルバエス(2014年)
■生涯戦績:55戦49勝(25KO)4敗2分け(KO率:51%)
◎世界戦通算:31戦29勝(12KO)3敗1分け
※在位期間:通算11年10ヶ月
<1>WBOフライ級:7年3ヶ月/2002年7月~2009年10月
<2>WBO J・バンタム級:4年7ヶ月/2010年5月~2014年12月

◎33歳当時の試合映像:ラヨンタ・ホイットフィールド(米)戦
2009年2月7日/プエルト・マドリン(亜)
10回TKO勝ち(WBOフライ級V15)
五輪代表候補の長身黒人アマ・エリート(公称170センチ)を一蹴。モンソンの記録(V14)を抜く。
※9回までのスコア:90-79×2,88-81)


殿堂入りの資格は十二分に有していると思うけれど、最短での選出は叶わなかった。投票権を持つ記者たちには、何が不足と映ったのだろうか。そこは幾ら詮索してみたところでせんないことではあるが、以下の諸要素がマイナスに響いたように思う。

<1>渡米は1回のみ(2011年10月のドネア戦:WBC・WBO統一バンタム級王座挑戦)
<2>統一戦をやっていない
<3>ビッグネームとの対戦が少ない(ドネアと井上の2名)
<4>世界王者経験者との対戦:8戦5勝3敗(KO勝ちゼロ)
<5>J・バンタムに上げて以降KO勝ちが目にみえて減った
<6>J・バンタム級でのV11中半数の5名が11位以下の実質ノーランカー+1名がバンタム級のローカル王者(正真正銘のノーランカー)
※フライ級:V16中11位以下は4名
<7>唯一の渡米となったドネア戦での守備的かつ消極的な姿勢

◎試合映像:ドネア戦
2011年10月22日/MSGシアター,N.Y.
12回0-3判定負け(120-108×3)
ttps://www.youtube.com/watch?v=04q1ASURchk

何だかんだと言いながら、アメリカのスポーツ界はアメリカに来ることを要求する。そしてアメリカで認められる為には、アメリカで記憶に残る結果を繰り返し残すことが不可欠。

ドネア戦のディフェンス一辺倒は、「勝つ気があるのか?」と謗られても止むを得ないものではあった。モンスターを目の前に、ひたすら延命に撤するだけだったポール・バトラー,アラン・ディパエン,T・J・ドヘニーに匹敵すると言ったら、きっとナルバエスはプライドを傷つけられて気分を害するだろうが、それぐらい打たれないことに専念していた。

ただしバトラーたちと違うのは、得意の脚を使ってドネアの間合いを外しながら、少ないながらも見映えのいいパンチを当てていたこと。正確なジャブ&ショートで、ドネアの顔を腫らすことには成功した。

もしも母国アルゼンチンで開催されていたら、中差程度のマージンでナルバエスの手が挙がっていたかもしれないと、妄想に近い想像を巡らせたことを思い出す。


※当たり前だが21歳のモンスターが細い

160センチに満たないサイズの不利を考慮せずとも、最軽量ゾーンでのKO率5割超えは充分過ぎる数値。フライ級時代には7連続KO防衛も記録していて、数字だけで判断すれば強打者に分類されるが、ナルバエスの場合は技術&タイミングをベースに,手数でストップに追い込む「倒すこともできる技巧派」。

(1)フライ級:7戦5勝(2KO)2敗
(2)J・バンタム級:16戦14勝(4KO)1敗
(2)フライ級:32戦30勝(19KO)2分け

モンスターのP4P1位と年間MVPは、米本土で3回(ラスベガス2回+カリフォルニア1回)戦い、ジェイソン・モロニーとダスマリナスを印象的なKOでフィニッシュしたことに加えて、英国スコットランドに遠征して、IBF王者だったマニー・ロドリゲスを僅か2ラウンドで破壊した、戦慄的なKOが強い追い風になったのは確かだと思う。


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記録の罠 - モンスターのワールド・レコードについて Part 2 -

カテゴリ:
■数字は時に嘘をつく ・・・ 世界戦通算勝利「22」

井上尚弥

■世界戦の通算KO勝利「22」-偉大なる”ブラウン・ボンバー”との比較

「彼は人種の誇りだ。人類という人種の・・・(Yes, Louis was a credit to his race - the human race.)」

ニューヨーク・ポストで健筆を振るったジミー・キャノン記者による、余りにも有名な一文。「褐色の爆撃機」がヘビー級の頂点に君臨したのは、映画「シンデレラ・マン」のモデルになったジェームズ・ジム・ブラドックをKOして王座に就いた1937年6月22日から、引退と返上を正式に表明した1949年3月1日まで、およそ11年9ヶ月余りに及ぶ。

この間、1942年1月14日~1945年10月1日までの約3年9ヶ月、ルイスは陸軍に従軍した。ルイスに限らず、そして期間の長短は別にして、米国人の世界チャンピオンやランカー、著名選手の多くが陸軍に従軍したが、実際に戦地に派遣されることは稀で、本人がよほど強く志願しない限り、兵士の慰問や募集活動への貢献が目的であり、NBA(現在のWBA)は従軍した王者の防衛義務を免除した。

各階級のトップコンテンダー、とりわけ「無冠の帝王」的存在として知られた真の実力者にとって実に手痛い待機期間となったが、第二次大戦による休止期間として知られている。


◎ジョー・ルイス(米)
ジョー・ルイス(1938年)
1914年5月13日~ 1981年4月12日(66歳没)
生涯戦績:71戦68勝(54KO)3敗
1990年国際ボクシング殿堂入り
※写真:1938年,24歳当時(史上に名高いマックス・シュメリングとの第2戦が行われた)


◎ルイスの世界戦:27戦26勝(22KO)1敗(25回連続防衛)
*:マディソン・スクウェア・ガーデン
**:旧ヤンキー・スタジアム
***ポログラウンド(1890年~1963年までN.Y.市内にあったベースボール・スタジアム)

■23歳1ヶ月~34歳10ヶ月
(1)1937年6月22日 ジェームズ・J・ブラドック(米)8回KO勝ち(王座獲得)
(2)1937年8月30日 トミー・ファー(英)15回3-0判定勝ち(V1)**
(3)1938年2月23日 ネイサン・マン(米)3回KO勝ち(V2)
(4)1938年4月4日 ハリー・トーマス(米)5回KO勝ち(V3)
(5)1938年6月22日 マックス・シュメリング(独)1回TKO勝ち(V4)**
(6)1939年1月25日 ジョン・ヘンリー・ルイス(米)1回KO勝ち(V5)*
※J・H・ルイス:現役世界L・ヘビー級王者
(7)1939年4月17日 ジャック・ロパー(米)1回KO勝ち(V6)
(8)1939年6月28日 トニー・ガレント(米)4回TKO勝ち(V7)**
(9)1939年9月20日 ボブ・パスター(米)11回KO勝ち(V8)
(10)1940年2月9日 アルトゥロ・ゴドイ(チリ)15回2-1判定勝ち(V9)*
(11)1940年3月29日 ジョニー・ペイチェク(V10)
(12)1940年6月20日 アルトゥロ・ゴドイ(チリ)8回TKO勝ち(V11)**
(13)1940年12月16日 アル・マッコイ(米)6回TKO勝ち(V12)
(14)1941年1月31日 レッド・バーマン(米)5回KO勝ち(V13)*
(15)1941年2月17日 ガス・ドラジオ(米)2回KO勝ち(V14)
(16)1941年3月21日 エイブ・サイモン(米)13回TKO勝ち(V15)
(17)1941年4月8日 トニー・マスト(米)9回TKO勝ち(V16)
(18)1941年5月23日 バディ・ベア(米)7回反則勝ち(V17)
(19)1941年6月18日 ビリー・コン(米)13回KO勝ち(V18)***
(20)1941年9月29日 ルゥ・ノヴァ(米)6回TKO勝ち(V19)***
(21)1942年1月9日 バディ・ベア(米)1回KO勝ち(V20)*
(22)1942年3月27日 エイブ・サイモン(米)6回TKO勝ち(V21)*
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※第二次大戦による休止期間
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(23)1946年6月19日 ビリー・コン(米)8回KO勝ち(V22)**
(24)1946年9月18日 タミー・マウリエロ(米)1回KO勝ち(V23)**
(25)1947年12月5日 ジャージー・ジョー・ウォルコット(米)15回2-1判定勝ち(V24)
(26)1948年6月25日 ジャージー・J・ウォルコット(米)11回KO勝ち(V25)
※1949年3月1日 引退表明/王座返上
(27)1950年9月27日 エザード・チャールズ(米)15回0-3判定負け(復帰/世界王座挑戦)


従軍後の1942年3月と6月、かさむ一方の戦費調達と戦意高揚の為、ルイスはチャリティ・イベントとして防衛戦とエキジビションを行う(ルイスは自身のギャランティを全額軍に寄付)。

3月27日にニューヨークの殿堂マディソン・スクウェア・ガーデン(MSG)で、エイブ・サイモンとの再戦に13回TKO勝ち(V21)。6月5日には旧ヤンキー・スタジアムで3ラウンドのエキジビションを行い、1年後の1944年11月にエキジビションを再開(戦費調達のチャリティ興行)するまでリングから離れている。

1945年10月1日に除隊したルイスは、同年11月~12月にかけて計9回のエキジビションをこなすと、翌1946年6月19日、旧ヤンキー・スタジアムでL・ヘビー級王座を返上したビリー・コン(米)との防衛戦(5年越しの再戦:V22)で実戦に復帰。

公式戦だけで見ると、ルイスのブランクは1942年3月27日~1946年6月19日までの約4年3ヶ月ということになる。


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◎ルイスの防衛記録は25ではなく26?

そして1944年11月のチャリティ・エキジビションは、ミシガン,メリーランド,ワシントンDC,ニューヨークといった東部で計8回開催されているが、11月14日にニューヨーク州バッファローで行われたジョニー・ディヴィス戦について、世界戦か否かに関する議論があり、今に至るまで完全決着できていない。

ニューヨーク州アスレチック・コミッション(NYSAC)の余計な(?)配慮と決定が、厄介な揉め事の発端になった。4回戦のエキジビションとして組まれたこの試合を、NYSACが世界タイトルマッチとして承認したというのだ。

結果はルイスの初回KO勝ち。205ポンドで計量したルイスが、190ポンドのディヴィスを問題にせず一蹴(クルーザー級は影も形も無く190ポンドは立派なヘビー級ではあったが)。

◎ルイス vs ディヴィス戦を報じる新聞記事
<1>「Brooklyn Eagle」1944年11月16日(15ページ)
1944年11月16日「Brooklyn Eagle」

<2>United Press 1944年11月15日
One Punch By Louis Puts Davis Away
https://news.google.com/newspapers?nid=1129&dat=19441115&id=85BRAAAAIBAJ&sjid=0mkDAAAAIBAJ&pg=4847,573012&hl=en

もしもこの勝利が世界戦に含まれた場合、ルイスの通算KO勝利は23になり、我らがモンスターは、5月ラスベガスで内定(?)したアラン・ピカソ(メキシコ)との次戦で、大方の目論見通りKO防衛を果たしても記録更新とはならず、9月のアフマダリエフ戦(?)までお預けを食らう。


もっとも、ルイスの通算防衛回数が25から26(世界戦通算勝利も26から27)に、そして通算のKO勝ちが22から23に増える可能性は、ただ今の時点ではほとんどゼロに近い、茶飲み話にすらならない世迷言の類に過ぎないと申し上げていいだろう。

そもそも論として、4ラウンズのエキジビションを世界戦として承認することの非常識と非合理を指摘しなければならない。限度を超えた欺瞞、嘘偽りでしかない上、世界戦を15ラウンド制と規定したNYSACのルールに自ら反していることが挙げられる。

さらに問題なのが、ディヴィスの実力。単にノーランカーだったというだけでなく、世界タイトルの挑戦者に相応しい実績の持ち主とは口が裂けても言えない(Boxrecが網羅している戦績:5勝20敗)。

コミッション制度が未だ確立への途上にあった1930~40年代までの在米プロボクサーのレコードは、10%正しいとまでは言い切れない。特に無名選手であればある程、信頼性は薄れて行く。

実はディヴィスにも、記録から漏れている実戦がまだ他にあった可能性は残る。とは言え、プロ25戦で20%の勝率が、奇跡的に埋もれていた記録が掘り起こされたとしても、70~80%に大逆転する確率がどのくらいあるのかと・・・。

だからこそ、ナット・フライシャーを始めとする著名なヒストリアンと識者たちは、防衛戦には含まない,含むべきではないと至極当たり前の主張を続け、ほとんど総ての在米ファンと関係者たちは、疑問を差し挟む余地のない事実として支持してきた。

◎デイヴィス戦に関するBoxrecの解説とコミュニティページ
<1>Joe Louis vs. Johnny Davis
https://boxrec.com/wiki/index.php/Joe_Louis_vs._Johnny_Davis#:~:text=Sergeant%20Joe%20Louis%2C%20world%27s%20heavyweight,fans%20at%20Memorial%20Auditorium%20here.

<2>Joe Louis vrs Johnny Davis(1944)-A Title fight for the Heavyweight Championship of the World?
https://boxrec.com/forum/viewtopic.php?t=195280


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◎いかようにも解釈&変更可能? - 記録に対する評価の基準と条件

「ベースボールこそ、良き隣人としてのアメリカを世界に向けてアピールできる最良最高のツール。」

拙ブログ管理人はそう信じて疑わない。昭和の男の子にとって必須欠くべからざる遊びだった「三角ベース」を簡単にルール整備した上で、軟球をより柔らかくしたゴム製のボールと人を傷けないプラスティック・バットをたくさん用意して、女子のソフトボールと一緒に世界中の子供たちに普及したらいいのにと、無責任に夢想することがある。

競技人口の裾野が少しでも拡大して、野球とソフトに親しむ国と地域が増えれば、やがてMLBとNPBに進む優れた才能も出てくるだろうし、IOCも面と向かっての冷遇はしづらくなる筈。

MLB機構に協力を打診して、日米が手を携えて息の長い活動に成長させることができたら、アメリカに対するネガティブな印象を変えることも夢ではない。トランプ大統領なら、号令をかけてくれそうな気もするのだが・・・。


1人の無名の若者として海を渡り、年俸800万円のマイナー契約から始めて才能を花開かせた野茂英雄の成功に続き、数多くの日本人プレイヤーがMLBの公式戦を戦う時代になった。

NPBのFA資格を取得した新庄剛志が、シブちんで知られる阪神タイガースが提示した「5年契約・総額12億円(推定)」を蹴って、年俸20万ドル(当時のレートで約2,200万円/契約金30万ドル)でニューヨークへ飛んだ時は本当にびっくりしたが、日本国内では破格といっていい好条件を棒に振り、最高峰のメジャーを目指す蛮勇(チャレンジ精神と心意気)を、アメリカのファンと記者たちは想像を超える好評価で迎え入れてくれた。

しかし、自身の世界記録(4,256安打)を遂に抜かれた後、「日米通算なんて絶対に認めない。メジャーで打ったヒットだけを対象にすべきだ」と、イチローの4,367本(メジャー通算3,089本)のギネス認定を否定し、「世界一は俺だ!」と言い張り続けたピート・ローズのように、ものの道理を解しないわからず屋はどこにでも居る。

ピート・ローズ:引退後(左)と現役時代(右)

「日本で打った1,278本をプラスするなら、ローズがマイナーで叩き出した316本も上乗せしろ(通算4.683本)」と声高に叫ぶ在米記者とファンも同様で、援軍を得たローズはこれ幸いと尻馬に乗って同じことを言い出し、「俺の記録にマイナーのヒット数が足されたら、日本人はイチローのハイスクールの数字を持ち出すんだろ?」と悪態を吐(つ)く。

NPBの一軍をマイナーリーグ(AAA~AA)扱いされるのは、昭和を生きた野球小僧なら甘んじて受け入れるに違いない。

野球賭博の醜聞に塗れてMLBを追放処分となり、殿堂入りの栄誉に浴することなくこの世を去ったローズは、意図的にヒールを演じていたとの説もある。これだけの実績と名声を残しながら、身から出た錆とは言え、MLBを石持て追われたことで耐え難い傷を心に負い、人として最も大切なものの何かが歪んでしまったとしてもわからなくはないけれども。


「世界一?。僕の場合は日米通算ですから・・・」と述べるに止めたイチローに、「いやいや、彼のような選手に追い抜かれて光栄だよ」と、わだかまりなく笑顔でエールを贈ることこそ、1つの分野で頂点を極めた超一流の振る舞いではないのか。

メジャー契約を結んだ野手第1号として、日本人の大いなる期待を双肩に担いシアトル・マリナーズに入団したイチローは、ルーキーイヤーの2001年にいきなり3割5分の高打率で首位打者となり、盗塁王(56)と併せてMVPも獲得(8本塁打・69打点)。圧倒的な打撃技術と走力(スピード)、守備範囲の広さ、”レーザー・ビーム”と呼ばれた鉄砲肩でメジャーを席巻。

”魔球”と称されたフォークボールと、独特の投球フォームでトルネード旋風を吹き荒して、ストライキ騒動による深刻なファン離れを食い止めた1995年の野茂を超えるセンセーショナルなデビューを飾った後、2004年にシーズン262本の最多安打をマーク。世界記録を更新した。


それまでの世界チャンピオンは、神代の時代にシーズン4割を打ったジョージ・シスラーが1920年に放った257本で、同じ年に.407を達成している。84年振りの世界記録更新に、日本のファンは2度目のMVP選出への願いを膨らませる。

拙ブログ管理人もアメリカ人のフェアネスに期待を寄せたが、ア・リーグはシアトルと同じ西地区のアナハイム・エンゼルスを優勝に導いた主砲ゲレーロ(打率.337・39本塁打・126打点)が選ばれ、ナ・リーグもサンフランシスコの絶対王者バリー・ボンズ(打率.362・45本塁打・101打点)が獲得(ジャイアンツは地区2位)。

イチローは率でも.372を残して、見事2度目(にして最後の)首位打者に輝いたものの、シアトルは63勝99敗と大きく負け越し。悲惨な数字で西地区の最下位(12年ぶり/監督も解任)に甘んじたことが、選考に大きな影響を与えたとされるが、イチローを7位とした投票について、異論を唱える記者と識者が居てくれたのがせめてもの救いだった。

シーズン最多262安打の新記録を達成したイチロー:2004年10月3日・セーフコ・フィールド
※写真左:記録更新の歴史的快挙に沸くホームスタジアムで大声援に応えるイチロー
※写真右:セーフコ・フィールドに招かれたシスラーのご家族に挨拶をするイチロー


また安打数世界一に関して、「試合数の違い」を理由にケチをつける人たちもいる(未だに)。

「シスラーの頃はシーズン154試合。今は162試合(1996年以降/パンデミックの為2020年は60試合)だ。」

「しかも、262本に到達したのは最終戦(258本は10月1日:160試合目)。162試合目だ。154試合で257本を超えていないのだから、新記録とは呼べない。」


確かに、2004年のイチローは出足が遅かった。ノーヒットに終わる試合が目立ち、4月末時点でのアベレージは.255(102打数26安打)。信じられない低さである。5月に入ってようやくペースが上がり始めて、5月22日に日米通算2000本を記録。2度目の月間50安打で、ピート・ローズに並ぶ(8月も56安打)。

火が着いたようにヒットを量産するイチローに対して、他球団投手陣の投球が厳しさを増す。8月17日のカンザスシティ戦で後頭部に死球を受けヒヤリとさせられ(20日に復帰)、9月以降は敬遠も増えて記録の更新が危ぶまれたが、103試合目以降の60試合を.421(259打数109安打)と打ちまくった。

2004年には驚嘆すべきもう1つの「60試合」があり、それは7月1日~9月5日までの約2ヶ月。この間59試合に出場したイチローのアベレージは、.458(260打数119安打)という驚異的な領域に達して、「奇跡の60日」と称する記者がいたほど。


試合数の問題は、メジャーリーグの記録更新には半ば付きものと言ってよく、ロジャー・マリスがヤンキースに在籍していた1961年、ベーブ・ルースのシーズン60本を超える61本を打った時も、「154 vs 162」の論争が起きている(ヤンキースのア・リーグは162試合/ナ・リーグ:154試合)。

54本塁打を打ったチームメイト,ミッキー・マントル(MM砲と呼ばれた)との「ルース超え争い」は、「60本」を絶対視して崇め奉る保守的なファンと識者を中心にヒートアップ。コンスタントに3割を打ち続けたマントル(通算打率.298)に比べて、率が低いマリス(通算打率.260)への風当たりは特に強かった。

いつも笑顔を絶やさない陽のマントルに対して、口数の少ないマリスは陰。ステレオタイプにヒールの烙印を押されたマリスは、本拠地のヤンキー・スタジアムでも本塁打を打つとブーイングを浴びたという。

122ポンドの最強と目された黒人技巧派フルトンが、パワーだけでなく、スピード,テクニック&スキル,リングIQと戦術等々、あらゆる面でモンスターに遅れを取り、8回KOに屠られたことを受け入れられず、「アメリカへ来てドラッグテストを受けろ」だとか、「アメリカで一流に勝たないうちは認めない」などと、みっともない八つ当たりに終始したメイウェザー然り。


在位11年、25回連続防衛の大記録以上に、「独裁(枢軸国) vs 自由(連合国)」の代理戦争と位置づけられ、世界中の注目を集めたマックス・シュメリング第2戦での衝撃的な初回KO勝ち(初戦はシュメリングの12回KO勝ち)で西側最大のスポーツ・ヒーローとなったルイスは、19世紀末から20世紀末までのおよそ100年間、地上最強の証したるヘビー級王座を独占し続けたアメリカの近代ボクシング史において、モハメッド・アリやロッキー・マルシアノでさえ半歩も1歩も譲る象徴、アイコンであることは疑う余地がない。

すなわち、「聖域」。

◎試合映像
<1>ジョー・ルイス KO1R マックス・シュメリング第2戦
1938年6月22日/ヤンキー・スタジアム/世界ヘビー級タイトルマッチ15回戦
※観客動員:72,000人(有料入場者数:66,227人)


<2>シュメリング KO12R ルイス 第1戦
1936年6月19日/ヤンキー・スタジアム
※観客動員:60,000人(有料入場者数:39,875人)


◎シュメリング第2戦のポスター(左)と新聞記事(右)
シュメリング第2戦のポスターと新聞記事
※新聞記事:1938年6月23日付けデイリー・ミラー(英国の日刊紙)

そのルイスの記録を、小さな日本人が追い抜こうとしている。そんな愚かな真似はしないと信じつつ、在米ヒストリアンと識者たちが突然態度を翻し、「MYSACが承認した事実は無視できない。ディヴィス戦を防衛戦に含めるべし」と言い出すのではないか。

流石に考え過ぎだと自分自身に呆れつつ、しょうもないあれこれが頭の中をグルグルと駆け巡る。


Part 3 へ


記録の罠 - モンスターのワールド・レコードについて Part 1 -

カテゴリ:
■数字は時に嘘をつく

井上尚弥

とりあえずここまでは、地震や豪雪による大きな災害のニュースが報じられることもなく、天候にもまずまず恵まれ、穏やかな新年を迎えられたことを天に感謝しつつ、有明の強烈無比な即決KOに胸を撫で下ろす。

幾つか心配な点が散見されたにせよ、昨年春から続いた「グッドマン騒動(延期⇒挑戦者差し替え)」に一応の決着を着けて、再び海外を目指す2025年の幕開けを、リアル・モンスターが怪我無く終えてくれたことが何よりの朗報,吉報に違いない。

そして、順当なスタートを切ったモンスターの「記録」が話題になっている。世界戦の通算勝利数と連勝及び連続KO記録なのだが、言われてみれば、井岡一翔の国内最多勝利数を抜く・抜かないの話がちょっと注目されたぐらいで、モンスターの通算記録がことさら大きく採り上げられたとの印象は薄く、かく言う拙ブログ管理人も、そこはスッポリ抜け落ちていた。


「うっかりしていたな・・・」

ただただ頭をかく次第で、偉そうな口を叩ける義理ではないのだが、言い訳を許していただけるなら、それだけ2階級に渡る4団体統一、4階級制覇が懸かったS・バンタム級での成否がビッグ・イシューと化し、転級初戦の相手がクラス最強の呼び声も高いスティーブン・フルトンだったことも、他の話題が付け入る隙を狭くしたのは確かである。

なおかつ2022年6月、リング誌パウンド・フォー・パウンド・ランキングの1位(6月)に選出。東洋圏のボクサーとして、マニー・パッキャオに次ぐ2人目の快挙を実現したことが、通算記録に関心が向くことをさらに難しくした。

フルトン戦から僅か4日後、史上初となる「2階級+4団体統一」の快挙を一足早く達成したテレンス・クロフォード(モンスターからP4PランクNo.1の座を奪う)、昨年5月に史上初のヘビー級4団体統一を果たし、モンスターとクロフォードを抜いてP4PのNo.1に登りつめたオレクサンドル・ウシクの三つ巴に、ファンとボクシングメディアの熱視線が集中。


「実績で選ぶなら、文句無しにクロフォード。同じP4P上位の常連で、WBOを除く3団体を統一したスペンスをまったく問題にしなかった。S・ウェルターの初戦はイマイチだったが、すぐにアジャストするだろう。」

「4階級制覇と2階級での4団体統一。ボクシング史に残る偉大な記録であることは疑いがない。しかし、より高い価値を持つのはクロフォードだ。」

「ヘビー級とともに近代ボクシングの礎となり、100年以上変わっていないオリジナル8(正統8階級)のライト級とウェルター級、L・ヘビー級に続くジュニア・クラスとして、J・ライト(S・フェザー)級と並んで2番目に古いJ・ウェルター(S・ライト)級を獲り,4番目に古いJ・ミドル(S・ウェルター)級を獲った。」

「特筆すべきは、最激戦区のウェルター級を統一したこと。トリニダード,ウィテカー,デラ・ホーヤ,モズリー,メイウェザーの5名にもできなかった偉業。この意義は大きい。」

「イノウエが制した4つの階級は、J・フライ(L・フライ)級,J・バンタム(S・フライ)級,バンタム級,そしてJ・フェザー(S・バンタム)級。70年代半ば以降、80年代末までに大増設された軽量級のジュニア・クラスが3つだ。オリジナル8(正統8階級)はバンタム級1つしかない。」


「220ポンドの軽量をものともせず、大型化した現代のヘビー級を完全制覇した。フューリーを連破したのは大きな勲章だ。絶対にウシク。デュボア戦のダウンは確かに下手を打ったが、再戦に応じてケリを着ければいい」

「引退か継続か。ロマチェンコ(腰痛に悩まされているという)の動静がはっきりしない現在、長引く戦禍に苦しむウクライナの人々にとって、ウシクの勝利は今や希望の光だ。心身に背負う重過ぎる負担を、並外れた闘志と使命感で克服し続けている」


「いやいや、まずは純粋にパフォーマンスを評価すべきだ。ナオヤのアビリティとリングIQは圧倒的で誰もかなわない。4つの階級で10年以上に渡って、世界チャンピオンであり続けている。これ以上何を証明しろというのか」

「丸12年を超えるプロキャリアで苦戦したのは、唯一ドネアとの1戦目だけ。それも序盤にドネアが死角から放った左フックで、眼窩底を骨折した右眼の焦点が合わせられなくなり(複視)、左眼だけで戦っていた。普通ならギブアップしても不思議はない。そんな苦境の中でセーフティリードを保ち、レフェリーが邪魔しなければ、あの決定的なボディショットでKO勝ちしていた」

「ドネアとのリマッチを見たか?。フルトンがどうなった?。タパレス以降の相手は、ネリーを除いて全員バトラーと一緒だ。怖気づいて後退堅守に閉じこもる。ワールドクラスの経験豊富なベテランが、こぞってディフェンス一辺倒に凝り固まるんだ。」

「トップボクサーが倒されまいと必死に守るガードを破壊して、ナオヤは倒し続けている。しかもほとんどまともに打たれていない。これを奇跡と呼ばずして何と呼ぶ?。決まりだよ。」

最新のリング誌P4Pランキング上位7名
最新のリング誌パウンド・フォー・パウンド・ランキング

P4Pの順位を巡る妥当性について、ファンと記者(ライター)だけでなく、選手(現役・退役を問わず),トレーナー,マネージャー,プロモーターたちが喧々諤々意見を主張しぶつけ合う。

さらには、2023年度のリング誌とBWAA(Boxing Writers Association of America)のファイター・オブ・ジ・イヤーに輝き、文字通りのスーパー・ハイライトが続いたことも、通算記録に目が向きにくい状況を助長したと言えなくもない。

BWAA_2023_MVP
※左から:ダグ・フィッシャー(リング誌編集長:当時)/井上尚弥/ジョセフ・サントリクイード (BWAA会長)
※「シュガー・レイ・ロビンソン・アワード(BWAAファイター・オブ・ジ・イヤー)」表彰セレモニー(2023年6月7日/パーク・アベニュー,ニューヨーク)




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無論、国内のボクシング専門メディアが、まったく何もしていなかった訳でではなく、「Boxing News(専門誌ボクシング・ビートが運営するWEBサイト)」が、2019年11月7日付けで次に挙げる記事を掲載している。

◎井上尚弥記録集 歴代王者の中でも群を抜くKO率
2019年11月7日
https://boxingnews.jp/news/70887/

記事の中では、日本人王者の世界戦試合数と勝利数、KO勝ちした試合数、連続KO勝利数、最短KO勝利の順位が示されており、この時点で、輪島功一,小熊正二,西岡利晃と並ぶ13戦のモンスターは、トータルの試合数では9位(1位は井岡一翔の18戦)に止まっていたものの、KO防衛の数で内山高志の10試合(通算12試合)を抜く13戦中12KO。既に国内トップに立っていた。

さらに翌2023年12月26日(タパレスとの4団体統一戦の当日)にも、同じ「記録特集」のメインタイトルで、”J・C・スーパースター”ことフリオ・セサール・チャベスとの比較を軸にした記事をアップ。

◎井上尚弥の記録特集 世界戦勝利数は伝説の王者 チャベスを追いかける
2023年12月26日
https://boxingnews.jp/news/105128/


同じくタパレス戦の当日、スポーツ報知もモンスターの記録について、丁寧かつ詳細にまとめてくれている。

◎報知の過去記事
<1>井上尚弥 伝説級モンスター記録…26戦無敗、世界戦21連勝、歴代1位のKO率90・4%
2023年12月26日
https://hochi.news/articles/20231226-OHT1T51104.html

<2>◎井上尚弥がパンチ一撃で3つの日本記録を更新「最後のパンチが最初になった」
2018年10月7日/スポーツ報知
https://hochi.news/articles/20181007-OHT1T50296.html


読売系列と言えば、「ダイナミックグローブ」を永く中継した日テレ=帝拳。大橋ジムがテレ東からフジTVに乗り換える際、村田諒太とモンスターをセットにして、「FUJI BOXING」のタイトルで華々しく売り出した。

プロ入りに際してフジのバックアップを受けた村田は、フジのボクシング中継(ダイヤモンドグローブ)の窓口だった三迫ジムに所属したが、同時にトップランクと共同プロモート契約を結んでいる。

村田とモンスターをボブ・アラムにつないだのは、事実上村田をハンドリングしていた本田会長に他ならず、村田はデビュー1年後にジムを移籍して帝拳の所属選手になったが、モンスターの立場は、在米及びニカラグァの地元プロモーターと本田会長が共同でプロモートするローマン・ゴンサレスと同じ。

大橋ジム(フェニックス・プロモーション)と帝拳プロモーションが共同で保有する支配下選手であり、読売傘下の報知が他のスポーツ紙以上にモンスターの記事に力を入れるのは、ごく自然な流れとも言える。

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昨年9月のT・J・ドヘニー戦に際しては、スポーツ各紙も記録に関する記事を掲載した。

<1>井上尚弥が世界記録に迫る、KO必至のバンタム級日本人対決も 「1995世代」の競演にも注目
2024年8月30日 Sportsnavi
https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/2024082800007-spnavi

<2>井上尚弥 モンスター記録更新 単独最多の世界戦23戦&23連勝 世界戦9連続KO勝利
2024年9月3日/スポーツ報知
https://hochi.news/articles/20240903-OHT1T51164.html

<3>井上尚弥、記録ずくめの防衛 世界戦通算勝利数で日本人最多&現役最多、連続KO勝利記録も伸ばす
2024年9月4日/ニッカンスポーツ
https://www.nikkansports.com/battle/news/202409030001948.html


そして今回は、以下の5つが目に止まる。FIghtnewsに寄稿したジョーさんの心意気には、危うくホロリとさせられそうになった。

日本に定住しながら、英語の媒体を持つジョーさんの存在は希少にして貴重。ペイTVに対して否定的な論調が大勢を占めていた90年代初頭、WOWOWエキサイトマッチを作った功績も忘れてはならないけれど、高校時代からリング誌に英文の記事を寄稿し始めて、ミスター・ボクシングことナット・フライシャー直々にリング誌日本特派員として認められ、「Ring Japan」の呼称表記を許された。

媒体はリング誌からFightnewsに変わったが、王国アメリカを中心とした海外に向けて、77歳になった今も日本とOPBF圏の情報を発信し続けている。

<1>井上尚弥のKO率は?衝撃の"モンスター"が誇る脅威の数字とは
2025年1月21日/Olympics.com/立野光起
https://www.olympics.com/ja/news/naoya-inoue-ko-rate-2025-01-24

<2>井上尚弥、現役世界最多の世界戦24勝目へ ジョー・ルイスに並ぶ世界最多22KO勝利も…防衛戦、今夜ゴング
2025年1月24日/スポーツ報知
https://hochi.news/articles/20250124-OHT1T51124.html

<3>井上尚弥、右ストレート1発でKO勝ち 現役単独最多となる世界戦通算24勝
2025年1月24日 20時35分スポーツ報知
https://hochi.news/articles/20250124-OHT1T51293.html

<4>ボクシング世界戦勝利数&世界戦連続KO勝利ランキング 井上尚弥が記録更新へ前進
2025年1月26日/SPAIA
https://spaia.jp/column/boxing/30462

<5>Monster Inoue’s Place in History
2025年1月30日/Fightnews/ジョー小泉
https://fightnews.com/monster-inoues-place-in-history/168729


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スポーツ各紙面で大きく謳われているのは、ヘビー級王座の25回連続防衛に成功した”偉大なるブラウン・ボンバー”ことジョー・ルイス(米)が、同時に成し遂げた世界戦における最多KO勝利「22」に並ぶタイ記録だが、着目すべき数字は他にもある。


Part 2 へ


前評判はリベンジを期すハートブレイカー /クールボーイの巻き返しやいかに - フィゲロア vs フルトン 2 プレビュー Part 2 -

カテゴリ:
■2月1日/T-モバイル・アリーナ,ラスベガス/WBC世界フェザー級タイトルマッチ12回戦
王者 ブランドン・フィゲロア(米) vs WBC2位 スティーブン・フルトン(米)

左から:フィゲロア/トム・ブラウン(プロモーター),フルトン
左から:フィゲロア,プロモーターのトム・ブラウン(TGBプロモーションズ),フルトン

■逆転した掛け率・・・共通する唯一の対戦相手

直前のオッズを比較してみよう。まるで合わせ鏡のように、初戦と今回がの数字が逆転している。

◎第1戦:フルトン有利
フルトン:-330(約1.62倍)
フィゲロア:+260(約2.81倍)
-------------------------------------------------
◎第2戦(今回):フィゲロア有利
<1>BetMGM
フィゲロア:-190(約1.53倍)
フルトン:+160(2.6倍)

<2>betway
フィゲロア:-188(約1.53倍)
フルトン:+150(2.5倍)

<3>ウィリアム・ヒル
フィゲロア:4/9(約1.44倍)
フルトン:17/10(2.7倍)
ドロー:16/1(17倍)

<4>Sky Sports
フィゲロア:8/13(約1.62倍)
フルトン:29/16(約2.81倍)
ドロー:16/1(17倍)


評価を逆転させた最大の原因は、モンスターに喫した完敗(プロ初黒星)ではなく、昨年9月に行った再起戦である。

スタートから一方的にペースを握られ、形勢逆転の糸口を掴むことこすらできず、屈辱の8回KO負けに退いてから1年2ヶ月。カネロ vs バーランガ戦(今回と同じT-モバイル・アリーナ)のアンダーカードに組み込まれたフェザー級の初陣(10回戦)で、フルトンは大きなミソを付けてしまった。

126ポンドでの成否を占う大事な復帰戦に選んだ相手は、アリゾナ出身の元プロスペクトで、メキシコにルーツを持つ長身の右ボクサー,カルロス・カストロ。

9歳の頃からボクシングを始めて、アマチュアで立派な戦績を残し2012年に18歳でデビュー。122ポンドと126ポンドを行き来しながら、ローカル・ファイトで地道に腕を磨いてき、ジェネシス・セルバニア(比)を下して得たWBC米大陸フェザー級王座を足掛かりに上昇気流に乗ると、セサール・ファレス(メキシコ),オスカル・エスカンドンを連覇。


2022年2月、ルイス・ネリーのオファーに応じてS・バンタム級まで絞り、10ラウンズをフルに渡り合う。僅少差の1-2判定で金星を獲り逃すも、奮戦を評価されてフィゲロアからお呼びがかかる。

前年11月にフルトンとの統一戦を落とし、無冠に戻ったフィゲロアにとっても負けられない再起戦。ネリー戦から5ヶ月の間隔は、ダメージを抜いて心身を作り直す為に大きな不足は無く、元世界王者との連戦に臨んだ。

公称170センチ(リーチ:178センチ)のカストロも、このクラスでは大きな部類に入るが、さらに一回り大きく当たりの強いフィゲロアに攻め込まれて6回TKO負け。この連敗で勢いを殺がれてしまい、2023年はニカラグァとドミニカの無名選手との2試合に止まる。

◎試合映像
<1>ネリー 判定10R(2-1) カストロ


<2>フィゲロア vs カストロ


そして昨年4月、コロンビアから招聘した36歳のベテラン中堅に10回判定勝ちを収めて、9月のフルトン戦へと進む。


カストロに白羽の矢を立てたのはフィゲロアを意識したからで、それ以外に理由のあろう筈がない。フィゲロアよりも早く、一方的に打ちまくってカタを着ける。その一心だったのだろう。

開始ゴングと同時にフルトンが自分からくっついて、遮二無二パワーパンチを叩きつける。いったい何が起きたのかと我が目を疑った。すっきり倒し切りたいのはわかるが、流石に無茶が過ぎる。

フィゲロアとの初戦に備えて、アマ時代からの師弟だったメンター兼コーチのハムザ・モハメッドを更迭してまで向かえたワヒド・ラヒームとの関係を清算したフルトンは、ステーブル・メイトのジャロン・エニスに、幼い頃からボクシングのイロハを仕込んだ実父デレク・エニス("Bozy:ボジー"の愛称で呼ばれる)と組んで体制を一新。

我らがモンスターのバンテージに根拠の無いイチャモンをつけて恥をかき、自らの手でフルトンの面子まで丸潰しにしたラヒームは、ヘッドの座をデレクに譲った後もチームに残り、新たなスタイル(?)を不安げに見守るしかない。

チーム・フルトン
写真上:新ヘッドのボジー・エニスとフルトン
写真下:フルトンのバンテージを解くラヒーム(アシスタントに降格)

Bozy Jaron Ennis
※ボジー(左/髭を生やす前)とジャロンのエニス親子


「みんな私が誰なのかを忘れている。必ずノックアウトで勝つ。一度びリングに上がれば、必要なことは何でもできる。2階級でチャンピオンとなり、私が何者なのかをはっきりさせる。」

意気込みは買う。買うけれども、もともと1発の破壊力に恵まれず、スピード&スキルに真価を発揮する。黒人特有の柔軟性を活かしたボディワークと反応で、堅く守りながら効率的なパンチでポイントを引き寄せ、安全確実にゴールテープを切ることこそフルトンの真骨頂。

フィゲロアの圧力に押されて、半ば止むを得ず接近戦に応じた第1戦では、上述した自身のストロング・ポイントを駆使しつつ、フィゲロアのパワーを散らしながら、散発傾向の恨みは残るものの、的確なリターンとカウンターを決めて印象点を稼いでいる。

あれだけのテクニックとスキルがあるのに、何でわざわざムキになって打ち合うのか。フルトンの攻勢を凌いたカストロが態勢を立て直す。増量でサイズのアドバンテージを失ったフルトンが徐々に押し返されて行く。

戦況が苦しくなっているのに、戦術を変える気配は無し。「まずは距離をキープしてリスタートだろう。ボジーは何をしてるんだ・・・?」といぶかるばかり。

◎試合映像:フルトン 判定10R(2-0) カストロ


※フルファイト
https://www.youtube.com/watch?v=p2O2SNOXWGU


もともとカストロのスタイルは、ほとんどボクサーに近いボクサーファイター。足を良く動かしてポジションを変えつつ、ジャブ,ワンツーからフック,アッパーへとつなぐ正攻法のボクシング。

ロング・ディスタンスを維持できている間は、年季とともに増した安定感が武器となり、安心して見ていられるようになった。反面ファイタータイプに距離を潰され、ロープを背負う場面では痩身ゆえの脆弱さが顔を除かせ、思わずヒヤリとすることも。

カストロのウィークネスを見越しての作戦でもあったと思われるが、馬力のあるセサール・ファレスを相手に、頭をくっつけたインファイトをやり通した実績もある。リスクヘッジ第一主義に目を奪われると、意外なフィジカル・タフネスを見落とす。

”らしからぬインファイト”にのめり込んだフルトンが、大きな落とし穴にはまる。第5ラウンド、カストロが狙っていた右を浴びてよもやのダウン。その後も一進一退の攻防が続き、微妙な空気が漂う中、何とか2-1の判定に滑り込んで命拾いしたが、株価の下落は免れない。


◎ファイナル・プレス・カンファレンス
2025年1月31日


※フル映像
https://www.youtube.com/watch?v=XTiSB5CQ9aU


カストロ戦の愚を繰り返すことは無いと信じるが、フィゲロアの圧力をパワーで跳ね返そうと無理を続ければ、第1戦とは逆の目が出る可能性は充分。生命線のスピード&クィックネスを頼りに、安全確実にポイントメイクに撤することこそ勝利への最短距離であり、間違いのない選択肢の筈。

どんなにブーイングが飛ぼうとも、フルトンの勝機はボックス1本。鋼鉄の意志で己のスタイルを貫徹できるか否かに、2階級制覇の成否が懸かる。

一方のフィゲロアは、第1戦と同様ひたすら前進+手数あるのみ。少々打たれても怯まずへこたれず、硬い拳でフルトンのブロック&カバーを叩き壊すしかない。

希望的観測を述べるなら、フルトンの僅差判定勝ち。3-0,2-0,2-1,負傷判定何でもいい。モンスターとのリマッチに望みをつないで貰いたいと本気で思っている。がしかし、包み隠さず本音を明かすと、小差の2-1判定でフィゲロア・・・?。


◎フィゲロア(28歳)/前日計量:125.8ポンド
現WBCフェザー級王者(V1/暫定→正規昇格:昨年10月)
元WBA・WBC統一S・バンタム級王者(WBA:V4・暫定→正規昇格/WBC:V0)
戦績:27戦25勝(19KO)1敗1分け
世界戦通算:8戦6勝(4KO)1敗1分け
アマ戦績:33勝17敗
身長:175センチ,リーチ:183センチ
左ボクサーファイター(スイッチ・ヒッター)


◎フルトン(30歳)/前日計量:126ポンド
前WBC・WBO統一S・バンタム級王者(WBO:V2/WBC:V1)
戦績:23戦22勝(8KO)1敗
世界戦:4戦3勝1敗
アマ通算:75勝15敗
2014年ナショナル・ゴールデン・グローブス準優勝
2013年ナショナル・ゴールデン・グローブス優勝
2013年全米選手権準優勝
※階級:フライ級
ジュニア:リングサイド・トーナメント優勝
ジュニア・ナショナル・ゴールデン・グローブス優勝
※年度及び階級等詳細不明
身長:169センチ,リーチ:179センチ
右ボクサーファイター


weighin3

◎前日計量(FIGHTMAG)


◎フルストリーム映像(アーカイヴ)
※PBC公式:約1時間3分/21分27秒頃~開始
https://www.youtube.com/watch?v=aG76AsSLa54


◎第1戦と第2戦のフィジカル比較(計量時点)
計量時における第1戦と第2戦のフィジカル比較
※写真上:第1戦(S・バンタム級)/写真下:第2戦(フェザー級)

初戦の計量は、フィゲロア,フルトンともに121ポンド3/4(約55.2キロ)。そして今回は以下の通り。
・フィゲロア:125.8ポンド(約57キロ)
・フルトン:126ポンド(約57.15キロ)

たかが2キロ、されど2キロ。鍛え抜かれたトップ・プロの肉体に、+4ポンド(リミット上限)の余裕がもたらす効用の大きさに、思わず目を見張ってしまう。


計量時の呼び出しも担当したジミー・レノン・Jr.が、「スティーブン・”スクーター(Scooter)”・フルトン!」とコールしていた。東京でのモンスター戦も含めて、「クール・ボーイ・ステフ(Cool Boy Steph)」の二つ名で通してきた筈だが、どうやら変更した模様。

「スクーター(Scooter)」と言っても、昭和生まれの日本人なら、おそらく誰も知っている「ラッタッタ」では勿論ない。スラングとして使われる時には、肯定的な意味で「クレイジーなヤツ」を表すらしい。

キレると何をするかわからない「アブナいヤツ」ではなく、「凄い」と同義で使う「ヤバい」に近いニュアンスなのかもしれないが、その一方でフルトンが通っていた「小学校」の出入り口には、金属探知機(!)が備え付けられていたという。

幼いフルトンを「スクーター(Scooter)」と呼んだのは、父のスティーブン・シニアだったそうで、日本人には想像することさえ難しい、命の危険と隣り合わせの非日常が、ごく当たり前の日常として日々繰り返される。

自身も好んで使っていた筈の「クールボーイ」から、このタイミングで「スクーター」に変えたことに、どんな意味が含まれているのかいないのか・・・。

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□オフィシャル

主審:ハーヴィー・ドック(米/ニュージャージー州)

副審:
マックス・デルーカ(米/カリフォルニア州)
ザック・ヤング(米/カリフォルニア州)
デヴィッド・サザーランド(米/オクラホマ州)

立会人(スーパーバイザー):未発表


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